【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」


「――……斜堂さんの浮気者!!」

 そう叫ぶ声とともに、うんと張り詰めた風船に針を突き立て割った時のような音が耳を刺し、一瞬で目覚めては何事かとそのまま照明のスイッチに飛びつく。

 ちかっ、ちかと僅かな音を立てながら一瞬で灯りが満ちた六畳一間、そこに立っていたのは――蛍光灯の光を艶とする、綺麗に切り揃えた黒髪。「――……は、」

「墓乃上、さん……?」

 斜堂が未練とともに抱える思い出の中の姿となにも変わらない、唐紅の着物を着た彼女が俯きながらすすり泣いている。

 これは夢だろうか? 夢……もしそうだとしたら、自分は夢の中ですらこんな子を泣かせているのだろうか?

 自分が一言呼びかけた声に応じ、彼女は顔を上げては斜堂を射抜くようにその指を向けてくる。

「ちょっと私が眠ってる間に……よくもまぁあんな怪異くっ憑けて! どこであんな悪霊拾ってきたんですカ! このっ……この幽霊たらし!」

 そう叫び、赤くなった目元からぼろぼろと大粒の涙を流しては布団の上に座り込んで泣き伏せる。

 斜堂さんの馬鹿、馬鹿、幽霊たらし、と泣き声の合間に自身を責めるその言葉に、突然姿を見せた墓乃上に、斜堂の混乱する頭はまず、否定を選んだ。

「う、浮気だなんて……そんなこと、私してませんが……」

「嘘です! じゃなかったらあんな怪異、深く取り憑くはずないですもん! 私が消そうとしたら、すっごく抵抗して……怪異の奴、斜堂さんのことすっごく気に入ってましたもん!」

 そーしそうあいなんだ!

 そういって火が付いたように泣く彼女が言う「怪異」という言葉に、ようやく斜堂はひとつ心当たりがあることを思い出した。

――現世への未練や執着が強い悪霊は、人間からの恐怖や信仰、同情とか共感を得ると、「怪異」というものに変異することがあるんです。

 怪異というものは自我がなくなった分、悪霊よりも一層人間への影響が強くなり、最悪、怪我や病を引き寄せることに繋がります。

 素人がする幽霊への安易な同情は危ないことでもあるんですヨ。
 斜堂さんは幽霊を引き寄せやすい体質なんですから、まずは幽霊そのものを避けることを意識してくださいネ。

 ……そうだ、前に彼女がそう注意してくれた。

――「全てが色褪せました。さようなら」

 自殺配信とともに電車に飛び込み、死んだ者の最期の言葉――それを聞いたあの時、自分はその言葉を残した心情になによりも共感してしまったのだ。

 もしそれが原因だとすれば、足首の捻挫から始まった不運の連続に説明がつくが――「そう言われましても……」

「……私を置いて消えたのは墓乃上さんですよ? 知らず知らずの内とはいえ……私が他の幽霊に好かれようが、関係ないじゃないですか」

 我ながらやや意地の悪い返しだと思う。
 浮気なんていう身に覚えのない罪を非難してくる彼女に寄り添うよう座り、そう問うてみる。

「……私とはもう一緒にいられない、と言ったのは墓乃上さんですよ?」

「だって、だって、それは……」

「……私がかつての先生に似ているから、ですか?」

「…………ええ、」

 さっきまでの怒りの威勢は嘘だったかのように沈み、戸惑い揺れる瞳が下を向き、彼女はひとつ頷く。

「……名もお姿も、声も……その全てが同じだろうが、斜堂さんとせんせーは違います。……分かってるんです、分かってるんですヨ。でも……どうしても重ねて見てしまう自分が許せません。だから……」

「……墓乃上さんの考え、分かりました。……けどそれよりも私は、なんの別れも言わせてくれないまま勝手にいなくなってしまったことのほうが悲しいです」

「……すみません」

 自由奔放、無邪気、気まま、マイペースな気まぐれ屋……普段はそんな印象が強い子に見えるが、中身は義理を通した真面目な子なのだ。
 その性格と信条から成る責任感を利用され死んだ幼い身なのに、彼女はその性格を折ることを選ばなかった。

