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2章『結局のところすべては自分次第。』


とりあえず、この体勢のままは、と伊藤が言いづらそうにしていたから、今の自分たちの体勢を確認する。
崩れて座る伊藤のふとももに俺がまたがっていて、顔も至近距離。そんな状態であることに気が付いて慌てて離れた。
一回落ち着こうとしたのか、伊藤は「お茶とってくる!」と言ってその場を離れた。と言っても台所はかなり近いのだが、ずっと同じ空間にいるよりは落ち着ける。
深呼吸してちゃぶ台の前に座る。茶台の上には伊藤が取ってくるはずのお茶がすでにあり……なんだかまた恥ずかしくなってきた。
しばらくして、なにも持たずに戻ってきた伊藤に、俺はもうなにも言えなかった。
伊藤は俺の前に座る。
コップにお茶を注いで二人同時に一口飲んだ。ふぅ、と溜息をひとつ吐いて、伊藤が話し始めた。

「……さっきの。鷲尾が言っていたことなんだけどな。」

鷲尾の言っていた……その言葉に今日の記憶が脳内で再生される。
英語の授業が始まる前にあったやりとり、そこで俺のことで怒ってくれようとした伊藤に鷲尾が言っていたことを。
『先輩や先生を殴った』と、鷲尾は確かにそう言っていた。
伊藤は気まずそうに、だけど俺から目を離さずハッキリと言った。

「俺にとって正直、あんま話したくないことだった。とくに……透には、知られたくないって、そう思った。」
だから言えなかったんだ。

懺悔するように、後悔しているように伊藤は告げる。俺は何も反応を示さず、ただ伊藤の顔をじっと見た。

「……でも。透は俺に話したくないことを言ってくれた。記憶喪失のことを、その理由を。……今の透からすれば出会ってまだすぐだったのに、俺に話してくれたよな。」
「……俺のことを大事にしようとして、心配してくれる人に、隠したくないと思ったから。」

今の俺、の言葉に少しだけどうしてかつきりと胸の中をつままれたように痛んだ。
『記憶』があったときの俺と分けている意図は伊藤にはきっとないけれど、少しだけ、痛んだ胸を無視してあのとき思っていたことを告げた。
初めて会ったとき俺は伊藤の悲しそうな声で「俺のこと忘れたか?」と問われてただ俺は謝るしかできなかった。思い出せない思い出そうともしない自分を俺は憎んでいた。
でも、伊藤は憎まなかった。悲し気にしながらも穏やかに笑って俺のことを『一ノ瀬透』だと受け入れてくれた。
そのうえで俺のことを親友って言ってくれた。俺のとなりで陰り無く笑ってくれて、大事にしてくれて心配してくれた。泣いていいって、言って抱きしめてくれた。
俺は沢山伊藤に貰ってる。暖かくて優しくて哀しいのを、たくさん。
だから、俺は俺の知っている限りを話した。……確かに今の俺からすると出会ってすぐの伊藤に、自分のなかの悲しみをすべて話すなんて。でも仕方ない。あれだけ何の陰り無く俺といることを望んでくれたのが初めてだったから。

伊藤に貰ったものの少しでも俺は返したい。
俺のことを受け入れてくれた伊藤のように、俺も伊藤のことを受け入れたい。どんなものが敵になっても、俺は味方でありたい。

「透が、俺に全部話してくれたからって訳じゃねえけど。本当はまだ話すのは辞めようとも思ってたけど……もう、さっき鷲尾が話しちまったし。
この際良い機会だから話しちまおう、て。」
「……そうか。」
「たぶん、こうでもしねえと言い出せなかっただろうな。まぁ……かと言って鷲尾に礼を言いたい気持ちにはならねえけどな。」

ポジティブに考えることにした伊藤だが、やはり話したくないことを無理矢理引き出されたのは苛立っているようで、暴露されたときのことを思い出してしまったのか険しい表情になる。苛立っているようにも見える。
鷲尾は俺のことを謝罪してくれたけど、さっきも言った通り伊藤に謝罪するのとはまた違う問題だ。俺が許したからと言って伊藤も許せなんて言えない。だが、一言。決して鷲尾を庇うわけではなくただの事実だけど。

「……伊藤。実はな、俺なんで学校中にそんなに怖がられているのか、気になってクラスメイトに聞いたことがある。」

あまりに見られて、伊藤を見る目が怯えているようだったから気になってしまいクラスメイトに聞こうとしたことを正直に話すことにした。
俺も伊藤の知られたくないことを暴こうとした。未遂ではあるが。

「……まじか。」
「ああ。でも、寸前のところで湖越に止められた。それは本人に聞いた方が良いって。でも伊藤は悪くないことだけは教えてくれた。」

そう教えてくれた湖越は何故か複雑な表情をしていたことを思い出した。あの表情の意味、今も分からないな。

「……本当は、伊藤にも聞こうとしてた。」
「……そう、だったのか。」
「ああ、呼んでおいて変に沈黙していたときとか…。そんなとき、伊藤に聞くか聞かないか迷ってた。結局伊藤が言いたくないことだから、よっぽどのことがあったんだろうって。それなら待った方がいいのかと思って辞めたけれど……。」
「そういう、ことだったのか。」

伊藤が俺の変な行動に心当たりがあったようで納得する。納得されるのも、少しだけ複雑だけど仕方ない。言われてすぐ納得するほど記憶に残るほどの不審な行動をとっていたと言うことだ。
実際のところは俺はどのぐらい伊藤に踏み込んでいいのか分からなくて。親友はどこまでいていいのだろうかと悩んでいたときでもあったから。
友だちとか、まだよくわかってなかったから。でも今は、少しだけ違うかな。鷲尾に話した通り滅茶苦茶な理論になったけど、それでもいいかなって思う。

「……たぶん、透に直に聞かれても俺は話せなかったと思う。あ、いや。透を信じていない訳じゃねえだけど……、俺のしたこと知られて、離れられるのが、怖かったんだ。」

今度は俯かれてしまう。
机に置かれている手が少しだけ震えているのが見えてしまった。その太い血管の浮いているゴツゴツした手に自分の貧相な生白い手を重ねた。

「離れないよ。伊藤が理由もなく殴ったりしないって、そう思ってるから。
伊藤が俺のこと信じてくれているのと同じよう、とまではいかないかもしれないけれど、今の俺は一番伊藤を信じてる。」

記憶喪失で自分を責める俺に『お前は悪くない』って何の疑いもなく言ってくれた。
たとえ、みんなが伊藤が悪いと言っても、俺も『伊藤は悪くない』てそう言いたい、叫びたい、信じたい。
両親のことも何もかもを忘れてしまった俺には、頼れる大人も一緒にいる友だちもいなくて唯一九十九さんがいてくれたけれど、信じているとはまた違う。
少しでも、俺の気持ちが伝わるように重ねた手に力を入れた。
伊藤はずっと俺を待っててくれた。今の俺は、まだ伊藤との付き合いはまだ2ヶ月も経ってないから伊藤と同じ『信じている』と違うかもしれないつり合いがとれてるとも思わないけど、今の俺は伊藤のことを一番信じてるから。

「……はは、自惚れるぞ?透の中で俺が一番なんだって教室で叫ぶかもな。」
「いいよ。伊藤がそうしたいなら。」
「辞めとくわ。」

伊藤が笑うから俺もつられて笑う。
やっぱり。伊藤は笑顔が一番似合う。
もっと笑ってほしい。そう心から思った。
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