1章『それぞれの想い。』
力は緩むことはなくて、むしろ強まったと思う。もしかしたら痕になっているかもしれないな。
力は強まり、桐渓さんの歩む速度も徐々に早まっていった。こけないよう必死に速さについていく。
途中で予鈴が鳴ったから校庭にいた生徒たちが戻ってき始める、誰にも会わないように焦っているのかもしれない。
皆が使う階段とは違う、外にある非常用の階段を使ってもいつ誰に見られるかわからないから、その判断は間違っていはいないんだろう。
見つかればどんな関係なのか騒がれてしまうだろうから。伊藤と俺が一緒に登校したように。
予想通り、自身が保険医だけあって保健室は彼自身のモノのようなものだ。
白衣から鍵を出して保健室の扉を解錠し、明けたと同時に俺を引っ張って、床に乱暴に投げつけた。
「っ……」
「呻き声一つもあげんし、表情も相変わらず変わっとらんな。ほんと、気持ち悪い子やわ」
勿論そこにクッションとかあるわけはなく、その堅い床に身一つで着地した俺をそう詰る桐渓さん。
突然のことで声も出せなかった。
けれど、痛みで表情を歪ませる方法なんてもう忘れた、痛いと叫び方も忘れた。
それに限らずなんだってどんな感情だって、表情の出し方なんてわからない。
なんて言っていいのかわからなかった。
桐渓さんたちが、そんな俺を求めてなんかなかったんだろ。
そういう風にしたんだろ。
蔑んだ冷たい目で見下ろす桐渓さんに、そんなことを思いながら見上げた。
忌々し気に、俺に聞こえるように舌打ちした。
「なんなん。その眼」
どんな目で俺は彼を見ているか、俺は俺自身の目を見ることは出来ないからわからない。
でも、きっといつもの俺とは違うんだろうな、と思う。
殴られたりはしなくても、こうして痣にならない程度に暴力的なことはされてきた。
それに対して俺は何も感じない、ようにしていたし、何も思わない、ようにしていた。
今日は自分でも驚いたことに意志なんてものがあった。
……今日は、俺を人のように、いや俺を一人の人間として俺を扱ってくれたから、遠目で見られるだけではない、本当にクラスの中のどこにでもいるような男子高校生のような1日。
そんな日だったからか、俺を『一ノ瀬透』と言ってくれて認めてくれた伊藤と出会ったからなのかわからない。
普段よりは人間のようだった。自分のことながら驚く。
でも。
「昨日から今日まで俺のメール返信もせえへんし。かと思うたら、何やらあの伊藤と登校してるわ、クラスでは結構な人間関係が出来て?
そのうえ岬先生に頭撫でられて仲良させ気にして?結構なご身分やな」
やっぱり、俺は、変わってない。変わってはいけない。
桐渓さんの言葉の続きを聞きたくない、けれど耳をふさぐ気にもなれない。
だって。
「薫と灯吏を殺しておいて。」
桐渓さんの言うことは、俺の罪そのもので、まぎれもない事実だから。
「確かにあいつらからすれば、お前はこれ以上ない大事な存在なんやろう。けど、俺からすればお前じゃなくて薫と灯吏が一番大事な存在やった。なんで、お前が
生きているんやろな!!」
「ぐっ……」
床に座り込んだままの俺を蹴り上げた。
力はそこまでは入っていない、けれど痛みと息苦しさは感じるぐらいの蹴りを腹に入った。
腹を抑えながらも桐渓さんを見上げ続ける。
そこにいるのは苦しみや憎しみで歪んだ顔、そしてどこまでも深い悲しいに染まった眼だ。
その目で見られて、6年経った。
彼は未だ苦しみと悲しみから抜け出せていない。
そして祖父も、亡くなるまで俺のことを許しはしなかった。
祖父は感情を露にはせず、どちらかと言えば無関心に近かった。
桐渓さんと同じように傷ついて悲しんで俺を憎んでいてもベクトルが違う。
二人同時に責められたのは俺が目を覚ましたときとその直後まででそれ以降桐渓さんは時折現れては誰も見ていないところでこうして、俺へ憎しみを向ける。
桐渓さんが俺へ憎しむことは当然の行為で、暴言を吐いて暴力を受けることも仕方がないことなんだ。
そう、言い聞かせてきた。
……もし、伊藤がここにいたら、なんて言うだろうか。
俺へ向けるのはあのどこまでも曇りのない笑顔だったけれど、このことを知ったら桐渓さんと同じようになってしまうんだろうか。
伊藤に忘れた、とだけしか言えなかった。
事実を言って責められるのが、本当はもう嫌だった。
忘れたって言えばもう来ないだろうと、憎まれ続けるだけならまだいいや、て思った。痛いことを我慢するのは、慣れているから大丈夫だと思った。
なのに、それでも俺は「一ノ瀬透だ」と言ってくれた。やっと呼吸がうまくできたと思えた。
なんて思うんだろう。
なんて言われてしまうんだろう。
「おい」
「いっ……」
思考が違うところに行ってしまったことを察したようで、思いっきり前髪を引っ張り上げられた。反射的に声を上げる。
桐渓さんは中腰になって俺と目を合わせた。桐渓さんの目が苦手で顔を逸らすことは出来ないので、視線だけは右上に逸らした。
「何考えてるん?」
「……」
「あーそういやぁ、お前伊藤と何でか知らんけど、仲ええんやって?保健室に無意味に遊びに来る生徒らに聞いたわ。
まさかお前と問題児の伊藤となぁ?自分の立場考えたらあんま仲良くしないほうがいいんやない?
伊藤は低能で愚直で乱暴な奴やし、伊藤といるとただでさえよくない評判がさらに落ちることになると思うで。
あんな問題児初めて見たわ。あきらかに相手を殴っているのに、何でか周りに庇われて結局退学にはならんくて停学になったんやけど。
岬先生もなんであんなの庇ったのか……。すぐに暴力に訴えるやつなのになぁ。優しいから仕方ないことかもなぁ。
まぁお前みたいなやつ、伊藤ぐらいがちょうどええか。どうせ何らかで目を付けられて、伊藤がお前のことをパシリにでも使ってるんやろ。」
教師にあるまじきことを笑いながら言っている桐渓さん。
教師が言うことではないし、教師に限らず人としてそんな評価をしてはいけないであろうことをつらつらと淀みなく言う桐渓さん。
このとき一瞬何を言われているのかわからなくなって。
「……今、なんて言った」
漸く頭が桐渓さんの言うことを理解した。
理解したと同時に、頭が真っ赤になって口から勝手に言葉を紡いでいた。
言葉にしたのを口から出てきたことによって自分が初めてこんな声を出せたのか、と驚きもした。だが、それ以上に湧き上がる感情を抑えられない。
「はぁ?」
どこか馬鹿にしたよう言った桐渓さんだったが、いつの間にか桐渓さんを見ていた俺に、直ぐに驚愕に目を丸くする。
朝に桐渓さんが伊藤を野蛮だとか言っていたときと同じ、いやそれ以上の激情だった。
髪を引っ張られているのも、蹴られるのも殴られるのもきっと首を絞められるのだって、暴言だって、自分自身に対して言うなら構わない、そうして桐渓さんが気が済むのなら、いくらでもやっても構わない。
けれど、他人には……伊藤には、そう言うのは間違っている。
少なくともそれ以上に伊藤を見る機会が桐渓さんはあったはずなのに、的外れのことばかり。何も知らないくせに。
ああ、むかつく。
……そうだ、この激情。自分でもどうしようもないぐらいの炎のようなこの爆発的な熱い感情。
人間の感情。
そうだ、これは怒りだ。