 かつて叶わなかった恋を思い出した今、いくらだって泣いて縋って、もう二度と戻らない青春の中で追った恩師の面影を見つめたっていいじゃないか。
 なのにこの子は――「墓乃上さん、」

「別に私は構わないんですよ。……私は大した人間でもないですし、私の自我なんていくらでも上塗りしてもらって構いません」

 あなたが私じゃない誰かを、私に重ねて見ていてもいいんです。
 
――そう笑いかけた刹那だった。

「――ふざけるな!!」

 怒気に染まった一喝とともに、強い風が顔の前を掠め通る――それは墓乃上から斜堂に対する平手打ちが、墓乃上の霊体がすり抜けた風だった。

 幽霊は人間へ触ることができない。
 それを誰よりも知っているはずの墓乃上が、逆上に任せ強く振ったその手に斜堂は言葉を失う。

 実際に触れることはできないが、それでも胸ぐらを掴みかからんとする勢いで墓乃上は声を荒げ詰め寄る。

「この墓乃上が恩義も忘れてそんな冒涜、するとでも思ってるんです!?」

「え、いや、その……」

「前々からそうだ! そうやっていっつもご自分を大切にしない! ないがしろにして……! 私は斜堂さんが好きなんです!」

 私みたいな幽霊に付き合ってくれるお人好しで、毎日一緒にいて楽しくて……いつだって優しい斜堂さんが好きなんです!

 今の私は、今目の前にいる斜堂さんが好きなんです!

 好きだからこそ、大好きだからこそ、せんせーの面影を重ねちゃいけないって思って避けたのに……ふざけないでください!

「本当はいつだってあんたに取り憑きたいぐらい大好きですヨ! なのになんで……なんでそうやっていつもご自分を大事にしないんです? 大好きだって思って消えたこっちが馬鹿みたいじゃないですカ!」

 消えないでくれと縋った斜堂の制止を無情に切り捨てた彼女が、内心抱えていた本音、恋情を怒りとともにぶつける。
 こんなにも激高する彼女の姿を、斜堂は今初めて目の前にした。
 しかしその言葉に言い返したい。否、こちらも言わねばならぬことがある。

「……それはお互い様でしょう? 自分は幽霊だから、私に似た誰かが昔好きだったから、って勝手に諦めて消えるなんて無責任じゃないですか? こっちの気も知らないで……私はそんなことで墓乃上さんのこと、嫌いになったりしないのに……もっとご自分の気持ちに素直になったらどうです?」

「う……」

 痛いところを突かれたと言葉が詰まる。
 いつだってそうだ。この人は知らないことを、忘れたことを、いつだってこうやって分かりやすく言い聞かせてくれる。

 自身をひとりの人間として扱ってくれるその情、優しさへ、無遠慮に手を伸ばすことをなけなしの理性が止める。

 この人にはこの人の人生がある。生活がある。
 もうなにひとつ鼓動が進まぬ自分とは違い、日々流れる時間に生きる人間なのだ。
 思い返せばもう十分に甘えすぎていた。
 情を入れ込みすぎてしまった。
 あなたが優しくしてくれたから自分はここにいていい、って勘違いしちゃったじゃないか、なんて責めることなど一切できない。
 全ては危機感が足りぬ油断から生まれた馬鹿な死と、それを都合よく忘れた孤独に血迷った自分が甘えすぎてしまったことが悪いのだ。

 この人と一緒に過ごしたその時だけ、自分は生きているんだと勘違いしてしまうほどに。

「私は……私はもうこれ以上、斜堂さんの人生の邪魔になりたくありません」

「邪魔……」

 まだそう言いますか、と呆れたため息に合わせ、斜堂は立ち上がり本棚へ寄る。
 棚の上に置いたファイルケースと、その隣にある小物を詰めた箱――墓乃上が気ままに使っていたスケッチブックやクレヨン、随分と気に入っていた笛や、ビニールポーチにまとめたシャボン玉セットを彼女の前に差し出す。
 それを前に墓乃上は不服だと眉を寄せる。

