【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」
「――分からん!」
カラスすらもうとっくのとうに帰って寝ているような静かな夜。
バイトから帰ってきた斜堂が玄関で靴を脱ぎ、ただいま、と平凡で日常的な挨拶を口にしたその時、ちょうど居間の押入れからそんな叫びがひとつ聞こえた。
そして襖が内側からすぱんっ、と勢いよく開き、そこから悩ましく頭を抱えた子供がひとり――ここに住み憑く幽霊、墓乃上が転がり出てきた。「――なぜだ!」
「ああもう、なんで……なんで分からんのだ……この墓乃上の……この私のなにが悪いんだ……くそっ……」
じたばたと苛立った様子で床に転がっている悪霊を前に、斜堂は怖がるどころか、珍しいこともあるもんだとむしろ心配していた。
この幽霊、普段はけっしてこんな荒れた口調で叫ぶような子ではないのだ。
もしかして自分が帰ってきたことすら気づいてないのか――「墓乃上さん、」
「ただいま帰りましたけど……その、一体どうしたんですか……?」
そう声をかけると、脱いだ上着をハンガーにかける斜堂と本日ようやく目が合い、「あ、」と彼女が固まった。
「……どこから見てました?」
「え……『分からん!』って叫んで押入れから出てくるところから……ですね」
「なんと……お見苦しいもの見せてすみません」
急に大人ぶった口調に戻り、何事もなかったかのように立っては着物の裾を、襟元を整える。
彼女からすればだいぶ恥ずかしかったらしく、「忘れてください」とため息と共に言われた。
「斜堂さんの前でする振る舞いではありませんでした」
「いや、別に構いませんけど……どうしたんですか、墓乃上さんらしくない……」
冷蔵庫から作り置きしていたおかずを出し、親戚のお下がりで貰っただけの古びた電子レンジへ入れてやる。
そうやって野菜炒めが温かくなりながらくるくる回っている間、ちゃぶ台へは箸と取皿、温める必要がない常備菜を並べていく。
墓乃上が手伝おうと寄ってきたが、疲れた顔をし、綺麗な黒髮までも乱れた子供に頼むのは気が引ける。
大丈夫ですよ、と一言、席にいるように指してやれば、彼女は大人しくいつものようにちゃぶ台を前に正座した。
「――記憶に弾かれる?」
いただきます、と互いに声を合わせ、お供えします、と斜堂が彼女へ唱え、ささやかな夕食と共に彼女の話を聞く。「――ええ、」
「なんと言えば分かりやすいのか……うーん……思い出そうと深い部分に強く踏み込むと……強制的に打ち切られる部分があるんですヨ」
「なるほど……?」
弾かれる、打ち切られる、その言葉から連想するイメージはなんとなく分かるような気がするが、なぜそれが彼女の記憶探しを拒む形で現れているのだろうか。
「この着物の件をきっかけに、あれからずいぶんと思い出したことも多いんですがねェ……なかなかそううまくいかないようでして」
お気に入りの卵焼きを口にし、彼女はその白い手でひとつひとつ指折り数えては思い出したことを教えてくれる。
親はいなかったこと、代わりに墓場に漂っていた幽霊たちが生きる術を、言葉を教えてくれたこと、そうして生まれながらの霊能力者として才能と実力があったこと、生計は霊媒師として各地を転々としていたこと――生い立ちに関してはだいぶ思い出せたらしい。
「この私の話し方も、墓場にいた南蛮人の……えっと、わざわざ日本にまで勉強するために来た……ガクシャさん? という幽霊から敬語を習ったので、それで訛ってしまったみたいなんですヨ」
ガクシャ……学者だろうか。
なるほど、だから敬語じゃない時は普通の口調なのか……とんでもなく奇っ怪な話ではあるが、今目の前にいる幽霊が今更そんな嘘をつくとも思えない。
斜堂は彼女の話を信じ、そして我のことかのように喜んだ。
「凄いじゃないですか、墓乃上さん……! そんなにたくさん思い出せて……一生懸命頑張った甲斐がありますね!」
「……いえ、まだです。足りません」
明るく喜ぶ斜堂とは反対に、当の本人である墓乃上は首を横に振った。「……さっきも言いましたが、」
「私もなぜだか分からないのですが……今言ったそれらの記憶を踏み台にし……より深く、深く沈んだ記憶を探ろうとすると……どうやっても意識が目覚めてしまうんです。……まるで……」
――私自身が逃げるかのように。
心の防衛反応――人間はあまりにも大きいショックを受け、精神に莫大な負担がかかった時、自らの精神を守るためにその出来事を忘れることがある。
いつか本で読んだだけの浅い知識だが、墓乃上が言う話に当てはまることが多い。
打ち切られる、弾かれる、と彼女が表現し、本人でさえも触れられない記憶には、きっと彼女自身の死に繋がった「なにか」があるのだろうか――自分の過去と向き合いたい、と望む反面、内心では無自覚にその記憶から逃げているのだろう。
――死後、五百年も前に埋めた記憶を掘り起こすことは、本当に彼女自身のためになるのだろうか?
