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1章『それぞれの想い。』

 桐渓さんの目に映る俺は、今までしたことが無いであろう鋭い顔で彼を睨みつけていた。

「俺のことを言うのは間違っていない。
 だけど、伊藤のことを言うのは違う、伊藤はあなたに何もしていない。」
「……事実を言うて何が悪い」
「事実じゃないから、俺はこうして反発しています。
 ……まず、教師が生徒に言うことではないでしょうか。」
「なん?教師と言えど愚痴の一つや二つあるに決まっとるやん?
 もしかしてお前、教師をどんな生徒でも優しく見守る聖人君子とでも思ってるん?」

 いきなり口答えをしてきた俺に驚いたのか、今度は逆に桐渓さんは視線を逸らして俺の方を見ようともしない。
 それどころか中腰も辞めてしまい俺のことを視界にいれようとしていない。
 俺は未だ床に座り込んだまま、にも関わらずだ。

「そんなこと思ってもいません。
けれど、伊藤のことを知りもせず伊藤のことを知っているかのように語らないでください。」

 伊藤のことを何も知らないくせして、知ったかのような口調で言う桐渓さんに腹が立って仕方がない。
 桐渓さんが言ったことは何一つ当たってもいなければ掠りもしていない。
あることないこと言って、伊藤のことをまた傷つけないでく、れ……?
『また』て、なんだろうか。
 確かにクラスメイトから伊藤は恐れられているところはあっても、傷付けるようなことをしていない、それ以前に伊藤は視線も自分への評価を気にした素振りもない。
そんな伊藤に対して、どうして俺は傷付けられることを嫌なのだろうか。
 俺自身もまだ伊藤を知らないくせして……伊藤に俺の記憶喪失のことを言えずにいるのに、そんなに思い入れているのか。
わからない、疑問が浮かぶ。
それでも理由は分からないにしろ、確かに俺は伊藤を罵る言葉を誰の口からも発されることは不愉快だ。それだけは疑問が思い浮かんでも、困惑によって消えることはない。

「俺のことだけを言うのなら、どんなことにも耐えます。
そうされるのは、当然とも思います、それについては甘んじて受け入れます。
ですが……伊藤を罵るのだけは見過ごせません。
それだけはやめてください。」

 自分自身のこと、俺の罪のことを責められるのであれば俺はなにも言えないし、何も感じないようその場をやり過ごせる。
俺のせいで両親が亡くなったのは変えようのない、罪深い事実であり言い訳をするつもりは毛頭ない。記憶もない俺が自分のせいじゃない、なんて言えるほどの愚鈍でもない。
 ただただ伊藤のことを何も言わないでほしい、そう思った。
自分でも抑えられない衝動だった。本当に自分がそう思って言っているようにも思えるし、自分の心の中で俺とは違う誰かがいるようにも感じる。
疑問は残るけれど、とりあえず今すべきことは確かだ。これから先桐渓さんに伊藤のことを言うのを辞めさせないといけない。それだけはそうしないといけないのは確かだ。
謝罪は別にいらない、どうせ何が悪いかなんて桐渓さんには分からない。これから先二度と伊藤を罵らなければそれでいい。

 俺は桐渓さんを睨み、は今はしていない。ただじっと桐渓さんを見ているだけだ。
桐渓さんは今こちらを見ようともしていないから睨んでも通じないと判断したからだ。

「いやいや、俺に対してそんな口きけるな?普通口答え出来る立場じゃないやろ」
「俺のことを罵るのは分かります、ですが伊藤を罵るのは違うと思うんです。……違いますか」

 確かに桐渓さんの言う通り俺はきっと普通なら何も言える立場ではない。でも、そのことと伊藤のことを一緒にするのは、違うと思う。
口をとがらせて、でも、と俺と目を合わすことなく、まるで聞き分けのない子どもと水掛け論でもしているようだった。
 本当は、俺自身のことを言われるのも、いやだ。嫌じゃなければ、俺は桐渓さんのメールを先延ばしにしたりはしない、避けたりもしないだろう。
自分が罵られたり冷たい目で見られるのは、苦しくて辛くて仕方がないことなのに、それを嫌だと思う自分に嫌悪感から吐き気も覚える。実際何度胃の中のものがせり上がったのか覚えていない。

 でも、それ以上に俺の罪に関係のない、俺に対して良くしてくれる伊藤がなにかを言われるのは耐えられない。
それだけ、なんだ。たぶん。

 このままでは平行線、そう思い始めてきたころ、コツコツと扉をノックする音が保健室で響いた。
突然の音にビクッと体を震わせて、慌てたように振り返って扉を見た。

「あっれーせんせーいるでしょー?職員室いなかったのになぁーどーしたのー?」
「!あ、ああ、ちょっと待っといてな」
「はーやくーあけてー」

 間延びした声の主であろう外にいる人物が規則的に扉をノックして桐渓さんを焦らせる。居留守をしようにも先に職員室にはいないことを確認済みの生徒に不信感を募らせることになる。
焦った桐渓さんは俺の腕を引っ張って奥のベッドのほうに雑に投げられた。

「とりあえずそこにいとき!」

 そう言ってカーテンを閉められた。
「待たせたな」と声が聞こえて、すぐ扉を開ける音が聞こえる。
 扉をノックする音がしたとき、どこか安堵したかのような表情の桐渓さんを思い出す。
 やはり桐渓さんもこれ以上は平行線と感じていたんだろう。だが、呼びだした手前なのかただ俺の意見に同意するのが嫌だったのか、どこか意固地になっていたと思われる。
 このまま待っていても、今やって来た子が戻れば、次は俺を罵るんだろう。
 これが罪ではあっても、さすがに授業を蔑ろにするのはまた違う問題な気もする。
 残らないといけないかとも思う。きっとメールを返さなかったこともまだ言い足りないだろう。俺を断罪しないといけないとも思っているんだろう、正論だ。
このまま俺はやってきた生徒が戻るまでここで待つべきなんだろう。責められるべきなんだろう。
……とは思う。思うのだが。

 何故か俺は窓を開けて窓の淵に足をかけているのだ。

 もう授業は始まっているだろうけど、結果としてサボりになるわけにはいかないし、ただでさえ理科室の場所が分からないので、さすがに伊藤ももう移動しているであろうから自力で探しに行かないといけない。
決して桐渓さんの言うことを聞きたくないだとか……ではない。
 言い訳のように、誰に言うでもないのにそう思いながら、俺は窓の外へ身を乗り出した。
自分の予想以上に高さはあって、少し勢いよく地についた右膝と左の手のひらを強く打ったけれどなんとか着地した。
 少し背伸びをして窓を音を立てないようそっと閉めつつ中の様子を確認した、桐渓さんはやってきた……少し癖っ毛の温和な雰囲気のこげ茶色の髪の生徒と話している。
 外からは会話はもう聞こえない。とりあえず桐渓さんが俺が抜けだしたことに気が付いていないようだった。それだけを確認出来たらそれでいい。
 桐渓さんに連れられてきたときと同じルートで教室に戻ろうと保健室から背を向けて小走りで駆け出す。

 駆け出す俺を保健室の中にいた誰かがにっこりと笑みを作って見ていたことには気が付かなかった。

 楽し気に口元は三日月にしているのに対して、温和な雰囲気を与える垂れ目の奥底はどこまでも冷たい目で、俺を見ていた。
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