1章『それぞれの想い。』


 正直牛島の教える数学の時間は無駄だと感じる。
 口を開けばこちらを馬鹿にしたようにしか話さないし教え方も回りくどくて分かり難い。何よりもあの不快な声。
 まるでカエルが潰れたときのようなガラガラとした耳障りなのに妙に記憶に残るのが腹立たしい。
 よく僕の口調のことで怒鳴ってくるが、尊敬の欠片もできない牛島に使う敬語など僕にはないのだ、いい加減そっちが諦めてほしい。
 そもそもこんなのがよく教師をやっていられるとも思うし、この学校はこんなのをよく採用したなとも思う。
 教え方が回りくどくて分かり難くて下手なくせして、授業での問題を生徒に指してはその生徒が答えられなければ鬼の首をとったかのように楽しそうに貶し、当たったら当たったでいい顔をしないと傲慢な奴。
 伊藤のクズという言い方自体は乱暴で品はない。だが、もっともである。
 確かにこんな問題がわからないのも理解できないが、それを何もせずに、と言うか教師が笑い者にしていい道理はない。

 いつもは不快な時間を過ぎるのを待つだけだったが、今日は少し違う。
 あの神丘学園からやってきたと言う一ノ瀬がいるのだ。
 何故か呆けている顔をした牛島が、いつも通りの嫌な笑みで一ノ瀬のほうを見たのだ。
 どうやら牛島としては新入生いびりならぬ転校生いびりとしようとしているのが見て取れた。
 絶対に一ノ瀬を指すんだろう、一ノ瀬がどれほどのものなのか全部が分からなくとも少しでも分かるだろう。
 そして一ノ瀬が自分よりも出来る頭であれば……嫉妬で狂いそうになるかもしれないが、それはそれ。
 むしろその悔しさをばねにして一ノ瀬に教えを乞おう。
 自身の嫉妬と一ノ瀬の頭の出来のよさは別物であり、嫉妬はするが憎むほどのものでもない。
 伸びしろがあるということでもある。

「さぁて……この問題をそこの、あーなんだったか……転校生!お前、黒板でやれ」

 とか考えていると、さっそく牛島に動きがあった。
 前を向けば食欲を失せるような肥えて油てかてかの不自然な黒い顔がある。昼休みの前後にみるとこの顔は吐き気を催す。
 朝から見るのもまぁ嫌なのだが、他の時間で見るよりはまだましと思う。
 今日だけは転校生だから、新しいターゲットが出来たことを嬉し気にしているのをいつもなら気持ち悪いだけで済ますが、今回は気持ち悪いと思うと同時に感謝も少しはしておこう。

「うわ指さすなよ、きめえ」

 これは久しぶりにやってきたと思いきや転校生の一ノ瀬に何故かべったりの伊藤の発言である。
 伊藤自身は確かに僕が理解できないことをやるし野蛮と感じるときもあるが、少なくとも何も物言わないクラスメイトらよりは好ましいと思う。
 どうも牛島は伊藤にはなにも言えないようで、なにか言いたそうにしつつもぐっと何か耐えているようだ。
 伊藤は何か問題起こしてしばらく学校に来なかったんだったか。
 興味がないからあまり詳しく聞いていなかったが。
 生徒に対して何を怯えているのか。なんのために教師になったんだ、こいつ。

「……」

 少し間が合った後、返事もなく一ノ瀬が席から立って移動した。
 指示された通り黒板へと移動したようだ。僕の席の隣をすれ違いその際一ノ瀬の様子を窺う。
 何を考えているのか想像が出来ないほどの無表情さだ。
 先ほど話していた際にも思ったが、僕も人のこと言えないとは思うが、驚くほど表情がない。
 まぁ感情は特に出さなくてもいいのだが、声ぐらいしっかり出した方が良いと思うが。
 僕自身必要がなければ話さないし特に感情もそこまで表に出さないタイプではあるのだが、必要があれば話すし話しかけられれば普通に話すさ。
 ただ何故か僕が話せば相手の反応が悪い。
 今までも話しかけられて思った通りのことを口に出せば、返答が気に入られなかったのか、困ったように反応されたりたまに牛島のように怒られたりする。
 それ以降は話しかけられないか、話しかけられても義務的なものだったり腫物を触るかのような感じだったりする。
 僕に態度を変えずに接してくるのは担任の岬に隣のクラスの担任の五十嵐、同じクラスの叶野と湖越ぐらいなものだ。ある意味では伊藤もだが。
 相手の顔色を窺わないといけない人間といるぐらいなら一人のほうが断然ましだ。煩わしさも何もない。
 教師だからと言って敬いもしないそして恐れもしない、特に牛島に対して何の感情も抱いていないからだ、強いて言うならば鬱陶しいとは思っているが。
 そんな僕に牛島は鬱陶しく毎日怒ってくるのだ。
 最近は無視していたのだが、叫ぶわいつまでも授業も始めないわでいい加減目に余る。