もうそれだけ思い出せたら十分じゃないですか、無理に続ける必要なんてないんじゃないでしょうか?
大根のお味噌汁……たまらんですねェ、美味しいです、とにこやかに器を傾けるその顔に思わずそう言いたくなってしまった。
が、その器を空にし、斜堂に視線を向けた墓乃上は不屈の心を宣言する。「――まぁ、そうやって逃げた結果が今の私なんでしょう、」
「私は……私は、今こうやって斜堂さんと一緒にいることを忘れたくありません。……きっと、昔の私も誰かのことをそう思っていたはずなんです。だから私は……まだ諦めたくありません」
「墓乃上さん……」
「ふふ、そんな暗い顔しないでくださいよォ斜堂さん! 大丈夫、この墓乃上にできないことなんてありません!」
えーっと……なんでしたっけ、最近本で読んだ……開けられない箱のこと……ああ、そうだ、私の記憶を閉じ込めているパンダの箱なんて、いつか絶対こじ開けてみますヨ!
理解者でありたい、と思っている斜堂すら届かない底なしの領域にひとりで立ち向かい、心が折れるどころかやる気を見せる宣言、堂々とした笑みに、斜堂は彼女の強い意地と根性を突きつけられた。
自分なんかの弱々しく消極的な心配なんぞ吹き飛ばすそれらに対し、心から尊敬すると共に、斜堂は内心野暮なツッコミを呟いていた。
墓乃上さん、それ「パンダの箱」じゃなくて多分「パンドラの箱」ですよね……。
覚えたての言葉が言えて満足したのか、さっきまでは頭を抱えてごろごろと床を転がっていた悪霊は、美味しい、美味しい、美味なり、と機嫌よくぬか漬けを食べていた。
*
「――斜堂さん、これはいったい……?」
週末の昼下がり、また記憶探しに行き詰まり、「分からん!」と苛立った様子で押入れから飛び出てきた墓乃上を迎えたのは、見慣れないものばかりが並んだちゃぶ台だった。
ホットプレートに二本のフライ返し、ボウルにはたっぷりとホットケーキミックスが入っており、あとはそれをお玉で掬って、プレートに乗せればいい、という状態まで用意してあるが、室町時代に生まれた墓乃上にはなにひとつ分からないものばかりだ。
よくよく見ればいつものちゃぶ台の横に、さらにやや小さめなちゃぶ台がもう一台増えているじゃないか。
そこには皿と、フォークと、あとはよく分からないものがいくつか並んでいる。
「おはようございます、墓乃上さん、」
墓乃上からすれば訳の分からないものばかりで埋められたちゃぶ台を前に、いつだって穏やかな同居人が微笑んでいる。
「なにごとですカ、これは……」
「いえ、ここ最近バイト先でまぁ……色々ありまして、気分転換にちょっとしたパーティーをしようかなと」
「ぱーてぃ……?」
「ええ、美味しい気分転換です」
斜堂は手元のスマホを墓乃上へ見せ、彼女へ説明を始めた。――「今回はこれを作ります」
「これは現代のおやつ、ホットケーキといいまして……誰でも簡単に作れる、とっても美味しい焼き菓子です」
「誰でも……?」
「ええ、墓乃上さんでも作れます」
「なんと……!」
寝ぼけた頭、その上知らないものばかり並んだ食卓に怪訝な顔をしていた墓乃上の目がその言葉に輝く。
きらきらとした期待の視線とそわそわする態度――押入れから出てきた時に見た、なんとも機嫌悪そうな表情は消えてくれたらしい。
「――じゃあ、まずは私から作ってみますので……よく見ててくださいね」
そう声をかけると一言元気な返事が返ってきた。
もし仮に彼女に猫や犬のような尻尾があったとしたら、きっとそれは大きく左右へ忙しなくぶんぶんと振れていることだろう。
斜堂はボウルへ牛乳、卵、それとホットケーキミックスを混ぜ溶いた「元」をお玉で掬い、軽く油を敷いておいたホットプレートへ静かに注ぐ。
じんわり、ゆっくりと丸く広がる生地からは、もう既になんとも美味しそうな甘い香りが広がる。
「焼けるまで少し待つんですが……ここ、生地の表面にぽつぽつと穴が出てきたら、これをひっくり返して、もう少し焼くんです」
「なんと……! ほ、本当にそれだけで焼き菓子が作れるのですカ?」
「ええ、墓乃上さんもやってみましょう?」
そういってあらかじめ「お供え」しておいたボウル、お玉を渡してやると、彼女は再度「なんと……!」と感嘆の声を上げた。
