2章『結局のところすべては自分次第。』
「……。」
保健室に入ってから誰も言葉を発さず、痛いほどの沈黙のなか俺は座っている。
俺と桐渓さんが向かい合って座って、岬先生がその間に俺らで三角の形になって座っているのだが。
意外とでも言うべきか、桐渓さんが俺と視線を合わせようとしないのはどうしたのだろうか。
普段なら俺の罪を厳しく非難し射貫こうとしているか如く鋭く睨みつけ、酷いときは手や足も出るほどだ。
けれど、今はどこか弱々しい。まるで何かを恐れているようだ。
「桐渓先生。」
いつまでも続くのではないかと思い始めるほどの長い沈黙を終えたのは岬先生だった。
静かに桐渓さんを呼んだ。その声は澄んでいて怒っていないのにどこか圧を感じてしまうのは何故だろうか。岬先生の顔はあんなに穏やかなのに、優し気に見えるのに。
桐渓さんは俺どころか岬先生にも目を合わせることはない。青ざめている、気がする。
「いつまでも無言でどうしたのですか?僕がいると話しにくいんですか?」
「…せや、な。俺と透の問題で、一応身内の問題やしな?できれば岬先生には席外してほしいねんけど……。」
「それは駄目です。」
「……岬先生、俺が言うことに口出す気やろ。だから話しにくいねん。」
「理にかなっていることであれば口に出すつもりはありません。ですが、一ノ瀬くんを責めるだけと言うなら僕は止めに入りますよ。」
「そんなに俺が信用ならんの?」
「念のためですよ。僕が安心したいからここで話してほしい、それだけです。」
決して怒鳴り合う訳ではない。罵り合っている訳でもない。けれど、棘がある言い方をしていて空気もギスギスしていて酷く息苦しい。
どこか桐渓さんは怯えているように感じるのは、たぶん気のせいじゃない。そして、桐渓さんに敵意をむき出しにしているように見える岬先生も。
「……桐渓さん。」
桐渓さんに対して俺はずっと怯えていた。
何を言われるのか、また詰られ傷つけられるんじゃないか、痛い思いをさせられるんじゃないかって、そう思ってたから。
でも、今俺はちゃんと桐渓さんと目を合わせている。震えることなく名前も呼べる。……全く怖くないとまではいかないけれど、予想していたよりは怖くない。
むしろ、目を合わせず青ざめている桐渓さんに笑みを浮かべて静かに穏やかな口調で話す岬先生のほうが、怖いと思った。そんな岬先生を見ていたくないとも思った。このままだといけない気がして、桐渓さんを呼んだ。
「勝手なことをして、ごめんなさい。」
頭を下げて謝る。
悪いことはしたつもりはなくとも桐渓さんの忠告を無視して目立つことをしたのは本当のことだ。一回ちゃんと謝らないといけない、それは俺が悪いことしていなくとも迷惑をかけてしまった人に出来る誠意だとおもう。……ほんとうに、悪いとは思っていないのに謝るのは不誠実な気もするけれど……。
それでも、謝りたいという気持ちはあった。
「謝るぐらいならすんなって話やなぁ……。そうすれば、わざわざ電話をかけんで済んだのになぁ。そういえばお前昨日の電話出てないやん。いや昨日どころか、あれからずっとやん。」
頭を下げて謝る俺に吐き捨てるようにそう言う桐渓さん。顔を上げればじとりと俺を睨んでいる。
……確かにな。桐渓さんの言うことに、納得はする。
勝手なことをすれば怒られるのを分かっていないわけじゃない。忠告も受けた。俺のことを憎んでいて嫌々俺の保護者のような立場にいることになって、そのうえ目立つようなことをされれば苛立つなんて分かっていた。
俺は分かってた。知っていた、また何か言われて手を出される可能性も俺は身を以って知ってる。また俺は痛くて辛い思いをするかもしれない、と言うことも。
だけど、友だちが苦しそうなのを見捨てて、自分の身だけを守ろうとするよりも断然良い。
俺は自分がどんな目に合ったとしても『友だち』を大事にしたい。嫌なものは嫌でも、耐えられなくはない。友だちを放っておくなんて、俺は耐えられそうにないから。
……だから本当は……今すぐにでも伊藤に会いたい。この話し合いを終わらせたい。
ほら、すでに俺は後悔してる。伊藤を追いかけずこうして話し合うことを取ったことを。
どうして足を動かせなかったんだろう。
どうしてすぐ追いかけられなかったんだろう。
どうして、すぐに自分が傷つくのを恐れてしまうんだろうって。
「……ごめんなさい。」
桐渓さんの言葉に謝罪を繰り返す。
反省していない謝罪はどうも軽い気がする、心がここにいないからって言うのもあるんだろうけれど。
でも、桐渓さんは俺のことを見てないからそれに気付かない。視線は俺に向けているけど、俺のことは見てない。桐渓さんよりも知り合って日が浅い岬先生が俺に首を傾げているのに。
「謝れば済むって思うてんなぁ。すーぐそうやもんな。謝ることしかできないヤツやもんな。頭ええのに。勉強のことはすぐ入る脳持ってるのになぁ。理由は、まぁた忘れたんか?
どーしてそこだけは毎度忘れてしまうんやろなぁ?自分の都合の悪いことはぜーんぶ忘れてしまうめでたい頭してるんか?ほんっと、うらやましいわ。」
「……。」
冷めて渇いた笑みを浮かべながら俺を詰る桐渓さんを見つめる。
記憶喪失のことを出されてしまうと、俺はもう何も言えない。
伊藤にすべて話して自分の罪と向き合って、両親が心の底から俺に幸せになってほしいって願っていたことを教えてくれた。
だから、俺はちゃんと『人間』として生きることを決めた。自分が思うがままに楽しむことや憤ることを自分の思ったことを発言することを、自分で許せるようになった。
すべてを知ってるはずの伊藤は俺のことを認めてくれた。もし本当に俺に罪があってもそれでも俺に生きてほしいと叫んでくれた。だから、俺は笑える、怒れる、悲しめる。
だけど……俺の罪知り、それを責める桐渓さんにどう俺は受け止めていいのか分からない。本当のことだから。
俺は勉強のことはすぐに記憶できるのに、6年経った今でもあのときのことを思い出せやしないのだ。
酷く居心地が悪い。
桐渓さんはこういえば俺が何も言えずただただ耐えているのを分かっている。だって、今の桐渓さんは……その黒い目は空虚なのに興奮しているから。
ずっと、こんな目で俺を責めていたのだろうか。
今日初めて俺を責めるときの桐渓さんの顔を見た、いつもは俯いて見れなかったその顔を見て分かってしまった。
(ああ、この人は俺のことなんて見てないんだ。)
俺越しに違うだれかを見ている。
少しでも俺は前と違うんだって思って桐渓さんの顔をちゃんと見ようと思ったけれど後悔した。……見なければよかった。
俺のこと映しているのに俺のことを見ていない。なんだ…。『俺』を見て『俺の罪』を責めているのかと思ってたのに。そのほうが良かったのかもしれない。
傷つく俺越し違う誰かを映していた、桐渓さんは遠くを見てた。俺のことを目に映しながらもその意識はまったく違うところにいる。
その誰かなんて、もう俺にはどうでもよかった。ただ失望した。俺のなかの感情はもう苦しいも悲しいも怒りもなにもない、ただただ……空しくて仕方がなかった。