【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」


――いい匂いがする。

 ゆっくりと、静かに水面から浮かぶように目覚めた意識で初めに思った。

 幽霊の身で今更狭いだとか、息苦しいとか、そういった感覚は皆無なのだが、今いる場所はとある長屋の押入れの中、ということはまだ忘れていなかった。

 いい匂いだ。これは……これはなんだっけ、お花とかじゃなくて……お腹、空いたな。

 食事なんていらない身体なのにふと思い、押入れの中でも微かに感じられるその香りの正体は、たしか蕎麦や、うどんの汁のようなものだった気がする、とようやく思い出した。
 そんな香りにしばらくぼうっとしていたが、はっ、と慌てて内心強く繰り返す。

――私の名前は墓乃上。墓乃上みつよ。

 丑三つ時、墓石の上に立つ霊媒師、という誇りのある名前。

 私の名前は墓乃上みつよ。
 名前さえ……名前さえ忘れなければ、きっと、きっといつか……。

 いつかきっと、誰かに会える気がする。

 いつ死んだのか、なぜ死んだのか、なぜここにいるのか――それはもう忘れてしまった。
 死んでから時代がどこまで変わったのかも分からない。
 たまに見かける人間の服装がだんだん知らない洋装……のようなものに変わっていくぐらいで、それ以外で時代を、時間を理解できるものは知らない。

 ただただ漠然と、かつて自分が生きていた時代が遠ざかっていく不安と、未だ死にきれない惨めな幽霊に成ってしまった現状に、いつしか確証のない、薄っぺらい希望を理由付けるようになっていた。

 自分が未だ成仏できないのは、きっとなにか強い心残りがあるからで……きっとそれは、もう失くしてしまった記憶の中で見つけられるはずで……人間、なにかと縁という不思議なものがあるのだ。

 きっといつか、その答えを知っている「誰か」に――この現世で出会えるか、記憶の中で出会えるかもしれない。

 だから名前だけは忘れちゃいけないんだ。

 名前も失くしてしまったら……きっと、その「誰か」に会えなくなってしまうから。

 そう信じ、この長屋に引っ越してくる人間全てに挨拶してきたが……結果は散々だ。
 悲鳴を上げられるだけならまだしも、物を投げつけられたりするのはいくら物がすり抜ける幽霊とはいえいい気分はしない。
 別に呪ったり祟ったりなんか、そんな気は微塵もないのだ。
 少しぐらい話を聞いてくれてもいいじゃないか、とも思うが、みんな逃げるようにいなくなってしまった。

 前にここへ誰かが越してきたのはいつだっただろうか……時間、という概念が、体感が失くなった墓乃上は、考えるだけ不毛か、と思い出すのを諦めた。

――さて、今回の人間は……?

 音を立てぬよう、そっと静かに、慎重に、立て付けの悪いこの押入れの戸をほんの僅かに開ける、
 子供の小指一本にも満たない間だが、幽霊の自分なら十分な開きだ。

 残念。横顔しか見えないな……。

 くるくるうねった長い髪を結んでいるが……女ではない気がする……おまけに酷い顔色だ。
 まだ幽霊の自分に会ってもいないというのに、もう既にあんなに青白いなんて。
 うーん……背は高そうだが……ずいぶん痩せっぽっちな男だ。不健康の塊だなぁ。

 あ、ちゃぶ台の上に器と箸がある……美味しそうな匂いを出していたのはあれか……いいなぁ、ご飯。

――お供えします、お供えします、お供えします。

 んー……どこかで聞いたような……ああそうだ、自分は幽霊なのだ。
 彼岸に墓へ向けてお供えものをするように、自分にもそうやってくれたら食べられる気がする……箸も、器も持てるなら、大抵のものは持てるようになると思うのだが……。

 ああ羨ましい。
 覚えている限りの僅かな生前の記憶でも、自分は大して裕福じゃなかったはずだ。
 ご馳走をくれだなんて贅沢は言わない。せめて煮干しの頭や、大根の皮とか、いらないと捨ててしまう部分だけでもくれたらありがたいのに……。

 死後一度も口にしていない食事に思いを巡らせている内――突然、いきなりガタガタと鳴った襖に驚いては息を潜める。

 びっ……びっくりした……!