そうして恐る恐る掬った生地を斜堂同様、ホットプレートへ慎重に注ぐ。
そんな初々しい様子の同居人の姿も、子供の時に食べたっきりで忘れかけていた甘い香りも、そこに交じる手元のコーヒーの香りも、その全てが斜堂にとってかけがえのない休日を形作っていた。「――あ、」
「斜堂さん、斜堂さん、これ……! ほら、ここ! ここら辺、穴が出てきましたヨ!」
最初に斜堂が流し込んだ生地の表面に現れた気泡を前に、墓乃上は期待に満ちた目で彼を呼んだ。
「ああ、丁度良い感じですね……では、次はこれを使いましょう」
ちゃぶ台の隅に置いておいたフライ返し、それを二本も持ってどうするのかと墓乃上は首を傾げた。
たしかに一本でも十分だとは斜堂も思ったが――思い返せば、こういった料理のようなことを墓乃上にやらせたことがないと気づき、そして次に考えたのは、彼女が失敗しないようにするにはどうしたらいいか、ということだった。
この墓乃上! と、幼い自惚れとやや過剰な自信で堂々と胸を張って高笑いしている彼女が斜堂は好きだった。
しかしここ最近、うまく進まぬもどかしい記憶探しに対し、(本人は無自覚かもしれないが、)見るからに自信を失くし、情緒が不安定になっている様子に毎日内心、いたたまれない気持ちになっていた。
過保護だとか、甘やかし過ぎだとか、そんなふうに責められるべき一方的な気遣いかもしれない。
しかし、もう誰ひとりとして知らない、理解できない思い出に対し、孤立無援、孤独な探索を続ける墓乃上を前に、斜堂は自分ができうる限りの甘やかしで彼女へ尽くしてやりたいと思ったのだ。
せめて起きている間ぐらい、少しの失敗も、へこみも、そんなもの知らないまま無邪気に笑っていてほしい――なんて傲慢なエゴ。
自分に酔っている、ひとりよがりだ、そんな自覚はあるが、それでもほんの僅かでも彼女のためになるなら……と、信じてしまう気持ちを抑えることができない。
「……これをこうして……、で、ひっくり返す、と……こうやって二本使うと失敗しないし、簡単にひっくり返せるんですよ」
「おお……!! お見事……!」
「さぁ、墓乃上さんもぜひ」
「はい!」
墓乃上が注いだ生地も丁度いい頃合いらしい。
まるで初めて刃物を持った子供のように緊張した表情でフライ返しを片手に一本ずつ持ち、ふつふつと気泡が空いては消える生地をしばらく睨んでいた。
そうしてようやく決心がついたのか、先程見た斜堂の手付きを真似、この悪霊は死後五百年にして初めて綺麗にホットケーキをひっくり返した。「――……せーのっ、」
「で、できた……!?」
「ええ、綺麗にできましたね」
くるんと綺麗に回り、特に大きく形が崩れることなくひっくり返ったケーキを前に、最初はきょとんとしていた墓乃上の顔には感動と喜びの色が広がり、そして聞き慣れた高笑いが出るまで大した時間はかからなかった。「――さすが!」
「さすがこの墓乃上! これぐらい朝ご飯前、ってやつですヨ!」
「今お昼過ぎですけどね……でもまぁ、墓乃上さんが楽しんでくれたみたいでなによりです」
ここしばらく聞けなかった笑い声――ああ、そうだ。この子のこういう、強気な自信に満ちた姿がなによりも可愛らしいのだ。
そうして十分に焼けた生地をプレートから上げ、墓乃上の前に置いた皿へ重ねてやる。
「あれ、斜堂さんの分は?」
「え? ……ああ、まだ生地が余ってますので、私のは後ででいいです」
「それは……それは嫌です。一緒に食べましょうヨ」
別にそんなに気を使わなくてもいいのに、とも思うが、そういうきっちりした部分もまた彼女の良さなのだ。
そうですね、と大人しく応じ、互いの皿にケーキを分けると満足そうに笑ってくれた。
「いやァそれにしても……まさか焼き菓子を自分で作れるなんて良い時代ですねェ。感動しましたヨ」
「ふふ、気に入ってくれて良かったです。……あとは好きにトッピングをしたら完成ですよ」
「とっぴんぐ?」
「ええ、」
斜堂は再度墓乃上へスマホを見せ、「ホットケーキ チョコペン」と検索した結果を見せる。
そこにはホットケーキの上にアニメのマスコットキャラクターや所謂ゆるキャラ、というものが思い思いに描かれた写真が並んでいる。「――あ、」
「なんでしたっけ……えーっと……あ、オムライス! オムライスみたいなことやるんですネ?」
