1章『それぞれの想い。』
……今になって、どうして桐渓さんにあんなことを言えたんだろう、と思い始めてきた。
いや、俺は間違ったことは言っていない、とは思う。何の関係もない伊藤を悪く言うのは違うと思っている。
ただ言い方もあるだろう。確かに感情に流されていたとは言え、あんなに高圧的に言うことでもないし、結局あれ以上なにか言われるのも嫌で窓から逃げていたし……。
言い訳はしたが、結局俺は逃げている。それは紛れもない事実である。
「……はぁ」
桐渓さん、怒り倍増していそうだ。
カンカンと鉄で作られた俺の部屋よりも頑丈な階段で3階まで登る。
外付けされている階段で、校庭からは見えないし見えるとしたら体育館らしき建物の裏側から見られるぐらい。
誰かと会って授業は、とか聞かれるのは困るし近かったからこの階段を使って教室に戻る最中だ。
これから教室に戻って、理科室を探しに行かないと。
……大丈夫。今までだってうまくやっていた。今日は初めて反抗してしまったけれど、伊藤のことを言われなければ、いつも通り耐えられる。
次、呼ばれたときは逃げないから、罵られても蹴られても、なにをされても。
俺がしたことに比べたら、桐渓さんからされることは何でもない。なんでもない、はずなんだが。
「……伊藤」
伊藤の存在を知ったのは昨日のことなのに。
すでに俺の中でなにかが変わってしまったかのようだ。
まだ、戻れる。これ以上優しさに触れたくない。今まで受けてきたことを当然なんだと、そう思い続けてきたのが無駄になりそうで、こわい。
嬉しいのに怖い。
初めて味わう感情同士が拮抗していてどうすればいいのかわからない。
さっきだって、桐渓さんが伊藤のことを言う前、俺はどこかで伊藤に助けを求めていた。
伊藤のことを言われたあとは、怒りで我を忘れていた。
前者は優しくされたことがなかったから、つい助けを求めてしまった。
後者は自分の中に違う誰かがいるかのような、そんな感覚だった。
よく、分からない。俺にとって伊藤はどんな存在なのか。前の俺にとって伊藤はどんな存在だったのか。
とりあえず分かることは、これ以上俺は伊藤のとなりにいると、ダメになると言うことだけ。
駄目になる、そう分かっているのに、嫌じゃなくて。心地よさすら……。
その続きを知るのが怖くて、あえてなにも考えないようにして、足早に歩みを進めた。足が痛い、そんなことはない。
何も俺は感じないように、しなくちゃいけない。それが、両親への罪滅ぼし、だ。
自分に何回も繰り返し言い聞かせた。
自分だけが生きてしまった、自分のせいで両親が死んだ、それが俺の、罪。
知らず知らずのうちに俯いて、自分の足しか見えない視界のまま、俺は非常口の扉を開け、教室へ向かう。
許されない、俺はクラスのなかで誰かと楽しむことも、担任の優しさに触れることも……伊藤から親愛の眼を向けられることだって。
誰からも俺は優しくされてはいけない。
そう思って生きていこう、そう思って生きていかないといけないんだって。
言い聞かせながら、無言で扉を明けた。
どうせもうみんな理科室に移動して誰もいないだろう、とそう思っていた。だから顔をあげることもなく扉を開けた。
「透。どうした?遅かったな?」
「……どう…して、」
誰もいないはず、なのに誰かに声をかけられた。
声の主は考えるまでもない、俺の名前を呼んでくれる唯一の存在、伊藤、がそこにいた。
思いもしなかった、でも会いたいと心の底で思っていた彼は自分の席に着いて俺を見ていた。
授業が始まってもうすぐ10分経つ、それなのに未だ教室にいる彼に混乱からそう聞いてしまう俺に、首を傾げて
「透を待ってたからな。」
次移動教室だし、昼休み終わっても戻ってこないから待っていたんだよ、どうした?迷ったのか?