「まだこんなに……私の私物は処分してくださいと言ったはずじゃ……」

「私がお供えしたものです。……私がどうしようが勝手じゃないですか」

「…………」

「邪魔だと思ってたらさっさと捨ててますよ」

 なにひとつ減ってない私物。ひとつひとつ並べられたそれら全てに残った思い出。己の居場所はまだここにあると鮮やかな色を持つそれが涙でぼやけ、手荒に目元を拭う。

 そしてふと前を見ると、同じく彼からもらったハンカチが置かれていた。

「……幽霊だとか、人間だとか、今さら気にしなくてもいいじゃないですか」

「……でも、」

「私は今、ここにいる墓乃上さんが好きです。……一緒に美味しいもの食べて、本を読んで……お互い嫌なことがあったら、一緒になって現実逃避する……そうやって一緒に過ごしてきたあなたが好きです」

「……やめてください。そんな……そんなこと言われたら……本気で取り憑きたくなっちゃいます」

 ハンカチを手に取り、その柔らかな生地に涙を吸わせる。ふわりと優しい洗剤の香りがするそれに泣いていると、目の前にそっと差し出されたものは――決別の覚悟と未練とともに返したはずの扇子。

 閉じたその一本の扇子。どんなお供え物よりも欲しくて、嬉しくて、いつの間にか密かに胸が高鳴るようになった彼の笑みがひとつ頷く。

「――……どうぞ、墓乃上さんのお好きなように」

「……後悔、しませんカ?」

「後悔……いえ、また勝手にいなくなられるほうが嫌ですよ」

 影と夜――切っても切れない黒。月の元で溶け合う黒。

 身体と命を亡くし、夜の如くなにものにも囚われない幽霊は、いつだって傍に寄り添い着く影と出会い、とうに失せたはずの感情に命が吹き込まれる。

――死んだ時間が動き出す革命。

 いつか読んだ本にあったパンドラの箱というものは、開けてしまったせいで病苦、悲哀、嫉妬、猜疑……ありとあらゆる絶望が溢れてしまったらしい。

 墓乃上が鍵を差したそれは、後悔と恨み、未練と血、毒によって断たれた夢、初恋の無残な死骸と、綺麗に着飾られた己の死体が詰まっていた。

 そんな血塗られた箱の片隅にあった希望……それは、遥か彼方に置き去りにした悪夢を取り戻し、その重さを一緒に支えてくれる愛すべき影――彼の存在そのもののことだろう。

 もう二度と手放したくない。
 もう亡き命が、彼の隣で生きたいと心から叫ぶ。

「取り憑いたからって……今と大してなんにも変わりません。斜堂さんは私に触れませんし……私からも、触れることができません」

「……そうですか。でも私は今までと変わらず、一緒にいることができれば……なにも変わらなくていいんです」

「……後悔は、」

「しません」

「私のこと……」

「好きですよ」

 それ以外になにか必要ですか、と傾げ問われる。

――人間の死というものは二度ある
 
 ひとつは肉体的な死。
 病、事故、寿命により、息の根が止まったその瞬間。

 もうひとつは存在の死。
 自分という存在がこの世にいた、ということを知る者が誰ひとりいなくなったその世界に訪れる死。

 未来永劫覆らぬ死を過ごす中、たったひとりの理解者に出会えたこの世界のなんと明るいものか!

 その問いに首を横に振り、ハンカチで涙を拭ってはひとつ頷いた。「――……斜堂さん、」

「私のこと……生き返らせてくれて、本当にありがとうございます」

 差し出された扇子に手を掛ける。
 ふたり同時に触れたそれに流れた感覚――それは夜を繋いだ赤い糸に流れたものと同じ、墓乃上の熱い情を乗せた霊感だった。



「――いつ見ても墓乃上さんが手裏剣を投げる姿勢は綺麗ですね」

 蝉が命を燃やしながら絶叫する夏。日差しに眩む視線を上げれば、的の中心に集まるよう手裏剣がいくつか突き刺さっていた。

 的から視線を移しては自身の身体を見下ろすと、桃色が可愛らしいくノ一教室の生徒が着る装束を纏っている。
 後ろから呼ばれた声に振り向けば、日差しを嫌うよう出席簿を頭に翳しながら笑う教師――一年ろ組の教科担当、命があった頃に誰よりも心酔した教師、斜堂がそこにいる。

