【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」
してその翌日も同じ事を繰返して、
昨日に異らぬ慣例に従えばよい。
即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。
ゆくてを塞ぐ邪魔な石を
蟾蜍は廻って通る。
徹夜明けのぼんやりした頭で電車に揺られ、半分眠りかけているような頭の中に浮かんだそれは、もう何度読んだかも分からぬ、愛した本の一節だった。
そうして詩の次に、この蟾蜍こそが無力な自分であると卑屈な悟りを書いた文も思い出したが、その途中で聞こえた電車内のアナウンスは、斜堂が降りるべき駅の名を呼んだ。
一歩電車から出ただけでホームに流れる暑さに包まれるが、そんなものは関係なく、斜堂は一睡もできなかったこの夜からずっと嫌な汗が流れる感覚を感じていた。
足元にはなんとも言い難い、汚泥のような不安が貼り付いたように重く、降りたこの駅から徒歩五分の自宅に帰ることすら嫌になるほどだ。
それでも帰らないわけにはいかない。
眠れず明かした夜のせいか、普段つけている腕時計をうっかり忘れた斜堂は、手元のスマホで今ここに立っている昼間が何時なのかを確認した。
――午後四時、四十分。
墓乃上は普段、なにか良い手がかりになりそうなことを思い出したその時は決まって、普段より長く眠ることが多い。
今回もそうであってほしいような、ほしくないような――途中コンビニに寄り、先日彼女が気に入ったばかりのオレンジゼリーを買ってから帰宅する。
「あっ、斜堂さんおかえりなさい!」
鍵を回し、ドアを開けると同時に明るい声が聞こえた。
ああ、もう起きていたのか――ただいま、と一言返すと、居間から寄ってきた彼女は自身を見上げ、少し首を傾げる。「――心配しましたヨ?」
「だって斜堂さん、いつもはお買い物とかお仕事に行く時、書き置きしてくれるのに……」
「……すみません、ちょっと忘れちゃってまして……」
そうだ。
そういえば普段、彼女が眠っている間に出かける際は、バイトに行く、学校に行く、という一言と、大体の帰宅時間を書いたメモを残していたが……正直、今回はそこまで気が回らなかった。
「お詫び……というわけじゃなくてたまたまですが、墓乃上さんが好きなゼリー、買ってきたんです」
お茶にしましょう、といつものように保護者ぶって笑いかける顔は、今、本当に笑えているだろうか?
待っててくださいね、と彼女をちゃぶ台の前に待たせ、背を向けるように台所へ立つ。
猫の絵が描かれたマグに氷を入れ、冷蔵庫から出した麦茶を注いで、スプーンとゼリーも一緒に彼女の前に置いて、自分もその対面に座り、お茶を飲む――たったそれだけ。いつもとなにも変わらない日常のひとつ。
この六畳一間の平和な時間――それを崩したのは墓乃上だった。
「――斜堂さん、もしかして寝てないんですカ?」
心配に問う彼女の瞳と目が合った。
その真っ直ぐな目から逃げたい。が、もう台所に立つ用もない。大丈夫、平常心でいよう。今までだって、つい読書に熱中しすぎて徹夜することなんて、彼女と暮らし始めてからも何度かあったじゃないか。
「……ええ、読んでた本が面白くて、つい……」
「……それなのにお出かけを?」
「……少し神保町に行っただけですよ。面白い本を読むと、ますます本が欲しくなる……本好きの病気のようなものです」
「ふーん、その割には手ぶらで帰ってくるんですねェ」
その一言でようやく気づいた。
自分がさっきからずっと彼女から目を逸していたことも、これは単なる心配から成る雑談ではなく、自分が今内心抱え込む禁忌の気配を察した彼女の探りだと。
ああ、思ってたより手持ちが少なかったから今回は止めたんですよ、だってほら、先日はこんなに買い込んでしまいましたし……。
欲しくなった本を探しに行ったんですが、見つからなかったからとりあえず帰ってきたんですよ。
あんなにたくさん本屋があったら、いくら探し回ってもきりがありませんよ。
後者は本当だ。嘘じゃない。