 どうやら先程の不健康そうな青年が押入れを開けようとしたらしいが、ここは幽霊なんぞいなくても立て付けが悪い不機嫌な襖――なんとか開けようとしばらくガタガタ動いていたが、早々に諦めたらしく、押入れの中へ差し込むか細い光が、灯りがぱっと消された。そうして物音もしなくなった。

 な、なんで私が驚かされてるんだか……私は幽霊だぞ?
 部屋が暗くなった、ということは……あの人間、どうやら寝たらしいな?
 ふん、今からこの墓乃上自ら律儀に挨拶してやるか――あれ? あ、開かない……。

 内側からなら割とすんなり開く襖だが、今日は墓乃上相手にも機嫌が悪いらしい。
 強引に開けようと力を入れ、がたりと音が鳴った時、向こう側から「ひっ、」と小さな悲鳴が聞こえた。

 まずい、このままだと挨拶なんかできない内に怖がられて逃げられてしまう……!

 たしか……たしか、えっと、少し上の方に押し上げて……そのまま一気に横へ引く!

 焦りながら思い出したコツの通りにしてみれば、さっきまでの頑固さが嘘だったかのように一気に開いた。

 やった、開いた!

 そう喜んだのも束の間、ばたばたと忙しない物音と共にぱっと眩しい灯りが部屋に満ち、長らく真っ暗な押入れの中で生きていた墓乃上の目を眩ませた。「うわ、」

「――ちょっと、いきなり明るくしないでくださいヨ」



 驚き飛び起きた時に蹴飛ばしたままの掛け布団と、さっき見た時よりもより青ざめている新しい家主――髪の長い青年を前に、墓乃上は内心呆れてしまう。

 人を妖怪かのように見て……失礼な。私は善良な悪霊だ。

 挨拶して、私との縁や、なにか思い当たる記憶がないかちょっとばかし聞いて、……欲を言えばご飯も欲しいが、なにも魂や寿命をもらおうってわけじゃないのに。

 明るくなった部屋を見渡し、布団を引くために隅に寄せられたちゃぶ台が目に入った。
 ちょうどいい、やっぱり大事なことは対面で話したほうがいいに決まっている。

 ちゃぶ台の前に座ると、未だ現実を飲みきれていない青年から見下される視線と目が合った。
 さっさと座るようにと対面を指差せば、彼はその長身を恐る恐る丸め、突然部屋に現れた幽霊、墓乃上とようやく向き合った。「あの……えっと……」

「ど、どちらさまですか……?」

 微かに震える声で情けなく訊かれる。

 酷い顔色だ。真っ青だ。
 これなら多分、私のほうがよっぽど元気な顔色をしているかもしれない――が、幽霊は鏡に映らない。
 そのせいで自分の姿を客観的に見ることはもうできなくなってしまったが、それでも自分は身体のどこかが欠けているわけでも、血でべったりと汚れているわけではないのだ。(多分)
 そんなに怖がらなくてもいいのに――「この部屋に住み憑いてる幽霊ですヨ」

「正しくは部屋というより押入れですネ。ここの押入れ、なんかとっても落ち着くんですヨ」

 開けっ放しの、それでいてまだ空っぽな押入れを見ながら答えれば、彼から再度質問される。

「じゃ、じゃあ……その、今日押入れが開かなかったのはあなたがいたから……ですか?」

 泳ぐ視線に落ち着きなく組むのに動く指、今にも消えそうな気弱な声……彼に対して悪意があるわけでは決してないが、なんだか悪いことをしているような気になってしまう。

 しかし誓ってもいい。あの押入れの機嫌が悪いのは私のせいじゃない! それは濡れ衣というやつだ!

