2章『結局のところすべては自分次第。』
突然の空気を切り裂くと言わんばかりの大声を誰が発したのか、一瞬理解できなくて反応が遅れる。
意識を戻せば、岬先生が桐渓さんに掴みかかっている光景が目いっぱいに入る。
「そりゃあ、あんただって親友を苦しかっただろうけれどなぁ!
一ノ瀬くんは目の前で肉親が亡くなってるんだぞ!それこそ記憶が無くすぐらい、そのぐらい辛いことだったのにっ!
そのことをずっとあんたはそうやって責め続けたのかっ」
いつもの穏やかな口調とさっきまでの冷静さが嘘のように岬先生は荒い口調で責め立てた。
急変した岬先生に桐渓さんは呆然としていたが、徐々に何を言われているのか理解が追い付いたのかキッと岬先生に睨み返した。
「っなんで俺が責められなきゃならなあかんの?!そもそもこいつが飛び出さなきゃ良かったんや!
そうすりゃあ灯吏も薫もっこいつを庇って死なずにすんだのにっ!
んで、こいつは6年経った今でも思い出そうという気もない!思い出そうとするのすら嫌がるんやで?!
いつまでもそうやって何を考えているのか分からん無表情で、何も傷ついてなんかいない面見てたら吐き気がするっ!
悪いのは透や、俺やないのにっなんで俺を責める?!」
「あんたはその場にいたのかよっ!その事故が起こった直後、あんたはいたのか?!」
「…!いなかった、けどもっ!」
「一ノ瀬くんがほんとうに飛び出したって言う確証はあるんですか!
それが本当だとして!あんたがそうやって延々と責める立場なんかじゃないっ!
一ノ瀬くんは両親を失ったのを見て記憶を失くしたんじゃないですか、それぐらい辛いものだったんじゃないですか!
何も分からない一ノ瀬くんが、よくわからないのに最初からそうやって責められてたら、思い出したいという気持ちも持てないんじゃないですか!」
「そんな俺のせいにしたいんかっ」
「あなたのせいでしょう!あなたは、目の前で親しい人がいなくなる姿を見た苦しさがどれほどのものってことを知っているんですか!?知らないでしょうっ知らないからそうやって心無く一ノ瀬くんを責められるんです!」
「それじゃあ、あれか?その場にいなきゃ俺は透を責める権利もないってことか?!」
「そうですよ!その場にいない誰もが責められるわけがないんですよっ、そもそも!子どもにすべてをその重責を押し付けることが間違っているんですよ!
権利とかそう言うのじゃなくて、人権です!」
「なら、俺のこの感情はどこに……!」
(どうしよう、俺はどうすればいい)
目の前で2人が怒鳴り合っているのを見ていて自分の胃が痛くなってくる。
2人は自分のことで言い合っている。
桐渓さんは俺を責めたい責める権利があると主張する、岬先生は俺のことを責めることができないと庇ってくれる。
どちらも自分の……俺のことが理由でこうして怒鳴り合っている。喧嘩、している。
今俺は……どうしたらいいのか、分からない。
どんな気持ちで俺はこの言い争いを見ているのが正解なんだろうか。
信号無視して飛び出して両親はそんな俺を庇って亡くなったのを目の前で見てしまった。それがショックで記憶喪失になった。
そう結論付けられている。
轢き逃げされて目撃者も防犯カメラの映像も無く、事故当時の状況を知るのは両親と轢き逃げした運転手と俺だけだが、両親は亡くなり轢き逃げの犯人も未だ捕まっておらず俺は記憶喪失で実際のところは誰も分からない。
ただ、俺は信号を渡った先のところにいて両親の遺体を向いた状態で気絶していたらしい。
誰かがこの事故の原因に、一つの仮定を理由付けてそれがいつの間にか『誰も知らないはずの事実』になっていったんじゃないかと予想する。
『俺』は信号無視をしないが『前の俺』がどんな感じだったのか今の俺には分からない。あまり聞きたくないと思っていたけれどこうなるんのなら伊藤に少しは聞いておくべきだったかと後悔する。
胃が痛いのは、桐渓さんに責められているからというのもある。
悲しそうに痛そうに怒る桐渓さんに対して思うところがない訳がない。もし……伊藤を失ったら……その原因が目の前にあれば、桐渓さんと同じことをしないという自信はない。