それでも自分という奴は呆れるほど不器用というか、格好の悪い奴で、前者の嘘も、後者の事実も、どちらもろくに言葉にできず、ただただ後ろめたい感情を隠したがって顔を伏せることしかできなかった。「……斜堂さんは優しいから……」
「……嘘をつくのがヘタなんですネ」
責めるでもない、怒るでもない、むしろ申し訳ないという色の言葉に、罪悪と恐怖に似た醜い色の情緒が内心渦巻く。
違う。自分は優しくなんかない。
まだ決定的な確証はないが――彼女がずっと探してきた「あれ」を隠そうとするのは、他でもない、この自分のためでしかない。
――してその翌日も同じ事を繰返して、
昨日に異らぬ慣例に従えばよい。
即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。
そう、そうありたいのだ。
人間と幽霊の同居、他人から見れば狂気そのものかもしれないが、それでも今まで平穏に、慎ましく暮らせていたじゃないか。
それがかつての彼女が自身の記憶を埋めた上で成り立っている平和なら、自分だってそうやって大きな悲哀に繋がりかねないものを隠したっていいじゃないか。
桐箱伝説。
たった四文字にまとめられた悪夢。
それが載っている本は、鞄の底に隠した。
文章にすれば一ページにも満たない、あまりにも曖昧すぎる話だ。
この実在したかもどうか怪しい話が自分が思っているような――墓乃上に繋がってしまう話じゃなければどんなにいいか、と、救いを求めるように、他にもなにか詳細がないかと夜通し探した。
しかしネットの海の中にも、自分が持っている他の本の中にも、先程歩き回ってきた古本屋の群れの中でも見つからなかった。
そうして思うのだ。見なかったことにしてしまえばいいのでは、と。
そうすれば、これからもここにいる墓乃上は、純粋で天真爛漫な少女でいられるのだ――死にたくない、思い出さないで、と無意識に自ら叫んだことなんて、知らないままでいい。
――微笑もて正義を成せ!
例えそれが平穏を望む自分のエゴでも、思い出さないでと叫んだ彼女の本心を守ることができるならそれでいいじゃないか。
いつものように笑って、保護者のふりをして、彼女が喜ぶことだけをしてやったって――「……墓乃上さん、」
「……もう止めませんか?」
「え……」
ようやく合わさった視線先、猫のように大きな瞳が戸惑う。
「止めよう、って……なにをです? まさか……」
「ええ、墓乃上さんの生前と……死因の記憶探しです」
薄々なにか勘付いていた様子だったが、斜堂の口からはっきりと言われた墓乃上は反射的に食いつく。「――なぜです!」
「なんでそんな……今さらなにを言うんです! ようやく私がくノ一だったと色々思い出せて……これからだっていうのに!」
「……だからこそですよ。今ならまだ引き返せます」
「引き返す……? どこに……? ……斜堂さん、なんか今日おかしいですヨ? だって今までずっと……まさか、」
私がなんで死んだのか……なにか分かったんですネ!
戸惑いに弱々しかった声に、責め問い詰める色が混じった。
死後五百年――本人さえも忘れてしまっていたパンドラの箱の鍵は今、斜堂の鞄の底に隠されている。
無論、斜堂は墓乃上へそれを渡す気になれなかった。
極端な話、いつ見つかってしまうかと恐れながら過ごし、不意に彼女があの本を見つけてしまうという悲劇を避けるために、いっそ燃やしてしまおうとも思った。
それが斜堂なりに考えた成すべき正義だと思った。
そして万物、正義というものに反対の意志がぶつかることは必然的であり、この六畳一間でも墓乃上の反論によってそれが起きる。
「なんでもいいんです、なにか分かったら教えてくれるって……なんで今さら隠すんですカ!」
「あなたが……墓乃上さんご自身が埋めた記憶を、今、無理にこじ開けることに救いはないと思うんです」
「私が埋めた……?」
「……いいですか? 人間は耐え難い恐怖や……命の危機に直面した時、その時の記憶を思い出さないように忘れるんです。そうやって自分の精神を守ろうとする、防衛本能なんです」
「じゃあ、私は……」
死後、あまりにも永い時間取り残された故の単純な経年劣化だとばかり思っていた。