「え? ああ、それは違いますヨ。あれは前々から立て付けが悪くて……なんでもかんでも幽霊のせいにしないでください」

 可哀想に。もう既にこんなに怖がっているのだ。
 強く否定して言い返してやりたいのをぐっと抑え、できる限り温和に答えてやった。

「す、すみません……?」

 困って下がった眉のままそう謝ったかと思えば、今度は頭を抱えて俯いてしまった。
 そうして呪詛のようにぶつぶつとなにかを言っているのだが……しきりに言っている「にゅういん」とはなんだろうか。意味は分からないが、とりあえずその「にゅういん」とやらが嫌だというのはなんとなく分かった。

 参ったもんだ、これじゃあ話にならない。

「――人間よ、あなたの名前は?」

 今度はこちらからそう問いかける。
 こんな質問、よたよたと歩き始めたばかりの幼子ですらきちんと答えることができるのだ。
 対面の彼に答えを急かす視線を送るとようやく彼は独り言を止め、戸惑いが抜けぬ口ぶりだがきちんと答えてくれた。

「しゃ……斜堂影麿、です……」

 しゃどう、しゃどう、……かげまろ。
 人間、なにかと縁起とやらを気にしては明るい文字を名に入れたがるが、この人間の名には「影」があるのか……墓乃上みつよ、この名には、丑三つ時の夜に墓石の上に立つ、という意味があるのをまだしっかりと覚えている。
 
――影と夜、なかなか悪くない縁だ。

「しゃどうかげまろ、ですか……良い名ですねェ」

「そ、そうでしょうか……」

「私の名は墓乃上、墓乃上みつよです」

 丑三つ時、墓石の上に立つ霊媒師、という誇りある名前なんですヨ!

 ああ、人間にこうやって名乗るのなんていつぶりだろうか――!
 
 大抵は名乗る前に相手が逃げ出してしまうばかりで、こんなふうに名乗る自己紹介なんてちっともできやしなかった。
 この人間――斜堂といったか。

 どうやら彼とは縁があるらしい!

 何年か、何十年か、何百年かぶりか――それは忘れてしまったが、今ここに感じる良縁に墓乃上が思わず笑っていると、それを前に斜堂の呆れた声が呟く。

「はかのうえ、って凄い名前ですね……押入れに住んでるのに」

「だって私のお墓、もうどこにあるのか分かんないんですもん」

「はぁ……だからってなにも押入れに住まなくても……というか墓乃上さん、でしたっけ……あなた本当に幽霊なんですか?」

 なんと! この人間、気弱そうに見えて随分と失礼なことを言うもんだ!
 ただの人間がこんな、こんなボロ長屋の押入れから飛び出してくるわけないだろう。
 ただの童だなんて思われたらたまったもんじゃない!「――はぁ?」

「もしかして信じてないんですカ? わざわざ夜中に押入れから出てきてあげたのに?」

「え、あれって私を怖がらせるためにわざわざタイミング図ってたんですか……?」

「たいみんぐ?」

 ああもう、知らない言葉で言われても困ってしまうな……さっきまでは血の気が引いていたくせに、今はやんちゃな子供に呆れ見てくるような目をしているのが若干むかつく。

 物分りの悪い人間め……仕方ない。
 私には霊媒師としての誇りがある。悪霊としての慈悲がある。
 だからそんな物分りの悪い人間へ、なによりも分かりやすく教えてやる義務もある。

「まったく……しょうがないですねェ、」

 側にいくつか積んである茶色い箱へ手を伸ばす。
 硬いも、柔いも、なにも感じない。
 自分からすればなにもない空間で空気を掻いているだけの無意味な感覚だが、それでも腕が箱へゆっくりと沈んでいくかのような光景に、さっきまで呆れた目をしていた家主が言葉を失っている、ということは私が幽霊だと思い知ったのか……まぁこんなものか。

「どうですカ? 信じてくれましたカ?」

 再度そう笑ってやると、その反対に斜堂はなんとも苦々しい表情をしてはまた口にするのだ。
 「にゅういんは嫌だ」と。
 そうしてしばらくああでもない、こうでもない、と布団の上で頭を抱えていたかと思えば、ぱったりと伏せてはそのまま動かなくなってしまった。

 いや、まさか死んだわけじゃないだろうが……。

 恐る恐る近寄ってみると呼吸はあった。
 気絶……というより、ただ単に寝てしまったらしい。

 初対面の幽霊を前に寝てしまうなんて……こいつ、意外と図太い神経だな。
 しかしある意味幸いかもしれない。
 この調子なら、明日にでも色々と話を訊くか……そうだ、ご飯だ!

