【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」


 なぁみんな、本当にこのままでいいと思ってるのか?
 このままじゃこの墓場は、だんだんただの荒れ地になって……誰もお参りになんか来てくれなくなっちゃうんだぞ?
 そんなの寂しいじゃないか!
 だから私がうんと綺麗に直して、この世で一番良い墓場にしようと思うんだ!

 ああ……でも、そんなことを成すには金と人、それを動かせる信用と実力、人脈……必要なものがあまりにも多すぎる。

――そこでだ! いつか話で聞いた、女の忍者とやらになるのもいいと思ってな!

 人間のことは好かんが、人間に混じって忍者の仕事をしながら必要な信頼や金を集めるんだ!
 そうすればきっとうまくいくはずだ!

 ……大丈夫、安心しろみんな!
 私はみんなのお陰で今こうやって生きている!
 幽霊だろうがなんだろうが関係ない!
 お前たち家族のためならいくらでも頑張って、いつか絶対成り上がってやる!

 この墓場のお嬢である私に成せんことなどないのだ!
 なぁ、そうだろう?

 ……けいご? 読み書き? 名前?

 そうか、人間に馴染むにはそういうものも必要か……なに、簡単なことよ。

 さっきも言ったろう?
 家族のために頑張る私にできんことなどなにもない、って!

「――……墓乃上さんのご家族への想い、素敵だと思います」

 ……あっ、斜堂せんせー!
 よかった、ここにいたんですネ……ふふ、この墓乃上、せんせーがいる場所ぐらいすぐ分かりますヨ!
 
 せんせー……斜堂せんせー、見てください!
 これ、この前の試験で満点取れたんですヨ!
 前回は補習になっちゃいましたが……せんせーが先日教えてくださったお陰です!

「――……墓乃上さんはとっても頑張り屋さんですね。……ええ、本当のことですよ。墓乃上さんはきっと、」

 立派なくノ一になれると信じています。

 ――……喧しい、騒がしい……いったいなんの騒ぎだ?

「――おい、そこの嬢ちゃん! そんな目立つ着物で外出るな! 死にてぇのか!」

「あの子頭巾も被ってねえで……ほら! こっち来なさい!」

「馬鹿! あんな目立つガキ連れていけるわけないだろ!」

 ……煙たい。うるさい……「……あれ?」

「……ここ、どこ……? 私……あれ? ねぇ、私のこと、見えるんですカ? ……あっ、待って、逃げないで……」

 ああ、喧しい! うるさい!
 なんだか長い夢……? にいた気がする。
 誰かと話してた途中だったのに……え?

 鳥……じゃない?
 あんな大きな鳥、いるはずが……怖い、怖い!

 ひっ、なんか燃えてる……!
 なに? 瓦礫……?
 あれは……人? 人が燃えてるの……?
 怖い、やだ、燃えたくな……あれ、熱くない……?

 ……私、もしかして死んでる……?
 ……どうしよう? なんで? あれ?

 なんで死んだんだっけ……誰か……誰か知らないかな……そうだ、えっと……せんせー!

 せんせーに聞けばきっと……せんせー、せんせー……どこ? ……せんせー?

 ……せんせーって、誰だっけ……?

 うう、頭痛い……このうるさい音、なに?
 気持ち悪い!
 なんでこんなに燃えてるの?

 こんなんじゃ落ち着いて考え事なんて……そうだ、箱……箱だ!

 静かな箱に籠もって、また寝たら……色々思い出せるかな?
 箱……少し焼けてるけど、これでいいかな……まぁ、死んでる身には十分か。

 ……落ち着け、私よ。

 私の名前は……えっと、墓乃上みつよ!
 ああ、そうだ、天下無敵の霊媒師!

 この私にできんことなどなにもないはず!
 
 眠って、起きて、……さっきみたいに誰かいれば、ちょっと話を聞いてみるのもいいかもしれない!

 うるさいし、煙たいし、……怖い。
 しょうがない、とりあえずまた少し寝てみよう。

 次起きた時はどうか、ちゃんと話せる人間が近くにいてくれたら……なにか色々思い出せるかもしれない。

「――……墓乃上さんならいつか絶対、その夢……成せると先生は信じてますよ」

 誰よりも素直で前向きに、いつだって全力で頑張れる墓乃上さんのこと……先生、教師としてなによりも誇らしいです。

 ……せんせー、なんで私、死んだの?