「おい!返事ぐらいしたらどうだ!!」

 返事をせず教壇に上がる一ノ瀬に、怒りつつどこか愉悦を感じているような顔をして一ノ瀬を指をさしてそう言う。
 これだから最近の若い者は、とか何やらくどくどと説教を始める。

 一ノ瀬はその説教を聞いているのか聞いていないのか何の反応もせず黒板に、書き始めた。
 牛島の説教と一ノ瀬がチョークで黒板に書く音が静かな教室に木霊する。
 ちなみに牛島は身振り手振りして説教をしている自分に酔っている様子で、一ノ瀬が何の反応をせずに答えを書いているのに気が付いていないようだ。
 牛島の説教は平均20分ほど続くのである。全くをもって時間の無駄である。
 一ノ瀬が牛島を無視して問題をやり始めたのは正解だと思う。
 一ノ瀬は少しも悩む素振りはみせず、戸惑いなく書いていきそのまま書き終わる。
 牛島の書いた数学の式。
 僕は塾でとっくの前にやっているが、この学校ではまだやったことのない問題だ。
 いつも習っていないところを出してはその問題が分からない生徒を笑いものにしようとするのだ。
 そんな問題を解き終えて、未だ話続けている牛島を置いて、遠回りになるが来たときとは違う方向から席に戻っていった。
 1人で延々と話し続けている滑稽な姿の牛島に、教室から笑いをこらえる声が聞こえる。
 一ノ瀬の方を見れば、隣の席の伊藤は一ノ瀬と話したと思えば

「はははっ」

 伊藤の笑い声が響いた。
 あの伊藤が笑った、ともきっと誰もが思っただろうが、それよりもその伊藤の笑い声によって耐えていた他のクラスメイトたちも笑いだした。
 僕もつられて少し笑う、突然響くクラス全員の爆笑の声に牛島はビクッと身体を震わせ、挙動不審で周りを見たそこで一ノ瀬が席に戻っていることに気付いたようで、先ほどまで一ノ瀬がいたところをバッと振り向いた。
 いつもはふんぞり返っている牛島は今は慌てふためいて一ノ瀬の元へと行き、

「何故、席に戻っている!?」
「……あ、俺に話しかけていたんですか」

 一ノ瀬は無表情なその顔を少しだけ不思議そうにして牛島を見返して、どこか他人事……独り言のようにそう答えた。
 どうやら自分に言っているのだと認識すらもしていなかったようだ。
 嫌味とかわざととかではない様子だ。
 確かに牛島の説教は説教と言うよりも、ほとんど独り言に近い。
 最近の若者だとかその生徒本人に関係のない話ばかりで自分の愚痴を言っているようなものだ。
 一ノ瀬本人に対しての説教、ではないと感じるのは、まぁ理解は出来る。

「っ貴様!」
 一ノ瀬が何を言われたのか分からず、ぽかんと一拍置いて、漸くその鈍い頭は彼の言ったことを理解したようだった。
 理解したと同時に牛島は顔をさらに赤くしながら(いい加減血管切れるんじゃないか?)一ノ瀬につかみかかろうとしたのか、手を伸ばす。
 次の瞬間パン、と渇いた音が教室に木霊した。牛島が一ノ瀬を叩いた音、ではなくて。