「夏休みが明けたら、まずは実技の補習からしようと考えてまして……今度私の、一年ろ組の良い子の皆さんに教えてあげてください」

 ああ、繰り返し見ては捨ててきた夢の中で、何度この台詞を聞いたのだろう――木陰に寄り、その根本で膝を抱えるよう座ると、いつだって寄り添ってくれていた彼も隣に座ってくれる。

「墓乃上さんが教えてくれるなら、きっとあの子達も喜びますよ」

「……本当に……本当にそうしてあげたかった」

 今まで見てきた夢の中の自分はその言葉になによりも喜び、この自分に任せてほしいと胸を張っていた。

 二度と帰り見ることができなかったその姿は、不思議そうに自分を見つめたまま動かない。

 これは自身の記憶を継ぐ夢の中に残った情景だ。
 その記憶に対し、死後五百年経った墓乃上が口にする言葉へ、新しくなにか反応が返ってくるわけがない。

「……私はなにも果たせていません。……補習の約束も、立派なくノ一になることも、生まれの墓場の再建も……なにもかも」

 正直、恨みばかりです。
 もうどうしようもないというのに……思い出した記憶には、恨みと後悔ばかりが染み付いています。

 ……それでも私は、自我を失くす怪異にはならなかった。……いや、なれなかったんでしょう。

 私はせんせーと初めてお会いした時……せんせーのこと、なんて優しい幽霊なんだと勘違いしましたねェ……懐かしいもんです。

 でもせんせーは普通に生きている人間でしたし……こんな自分のことも、ちゃんと生徒として、人間として扱ってくれるお方でしたネ。

 ……せんせーから頂いたその優しさが、死してなお自分は人間なのだ、と思わせてくれたから怪異にならなかった、と……都合よく思ってもいいですよネ?

 死んでごめんなさい、斜堂せんせー……帰れなくてごめんなさい。

 ……もしかしたらあの後、せんせー方やろ組の子達に色々とご迷惑やご心配をかけてしまったかもしれません。

 もう二度と会えぬこの夏の夢を捨てきれなかったのは、今こうやって……せめてもの気持ちを伝えたかったからかもしれませんネ。

 ……斜堂せんせー、私を人間として……生徒として、色々見守ってくださり、本当にありがとうございました。

 あなたから教わった教えを抱いて……私、もう一度生きてみようと思います。

 墓場育ちで霊媒師、おまけに南蛮訛り、……こんな変な生徒に付き合ってくれたせんせーみたいに、悪霊を居候にしてくれる変わった人間に出会えたんですヨ。

「――だから……さようなら、斜堂せんせー」

 もう戻らなくちゃ、と立ち上がり、記憶の中には存在しない独白に変わらず不思議そうな顔をしていた彼を見下ろす。

 すると彼はひとつ笑って一言だけ返した。

「……ええ、また明日」

 その言葉に今度は墓乃上が少し驚くが、そうか、そういえば、と思い出す。この反応は記憶の中にちゃんとある。

 ああ、そうだ。いつだってこの人は、私がさようならと手を振れば、いつもこうやって優しく明日があることを教えてくれていた。

「……さようなら、」

 彼との明日は永遠に来ない。
 夢の中で何度も繰り返される人生も、それは明日に向かって進んでいるわけではない。

 彼に褒められることがなによりも嬉しくて、手裏剣を好んで扱っていた右腕を肩まで上げ――墓乃上はひとつ、ぱちんと指を鳴らした。

 ……今の自分には待ってくれている人がいる。

 その人の元へ戻るべく鳴らしたその合図に合わせ、墓乃上は住み慣れた押入れの中で一晩眠っていた意識を起こす。

 内側から襖を開けると、照明の灯りとともに愛しき同居人――斜堂が気づき、振り向いてくれた。「――……墓乃上さん、」

「おはようございます。……もう、いいんですか?」

「……ええ、もう十分です。今の私から伝えたいことは、全てお話できたかと……」

 過去の記憶を取り戻した今なら、夢の中でも自我の意識で動ける明晰夢とやらが見れるのではないか、と墓乃上が言い出したのは、斜堂自身に取り憑くことを選んだその晩のことだった。
 それが今の自分にできる、「せんせー」に対する唯一の謝罪と決別である、と語った彼女は明晰夢を見るべく、斜堂へ一晩押入れへ籠もらせてほしいと頼んだ。