「――痛った……!」

 睡眠薬から成る眠りを強制的に打ち切ったのは、赤い糸を結びつけた小指――そこから流れ込んできた、電流かのように弾ける鋭い痛みだった。

 その突き刺す痛みに布団を退け体を起こす。
 一旦、糸から流れる感覚は静電気程度の刺激に落ち着いたが、問題はそんなことじゃない。

 遮光カーテンで陽を遮られた黒一色の部屋の中にあったのは、悲惨たる悪夢に汗をかき、動揺する斜堂の落ち着きのない呼吸だけだった。

 繋がる糸の先、同じ運命を、死を見たであろう墓乃上が籠もる押入れからは、なにひとつ物音が鳴らぬが――一言、呼びかけたほうがいいのかどうか、斜堂が混乱する頭で考えたその時だった。

 いつもと変わらず、立て付けの悪い襖が内側から開いた。

 その音に思わず照明のスイッチに手をかけ、部屋の中に蛍光灯の灯りが一瞬で満ちる。「――は……」

「墓乃上、さん……」

 呼びかけたつもりの声は震え、まともな声量が出ていたとは思えない。
 押入れから這い出てきた彼女の表情は、泣くでもなく、苦しむでもなく、ただただなにかを諦めたように冷めた表情でひとつ呟いた。

「……なるほど、」

 その一言になんと返せばいいか、そもそもなにから言ったほうがいいのか、なにも分からぬ斜堂とは反対に、重い沈黙を蹴飛ばしたのは墓乃上自身の笑い声だった。「――……はは、」

「これが……これが散々躍起になって探した結果かぁ……ふふ、なるほど……そりゃあ五百年も思い出さないわけだ、こんな惨めな死に方、一生忘れていたくなるもんだ! こんなもの……はっ、馬鹿馬鹿しい!」

 この上なくおかしいと笑う彼女はその白い手を見、呆れたように糸を強引に取っては床に投げ捨てる。
 その瞬間、彼女と繋がっていた斜堂の手に感じる霊感は一切失せた。

「なにが縁だ、運命だ! 気取りおって……そんなんだからあんなっ……あんな惨めったらしい死に方したんだ!」

 それをこんな……一般人巻き込んで、厄介かけて、……あはは、人に害成す立派な悪霊になれたもんだなぁ、墓乃上!

 都合よく忘れて、人間みたいに振る舞いやがって、迷惑かけて……死んで当然だよ、お前はさぁ!

 あの人の期待……教えを裏切るような真似……よくも、よくもしやがって!
 せんせーに死んで詫びろ、墓乃上!

 己の使命を、人生を断たれた霊媒師がそう気高く笑っては、ようやく見つけた己の最期に怒り、罵倒する。

 ああ、いや、もう死んでいるんだった、と自嘲する言葉に、斜堂は一言、彼女の名を呼ぶのが精一杯だった。

 しかし彼女はもう止まらない。

「こんなの……こんなの、運命なんかじゃない、呪いじゃないか! 人間気取りの悪霊か……はは、まさかこんな呪いがあろうとは……ふふふ、本当に面白いもんだ!」

 けらけらと笑うその罵倒に震えが交じり、情けない、救えない、馬鹿だ、と顔を覆って伏せては涙を流す。

「あの……墓乃上さん、その……」

 大丈夫ですか、なんて、ありきたりな心配すら口にすることを躊躇ってしまう。

 一番動揺し、ショックを受け、こうやって泣き崩れるべきなのは墓乃上本人だ。
 決して自分なんかではない、と頭では分かっていても――それでも、あの惨憺たる夢の中で墓乃上が「せんせー」と呼んだ人の姿――あれは、誰だ?

 知らぬ和装を着た男だった。
 しかしその男は自分と同じ顔で、声で教師を名乗り、同じく自分と同じ名を呼んでは無邪気に慕ってくれる墓乃上へ優しく語りかけていた。

 生き写しかのような自分がそこに、墓乃上の中に眠っていた禁忌の中で生きていたのだ!