俺も痛いのはいやだ。責められるのも怒鳴られるのも暴力を振る分けれるのも、本当はとてもいやなことで出来ることなら逃げたくて避けたいと思う。
でも、責め立てる桐渓さんのことを完全に切り捨てることはしてはいけないことなんだとも思う。散々電話やメールを無視してしまう俺がこう思うのは矛盾しているかもしれないけれど……。桐渓さんが俺を責め立てるのは、理解はできてしまう。
桐渓さんは、生徒のことばかりで親友と幼馴染を失った自分のことを考えない岬先生に怒っているけれど、記憶のない罪を責められる俺のことは考えていない。
俺も今まで桐渓さんは苦しいんだろうなと考えて今までのことを受け入れてきたけれど、本当の意味で桐渓さんの立場になったことはなくて、最近になってようやく桐渓さんの辛さが少しだけ理解できるようになったと思う。
結局想像でしかできない……伊藤をもし失ってしまったことを考えてしまうと、桐渓さんの叫びが分かってしまう。
少しでも桐渓さんのことを知れたと思ったけど、桐渓さんは俺のことなんて見ていなかったのを、さっき知ってしまった。
そして……岬先生も、俺のことを見ていない。
いや、どうだろう。そう言ってしまうと嫌な意味になってしまうか……。けれど俺には上手い表現が見つからないんだ。
なんていうべきなのかわからないけれど、岬先生は確かに俺を庇ってくれる。それは、とてもうれしいことなんだ。
今までそうやって庇われたこと、なかったから。だからだろうか。
戸惑ってしまう。
岬先生は、優しい人だ。
とても生徒思いで、鷲尾を追いかけた俺にも教室を出て行った鷲尾にもその気持ちも汲んでくれる、今まで『俺』が接してきた大人たちのなかで一番優しく人間味があるかもしれない。
どこまでも真っ直ぐな人だ。俺のことを、悪いと少しも思っていないんだろう。俺のことを信じてくれる。責める桐渓さんに怒りを覚えて俺を庇って怒ってくれている、何の見返りもなく素晴らしいひとだ、生徒を何の疑いもなく一心に信じてくれる。
分かっている。岬先生は、それでいい。その真っ直ぐさが嬉しくてありがたい。ただ、俺の気持ちの問題なんだ。
(俺は岬先生にこんなに庇われるほど、優しい人間だろうか)
そんなことをなぜか思ってしまうんだ。
俺を……生徒のことを想って、桐渓さんに言い返している岬先生を見て、そんな冷たいことを思ってしまう。
誰のせいでもない、優しくされることに慣れていない俺が勝手にそんなことを考えて、勝手に胃を痛めているだけ。
俺を庇って亡くなったのか分からないけれど、記憶を失ったのは紛れもない『事実』だから……それは、責められてもおかしくないところだと思っている。
『前の俺』も『俺』も知っているのに俺を見ようとしない桐渓さんと、『前の俺』を知らないけれど『俺』を信じて『前の俺』のことも信じようとしてくれる岬先生。
なんだか、変な気持ちになる。
良い気持ちではない、どちらかと言うと悪い気持ちだ。
桐渓さんだけじゃなくて、岬先生にもそんなことを考えてしまう。正確に言えば怒鳴り合っている2人を見ていると、だ。
なんで過去の記憶を失う前の俺のことでこんなに言い合っているのか。知らない俺のことも庇おうとする岬先生に信じられない気持ちになる。責める桐渓さんの気持ちのほうが、理解できる。
俺のことを見ていないのに、俺のことで言い争う2人に、どんどんヒートアップしていく2人に心底困惑してどうすればここから抜け出せるのかどうすればこの言い争いが終わるのか、このいつまでも平行線の終わりのない言い争いに苦しくなってくる。
「……っは、」
呼吸が乱れる。
気持ち悪い。
吐き気がする。
誰も知らない事実なのに。
それが本当か否かも俺も誰も分からないのに、俺のことなのに俺のことを知らないのに、俺が悪い俺の気持ちも分かってあげて、と言っている、俺の意志は一言も言っていないのに。
俺を押し付けられている。それはだれ。
俺は責められるべき?俺は庇われるに値するのか?