 この斜堂とやら、さっき少しばかり話した感じでは悪い人間ではなさそうだ。
 千切った鰯の頭ひとつでもいい、一食ぐらいなにか食べ物をくれたりしないだろうか――もうとっくの昔に意味が失せた胃が、空腹で情けなく鳴る感覚を感じた。
 そんなもの、幽霊の身なんかでは到底ありえないものだ。ただの錯覚だ。
 そんなこと十分に分かっているはずなのに、知っているはずなのに。

 なんとなく切なくなってしまった。



――墓乃上さん、また野営してるんですか?

 ええ、生憎今日は少し肌寒いですが……そういう日のほうが、不思議と焚き火が綺麗に見える気がするんです。

――とか言って、さっきからヘビしか見てないじゃないですか。

 ああ、これはもうちょっとでいい感じに焼けそうでして……この前街に行った時、お味噌買ってきたんですヨ。
 ヘビの身はあっさりしてますからねェ、塩もいいですが、たまには味噌もいいかなと思いまして……。

――墓乃上さん、本当にヘビ食べるの好きですよね……。

 ええ! どうです? せんせーもぜひ――。

「――ほびょっ、」

 がたっ、と鳴った襖の音に飛び起きた。

 ああ、いけない。また深く眠りすぎたらしい。
 ばちん、と弾けて途切れてしまった夢の内容は思い出せないが、寝ぼけでぼんやりとしていた意識が覚めるなり、墓乃上は慌てて襖を開けようとした。

 夜中に見た、会ったあの人間は――斜堂とやらはまだここにいるか?
 あれからだいぶ眠ってしまったが、まさかもう引っ越してしまったか?

 今度はすんなりと思い出せたコツを使い、襖を開けるなり墓乃上は彼のため息を聞いた。

 彼はまだ引っ越してはいなかった。
 部屋にある荷物も夜中に見たまま積んであり、斜堂の顔色だって青白いままなにも変わらない。

 が、襖が内側から開いたことにも気づいてないのか、悲観的なため息と表情はなんとも重苦しいものだ。
 窓からは日常を照らす陽が差しているというのに、彼ひとりだけお通夜に参列しているかのようだ。

「昼からどうしたんですカ、死人みたいな顔しちゃって」

「いえ、ちょっと病院に行くかどうか悩んでまして……」

 少しばかし驚かしてやろう。そう思ってこちらから声をかけたが、なにも変わらぬ暗い調子で普通に返ってくるのだから内心こちらが驚いてしまう。

「ふーん、斜堂さん病気なんです?」

 ……よくよく見れば、その顔で健康だと言い張られる方が怖いな。
 時代がいくつ進もうが、人間の身体というものは大して変わらないらしい。

 怪我をすれば痛い、病気になれば辛い、煩わしいそれらすらも、生きている人間だけが持つ特権なのだと死んでから気づいた。

 今ここにいる青年だって、見た目というか、印象としては死人に近いものを感じるが、生きているのだから病気のひとつやふたつ抱えて当然だろう――「えっ、」

「……ほ、本当にいる……?」

 お、ようやく気づいたか……この墓乃上がわざわざお出迎えしてやったのだ。
 忘れたなんて言わせるものか!