  幽霊を家族にし、住処を墓場にし、ただそれだけで人間から迫害を受けた。だから人間が嫌いだ、と敵意に生きてきたが、己の才能を使った人助けをしてやろう、それが私の使命であると生き方を変えてくれた誰かが必ずいるはず――以前そう語った彼女は涙に溺れながら、せんせー、せんせーと繰り返し彼の名を呼びながら嘆いている。

 己の人生を変えてくれた恩師への感謝、憧れ、……きっとその中には、淡く色づく幼い恋心もあったのだろう。

 これが人のためになるなら、と霊媒師としての使命感と善意を利用された惨めな死、無情に断たれた夢と未来、別れも言えずに死すことで裏切ってしまった恩師への恋、愛別離苦――死後五百年という永い時間、墓乃上の中で閉じ込められていた忘却の記憶。
 惨たらしい血と毒に濡れたそれを思い出した彼女は強引に涙を拭い、自身を罵倒していた先程のように凛とした声で斜堂にひとつ、声をかける。

「――斜堂さん、」

 締め切った遮光カーテンの向こうには朝日が昇っているのだろう。
 無機質な蛍光灯が乱れた布団を見下ろす六畳一間の中で、情けないことにどんな慰めを言えばいいのか分からず、狼狽えてばかりの斜堂の対面に座るよう、墓乃上は背筋を伸ばして正座した。

 それに合わせるよう斜堂も座るが、墓乃上の顔にはなぜかもう笑みも、涙のひとつもなかった。

「まずは……この夜一晩、付き合って頂き……本当にありがとうございました」

 涙どころか震えひとつない冷静な様子に、なぜだろうか、嫌な胸騒ぎがしてならない。

「いえ、私はなにも……」

 かろうじて返せた無難な一言に、墓乃上は自身の着物の懐へ手を入れ――一本の扇子を出した。

 白地に猫の影絵がプリントされた扇子、斜堂が墓乃上へあげた扇子――閉じられたそれを置き、斜堂へ向け差し出す。「今まで……」

「今まで大変ご迷惑をかけ……大変お世話になりました。……こちら、お返しします」

「えっ……」

「……お手間かけますが、今まで頂いた私の私物は処分して頂ければと……」

「まっ……待ってください墓乃上さん、いきなりなに言い出すんですか」

――成仏しなくても姿を消すぐらいならできます。

 いつか私がそれを選んだ時は……私の私物を全て捨ててください。特にお焚き上げなどはいりません。

――そして、私のことは全て忘れてください。

 以前、過去の記憶がうまく思い出せない、このままここにずっと憑いていると迷惑になってしまう、と思いつめた彼女がそう言った時、こちらのことも考えずそんな無責任なこと言うもんじゃない、と叱った覚えがある。

 その時は素直に謝罪を口にしていた彼女が深々と頭を下げ、今は揺るがぬ瞳でそう口にする。

「……私はもう、斜堂さんと一緒に過ごせるべき者ではない、と分かりました。……私はあなたを殺したくない」

 こちらはなにひとつ分からぬというのに、そう俯く彼女は痛みに耐えるよう両手を握って言葉を続ける。

「斜堂さんには斜堂さんの人生、人格、生きてきた道があります。……せんせーと名も姿も同じだろうが、それら全てが同じになる、ということはありえません。……頭では分かっているんです。……でも、私は弱いから、馬鹿だから……きっと、せんせーと斜堂さんを重ねて見てしまうかもしれません。それは今ここにいる斜堂さんを殺すような蛮行、冒涜……」

 そんなこと、許されません。

 今までこの座敷に取り憑き、一緒に暮らしてきた無邪気な少女の未練を、甘えを、己の覚悟で斬り捨てんという意志を込めた声で立ち上がった霊媒師が宣言する。

 そうしてその白い右腕が、細い指でひとつぱちんと鳴らそうと上がり――まずい!
 今まで数回見てきたその動きは、墓乃上がなにかしらの霊能力を使おうとする際の動きだ。
 斜堂はなにひとつ理解が追いつかない頭で慌てて引き止めようと咄嗟に手を伸ばしたが、どんなに願おうが命亡き幽体に触れることなど叶わない。「――待って、」

「待ってください、墓乃上さん! 嫌です、そんな急に……!」

「……斜堂さん、今までありがとうございました。どうかお元気で」

 縋り揺れる感情と、精一杯の覚悟を通した真っ直ぐな視線が合ったその時。

 彼女の指がひとつ鳴らした音と共に、綺麗に切り揃えた黒髪、いつだって素直に感情を語る桜色の唇、そこから覗く猫に似た八重歯、紅き着物を纏った悪霊は、なによりも愛しき同居人は、この六畳一間という箱の中から姿を消した。



