2章『結局のところすべては自分次第。』
「……伊藤、鞄自分で持つ。」
水滴がようやく乾いて冷静に周りを見れるようになった。
伊藤に手を握られたまま駅まで向かっているのだが、冷静になって自分が手ぶらであることに気が付いて一瞬焦ったが手を握られているもう片方の手に伊藤と自分の鞄がぶら下がっていることに気付いてそう言った。
自分の声がいつも通りで震えていないことに安心した。さっきのような腹のなかが嫌に冷える感じも、それに比例するように顔も熱くはなっていない。
いつも通りの俺になったことをそう声をかけられて伊藤も安心したのかこちらを振り向いた。
何故かギョッと驚いた顔をされる。
視線の先にあるのはしっかりと繋がられた手と手。
連れ出されたときのまま繋がれている。……上履きから靴に履き替えるときも片手は塞がっていて結構大変だったのが、伊藤はそれに気が付いていなかったらしい。
焦って手を離される。ひんやりする。
「わり、てか、おま、気付いてたなら、言えよっ。手汗で気持ち悪かっただろっ」
「……そんなこと、思わなかったから。」
確かに伊藤の言う通り、今は6月の下旬で大分気温も上がり7月や8月ほど日差しが肌を焼いていくような暑いわけではないが蒸した熱気がじっとりと肌に張り付くような不快感がある。
そんな中手を握っていれば手汗が間に溜まって気持ち悪いと思うのが普通だろう。
現に離された今掌にはじっとりと水滴が溜まっており、空気に触れてひんやりする。が、手を握られて俺も握り返していたがそんなこと気にならなくて、今手を離されてそう言えばそうだなと思ったぐらいだ。
不快なんて思わない。その逆で嬉しかった。俺を助けてくれたその手が嬉しくて、手を離されて寂しいとか思ってしまうほどには。
そんなことを思いながら自分の手をまじまじと見つめていると前からグゥっと変な呻き声が聞こえる。
「っほんと、透おまえ……。」
伊藤は俯いて自身の前髪をぐしゃぐしゃとかき交ぜている。
髪の隙間から見える健康的なその肌が少し赤くなっていて照れていることを察した。伊藤も、こちらを振り向くまで手を握っていたことに気が付かなかったぐらいだから不快なんて思っていなかったんだ、と今俺も気が付く。
……さっきとは違った意味で自分の顔が熱くなり、目を逸らした。変な空気が流れているような気がした。
この場から走りたいようなでもここにいたいっていう変な気持ちを持て余した。
「とりあえず、ほらよ。」
「……ああ、ありがとう。」
目を逸らしながら鞄を手渡してくれる。その際伊藤の手に触れてしまって恥ずかしい気持ちになる。
落ち着こうと熱と一緒に息を吐いた。そして誤魔化すように、でも言いたかったことを告げる。
「ありがとう。」
同じ言葉になってしまったけれど、もう一度言う。
来てくれて。連れ出してくれて。戻ってきてくれて。
保健室に来てくれてありがとう。
あそこから連れ出してくれてありがとう。
一回出て行ったのに、戻ってきてくれてありがとう。
俺の口から出たのは『ありがとう。』だけだったけれど、そのすべての想いを込めてそう言った。
「……別に、いい。それより……透のはなし聞かずに飛び出して悪かった。」
「……いや、俺も言っていなかったことだったから。早く言えば良かった、俺こそごめん。」
心底後悔しているように詫びる伊藤に俺は首を振る。俺こそ言うタイミングが特になかったと思って伊藤に何の説明をしていなかった、怠慢だった。
俺の方こそ謝るべきだ。謝る俺に伊藤は苦笑いしながらさっきのことを説明してくれた。
「勢いよく飛び出したけど、やっぱり後悔して透のこと下駄箱で待ってた。ちゃんと透の事情を聞こうって思ったんだ。
で、通りがかった五十嵐先生に『今から一ノ瀬たちの様子を見に行くけどお前も来るか?』て言われてよ。