「いるもなにも、夜にご挨拶したじゃないですカ」

「ま……まだ昼ですけど……?」

「いやァ、なんで人間って幽霊は夜にしかいないって思うんでしょうねェ」

「そ、そう聞かれましても……」

 狼狽える彼の真正面に立ち、その姿を下から上へゆっくりと見上げてみる。
 長身で細身、……髪も長いし、色白で女みたいな体格だが、すらりと伸びた細い指、それが不格好にならない程度に節張っていて……うーん、割りと嫌いではないな……。

 記憶にある限りでは、今までここに引っ越してきた人間の器量というか、格好はあまり好ましいものではなかった。
 ハゲ上がっているくせにヒゲだけは立派なじいさんに、たるんだ腹が大きくてみっともないオッサン、可哀想になるほど脚が短い上、太っているせいでタヌキのようになっているオッサン――オッサンばかりだ。
 今考えればロクな奴がいない。

 そんな奴らとはまともに会話する前に逃げられてしまったが、幽霊にだって選ぶ権利はあるはずだ。
 どう見たって三枚目、いや、もっと酷い四枚目な彼らから飯をもらおうという気にはなれないが……ああ、そうだ! つい本題を忘れるところだった!

「そうだ! 斜堂さん、私あなたにお願いしたいことがあって出てきたんですヨ!」

「な、なんでしょう……」

「私、ご飯が食べたいんです!」

「ご飯……?」

 まぁ驚くのも無理はないか。
 我ながらけっこうな無茶苦茶を言うもんだとは思うが……なんでだろうか、この斜堂とやらはちゃんと話を聞いてくれる気がする。

「ちょっとでいいんですヨ、煮干しひと欠片とかでも」

――お供えします、お供えします、お供えします。

 そう言って――なんでもいい、切り落とした野菜のヘタや、捨てる魚の小骨一本でもいい、ほんの僅かな慈悲をくれるなら、こんなに嬉しいことはない!

「いや、まぁ……別に構いませんけど、どうやって食べるんですか? 触ろうとしても持てないのでは……」

――自分でねだったくせに、ひとつの拒否もなく心配してくるその言葉が信じられなかった。

 さっきまでは困惑できょろきょろと泳いでいた彼の目が、いつの間にか墓乃上自身と同じ目線に並び――真剣に問うてくる言葉に、今度は墓乃上が言葉を失ってしまう。

 この人間は……この人は……なんだ?

 軟弱かつ気弱かと思えば、今は自分なんかのわがままに、無理難題に応えようとしてくれている――臆病さの影に隠れた優しさが今、惨めったらしく人間に縋る自分を見てくれている。

――本当に……本当に、この人に縋っていいのだろうか……?

「――それだったら、たったひとつだけ方法があるんですヨ。……でも、これは斜堂さんの協力がないとできません」

――嘘だった。

 そしてこれは賭けだった。
 脳裏にずっと聞こえて止まぬ声――お供えします、お供えします、お供えします。

 きっとこれはなにかの縁なんだ。
 この縁に賭けていいのなら……彼がそう言ってくれたその時きっと、私の望みはほんの少しでも形と成って叶ってくれるかもしれない!

「……できる限りのことはしますよ、どうすればいいんです?」

 ああ、きっとこの人は――

 運命の人だ!



「――んあ、」

 こんこん、と鳴る襖の音と、自分の名を呼ぶ声に起きた。
 ぼやける意識で真っ暗な押入れ、その襖を内側から開ければ、再度柔らかい声で名を呼ばれる。「――墓乃上さん、」

「おはようございます、もう夕飯の時間ですよ」

「夕飯……」

「ええ、今日はうどんが安かったので月見うどんにしたんです……ほら、伸びちゃいますよ」

 誘われるままちゃぶ台を前に座り、そこに置かれた器を覗き込んで見る。

 出汁の香りと共に立ち上る湯気、琥珀に透き通った汁に、油揚げと卵が綺麗に浮かんでいる――月見。月見。

 月を見るのなんていつぶりだろうか。
 生前に見上げたはずの夜空にあった月よりも、今はこの温かい器の中で浮かんでいる月のほうが鮮やかに見える。

――いただきます。

 対面にいる家主と声を合わせ、食事を前に一礼し、そうして彼が「お供え」してくれた可愛い柄の箸を持ち、「お供え」してくれたばかりのうどんを口にする。「……ちょっと熱すぎたかな……」

