【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」


「――はい、はい……ええ、分かりました。それでは、明日……はい、よろしくお願いします」

 失礼します。と告げ、ようやく切ることができた通話にひとつため息をつく。
 レポートと家事が一段落つき、昨日買ってきた好きな作家の新作推理小説のページをめくろうか、と茶を淹れ、座椅子に座ったその時。
 なんとも穏やかで静かな夕方の居間に響いたのは、斜堂のアルバイト先である進学塾にいる上司からの着信だった。

 明日の夕方にシフトが入っていたスタッフのひとりが、つい先程原付きで事故を起こし、少なく見積もっても一ヶ月は出勤できない怪我らしい。
 取り急ぎ明日の夕方、急で悪いが代わりに出勤してくれないだろうかという打診だった。
 その事故を起こしたスタッフの彼とはなかなか性格が合わないものだったが、だからといって断るわけにはいかない。それはあまりにも大人気ない。
 都合がいいのか悪いのか、明日の夕方ならなんの用事もなかったものだから、斜堂は上司へ良き返事を返した。

 そうして細かい引き継ぎを聞き終わり、通話ボタンを切り、さぁ今度こそ小説を……と思ったその時、今度鳴ったのはこの部屋のインターホンだった。
 この格安訳ありアパートにおいて、インターホンが鳴ったからといってなにかを映してくれるようなモニターもないし、そもそもマイク付きスピーカーすらない。

「宅配便でーす」

 ドアの外から呼びかけてくる男の声に、人の良い、言い方を変えればやや不用心な斜堂は、なにひとつ疑うことなく玄関のドアを開けてしまった。

「――どうも、こんばんは」

 ドアを開けた前にいたのは荷物を抱えた宅配員ではなく、袈裟に似た和装を着込み、白髪と同じ色をした口髭が堂々とした老人と――「あ、」

 その隣にいたひとりの女性――日よけの帽子を被った中年の女性とは、以前ここで出会ったことがある。

 「慈悲を分ければ命の徳が上がる」と言い、清めの塩と水を自慢気に売りつけに来た胡散臭い宗教勧誘の人――「えっと……」

「あの、なんの用ですか……?」

 前回は中年の女がふたりで襲来してきたが、たしかあの時、ここに住み憑く幽霊――墓乃上に悪趣味な幻覚を強制的に見せられ、あの怯えようからもう二度と来ないかと思っていたのだが……。

 斜堂はちらりと自身の横、そして少し振り返って見たが、頼りになる同居人である墓乃上の姿は影ひとつ見えなかった。
 そういえば今日はまだ押し入れから出てきていないのだ。今もまだあの暗い空間の中で眠っているのだろう――情けないことだが、墓乃上なしでこの面倒事をこなせる自信なんて微塵もなかった。

 しかもなんかパワーアップしてるし……。

 もう勘弁してくれ、と軽く頭痛を感じていると、側の女から「先生」と呼ばれた袈裟姿の男が話を始める。

「急に来て申し訳ない……君が斜堂くんだね?」

「はぁ、まぁ……そうですが、」

 このアパートの集合ポスト、そこに貼った名前を見てきたのだろう。ここで「違います」と大胆な嘘でもつければいいのだろうが、可哀想なことに斜堂にそんな器用さはない。

「以前、ここに私の使者が来たかと思うんだがね、」

 使者? と首を傾げると、なぜだか誇らしげな顔をしている中年女とまた目が合ってしまった。
 なるほど。この男に心酔し、あちこちでありがたい説教と胡散臭い塩のセールストークを振りまいている勧誘員が「使者」らしい。

「その時に君へ間違ったことを言ってしまったようでね……謝りに来たんです」

 間違ったこと、とはなんだろうか。生命オーラとやらが病気を防ぐと言ったことか? 幽霊本人から「ただの食塩」だと一蹴された塩を売りつけに来たことか?

 そもそもの話、宅配便だと名乗って家主を騙しに来ていることも人として間違いなのでは?

「この部屋に憑いている悪霊なんだがね……使者の者たちは『事業に失敗して自殺した男の霊』だと言ったが、あれは誤りでしてね……申し訳ない」

「は、はぁ……」

 謝るところはそこですか?
 というか本当に申し訳ないと思うなら今すぐお帰り頂きたいのですが?