「ええ、オムライスみたいに絵を描いてから食べるのも楽しみのひとつなんですよ」
以前、斜堂は墓乃上にオムライスを作ってやり、その時も「ケチャップで絵を描いてから食べるのも楽しみのひとつ」と教えた。
あの時彼女は日頃の感謝を表現するため、斜堂の分には皿から溢れんばかりに大きいハートをケチャップで描いたが……元々の性格なのか、時代的な価値観の違いなのか、墓乃上自身の分には大してこだわりも手間もなく、適当にケチャップをかけて食べていた。
しかし今回、ほんの少しでも墓乃上が楽しんでくれる要素を増やしたかった斜堂は、気がつけば学校帰りに百均の製菓コーナーに行き、想像よりも遥かに充実したその品揃えに驚いていた。
そうして買ってきたデコレーション用のチョコペンシル、茶色、ピンク、白の三色を墓乃上へ出し、再度誘ってみるのだ。
「墓乃上さん、どうせ食べるのに? って思ってません?」
「え、なんで分かったんですカ?」
「墓乃上さん、顔にすぐ出る人なので……せっかくですし、ちょっとやってみませんか?」
「んー……それもそうですネ、斜堂さんが言うならちょっとやってみますカ」
チューブからチョコが出るようにあらかじめ湯煎しておいたペンシルの先端を鋏で切り、普段はスケッチブックへかなり独創的かつパンチのある絵を気ままに描いている画伯へ渡してやる。
「ちょっと緊張しますねェ……」
そう呟きながら、不慣れな手付きながらゆっくりと手を動かしていく。
本人は無意識だろうが、彼女は集中すると唇を尖らせる癖があるらしく、そんな姿のなんと微笑ましいものか――気がつけば斜堂は、手元にあったスマホのカメラを起動していた。
それこそ本当に無意識だった。
ここにある空間、目の前にいる存在、その一瞬を残したいと思った手がカメラを起動させ、墓乃上へ向け――そして、思い知ったのだ。
綺麗な黒髮、目を惹く赤い着物に無邪気な表情――斜堂の目にはたしかに存在する墓乃上の姿を、カメラという無機質な物は映してくれなかった。
そうだ、幽霊だから映らないんだ。
冷たい水を頭にぶっかけられたような気がした。
考えればすぐに理解できる当たり前のことだ。
墓乃上が幽霊の身であるなんて、初めて出会った夜から知っていたことなのに。
奇妙なルームシェアだが、お互い一緒にこの部屋で楽しく過ごして、自分が支えてもらった分、自分も彼女へなにかしてやりたい、助けてやりたい、と距離を縮めようとしていたが、無感情なカメラはそんな斜堂に対し、現実を突きつけるのだ。
――いくら一緒に時を過ごそうと、あいつは死人だ。
お前は独りなんだ。
一緒になって焼いたホットケーキも、それを乗せたお揃いの皿も、カラトリーも目の前に、カメラの中にあるのに、それを前に座る墓乃上だけがぽっかりといない。
どういう理屈なのか、原理なのか、斜堂にはまったく分からないが、墓乃上が今その手で握っているチョコペンシルも映っていない。
彼女が緊張した手付きで描いていくデコレーションだけが、不思議とゆっくりとケーキの上に現れていく、という画面に、斜堂が震える指先でカメラを切ろうとしたその時だった。
「――あ、もしかしてカメラさんですカ?」
墓乃上からの呼びかけにどきりと心臓が跳ねた。
いつぞやのこと、この「スマホ」というカラクリにある「カメラ」で「写真」というものが撮れる、「写真」というのは、その場面を切り取って残せる便利なものだ、と説明した際、彼女は大変驚き、畏怖の念を込めてか、「カメラさん」と呼ぶようになった。「ふふん、」
「今ちょうど描き終わったんですヨ、せっかくですしカメラさんに見てほしくて……あっ、そうだ、すみません、ちょっと待っててくださいネ!」
そういって席を立った墓乃上にかけてやる言葉も、返事をしてやる言葉も出てこなかった。
自分なりに色々と調べ、準備をし、彼女と楽しく過ごそうとあれこれ用意したケーキミックス特有の甘ったるい香りも、引っ越しする上で必要な家電を買った時に貯まったまま放置していたポイント。それを引き換えに買ってきた新品のホットプレートのツヤも、つい先月、雑貨屋でたまたま見かけて買ってきたお揃いのカラトリーの輝きも、全部、全部、全部夢から冷めたように色褪せた感覚――自分はなにをやっているんだ?