「墓乃上さん、火傷しないように気をつけてくださいね」

 なんて優しく言ってくれる斜堂を前に、墓乃上は先程目覚めるまで見ていたはずの夢を思い出していた。

 大抵の夢は目覚めと共に消えてしまう。

 以前、斜堂がくれたシャボン玉、というものと同じだ。
 そこにあった眩しい色、優しい残り香があった、あったはず、という朧気な輪郭だけが虚しく残り、本当はそこになにがあったのかなんて……もう思い出せない。

 しかし今回は違う。
 斜堂に初めて出会った時の感情、言葉、それらが強く記憶に未だ居座っている。

「……墓乃上さん?」

 ふと無意識に考え込みすぎてしまったらしい。
 箸が止まった墓乃上の様子に、斜堂は不安そうに言葉を続ける。「どうかしましたか?」

「どこか具合でも悪いんじゃ……」

「……いえ、大丈夫です。……ねぇ斜堂さん、」

――影と夜、なかなか悪くない縁だ。

 初めて彼の名前を聞いたあの時――なんの疑いも、躊躇いもなく、純粋にそう思った。そして信じた。

 そんなか細い希望に縋り、斜堂の人の良さにもうずっと頼りっぱなしだ。
 今改めて思い返してみれば、今ここにいる彼が自分なんかに付き合ってくれる義理も必要もないのに――「……私と初めて出会った夜、覚えてますカ?」

「斜堂さんがここに引っ越してきた夜です」

「え? ……ああ、もちろんです。むしろ忘れるほうが難しいですよ」

 あの時は驚きましたね、と苦笑するその顔に続けて訊いてみる。

「……その次の日……斜堂さん、私にこうやってうどんご馳走してくれたじゃないですカ」

「ええ、」

「……なんでですカ? いくらねだられたからって、幽霊の言うこと信じてご飯出してくれるなんて……」

「そう言われましても……どうしたんですか墓乃上さん、今更そんなこと……」

 いつになく落ち着いた様子の彼女に対し、斜堂は内心少し戸惑った。
 普段はお喋りで陽気な墓乃上。
 その日思い出した生前の話や、図書館で借りてきた本の感想、たまたま外を通りかかった浮遊霊と話した雑談のこと――内気で他人との関わりを避けている斜堂より、よっぽど充実した日々を楽しげに話す様子を見るのが好きだったのだが、今の彼女はなにか不安に思う瞳で訊いてくる。

 しかし真剣にそう訊かれても、斜堂から答えてやれる言葉なんてなによりも単純なものだ。「――……まぁ、たしかに最初は驚きましたけど……」

「……それでも、なんだか放っておけなかったんですよ」

 これもなにかの縁、ってやつですかね。

 彼の穏やかな呟きの次に、墓乃上は「早く食べないと伸びちゃいますよ」なんて親切な一言も向けられた。

――運命の人だ!

 という安っぽくてありふれた決めつけ、思い込みを唯一の希望にし、彼の親切心から貰える優しさで失くした記憶の穴を無理やり埋めて――そうして一方的な恋情に似たなにかを抱えることは、ただの現実逃避にしかならないのだろうか。

 それとも、そういった感情を抱いてしまうことすらも含めた「縁」なのだろうか――影と夜。

 切っても切れない黒。月の元で溶け合う黒。

 あまりにも長かった孤独のせいで血迷った考えかもしれない。
 生前の自分が見たらどう思うだろうか……情けない、くだらない、霊媒師としての誇りを、無念を、使命を思い出せ、と嘆くだろうか。

――それとも、未だ思い出せない日陰の位置にいる自分も、同じように誰かを好きになっていたのだろうか……。

 ……やめよう。せっかく作ってもらったうどんが伸びてしまう。

「……そうですネ。すみません、寝起きでちょっとぼーっとしちゃって……ああそうだ、昨日斜堂さんが借りてきてくれた本、とっても面白かったですヨ! 思わず一気に読んじゃって……続きが楽しみなんです!」

 ざわつく心、べたついた不安が足元をそっと撫でるような感覚が気持ち悪く、それを蹴っては振り切るため――悩める悪霊、墓乃上はいつもと変わらぬ明るい声で斜堂へ話しかけた。

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