「色々こちらで調べましたがねぇ……どうやらここには童の……小さな童の女の子の霊が憑いていると聞きまして、」

 その言葉に内心どきりと焦ったが、なんとかぎりぎり「なぜそれを?」なんて墓穴を掘る間抜けな質問を飲み込むことができた。

 よくよく思い出せば、元々この部屋は自分が借りる前から「訳あり」だったのだ。
 墓乃上はここに来た入居者に対し、初日の晩には自ら登場しては挨拶をしてきた。そのせいで、この部屋は「幽霊が出る部屋」として恐れられ、みな揃って逃げるように出ていってしまったらしい。
 そういう噂話を「使者」を使って丁寧に拾っていけば、「少女の幽霊が出る」という話に辿り着けるのだろう。

「――子供の霊というものは、とても危険な存在なのです」

 まるで余命宣告をする医者かのような深刻な顔で「先生」自らの説明が始まる。
 その背に隠れるよう、斜堂から見れば安っぽい数珠を握りしめた女は、なんとも緊張した表情で「先生」の言葉を聞いているのが滑稽というか、面倒というか……仮にも初対面の相手の目の前で大きなため息をついてしまうなんて、普段から礼儀作法を重んじて生きている斜堂からすれば失礼極まりないと自覚しているが、それでもつい出てしまったそれに対し、彼らはなにひとつ調子が変わることなく勝手に話を進めていく。

「子供というものは本来、魂に穢れがなく、純真無垢なそのオーラで我々の魂の浄化を助けてくれる尊い存在ですが……この世に取り憑いたままの悪霊に成った場合は違います。むしろオーラを蝕む不浄の存在として、あらゆる障害、霊障を引き起こすのです」

 昼間は少し暑かったぐらいの陽気が、読書日和だった休日が、今目の前にいる訳の分からない理屈を並び立てる者によって無駄に過ぎていく。
 徐々に陽が暮れつつあるのも構わずに、それでもなおありがたい説法が止まる気配はない。

 ああもう、いったい自分がなにをしたというのだろう。
 下手に否定しても、もちろん適当に合わせて肯定したって、どちらにせよまた胡散臭い塩やら水やら、そこの女が握りしめている数珠やらを売りつけられるか、ぜひ今度、と謎の集会に誘われるか……いくら考えたって面倒事になる展開しか思いつかない。

 適当に、本当に当たり障りなく適当に聞き流し、ことを荒立てることなくお帰り頂くしかないのだろうか……。

「はぁ、そうなんですか」

 呆れ半分、やる気のない気の抜けた返事をひとつ返すと、そんな斜堂へ今度は憐れむように「先生」は語りかける。

「現に君のその顔色! オーラ! ……大丈夫、言わずとも私には分かる。もうだいぶこの部屋に憑く悪霊に蝕まれているが……安心しなさい、私ならまだ救える」

 なにを言う、救えないのはあんたの頭だ。

 という言葉を口にする勇気はないが、きっと今、自分が思っているよりも軽蔑の表情が顔に出てしまっているかもしれない。

「子供の霊ほど邪悪なものはないのです。人のオーラを喰らい、魂を穢すことを楽しみ、それでいて心優しき善人を苦しめることを喜ぶ……この世に存在してはならない、不浄で、邪悪で……斜堂くん、君を苦しめる諸悪の根源はそんな悪霊なんだよ」

 色鮮やかな数珠が手首に何重にも巻かれた右手を差し出された。
 大丈夫、私なら君を救える。そう口にし、さぁ、この手に縋って救いを求めろ、それを歓迎してやろう、という表情をするその顔が、変わらずに穏やかな声で語りかけてくる。

「このままだと君はそんな悪霊に魂を穢されて……最悪、人生が破滅しかねない。子供の悪霊というものは、そうやって人を苦しめることだけが楽しみなんだよ、だからこそ死してなお醜く現世に残り、人の魂を、生命力を喰らう悪鬼になっている……でももう大丈夫、安心なさい」

 この世に存在してはいけない、そんな邪悪な存在なんて、この私が滅してあげよう。

――恩着せがましく差し出された手も、言葉も、もう全てが限界だった。

 かっと血が上る感覚に合わせ、自分の中で冷静な理性が言うのだ。
 
――こんな人間、今後もう二度と合わないじゃないか。
 だからいいだろう?