分からない。自分のことなのに。
自分が責められるのは怖い。自分が庇われるほどの人間とも思えない。
わからない。どうされたいのか、じぶんが今どこにいるべきなのか。
そもそも、俺は今どこにいるんだろう。
誰も今俺のことを見てない。
俺のことを視界にいれられていない、俺は本当にここに存在するのか。
ほんとうは、ここにいないんじゃないか。
冷静になればそんなこと有り得ないと一蹴できることも、今の俺には本当のことに感じて悲しくなった。
手が勝手に震える。視界がぼやける。
少しだけ強くなれた、そう思えたのに。不確定な自分のことになると一気に不安になる。
ここにいるひとはおれの存在証明にならない。
だれか。『俺』を見てほしい。
俺のことを、受け入れてほしい。
前の俺だけじゃなくて今の俺だけじゃなくて、俺が悪いとか俺が悪くないとかじゃなくて、ただ『俺』を認めてほしい。
俺は、ここにいるんだ。ここで生きているんだ。
だれかだれか…だれでもいい……いや、だれでもじゃない。だれでも、なんて今は言えない。
背中をまるめて、保健室の床を見ながら……妄想した。
出来れば可能であれば……伊藤に『お前はここにいる』って心から笑って言ってほしい。そんな妄想をしながら目を閉じる。目の前は真っ暗になる。頬をなにかが伝う感覚がしたけど、気のせいだろう。
そう思って前のときみたいに何も見ないよう、何も聞こえないように……何も感じないように、閉じこもろうとした。
「透っ!」
まるくした背中を再び伸ばした。
それは自分の意志ではなくて、半ば強引に肩を掴まれて上を向かされたから。
驚いて閉じた瞳を見開く。驚いたのは誰かにいきなり肩を掴まれたからだけじゃなくて、俺の名前を呼ぶ声が聞こえたから。
俺のことを名前で呼ぶのは桐渓さんと……あとひとり。
桐渓さんの声じゃなかった。いや、桐渓さんよりも俺の名前を呼ぶ頻度が高くて耳馴染みがあるのは、ただひとりで。でもこの場にいる訳がない。
だって、先に帰ったはずだ。俺から背を向けて……事情を説明できない俺に怒って、先に帰ったのを俺は見送った……。
「……い、とう?」
でも、俺の名前を呼んだ声は、目の前にいるのは……確かに伊藤。
真剣な顔で……はじめて会ったあの日と同じような心配そうな顔で、眉をよせて俺を見ていた。
名前を呼んだと同時に溜まった水滴が頬をまた伝う感覚がして慌てて拭った。
心配されてしまう、と思ったが遅かった。それは伊藤にすでに見られていて苦しそうな顔をしている。
「……透行こうぜ。俺らはもう帰ろう、な?」
「は、なに勝手に決めて……」
俺の手を掴み、立ち上がらせてそう告げる伊藤。
突然の伊藤の登場に桐渓さんも岬先生も驚きを隠せず、さっきの俺と同じように目を見開いている。
そんな2人のことを目にいれていないようで伊藤はそちらを見ることなく俺に優しくそう言ってくれる。俺も突然目の前に望んだとはいえ伊藤がいることに驚き混乱していてとりあえず伊藤の言葉に頷いてしまう。
やっと今の状況を飲み込めた桐渓さんが伊藤に突っかかる。
伊藤はそんな桐渓さんに面倒くさそうに溜息を吐いて一瞥したあと、扉のほうを振り返った。
「帰っていいっすよね?五十嵐センセ。」
「おー!帰れ帰れ!俺が許可しよう!!」
「…え、」
「っ五十嵐先生、」
「今日はみんなもう冷静に話せなさそうですし、帰しましょ!」
保健室の扉はいつの間にか開いており、そこに寄りかかっていたのは五十嵐先生だった。
いつも通り豪快に笑いながら帰ることを許可をして、桐渓さんたちにも有無を言わせず帰る方向にもっていく。
伊藤がいると思ったら五十嵐先生までいて、また混乱する。
岬先生もさすがに五十嵐先生の登場に声を上げる。
五十嵐先生は岬先生と桐渓さんのほうを怖いほどにいつも通りの笑顔で見ている。
混乱する俺を一先ず置いておくことにした伊藤は五十嵐先生に許可を貰ったのを聞いて俺の手を引っ張って保健室を出る。引っ張られるがままに足を進める。
「一ノ瀬、おつかれさん。」
すれ違いざま、五十嵐先生は俺にそう言った。
伊藤のほうばかり見ていた俺は五十嵐先生に声を掛けられると思っていなくて吃驚する。いつもと違って静かな声で、でも優しくて穏やかだった。
どんな表情を浮かべているのだろうと顔を見ようとしたけれど、次俺が視界にとらえたのはピシャっと音を立て閉められた保健室の扉だった。
五十嵐先生が閉めてしまったらしい。
このなかでどんな会話をするんだろう、このまま帰っていいのだろうか、と色々考えたけれど。
「透、いっしょに帰ろう?」
ぎゅっと俺の手を握ってくれる伊藤の手が優しくて、それがうれしくてつい泣きたくなるのを堪えた。
俺はここにいていいんだと、そう言ってくれるかのようだった。俺もその手を握り返した。
伊藤の言葉に頷いてそのままこの場を後にした。
また逃げていると自分を責めたくなったけれど。
でも、すれ違いざまの五十嵐先生の言葉に勝手に少し許された気持ちになった。
それに俺は伊藤の優しくて暖かい手から抗える術を、知らなかった。