 ただいま、なんて言う必要は、二日前の朝に死んだ。

 それでも思わず口から溢れたその一言に、斜堂はまたひとつ、重たい自己嫌悪を重ねた。

 あまりにも顔色が酷い、辛いなら明日は来なくていいし、駅前にある病院は夜までやっているぞ、と上司から本気の心配をもらったバイト先から帰ってきたが、おかえりなさい、という返事が返ってくることはない。なくなった。

 灯りをつけた部屋の中は無音だ。
 古本屋で買い漁った本の山と、ひとりで暮らすには十分な小ささのちゃぶ台、それらがただただそこにあるだけだ。

 上着をかけようとハンガーを取るが、つい無意識に見てしまったのは――ぴったりと閉じたままの押入れ。その襖。

 そこが落ち着くのだと住処にしていた悪霊は、あの朝から一切姿を見せなくなった。

 その日から暫くは無駄に足掻き、押入れへ何度も彼女の名を呼び、襖を開け、また名を呼び、今まで通りに食事や彼女が好んで食べていた菓子をちゃぶ台に置いていたが、なにひとつ反応がない時間を過ごす内、悲観よりも歪んだ自己嫌悪のほうが胸の内を占める。

 純粋な善意と使命感を利用され、人形になるべくその命を理不尽に断たれた娘――なにを同情している?

 自分だって同罪じゃないか!

 思い返せば今まで散々、自分だってあの子をまるで可愛い人形のようだと愛でて、甘やかしてばかりで、人間扱いしてこなかったのは自分じゃないか!

 「同居人」なんて言葉だけで、自分はあの子に家事のひとつでもやらせたか?
 なんだかんだと理由をつけて、あの子から「同居『人』」の役目を取り上げ、ただただ愛でられていればいい、なんて扱いをしてきたのは他ならぬ自分だ!

 今までよくも平然な顔をして彼女の理解者を気取っていたのか、と思うと、手持ちの睡眠薬を上限いっぱいまで飲もうが一切眠れぬ吐き気と動悸に酔ってしまう。

 夢にも思っていなかった奇妙な同居が始まってからというもの、毎晩慎ましくも彼女と過ごしていた楽しい夕食の場も死んだ。
 元々あまり食欲はないほうだが、今はなにも口にする気にはなれない。
 が、明日も学校とバイトがあるのだ。渋々仕方なく、単なる栄養補給の意味しかない質素な夕食を口にする。

 台所に立って料理をする気にもなれない。
 バイトから帰る途中で買ったカップ蕎麦に湯を注ぎ、スマホでタイマーをセットするだけで精一杯だった。
 
――……私はあなたを殺したくない。

 ……きっと、せんせーと斜堂さんを重ねて見てしまうかもしれません。それは今ここにいる斜堂さんを殺すような蛮行、冒涜……。
 
 そんなこと、許されません。

 涙で溺れていたはずのあの大きな瞳が、愚かな死だと自嘲し震えていたはずの口元が、自分と向き合い、そう宣言した時にはもうなによりも強い意志を宿していた。

 その時の彼女の表情。それは今までこの部屋で一緒に過ごしてきた天真爛漫な少女ではなく、人として、己の死と立場を悟った孤高の霊媒師のものだった。

 ……その言葉が、強い瞳が忘れられない。

 置いてけぼりにされた感情と、今までこの部屋で過ごしてきた思い出を錆びた鉤爪が引っ掻き、深い深い傷を付けながら徐々に裂かれていくかのような痛みが絶えない。

 食べたくもない食事を無理やりなんとか済ませ、用済みになった器と割り箸をゴミ袋へ入れる。
 ゴミ袋の中には昨日も同じく適当に買ってきたカップうどんの器が入っていたが、これから先、こうやって一日一食で足りるから、と雑に食事を済ますことを続けても誰から注意されることもないし、夕飯のメニューに頭を悩ませ、スマホに入れたレシピアプリに頼ることももうないだろう。

 なによりも純粋で、素直で、人を惹きつける魅力を持った彼女が忽然と消えた部屋と生活は、もう全てがどうでもよくなるほど色褪せ、虚しいばかりで息が詰まりそうだ。

――「彼」もきっとそうだったに違いない。

 墓乃上という未来ある生徒に向け、「生き延びることが一番大事だ」と説いた彼は、あの夏休みからもう二度と帰ってこなかった彼女の死を悟った時、きっと今の自分と同じように嘆いたのだろう。