邪魔したらとかちょっとは考えたんだけどよ……やっぱり気になって静かに様子だけ見ようって五十嵐先生とこっそりドア開けて見てみたら、何故か岬先生と桐渓は掴みあって怒鳴り合ってて、透はその前で項垂れているのを見たらまぁ……身体が動いてよ。
あとはまぁ、勢いに任せたというか、五十嵐先生に任せちまった。」
「そう、だったのか。」
俺の心配は……伊藤が俺の話を聞いてくれるか無視されないだろうかという不安はまったくに杞憂で終わったことに安堵し、五十嵐先生はこの話し合いのことを知っていたことに驚くと同時にそれもそうかと納得もした。
きのうのことを知っている五十嵐先生が何も知らされないことはないかと思い当たった。
……岬先生は生徒のことを大事にしてくれる優しい先生だ。そして五十嵐先生は……頼りになる信頼できるひとだ。そう思った。俺に『おつかれ』と声をかけたときどんな表情を浮かべていたのか改めて気になったけれど、もう確認できる術がないことに少し残念だった。
どこか五十嵐先生は九十九さんに似ている気がするけれど…さすがに気のせい……かな。
「桐渓と……どんな関係なのか教えてくれるのか?」
気遣うような、少し戸惑うような響きで俺にそう聞く伊藤。
それに俺はすぐにうなずいた。だって、伊藤に話したくないことはもう俺にはないのだから。ただ……ちょっとこの場では言えないか。誰に見られているのかちょっと分からないこの場では。
「家着いたらちゃんと説明するよ。」
「そっか、分かった。……もう、大丈夫か?」
「ああ。」
目から水滴をこぼしてしまったことと動揺してしまったことを聞いているのが分かって、それも頷いた。
どうしても俺は、今の自分はともかく知らない前の自分のこと出されると不安定になるようだ。記憶のないときのことを責められてしまうと俺は何も言えなくなってしまう。そして不確定な前の俺のことを庇われても戸惑ってしまうというのも分かった。
責める桐渓さんも庇う岬先生も、俺には戸惑うばかりで負の感情も正の感情もなくてただただ混乱してしまう。
伊藤は、ちゃんと『俺』を見てくれているんだと、分かった。
俺の勘違いだった。最初から伊藤は前の俺も今の俺もすべて『俺』として見てくれたんだ。
罪を犯してしまった俺のことも、その罪があったとしてでも今を生きようとする俺のことも、そんな俺のことを見た上で親友と言ってくれていたんだ。初めて会ったときから、ずっと。
だから、昼に一瞬とは言え当たってしまったことが申し訳なく思う。
「ごめん。」
「別に良いって。俺だって話聞かずに悪かったな……。」
今の俺の謝罪はさっきのことではなくもっと前の時間のことだけれど……伊藤も落ち込んでいるようだったから、これ以上ほじくり返すのは辞めよう。
お互い謝れたのだから、これでお相子にしよう。と勝手にそう考えて謝るのを辞めた。すでに謝罪してされている。それでいいか。伊藤は俺の態度ではなくて自分の態度を後悔しているようで、俺も自分の態度に後悔しているからお互い様だろう……。これ以上は伊藤も俺も精神がすり減る結果となりそうだった。
そのまま駅に着いて改札を渡りタイミングよくやってきた電車の乗り込んだ。
いつも通り最寄り駅に着くまでの間窓からのいつも通りの風景を眺めながら、ふと(そう言えば)と思い浮かべる。
鷲尾は、叶野たちにちゃんと謝れただろうか。
謝れるタイミングをちゃんとつかめたのかどうかだけ心配になった。
当人たちの問題だから俺から聞くつもりはないけれど……心のなかだけで心配するのならたぶん許してくれる、かな?
不器用な友だちを心配した。
鷲尾も……結構叶野も不器用そうだから。せめて確執だけは出来ないことを俺は祈るだけしかできなかった。