 当然断る理由なんぞない。
 元の住人を仕舞った押入れの閉じた襖を見ながら、墓乃上が自身の元へ戻ってきてくれたことを実感し、嬉しさで思わず滲む目元を拭った。

 そうして一晩と、斜堂が学校に行っていた昼間が、バイトに行っていた夕方が過ぎ、時計が夜を再び踏んだその時、押入れの住人はようやく目覚める。

「……五百年前に言いたかったなぁ」

 押入れから這い出、着物の裾を整えながら溢れた一言に込められた無念と後悔――「……でも、」

「千年後に言うよりいいじゃないかな、って……」

 慰めになっているようで、なっていないような、曖昧な言葉を口にするのが精一杯だった斜堂へ、墓乃上はたしかに、とその八重歯を見せて笑った。

「もしかしたら千年後の世には斜堂さん、いないかもしれませんしねェ……そう考えると、死んで五百年経ったというもの悪くない気がしますが……ん? 斜堂さん、それ、なんですカ?」

 墓乃上が指差したのは、斜堂が普段背負っているリュックに水筒と金平糖が入った袋を入れている丁度だった。

「なにって……墓乃上さん、金平糖お好きでしょう?」

「え、ええ……」

「今の墓乃上さんは私に取り憑いているから、私と一緒ならもうこの部屋の外にも出ることができる、と……たしかそうでしたよね?」

 好きなお菓子とお茶を持って……深夜のお出かけ、一緒にしてみませんか?

 そういって誘ってくれる同居人へ、もし生きる身体が墓乃上にあれば、うんと力と感謝を込めて抱きついていたかもしれない。

 しかし墓乃上は身体を持たぬ幽霊だ。
 それでも溢れんばかりの感謝と喜びを伝えたく、なによりも明るく元気な返事で誘いに乗った。



「――この時代の夜は明るいんですねェ」

 時計の針が天を少し過ぎ回った丑三つ時。
 草木も眠る、とはよく言ったもので、アパートからほんの十分程度歩いた道中も、辿り着いた小さな公園にも、人の気配というものが全く存在しなかった。

 六畳一間という箱の中の、さらに押入れの中という狭い箱を住処としていた幽霊は、取り憑いた同居人の傍で夜の元を浮かびながら驚いたように呟く。

「月も満ちているようですが……こんなに灯りが並んでいるなんて」

 昼間は近所の子供やらで賑わっているであろうこの公園も、今はただただ静かな夜に溶け込むようにあるだけで、斜堂はその隅にあったベンチへ腰掛け、背負っていたリュックを下ろす。
 等間隔で並んだ街灯を見上げながら目を丸くする彼女も照らされてはいるが、その元にあるべき影は存在しない。
 それは彼女が幽霊であると示すものなのだが、斜堂からすれば今更そんな些細なことなどどうでもいいのだ。「墓乃上さん、」

「お茶にしましょう」

 そう一言呼びかけると、風に流される風船の如く、無重力に泳ぐ宇宙飛行士の如く、彼女の小さい身体が音もなく寄っては斜堂の隣に腰掛けた。

 リュックから出した彼女お気に入りの金平糖が入った袋を渡してやると、その白い手はまるで貴重な宝石に触れるよう、大事そうに金平糖を一粒摘んでは街灯の明るさに交じる満月へ翳しながら「きれい、」と呟く。

「……私が最後に見た現世は、とても酷いものでした。まさに火の海というやつで……焼け落ちた瓦礫の中に焦げた人がいて、生きている人たちもみんなどこかへ逃げるのに必死で……とてもじゃありませんが、平和とは呼べぬ時勢でした」