とかいろいろ言っていたようだったけれど、待っていた、と言うフレーズだけ聞いて、俺は固まってしまい伊藤の言葉をほとんど聞いていなかった。
「どうして」
俺を待っていてくれる?
俺は、伊藤を置いて行ったのに。忘れたのに。細かいこと、何一つ言えてもいないのに。
どうして、どうして。
きょとりと目を丸くして俺を見つめている伊藤に一歩、近寄る。
いや、正確には近寄ろうとした、が、不意に来た右膝の痛みのせいで身体のバランスが取れなくなった。そう言えば、さっき強打してしまったんだ、と漸く思い出した。
思い出したところで、もう受け身をとるほどの時間の猶予もなくて、さっき桐渓さんに床に投げられたのと同じぐらいあるであろう衝撃に、身構えた。
「透っ」
焦ったような伊藤の声が聞こえた、と思ったらぬくもりに身体が包まれた。
ドスン、と重たいものが落ちた音と微かな衝撃はやってきたものの、予想した痛みはいつまでも来なくて、冷たくて堅い床に身体を打つ衝動はいつまでもやっては来なかった。
「いってー……大丈夫か?透」
その代わりに堅いけれど、床にしては妙に暖かくて柔らかさのあるものに身体を打った。
視界にあるのは、赤色。血、ではない、そんな液体ではなくて、布っぽい……。
すぐ近くから聞こえる伊藤の声に、顔をあげてみれば、伊藤の顔そこにある。至近距離で目が合う。
「あ……ちか、いや、悪い!つい、こう身体が動いて、」
俺は、こけそうになって、伊藤に庇われたらしい。
視界にあったのは伊藤の学ランのなかに身に着けていた赤いTシャツだったようだ。
至近距離で見つめ合う形になった伊藤の顔が何故か真っ赤になっていて、何故か謝りながら何もしてません、と言わんばかりに手をぶんぶんと振っていた。
そんなことも目の前の伊藤が理解できないぐらい、俺は頭のなかがぐっちゃぐっちゃだった。
知らない、知ってはいけないし、理解したいと思わなかったし、理解しようとする気もなかった。
ただ、ただただ、俺には生きる意味なんてないんだって、それでも、両親に助けられた命だから、生きないといけない。
後悔ながら生きないと、両親が亡くなったのは俺のせいだって、俺のせいで二度と彼らは泣くことも笑うことも出来ないんだから、なにもできなくなってしまったから。
何も感じないように(自分が壊れないように)、何も思わないように(自分が傷つかないように)、そうして生きていかないといけない、それが彼らに出来る、唯一の罪滅ぼしなんだって(生きることから逃げた)、誰からも認められないのが当然なんだって(自分自身のことを知ってもらうのを、諦めた)そう思いながら生きてきた。
これから先、死ぬまで、そうしないといけないんだって、思わないといけないのに。
「っ……」
「…とおる?」
呼吸を止めてすべてをあきらめてきた。
この先もそうして生きていくんだって、諦めていたのに、希望さえ持たずにいたのに。
なのに。
それなのに。
まだ会って、少ししか経っていないのに。
出会った日にちを昨日、今日とすぐに数え終えてしまうぐらいの仲なのに。伊藤からすればもっと長い数だろうけれど、今の俺からすれば、本当に微かの数なのに。
ちゃんと、生きたい。
ちゃんと、呼吸をしてこの世界で生きていたい。
そう、思えてしまうんだ。
本当はそれに罪悪感が芽生えないといけないのに。
今、自分目から勝手に滲みだす涙は、うれしさから来るもの、だった。
与えてくれる伊藤に、「忘れたのか」と聞かれて謝罪しかしなかったことを、脳裏に過る。
忘れたとも忘れていないともなにも言えなかった俺は、きっと素直に話してまた責められるのを恐れてた。かと言って嘘を言えるほど愚かにもなれなかった。
その恐怖は今も心のなかにいるけれど、でも、逃げようとした俺を逃げないで認めてくれて受け入れてくれた伊藤には、ちゃんと話したいんだって、思った。