 そう言って「ことを荒立てない」「他人には常に礼儀正しく穏やかに」という糸を、冷たい鋏で躊躇いなくぱつんと切った途端、今まで言い返すことを控えていた口から感情的な反論が出てはもう止まらない。「――……ふざけないでください、」

「ふざけないでください、あなた達にあの子のいったいなにが分かるというんです? なにを知っているんです?」

 あの子はあんた達にそうやって好き勝手貶されていいような子じゃありません!
 素直で、律儀で、健気で……あの子がどんな思いで、ひとりぼっちで残されたこの時代で、失くしちゃった思い出をひとつでも思い出そうと頑張っていると思っているんですか!?

「あの子の苦悩も知らないくせにいい加減なこと言わないでください! だ……大体、宅配便だなんて言って騙して、散々脅して勧誘なんて、あんた達のほうが幽霊よりよっぽど悪いじゃないですか!」

――こんな着物、持ってた覚えない!

 そういって自身の身体を見下ろしながら、不安と混乱で見開かれた目に、蒼白する顔を覆っていた白い手の指先が微かに震えているあの時の姿――なんて悲痛な姿!
 それなのに、隣にいた自分は情けなくもなにもしてやることができなかった。
 そんな自分に対し、心配をかけて悪かったと謝罪と気遣いを口にした時の弱々しい笑みと、涙で潤んだ幼い顔が忘れられない。

 そんな子がなんでここまで、なんにも知らない他人から好き勝手言われなきゃいけないのだろうか――!

 咄嗟――考えるよりも先に、バイト先との通話が終わったばかりでたまたま手に持ったままだったスマホを彼らへ見せていた。「あ、あの……!」

「い、今までの脅しみたいな勧誘、全部録音してますから……次に来たら警察呼びますから……! もう帰ってください!」

 救ってやると差し出された手も、偽善に酔った知ったかぶりな目も、全てを拒絶するのにドアを思い切り閉めた。
 
 ――他人に……他人に対して、こんなに声を荒げて言い返すなんて……。

 震える手で鍵を締め、そのままドアノブに縋るようにずるずると座り込んでしまった。
 耳元で喧しく、喧しく、破裂してしまうかのような勢いで鳴っている鼓動と、動揺と緊張でうまく吸えずに息苦しく荒くなる呼吸――それに混じり、ドア越しに聞こえた「彼はもうダメだ、救えない」という声と、階段を下って遠ざかっていく彼らの足音。

 それでもしばらく立ち上がることができなかった。
 彼らへ見せたスマホは斜堂の震える手から足元へ滑り落ちた。それを拾う余裕もなかった。

 録音しているなんて嘘だ。ただのハッタリだ。
 
 普段の自分なら絶対にやらない、否、できない嘘も、反論も、気がついた時にはもう止まらなかった。
 
 なにが悪鬼だ、不浄な存在だ、諸悪の根源だ!

 自身がこの人生で初めて他人へ激情に任せた反論をした、ということ自体にも苦しい動悸と嫌に滲む汗の気持ち悪さを感じ混乱していたが、それでも罪悪感というものより、彼らが散々無責任に語っていた内容への憤りの感情のほうが未だ強く胸の中に燻っている。

「――斜堂さん?」

 情けなく座り込んだまま動悸から来る吐き気に酔っていると、背後から自分を呼ぶ声に驚いて振り返る。

「墓乃上さん……」

 彼女が今、自分を見つめる瞳にも動揺の色があった。
 そんな揺れる瞳に耐えられず、心配かけまいとようやくなんとか立ち上がることができた。「……おはようございます、」