 翳した金平糖を口にし、静かに語るは死後にようやく見れた惨状のことだった。

 桐箱ひとつ。
 そこに入れるは、紅き着物の巫女ひとつ。
 ひとつ地に埋め奉れ。
 地にその加護を以て栄ん。
 祠を立てよ。物を供えろ。
 第二次の戦火にて消失、詳細不明――桐箱伝説という名で書き残されたこの言い伝えが事実なら、彼女が見た戦火によって壊された祠から、紅き着物の巫女――墓乃上という霊体が目覚めたとも考えられる。

 無念の死から目覚めた子供が見るには耐えられないものだろう。自身の精神を守るために忘却する、ということを無意識の内に選んだ彼女は、全てを思い出した今の心情をぽつりぽつりと語っていく。

「……夜がこんなに明るくて、静かだなんて……随分と世は穏やかに変わったんですネ。私はなにひとつ変わらないのに……知らぬ間に置いていかれて、押入れにいながらでも、なんというか、それは薄々感じていて……、少し、寂しかったです」

「……今はいかがですか?」

「今?」

 思わず訊いてしまった斜堂の言葉に、いつの間にか俯いていた顔を上げ彼を見る。
 もう二度と見たくない戦火の話も、押入れの中で勝手に独りで感じていた孤独と焦燥感も、全て彼には関係ない話だというのに、誰よりも墓乃上の話を聞いてくれる斜堂は不安そうな顔で訊いてくる。

 ああ、まったく……本当にお人好しにもほどがある。

「今は……ふふ、そんなことどうでもよくなるぐらい楽しいですヨ。斜堂さんが作るご飯を頂いて、斜堂さんから勧められた本を読んで、斜堂さんとこうやってたくさんお話をして……そうして一日があっという間に終わるんでしょう。寂しさの欠片も感じている暇なんかないほどに。……それにですネ、斜堂さん」

 淡く色づく金平糖が入った袋を持ち、彼女は笑みに目を細めそれを見つめる。「――この金平糖とか、カステラとか……」

「これらって、私が生きていた世から続いて変わらぬお菓子だと聞いていますけど……斜堂さんからそれを教えてもらって、私、とっても嬉しかったんですヨ」

 変わらないものもある。
 変わらなくていいものもある。

 斜堂から貰った菓子が、なにひとつ変われぬ自分を肯定してくれているように思えたのだ。

「……そうですか。少しでも墓乃上さんの助けになれてたなら嬉しいです」

「ええ、だから次は私の番です」

 ベンチから立ち、斜堂の前に立っては堂々と胸を張る。
 死したその時には見ることができなかった満月と、永い年月眠るいつの間にかに並んだ街灯の輝きの中で彼女はまず、霊媒師として説明を始めた。

「今こうやって私があの部屋の外から出ていられるのは……斜堂さん、あなた自身に私が取り憑いたからです。あの長屋からいくら離れようが、斜堂さんが行く所に私も一緒に付き添えるようになったんですヨ。……しかし、」

「しかし?」

「今までと変わらないことは……まず、お互い触れることができません。できても、今までのようになにかを同時に触って霊感を共有する、ぐらいが精一杯です。それに私には思考を覗き読む『悟り』の才はありませんので、今まで通り普通に会話しないと……」

「なるほど……じゃあ外で墓乃上さんとお話しようとしたら……」

「他人から見れば、斜堂さんが独り言言っているようにしか見えないですねェ」

 申し訳ない、とひとつ頭を下げた彼女が顔を上げ、それでも、と言葉を続ける。

「――……それでも私は、今まで斜堂さんからたくさんの恩と優しさを頂いて……今の私だからこそできる、斜堂さんの支えになれることがなにかあるんじゃないか、と思ってるんです」

 あなたが思い出させてくれた命を、感情を、あなたのために使って生きたい。

 運命なんて綺麗な名前ではないかもしれない。

 果たせなかった使命と約束、別れのひとつも言えなかった恩師の名も姿も同じ彼に出会ったことは、皮肉な呪い、因果……そう捉えることもできよう。

 しかしそれを蹴飛ばして振り切ってでも、今目の前にいる同居人のために尽くして生きたいのだとなによりも強く思う。

「支え……そうですね、それじゃあひとつ、聞いてほしいことがありまして……」

 彼は背負ってきたリュックから水筒を取り出すと、蓋を兼ねたカップに茶を注ぎ、墓乃上へ隣に座るよう呼んだ。
 「お供え」してあるそれを彼女へ渡すも、彼女の大きな瞳は斜堂から外れない。
 いつだって真っ直ぐと前向きなその瞳には、自分にはない強さがある。意地がある。