思い出そうとすれば弾かれる一部の記憶だって、いつか必ず、なにかしらの条件や偶然が揃えば簡単に解けるものだと思っていた。
そうして原型が分からないほど砕け散った記憶の破片を拾い集めた先には、いつかの時代に誰かと楽しく生きていた色鮮やかな思い出があるのだと信じていた。
ひとりで眠り、ひとりで破片を探す――途方もなく虚しい中、ようやく寄り添ってくれる優しい人間、斜堂に出会えたというのに、そんな彼がこの先へ進むことを引き止める。
カーテン越しに差す陽が薄暗く移っていく。
死して初めて出会えた理解者、斜堂が悪いのではない。
彼にこんな、こんな辛そうな顔をさせてしまう悪霊――自分が悪いというのは分かっている。
それでもどうしても諦めきれない。
とうの昔にぱちんと弾けた脆いシャボンの中で、誰かが自分へ笑いかけてくれていた残影が胸に残って消えてくれない。
「……私は生まれながらの霊媒師です、誰よりも才があって……いろんな幽霊と話して……でも、ずっと独りでした」
以前、ようやく思い出せた自身の人生の一端を口にする。寺というより朽ちた廃墟、苔と雑草だらけの粗末な墓場、数多の人間から忌み嫌われるあの場所こそが自分の故郷。「……正直、人間のことは嫌いでした」
「だって私、なんにもしてないのに……住処が墓場だってだけで、いろいろ、嫌な思いしてきたんです……だから、どうしても物凄く不思議でしょうがないんです」
「不思議……?」
「ええ、……なんで私は霊媒師なんてしてたんだろう、って……わざわざ幽霊に困ってる人間のところまで行って……なんで役に立つようなこと、したんだろうって……」
生まれ持っての才能――墓乃上が持つそれは、彼女が人間と関わらず、孤高に生きていくには十分なほど恵まれたものだった。
しかしかつての自分はなぜ、それを人間の助けになるような使い方をし始めたのか――「……絶対にいるはずなんです」
「私の生き方を変えてくれた人が……きっと、斜堂さんみたいに優しい人が、私にいろんなことを教えてくれたはずなんです。……せめて、その人のことだけでも……」
涙声の懇願を前に、斜堂は彼女のためだと掲げた正義にヒビが走っていくのが分かった。
なにが正義だ。格好良く名前を付けただけの独りよがりで、今までずっと一緒に過ごしてきた彼女が本当に探しているものすら分かってやれていなかった。
桐箱ひとつ。
そこに入れるは、紅き着物の巫女ひとつ。
ひとつ地に埋め奉れ。
地にその加護を以て栄ん。
祠を立てよ。物を供えろ。
第二次の戦火にて消失、詳細不明――桐箱伝説。悲惨な悪夢。
これは本当に彼女と繋がるのだろうか?
一番の幸福は、こんなでたらめに近い、曖昧な作り話なんか一切関係ないことだ。
じゃあもし仮に、万が一墓乃上に関係ある話だとしたら……自分はどうしてやればいいのだろうか。
いつだって自分は、墓乃上の真っ直ぐで、ひたむきで、それでいてめげない精神を見守って、憧れてきたじゃないか。
そんな自分が彼女の意志を信じてやらないでどうする――「……すみません、」
「今さら止めようなんて、墓乃上さんの邪魔するようなこと……」
ああ、もう観念しよう。
もうすっかり夏の早足な陽も暮れた。
隠し通すこと。これこそが大きな悲哀を避けるための正義なのだと掲げていた臆病な心も、墓乃上の強い決意と願いを前にヒビ割れ、負けた。
墓乃上という彼女は強い人間だ。
気が重く、まるで惨たらしい己の罪を吐き出さんとするほど緊張した斜堂の様子を見かね、普段と変わりなく、その子猫のような八重歯を見せて笑うのだ。「――ふふ、そんな暗い顔しないでくださいヨ!」
「大丈夫ですって斜堂さん! 私、幽霊なんですヨ? これから先、なにがあったってもう死にはしないんですヨ! つまり無敵、ってことです!」
さぁ、もうこんな時間ですし、お夕飯の支度にしませんカ?
私、斜堂さんの卵焼きが食べたいです!
そういっては重苦しくてどうしようもなかった空気、それを半ば無理やり蹴飛ばす彼女の言葉に思わず内心、ため息とともに嘆いてしまう。――ああ、なんでだろうか。
なんでこんなに良い子が早死したのか。