2章 後編


「……なに、これ。」

目の前のことが信じられないままに、呆然と思ったことをそのまま言葉に出していた。
朝、昨日のことがあってうまく眠れなかったけれど、なんとかいつも通りを装ってそのまま学校にいつも通りに登校した。
今俺の目の前に広がっているのは、昨日までは新品とまでは言わないけれどそれなりに綺麗だったはずの学校の机。俺の、席。

『死ね』
『キモイ』
『調子のんな』

そんな赤のマジックで机に書かれていて、その上には汚い水が染み込んでいるであろう雑巾や紙ゴミがあった。
何故、自分がこんなことをされているのか。
どうして、だれが、こんなこと。俺が、なんで。
疑問が思い浮かんでは消える。
呆然とすることしかできない俺の耳にふと入ってきたのは、笑い声だった。
いつも聞くいつも通り日常で聞くようななんでもない、笑い声。
錆切ったロボットのように首がうごかないので視線だけ教室全体を見渡した。そこには、なんでもないいつも通りの教室の風景だ。
昨日見たテレビの話とか、今日のお昼を奮発したとか、そんな日常会話を普通にしていた。

誰一人、俺のことを見てなかった。
俺のことを置いてけぼりに、みんなはいつも通りの朝を迎えている。

「……っ」

ぐっと泣きたくなるのを堪えた。
『いつもの朝』にするため、とりあえず教室の隅にあるゴミ箱を持ってきた。机の上だけじゃなく中にもあったから全部ゴミ箱に入れた。幸い教科書などは置いていなかったからそういう被害はなかった。
水の含んだ雑巾を片づけるのとついでにゴミ箱も定位置に戻して、そのまま水道場へ行く。
邪魔になるし鞄を置いていくか迷ったけど、行って戻ってきたら無事な保証がないかもしれないと思い直してちょっと邪魔だけどそのまま肩にかけて持っていくことにした。
俺が片づけている間も、教室を出て行く間も、クラスメイトは俺のことを視界にいれようともせず、雑談してた。
誰も、俺に視線を向けることも挨拶もされなかった。

一人を除いて。

教室を出てすぐ視線だけなかの様子を覗き見た。
そこで目が合った。
俺が視線を向けるのは予想していなかったようで、目を見開いていたけれどすぐに逸らされた。
だけど、目が合ったのは事実であり消せないことだ。
俺は確かに彼と目が合った。

……なんで?どうして?

すぐに出てきたのはそんな疑問だった。
だって俺と仲良くしてくれたのに。
ちょっと前まで笑い合っていたのに。
どうして。
どうして、三木くん。

目が合ったのは確かに三木くん。見間違えるはずがない。
何度も心のなかで問いかけたけれど、三木くんは警戒したのかもうこちらに目を向けることなく、今まで話していたのを見たことが無いクラスメイトと話して、笑ってた。
しばらくそれを見ていたけど駆け足で水道場に向かった。これ以上見てたら、頭がおかしくなりそうだった。


鞄を足元に置いて、蛇口を捻れば勢いよく水が出てきた。
出来る限りなにも考えずに雑巾を洗い続けた。
無心で力いっぱい手が赤くなってしまうほど雑巾を擦り、洗う。
何も考えるな、そう自分に何度も言い聞かせた。

そうでもしないと、泣いてしまいそうだった。
昨日父さんに言われたことと学校での自分が置かれた立場を自覚してしまえば、俺はどうにかなってしまう。そんな恐れがあったんだと思う。
……きっと、なにかの間違え。
たまたま、クラスメイトの誰かが虫の居所が悪くて、俺の机が目に入っただけ。
誰も俺の方を見なかったのはそれぞれの日常を過ごすのにみんな一生懸命で俺の方まで見れてなかったからだろう。
……三木くんと目が合ったのは、俺の気のせいだろう。きっと違うところを見てたんだ。虫でもいたんだ。きっとそうだ。
雑巾を絞りながらそう自分に言い聞かせた。
後から思えば無理がある理由を何とかこじつけて、『きっと今日だけだ』と『今日だけ我慢すれば大丈夫』そう思うようにした。
そう思うようにしながらも時間ギリギリまで教室には戻らず、一旦水道場の隅に雑巾を置いて男子トイレの個室に籠った。
便座に座って腕時計を確認して息をひそめる。
だいじょうぶ、だいじょうぶだ。
おれは、だいじょうぶ。きょうだけだから、きょうだけ乗り越えられれば……。
何度も深呼吸した。
時間が過ぎるのをそのままトイレで待って朝のHRが始まる寸前ぐらいに教室に入れる時間になって、震える手で鍵を解錠してそこから出て雑巾を回収して教室に向かった。

「……っ」

雑巾を干して教室に戻って席に着こうとすると、机の上にゴミ箱がひっくり返った状態で乗っていた。
変な声を出してしまいそうになるのを堪えて、何も言わず先生が来る前になんとかあるべきところへゴミ箱を戻そうとした。
「クスクス……」
他のみんなが座っている中一人黙って片づける俺のことを誰かが笑うような声が聞こえたけれど、反応なんてなにも出来ない。反応するだけの気力はすでになかった。

ああ。
これは、もう……今日で終わることはないのかもしれない。

そう察してしまった。
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