 今まではただただ漠然とした考えで、それでいて心のどこかで自分には無理だろう、と勝手に諦めていた将来も、この子と共に進むなら怖くないように思えるのだ。

「この現代では、だいたい大学を卒業したら就職……お仕事を決めて働きに出るのが一般的でして、私も今の学校を卒業したらそうしようと思ってます」

「ん……? 今も寺子屋で勉強を教えてるお仕事しているんじゃ……」

「えっと……今のお仕事はお手伝い、って感じですかね……学校に行きながら、空いた時間でお手伝いをする……これはアルバイト、と言います」

「なるほど……?」

「学校を卒業したら、今度は一日中お仕事をするんです。そのお仕事を選ばなきゃいけないんですが……それにずっと悩んでいたんです。でも最近、墓乃上さんと一緒に過ごしてきて……ちょっとだけやりたいことが見えてきた気がするんです」

「なんと……! なんのお仕事です?」

 カップに口をつけ、茶をすすってた墓乃上の明るい声が続きを急かしてくる。

「私は本が好きですし、出版社……まぁ、本を作るお手伝いができる会社か……学校の先生になろうか悩んでいたんです」

「せんせー?」

 その言葉に今度は驚きでその目が丸くなる。
 そうして同じく、彼女が驚いた時の口癖、「なんと……!」という言葉も再度返ってくる。

「私の祖母はお裁縫教室を開いている先生、母は看護学校……病気や怪我をした人の面倒を見る人を育てる学校の先生でして……私は幼かったので全く知りませんでしたが、亡き父も建築設計の先生だったらしいです」

「けんちくせっけい?」

「家を建てたりする時に必要な、設計図を書く人です」

「なるほど……ではご家族がそれぞれなにかしらのせんせーだったと」

「ええ、なので私もなにかの先生になろうか……なんてぼんやり考えていたんですか、先生になるのも色々大変だそうで……なかなか勇気が出なかったんです」

 人目を過剰に気にし、被害妄想の色も滲む神経質な性格に今まで難儀してきたが、緩やかに吹く風のみが流れるこの公園は不思議と落ち着くものだ。
 他人から見れば弱気で臆病な語りかもしれない。
 それでも隣にいる同居人は、なによりも真剣な表情で批難もからかいもひとつ無く聞いてくれる。

 それすらも斜堂にとってはなによりも嬉しい支えなのだ。

「でも墓乃上さんが一生懸命勉強して、現代の価値観や、文字や単位とか……色々知ろうと頑張っている姿を見て、こういう子供たちのお手伝いをずっとしてあげたい、って心から思えたんです」

 ……墓乃上さんが知っている「先生」みたいにうまくできるか分かりませんが、と続けた言葉を打ち消すよう「違う!」と否定が飛んでくる。

「それは違いますヨ、斜堂さん! 『斜堂せんせー』は『斜堂せんせー』であって……私は、『今ここにいる斜堂さんがなりたいせんせー』になるために応援したいんです! だから……だからそんなこと言わないでください。私は斜堂さんのこと、誰よりも見守ってあげたいんですから」

「……ありがとうございます、墓乃上さん。すみません、つい……」

「まったくもう……だいたい『斜堂せんせー』もうまくお仕事されていたわけじゃ……いや、先生方はもちろんみんな一流の忍の方々でしたが……うーん、あの方、たまによく分かんない理由で勝手に授業止めてたりしてましたし……」

「よく分かんない理由?」

「隣の教室がうるさかったから、とか……」

「なんですか、それ……はは、ありがとうございます墓乃上さん、ちょっとだけ自信がつきました」

「ん、それならなによりです」

 なんて彼女なりの励ましがなんだか面白くて、思わず少し笑うと彼女もつられて笑い出した。
 そうして金平糖と水筒に注いだお茶だけの質素、しかし雲ひとつ被らぬ月明かりと街灯の元に開かれる幽霊と人間のお茶会は、まさにふたりだけの世界だった。