現実を突きつけられて崩れる鮮やかな夢なんぞ、最初から脆い現実逃避のみで作られた薄っぺらいものなのだ。
彼女のために、彼女のために、なんて、惨めな自分を見ないようにするための都合のいい言い訳と大義名分じゃないか――!
もう自分を知っている人間がひとりもいなくなった世界で、時代で、己の死因すらも忘れてしまった彼女の寂しさと不安につけこんでいるようなものじゃないか!
「――お待たせしました!」
抑えきれなくなった自己嫌悪に吐き気を感じていると、それを遮るように墓乃上の明るく弾んだ声が飛んできた。
「ねェ斜堂さん! これ! この菓子と一緒にカメラさんに見せてくださいヨ!」
彼女からそう差し出されたのはスケッチブック――その真っ白な画用紙にはクレヨンで紙いっぱいに花や、ハート、星があり、そして真ん中には太陽が満面の笑顔で描かれていた。
自己嫌悪から来る吐き気、そして虚しく色褪せて見えたこの部屋の中で、今目の前にあるスケッチブックにある世界はなによりも鮮やかに輝いて見えた。
「これは……」
「私の自信作です! これと一緒に今描いたお菓子もカメラさんに見てもらいんですヨ!」
そう言われ、彼女がたった今デコレーションしたばかりのホットケーキを見る。
そこにもスケッチブックに輝く太陽のようなものが屈託なく笑っていた。「――私は……」
「私は幽霊なので、カメラさんには見えないんでしょう。……ですが斜堂さん、私は斜堂さんのおかげで、こうやって私の気持ちを……存在を残せるんですヨ?」
この紙も、色のついた筆も、菓子も、全部斜堂さんが私のためにくれたもので……とても感謝しています。
斜堂さん、人間の死って二度あるんですヨ。
一度目は肉体的な死……これは単純に病気や事故、寿命で死んだその時の話ですネ。
二度目は存在の死です。自分という人間が生きていたことを知る人が誰もいなくなったその時……それが存在の死。
ご存知の通り、私はとっくの昔に二度目の死を迎えていますが……斜堂さん、あなたと出会ってから生き返ったんですヨ。
それだけでも嬉しいのに、斜堂さんは私がいた証を残せるものをたくさんくれますよネ?
……たしかにカメラさんに見てもらえないのは少し残念ですが、それでもこうやって、この墓乃上が描いた絵や気持ちとかを残せるなら……それでいいんです。
どうか忘れないでください。
斜堂さんと出会ってから生き返った私の気持ちを、斜堂さんに対する感謝を、……そして、今日みたいな楽しい思い出も!