 しかし今この六畳一間に取り残された自分は、よくよく考えれば彼女が消えたこの状態こそが本来の生活になる予定だったのだ。

 極力他人との関わりを避け、部屋ではひとりで本を読み続け、学校とバイト先に行くだけの静かな生活――ただそれだけ。だたそれだけが自分が過ごすべきだった本当の生活。
他人から見れば生きているのか、死んでいるのか、曖昧な生活かもしれない。

 急に過ごすことになってしまった孤独な時間は思考と情緒を乱し、そんなことならいっそのこと、なんて極論が一瞬頭をよぎる。

 が、結局そんな極論に走るほどの勇気もない。

 今日もまた未練がましく墓乃上の私物を捨てるどころか、ノート一冊にすら指一本触れることできず、もはや気休めにもならぬ睡眠薬を数錠飲み込み、灯りを消した布団の中で孤独に沈むことしかできなかった。



 散々な一日だ。

 顔色が悪すぎる、辛いなら明日は来なくていい、と本気の心配を上司からもらったのは昨日だが、これは病院に行って治るような状態ではない、というのは自分が一番よく知っている。

 シフト通りに出勤し、仕事が終わって帰ろうとしたその夜、駅のホームには溢れんばかりに人集りができていた。
 この時間は通勤ラッシュの時間ではないし、運が良ければ席に座れる程度には空いている時だってある。
 なにごとかと思い驚いていると、ホームに響く駅員のアナウンスは人身事故が起きたことを教えてくれた。
 それ自体はよく聞くアナウンスだが、人集りの中で聞こえた学生のグループ数人が話す会話が少し聞こえた。

 どうやらこの人身事故は、ついさっき一時間か二時間前ほどに、今ここに斜堂が立っているホームから身投げした女性が起こしたばかりのものらしい。

 よく見ればホームの片隅で泣いている女性に付き添う者がいるが、もしかしたらちょうど事故の瞬間を見てしまったのかもしれない。
 
 いったいいつになったら電車が動くのかと苛立つサラリーマンに、野次馬に盛り上がる若いグループ、不運にも事故の瞬間を見てしまったショックで泣く者――ホームに満ちる、それぞれの感情。

「――……自殺配信?」

 興奮気味に話す学生の内、ひとりの男がそう言った。

 さっきそこのベンチに置いてあったスマホで撮ってたらしいよ。駅員か警察が持って行っちゃったらしいけど……。

 ほんとだ。ツイッターだともう顔写真出てるよ。

 え? 可愛いのに勿体ない……。

 最後のツイート、ほら、これ、やばいよ。
 
「全てが色褪せました。さようなら」だって。

 しょうがない、この様子じゃ隣駅まで歩いても電車は来ないだろう。と、気長に待つため鞄から本を出したその時、聞こえた会話に思わずそちらに顔を向けてしまったが、慌てて視線を手元の本へ移す。

――「全てが色褪せました。さようなら」

 野次馬たちの噂の中心にされている自殺配信をした、という者が抱えていた苦悩、事情について、斜堂はなにひとつ知らない。

 が、最期の言葉だと思われるその一言に、なんとなく……否、強く共感してしまった。

 今まで楽しく過ごしてきた鮮やかな時間は、日々は全て偽りのもので、一瞬にして灰色の瓦礫のようになってしまった世界に引き戻されてしまう絶望、孤独。
 それはなによりも耐え難く、そんな時間から開放されたいと願うことはなんら不思議ではない。当たり前のことだ。

 ……可哀想に。

 手元の本のページをめくるが、正直内容が頭に入ってこない。
 そうしてふと思い出すのだ。

 ……もういくら帰りが遅くなろうと、心配をかけてしまう相手なんて……自分にはもういない。

 全てが色褪せました。さようなら。

 再度思い出したその一言。
 いつも玄関で自分の帰りを待ってくれていた笑顔も思い出したが、もう二度と見ることが叶わぬそれにひとつ、悲観のため息をついた。

 そんな重たい気分を抱え、ようやく動き出した電車に揺られ、アパートから最寄りの駅にようやく着いた。

 あまりにも気が抜けていたのだろう。
 駅の階段を登る途中、うっかり踏み外して転びかけた。咄嗟に手すりを掴んで立て直したが、左の足首を捻ってしまったのは困った。

 幸い駅からアパートまでは近いのだ。
 湿布なんぞ買っておいた覚えはないが、冷やしたタオルでも当てておけば大丈夫だろう、と歩く道中、暗い中飛び出してきた自転車が目の前を掠めるよう、スピードを出して横切っていった。
 間一髪ぶつからなかったが、無灯火のまま走り去っていった自転車に、あと一歩前に歩いていれば……と最悪の想像をし、血の気が引く思いをする。

