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1章『それぞれの想い。』


「あ、一ノ瀬くん。」

 用を終えて手を洗っていると誰かに話しかけられた。
 声のしたほうを向けば、岬先生が穏やかな笑顔で手を振っていた。
 どうして話しかけてきたのかわからなくて、とりあえず会釈してみた。
「クラスはどうかな?馴染めたかな?」
「……たぶん……伊藤や叶野が、気を使ってくれます」
「そっかそっか、叶野くん良い子だよね。あ、じゃあ湖越くんとも話したのかな?」
 岬先生の中でも叶野と湖越はよく一緒にいる二人と思っているんだろう、自然に湖越の名前が出てきた。
 俺個人と話したいわけでは湖越もなさそうではあるが、ぞんざいに扱われるわけでもなく、多分クラスメイトとして一番適度な距離に位置している、と思う。
 岬先生の言葉にうなずいて返した。
「……あと、鷲尾とも。」
「えっ」
「?」
 話したと言うよりは質問されてそれに俺が答えるのみではあるが、言葉を交わすことが話すと言うことならば鷲尾とも話した、と言う認識で間違っていないだろう。
 自分としては自然に鷲尾の名前を挙げたが、岬先生が驚いた顔をしたから何か可笑しなことを言っただろうか?と首を傾げる。
「あ、ごめんね!鷲尾くんの名前が出るのが少し意外でね。なんていうかこう……マイペースな子だから……」
「……そうですか」
 何となく岬先生が言いたいこともわかるが、深く突っ込む気はないので流すことにした。
「うまくやれそうかな?」
「……分かりません」
 岬先生の質問にそう答えるしかできない。
 うまくやる、と言う経験がないからよくわからない。
 今はみんな良くしてくれていると思う、特に叶野は周りをよく見ていると思う。
 湖越も叶野と一緒にだが普通に話しかけられたら答えてくれるだろうし、鷲尾はきっとこちらに興味が失せたら視線を向けることすらしないだろう。
 俺自身面白味もなくあまり話さないし表情も動かない。不快にさせてしまわないか、と思う。そのうち幻滅されても仕方がないとも思う。
「伊藤くんとはどう?」
「……」
 伊藤。
 今の俺のことも親友だと言ってくれている。
 あれだけ純粋に慕ってくれているであろう笑顔を向けてくれたのは初めてだった。
 それでも、いつか俺が記憶を忘れてしまっていることを責める日が来てしまうのかもしれない。
 今の俺は伊藤が俺を責めるところを想像も出来ないけれど、でも、もしそんな日が来たとき、憎んでくれるだけなら、いい。
 悲しまなければ、傷つかなければ、俺を憎いだけでいるのなら、耐えられると思う。
 無言の続く俺に岬先生はどう思ったのか。
「先のことは分からないものだからね、今は考えなくてもいいと思うよ。急かすようなことを聞いちゃったかな?ごめんね」
「……いえ」
 気を使わせてしまったようで、眉を下げながら謝られてしまった。
 考えすぎてしまう自分が悪いのだ、あなたが謝ることではないんだと言いたいけれど、どうしても良い言い方が思いつかなくて、結局口に出せるのは簡潔な言葉だ。
 自己嫌悪で黙ってしまった俺に、軽く頭に衝撃。
 ほんの少し俺よりも低い岬先生が俺の頭を軽く叩くように撫でられたのだ。
 突然のことに驚いて岬先生を見ると、変わらずの穏やかな笑顔を浮かべていた。

「さっきも言ったけれど、先のことなんてわからないんだよ。どう考えていても何をしていても、ね。だからさ、難しく考えないで良いんだよ。
大事なのは、今自分が何をしたいか、だと思うんだよ」
「……」
「……少し語っちゃった。とにかく、あまり深く考えなくて良いんだよ。
明日晴れだって聞いたけど、結局外れて雨降ったのと同じぐらい明日のことも不確定なんだからさ。
その不確定さに不安になったら、僕たち教師に相談してほしいんだよ。そのために僕たち教師はいるからね。
何が出来るかわからないけれどそれでも話は聞いてあげられるから。だから、遠慮なんてしなくていいんだからね。子どもはもっと僕たち大人に甘えなさいな」

 岬先生はまるで諭すような穏やかな口調でそう言う。
 考えなくてもいい、甘えなさい、そんなこと誰も言わない。
 きっと違う誰かに言われても少し自分に酔っているのかと勘ぐってしまうだろうけれど、岬先生は違う気がした。
 どこまでも親愛を込めた真っ直ぐな瞳だった。
 少なくとも桐渓さんよりも年下であると言うのは分かっているし、肌や容姿を見てもどう見ても20代半ばぐらいに見えるのだが、威圧的とも違う存在感が岬先生にはあった。
 もっと優しい、穏やかだ。

「……はい」

 気が付けば岬先生の言うことに素直に頷いてしまった。
 よろしい、と少しふざけた口調で岬先生は笑う、五十嵐先生の言った意味がよく分かった。
 良い先生だ、と素直にそう思える先生と出会えたことは、きっと良いこと、だ。
 ただ

「仲良さそうやん」

 良いことばかりとはいかないらしい。
 一気に体感温度が冷めた気がした。

「桐渓先生」
「まぁそんなところがきっと岬先生の良いところなんやけどね。さて透、ちょっといろいろ話したいことあるから、ちょいと来てもらってもええ?」
「え、と、あの、あと10分ほどで授業が始まってしまいますよ?」
「ちょっと今すぐ話さないといけないことやねん。五十嵐先生には言っといたし平気や。ほら、いくで。」

 ぐっと腕を引っ張られて俺は連れていかれた。
 突然の桐渓さんの登場に岬先生は驚きを隠せないようだった。俺のことを心配気に見ながらも、きっと俺の事情を知っているであろう岬先生は桐渓さんに強く言えないようだった。
 ただでさえ桐渓さんは上司に位置するのだから言いにくいことも多いだろう。
 掴む力も引っ張る力も遠慮なんかないようで、痛みを感じる。
 さっきの戸惑っている岬先生が脳裏に浮かんで、そのあとすぐに伊藤のことを思い出した。
 次は理科室だって言っていた。伊藤は待っていてくれるだろうか。今ここに来ないだろうか。なんて都合の良い展開は無い。
 引っ張られながら馬鹿みたいな妄想だな、と心の中で自分を嗤った。
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