「おい、透に触るんじゃねえよ。」

 いつの間にか隣の席の伊藤は立ち上がっていて、一ノ瀬を守るように二人の間に立ちふさがっている。
 どうやら渇いた音の正体は伊藤が牛島の手を叩いたからだようだ。
 鋭く牛島を睨み、威嚇するその様は……まるで一ノ瀬の番犬だ。
 前々から野性的で誰にも懐かない警戒心の強い動物みたいだと思ってはいたが、いつの間にか飼い犬になったのか。
 笑い声が響いていた教室は今静まり返っている。本来ならば教師に対して何たる無礼かとかくどくどと言う牛島も伊藤の雰囲気に圧されて後ろ姿が震えているのが分かった。
 牛島が哀れに思ったわけではないが(掴みかかろうとしたのは事実であり同情は出来ん)残り40分ほどの授業をこのまま終わらせるのは無駄な時間だ。
 また授業を催促しようと声をかけるか。そう思い始めたころ。

「……伊藤。気付かなかったと言っても、確かに俺が悪い。」
 今まで沈黙していた一ノ瀬が席から立ち上がって、伊藤をなだめるよう、ではなく事実であると言う風に淡々と告げる。
 伊藤は一ノ瀬を見つめる、一ノ瀬も静かに伊藤を見返す、何となくその見つめ合う二人に見入ってしまう。
 いくら僕でも威嚇している伊藤を目の前にすれば多少の恐怖は覚える、この状態で伊藤に話しかけることは出来ない。
 だが、一ノ瀬は今にも牛島に殴りそうな雰囲気の伊藤を止めて目を合わせた。
 目を逸らす気配はない。
 そのまましばらくの沈黙のあと、

「……お前がそう言うなら。」
「……ありがとう。」

 伊藤が呆れているように諦めたように溜息を吐いて、威嚇状態を解いて大人しくなって席に着いた。
 牛島のことを睨みながらももう手を出すつもりはないようだ。牛島もすっかり大人しくなっている。

「牛島先生、すいませんでした、今後は気を付けます。」
「あ、ああ、いや、分かればいい……。」
「ありがとうございます。」

 牛島が掴みかかろうとして伊藤が庇い今にも殴りかかろうとしていた流れを一ノ瀬は無かったことにして謝罪の言葉を口にした。
 大きく出ていた牛島は随分と小さくなってしまった。
 これ以上一ノ瀬に対して口に出すのは、隣に座る伊藤が睨み続けているので次は殴られるとでも思っているのか、物言いも先ほどより弱弱しい。
 牛島は黒板の前へ戻ろうとして

「……あと問2の問題の解……間違えてます。」

 一ノ瀬がポツリとそう言った。
 最後の問題しか僕は気にしていなかったので問2の問題まで見ていなかった。
 ノートを見れば僕が予習してきた答えは6と書いてあるが、黒板には5と書かれている。何のことはない、ただの簡単な計算ミスだ。

 指摘されてカッとなったのかまた勢いよく一ノ瀬のほうを振り返るが、何も感情もなくただ透き通った眼で見る一ノ瀬とその隣に座る伊藤の睨みによって身体を震わせて「あ、ああ、指摘感謝する……」と直ぐに小さくなった。
 今度こそ黒板のほうへ戻っていた。
 そのあとの授業はまぁ大人しいものだった、教室も静かで今までのなかで塾で学んだことをもう一回やっているにしても一番快適な授業だった。
 伊藤の隠さないその態度も嫌いではないが、謙虚にも見えるけど、きっと本当に自分が思っていることを言う一ノ瀬のあの行動も悪くない。
 あのまま伊藤に任せておけば結果として悪い印象を覚えるのは伊藤だけになるのに。
 一ノ瀬自身は安全なところから見ているだけと言うことも出来ただろうに。

 庇った伊藤の気持ちも考慮しつつも自分の思ったことを言えるのは、自分としては好意的として受け取れる。

 勉学のほうも無駄はなく、冷静に周りを見れるのも良い。
 初めて、他人に、自分自身から近寄りたいと思った。
 彼から学べることはきっと沢山ある。弱者と呼ぶのは相応しくない、だが強者と呼ぶには脆い気もする一ノ瀬に。

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