「……ふふ、今日だって全部、私のためにしてくれたんでしょう? お仕事先で嫌なことがあったから気分転換、なーんてヘタな嘘、この墓乃上にはお見通しですヨ!」
「……バレてましたか」
「ええ、だって斜堂さん、顔に出る人ですからねェ」
ああ、たしかにそうだ。
情けなくあふれては自身の顔に流れる涙を手で拭いながら、「そうですね」と素直に認めてひとつ頷く。「私は……」
「私は、つい墓乃上さんを言い訳に、現実逃避してたんじゃないかって思っちゃって……」
「え? 別にいいじゃないですカ。理由がなんであれ、私は斜堂さんのお陰で楽しく過ごせていますし……私もちょっと考えを変えまして、」
彼女の希望通り、スケッチブックとデコレーションしたケーキは隣合わせで写真に収めた。
すっかり冷めきってしまったが、猫舌の自分にはちょうど良い! と墓乃上は幼く不慣れな手付きでホットケーキを切り分け、機嫌よく笑うその口に放り込んでいく。
「前に『記憶が打ち切られる』って言ったじゃないですカ?」
「……ええ、弾かれてしまうって言ってましたね」
手元のマグにあったコーヒーも冷め、室温と並ぶぐらいのぬるいものになっていた。
それが不思議と泣いてしまったばかりの自分に合うのか、一口飲む毎にゆるやかに落ち着いていくのが分かった。
「どうやっても、なにをやっても途切れてしまうそれに……私はここ最近、焦りすぎていたような気がします。斜堂さんにもご心配かけてしまって……申し訳ありません」
「いえ、私はなにも……」
「……そこで考えたんですが、たぶん『今の私』には辿り着けないようになっているんでしょう。なんでそうなっているのかは分かりませんが……まぁ、無意識に逃げちゃっているんでしょう」
心の防衛反応――人間はあまりにも大きいショックを受け、精神に莫大な負担がかかった時、自らの精神を守るためにその出来事を忘れることがある。
解離性健忘。
生死の危機に関わる極限状態を経験した人間に発現することが多く――斜堂は先日、図書館で探した専門書の一部分を思い出していた。
死してからあまりにも時間が流れてしまったが故の記憶の経年劣化、という単純な話ではなく、もし彼女の精神そのものが「死因」やそれに繋がるものを思い出さないようにしているのかもしれない、ということに墓乃上自身も薄っすらと自覚し始めたようだ。
「今はたぶんまだ無理ですが……そんな『逃げたくなってしまう記憶』にいつか立ち向かえるよう、今は逃げながら色々とできる範囲で無理なくやっていこうと思いまして……逃げることは悪いことじゃない、と気づいたんです」
「逃げることは悪いことじゃない、ですか……」
「そう! さっき斜堂さんも私を理由に現実逃避しているかも、って泣いてたじゃないですカ?」
「お恥ずかしながら……早急に忘れてください」
「え? 忘れませんヨ、斜堂さんの優しさも、泣き顔も、」
からかう色ではなく、真剣な表情と声で返ってくるのだからどきりとしてしまう。
猫のように大きな瞳が伏せ気味にこちらを見つめてくるその顔は、少女というよりまさに才と実力のある「霊媒師」にふさわしい凛とした顔だった。
「――斜堂さん、私と一緒に逃げませんカ?」
「え?」
「私は自分の記憶から、斜堂さんはお仕事とか、学校のこととか……辛くなったらふたりで現実逃避して、美味しいもの食べたり、楽しいことして……そうやって逃げた先にだって、なにか意味あることがあると思うんですヨ!」
「……墓乃上さんらしい考え方ですね」
「とりあえずはこのケーキ食べて、後片付けをして……それからまた一緒にどう逃げるか考えちゃいましょう?」
「……そうですね、墓乃上さんと一緒なら……逃避行も悪くない気がします」
そう同意しては答えてやると、現実からの逃亡劇を一緒にしてやろうと誘ってきた悪霊は、スケッチブックにある太陽と同じように笑った。
*
「――あれ、斜堂さん寝ないんですカ?」
六畳一間で過ごしたささやかなパーティーも、その後の夕飯も、片付けも、全てが終わった夜更け。
時計の針がてっぺんを指そうという時間だというのに、同居人は布団を敷かず、ちゃぶ台には温かい麦茶を淹れたカップを置いて本を広げていた。
「ええ、明日は休みですし……今日が終わってしまうのが、なんかもったいなくて」
「今日が終わる?」
彼の言葉に再度時計を見る。