――影と夜。
 月の元で溶け合う黒、切っても切れない黒。
 
 死者と生者――この世で一番越えられぬ無情な壁を壊したこのふたりの前に、将来の不安も、過去の凄惨たる記憶も、今更なんの障害にもならない。

「――……斜堂さん、」

「はい、」

「……これからも一緒に……ふたりで色々頑張りましょうネ?」

 傾げる首に沿うようさらりと流れる綺麗に切り揃えた黒髪。
 こちらを見ては猫に似た大きな瞳が問うてくるその一言に、斜堂はひとつ、頷き返した。



 春の陽気を喜ぶ者もいれば、その暖かな日差しに居心地の悪さを感じる人間だって世の中にはいるのだ。

 しかし生憎今日の天気模様はなによりの快晴。

 体育館にずらりと整列させられた生徒たちの端、壁を背にして緊張に下を向く斜堂にとっては最悪の天気といってもいいだろう。

 せめてじとじとと雨が降ってくれていたならまだしも、明るい晴れ間に自分の居場所があるとは思えないのだ。

 思い切って短く切り整えた髪、晒された首元に走る暖かい風すら嫌に感じる。

 人前に出ることを望まぬ自分の身体が悲鳴を上げるよう、喧しく忙しなく鳴る動悸も気持ち悪い。

 ステージの上でありがたい説教を演説している校長を眺める生徒たちの視線は冷ややかなものだ。
 中学生という存在は欲に素直なもので、全員の顔に「早く帰りたい」「だるい」「うざ」と辛辣な言葉が書いてあるのだろう。

「――……えー、それでは次にですね、今年度からこの学校で授業をしてくださる新しい先生方のですね、紹介に入りますのでね、みなさんちゃんと聞いてあげてくださいね」

 マイクのハウリング混じりのこの言葉で更に動悸が加速し、情けないことに目眩すら感じてしまう。

 校長に呼ばれた新任教師たちがひとりひとりステージに上がり、マイクを持っては元気よく担当教科と自己紹介を述べていく。
 自分の目の前にいた体躯の良い教師は体育を担当するらしく、その明るい声で自己紹介どころか軽快なジョークをぽんぽん並べては生徒たちの笑いと好感度を取っている。

 そんな彼の次に呼ばれるのが自分だなんてたまったもんじゃない!

 手元に鏡がないため確認することができないが、きっと今の自分は最高に青白い顔をして情けなく狼狽えているのだろう。

 正直今すぐにでも逃げ出したいほどのこの状況の中、耳元でのんきなあくびがひとつ聞こえる。

「あらあら、斜堂さんったら……」

 鉢の中で優雅に漂う金魚の如く、ふわりと目の前に寄ってきては笑う彼女――墓乃上は、斜堂とは対象的に上機嫌な様子で扇子を揺らす。

「ふふ、そんなに緊張しちゃって……せんせーになるのはこれからでしょう?」

 近くに他人がいる状況下だ。
 言葉に出して返事をするわけにはいかないが、不自然にならない程度に頷いて応えた。

「――……えー……はい、じゃあ次はですね、国語担当の斜堂先生、どうぞー」

 ついに来てしまったその呼びかけに心臓が跳ねる。

 が、これは自分で選んだ道なのだ。今更この土壇場で狼狽えている意味などない――思わず下がる視線も、丸くなる背も、目の前に浮かんでくれる墓乃上の姿を見ている内に真っ直ぐ上がる。

「――さ、行きましょうカ」

 お気に入りの扇子をぱちんと景気よく閉じ、自信に満ちた声でステージを差し示す。

「大丈夫ですよォ、斜堂さん! だって斜堂さんには――」

 この私、墓乃上みつよが憑いているんですから!

 淡い花びらを踊らせながら吹き抜けていく春風とともに、その日、その時、なによりも愛しい同居人からのエールが斜堂の背を押した。

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