 ……なんだか今日はついていないようだ。

 部屋のドアに鍵を差し、電気をつける。
 思わずただいま、とまた言いそうになった口を閉じた瞬間、派手に陶器が割れる音がした。

 一瞬、隣の部屋だろうか、なんて思ったが、そもそも隣の部屋は空き部屋だ。
 恐る恐る食器棚のほうへ行くと、棚の一番手前に置いてあった斜堂のマグカップが床に割れ、死んでいた。

 ……面倒だ。

 普段は掃除を趣味にしている斜堂だが、人身事故で混み合った電車に不運な捻挫、たまたま未遂に終わった自転車との事故……さすがに疲れた。なぜいきなり落ちて割れたかも分からない。

 しかし、だからといってこのまま破片を広げたままにしているわけにもいかない。
 ゴミ袋代わりのレジ袋を広げ、そこへ破片を放り込んでいく。
 が、その内のひとつは斜堂の指先に傷をつけ、割と深かったそれは一瞬で血を濃く滲ませた。

 慌ててその指を口元にやり、血を舐め顔をしかめる。
 ここまで不運が重なるとさすがに苛立ちも募るが、人間、嫌なものが重なる時だってあるのだろう。

 救急箱を開け、几帳面な性格で綺麗に整頓されたその中から絆創膏を探す。
 斜堂の記憶の中ではまだ十分にあったはずだが、もしかしたらそれは勘違いだったかもしれない。
 いくら箱の中を探しても一枚も見つからない。

 探している間にも血は滲む。

 ……散々な一日だ。

 近くのコンビニに買いに行こうか、とも思ったが、さっき足首を捻ったばかりの身では難儀に感じる。

 幸い明日は予定ひとつ入っていない。
 無理やり食べたくもない食事をして体力を回復させる必要もないし、捻挫がこれ以上痛むなら湿布を買うなり、病院にでも行けばいい。

 また傷が増えぬよう、気をつけながら破片を摘み袋にまとめ、細かいものは掃除機で吸って片付ける。

 少し難があったがようやく片付けたそれはゴミ回収の日が来たるまでベランダに放り、ようやくシャワーでも浴びようか、と髪留めのゴムを解いた時だった。

 もう寿命だったのだろうか。
 百均で十個で百円という安値で売られているゴムは、解いたその瞬間に千切れてしまったようだ。
 もう髪をまとめてくれる輪ではなく、ただのゴム紐になってしまったそれを躊躇いなくゴミ袋へ入れる。

 代わりはまだいくつかあったはずだ。
 それにもう今夜はなにをするでもない。髪を纏める必要もない。ただ眠るだけ……不運続きにはもう飽きた。
 
 シャワーもなぜか途中で湯が水になる、という地味に困る不運があったが、元々ここの給湯器は気まぐれなのだ。今までも何度かあったそれに呆れながらなんとか済まし、億劫だが長い髪を乾かせばようやく眠れる。

 押入れを開け、布団を降ろし――ぽっかりと開いたままの下段を見るが、そこにはなにもない。なにも変わらない。
 また胸の中の自己嫌悪が疼く感覚がし、上限いっぱいまで睡眠薬を飲むことを気休めにする。

 ただいまも、おやすみも、なにも言う必要がなくなった部屋の電気を消し、布団に潜る。

 疲労感はある。だが、ここ数日まともに眠れた気がしない。いつも頭の中には霧がかかったようにぼんやりとしていて、唯一、心が死んでいくような感覚だけが分かる。

――「全てが色褪せました。さようなら」

 駅のホームで聞いたその言葉が、なぜかまた頭の中に浮かんだ。

 まだまだ湿気が鬱陶しい夏の面影がべたつく夜だというのに、ほんの少し寒気がしたのは気のせいだろうか。

 ……こんなにも不運が続くのだ。
 今度は風邪でも引いててもおかしくはないな。

 体に残る疲労感は、ようやく睡眠薬から眠気を引っ張り出してくれたらしい。
 ほんの少し、ほんの少し眠気に意識が沈む無音の六畳一間――「――……斜堂さんの……」

「――……斜堂さんの浮気者!」
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