斜堂から教わった時計の読み方が正しければ、あの針がてっぺんを指したら、この世界の日付がひとつ進むらしい。
それは本を読んだからといって変わることのない事実なのに、彼はなにを言っているのだろうか――そのことを不思議に思い訊いてみると、彼はひとつひとつ、いつものように丁寧に教えてくれる。
「……今日は色々と楽しいことがあったでしょう? なんと言いますか……その余韻にまだ浸っていたい、って思うんですよ」
「余韻……」
「簡単に言うと……そうですねぇ、今日は楽しかったなぁ、って思いながら過ごす夜更しも、また悪いもんじゃないんですよ」
あまりにも感覚的、かつ感情的なことを言葉で説明するのはなんとも難しい。
暫し首を傾げていた墓乃上だったが、それでも彼女なりになにか理解したのか、お気に入りのスケッチブックとクレヨンを持ってきては押入れの襖に背を預けるようにして座った。
「じゃあ私も起きて……今日のこと、色々描いてみようかなと」
「ああ、絵日記ですね、いいじゃないですか」
そうして少しばかり話した後、幽霊はお絵かきを、家主は黙って本のページをめくるだけの静かな夜は続いた。
斜堂と墓乃上、それぞれが思い思いに今日の思い出にひたる。
片付けの際に窓を開けて換気したはずなのに、不思議となぜかまだホットケーキ特有の、あのバニラの主張が強く甘い香りが部屋にあるような感覚がするが、普段なら鬱陶しいと感じるそれすらも、この夜には欠かせないもののように思えた。
その中に微かに交じる淹れたての麦茶の香ばしい香りすらも心地よく、気がつけばいつの間にか本は置き、ちゃぶ台へ伏せるように浅いうたた寝をしていた。
起きているのか、寝ているのか、どちらともはっきりしない頭でひとつあくびをし、寝るなら布団を敷かないと、と身に染み付いている几帳面さに動かされてようやく、ゆっくりと立ち上がる。
窓からはほのかに明るくなったばかりの、弱々しい朝日からぼんやりと淡い光が差していて、それはちょうど墓乃上の姿をも照らしていた。
彼女も早々に眠ってしまったらしく、手元にはクレヨンが転がったまま静かに寝息を立てている。
――そういえば、この子の寝顔なんて初めて見たな……。
普段は押入れに籠もって寝ている彼女が、今はその無防備な姿で気持ちよさそうに眠っている。
窓から差す僅かな朝日がその綺麗な黒髮の艶を照らし、陶器のように白い肌と、金の糸で花が刺繍された唐紅の着物とのコントラストがなんとも幻想的で、思わずついため息をついてしまうほど美しく――まるで精巧な人形だ。
しかし彼女は人形なんかではなく、死してなお感情を持ち、幽霊として生きている少女なのだ。
手元に転がったクレヨンと共に、スケッチブックへ自由気ままに描いた彼女の感情が、思い出が散らばっている。
墓乃上という少女は、霊媒師としての才能はきっと誰よりも眩しくあったのだろう。
しかし画力というものは壊滅的で、一見しただけではなかなか分からない独創的すぎる彼女の絵だが、斜堂はそんな墓乃上が描くものがけっこう好きだったりする。
これは……なんだろう、黄色に塗り潰したものに赤が乗っていて……オムライス?
じゃあこれは……ああ、ホットケーキか。
で、こっちは卵焼き……墓乃上さん、卵焼き描くの大好きなんだなぁ……。
今回は食べ物ばかりが並んだそれらを前に、斜堂は眠気を忘れて少し笑っていた。
「――……お供えします、お供えします、お供えします」
墓乃上が寄りかかっていて押入れが開けられない今、斜堂はハンガーにかけていた自身の上着を手にしてはそう呟いた。
寒いも暑いも感じない、と墓乃上は言っていたが、それでもなんとなく、こうしてやりたくなったのだ。
「お供え」した自身の上着を、なんとも気楽な顔で眠る幽霊へそっとかけてやる。
ここしばらくのこと、思い通りに記憶探しが進まない、と不安を抱えていた苛立ちとは無縁そうなその顔に、内心ひとつ斜堂は静かに願った。
彼女が「一緒に逃げよう」「逃げた先にもなにかあるはず」とその手を差し伸べてくれたあの時――本当に、本当に心から救われた。
せめてそうやって逃げている内だけでもいい。なにも背負っていない普通の子供のように、美味しいと思った食べ物だけで満ちた呑気な夢を見ていてほしいと祈ってしまう。
「……おやすみ、墓乃上さん」
無垢な寝顔と眠りを守るよう、斜堂は爽やかに差し込む朝日をも嫌い、それを防ぐ遮光カーテンをきっちり静かに閉めた。