「あ……えっと、今日のご飯は……」

 今日のご飯は、墓乃上さんが好きな焼き鮭ですよ。
 なんて日常的で、極々普通で平凡な言葉で彼女へ話しかけようとするも、墓乃上の問いかけが重なり打ち消される。

「……珍しいですネ、斜堂さんがあんなふうに強く言うなんて」

 驚いた、というより、心配する声音で静かに訊かれる。

「……すみません。みっともないところ、見せちゃったみたいですね」

 彼女はいつから見ていたのだろうか……まったく気が付かなかった。彼女は自分のことで精一杯なのだから、こんな、こんなくだらないことで心配かけたくなかったのだが……。「……悪霊を庇うなんて、」

「悪霊を庇うなんて、それこそ霊媒師がやればいいんです。……斜堂さんがあんなふうに言い返して、わざわざ他の人間から奇異の目で見られるようなこと……しなくていいんですヨ」

 ご迷惑おかけしました。と静かに頭を下げるその姿に思わず聞き返す。
 この墓乃上、と幼くも堂々とした自信に溢れる表情も、いつも見せてくれる八重歯が愛らしい笑みも消え失せたその顔に。

「……なんでそんなこと言うんですか」

「事実だからです。悪霊なのも、この世にいてはいけない、ということも」

「……でも、それでもボクは……」

 あなたがいるから、息継ぎができる。

 息継ぎ? と斜堂の掠れた呟きに首を傾げるも、彼からそれに対する答えは戻ってこなかった。
 その代わり返ってきたのは批難に似た言葉だ。「――墓乃上さんって、」

「意外と自己中なんですね」

「……?」

 ようやく緩やかに血が下がり、緊張も落ち着いた斜堂はいつもと変わらず台所に立っては茶を淹れる支度を始めた。

 湯沸かしケトルに水を入れ、急須にほうじ茶のパックを放り込み――そうして普段となにひとつ変わらない、この六畳一間でのささやかなお茶会が完成する。

「……前にも言いましたけど、私、墓乃上さんには色々救われているんです」

 そう話し出す表情も、湯呑を持つ仕草も、とうに何度も見慣れたものだが、それでも言っている内容に関して墓乃上に心当たりはなかった。

 むしろ幽霊の身である墓乃上に対し、斜堂は一方的に精一杯尽くしている、と言ったほうが正しいような気がする。
 極稀に斜堂が適当な幽霊を憑けて帰ってくることがあるため、その度に墓乃上が祓っている、という点では少し役に立っているかもしれないが――。

「墓乃上さんがいるから毎日楽しいですし……日頃、色々と仲良くして頂いて感謝しているんですよ?」

「そう言ってくださるのは嬉しいですが……だからといってあんなふうに庇ってくれなくても……」

 というか自己中ってなんですカ。
 まさか斜堂から言われるとは思っていなかった言葉に対し、ようやくいつもの幼く、感情がそのまま素直に出る表情で訊かれる。「もう忘れちゃったんですか?」

「墓乃上さん、この部屋に私の親戚が来た時のこと……覚えてますよね?」

「え? ええ、まぁ……」

「あの時墓乃上さん、私に対してあれこれ好き勝手言ってくる親戚に怒ってくれたじゃないですか」

「……」

「嫌味なんて今更気にしていないから、と言った私に……墓乃上さん、『そうやって自分の気持ちを守ってあげないなら、誰かが言い返して守ってやらなきゃ』って言ったでしょう?」

「それは覚えてますが……でも私は本当に悪霊なんです。今回は嫌味でもなんでもなく、本当に正しいことを言われただけですヨ?」

「……そこが自己中なんですよ。私のことは守ると言うくせに、傷ついたご自分には助けも擁護もいらないと突っぱねるなんて」

 しとじとと降り始めた僅かな雨音とほうじ茶の香り、いつもはお喋りな口が悔しそうに唇を噛む彼女――さっきまでの動揺が嘘だったかのように、斜堂はそんな彼女へ静かに話を続ける。

「まぁ、私は一般人ですので……墓乃上さんや、さっきみたいな霊感商法をするような人たちが、どんな定義でなにを『悪霊』と呼ぶのかなんて知りませんが……それでも私は、墓乃上さんを悪く言われるなんて嫌です」

 彼がくれたお気に入りのマグカップを持ったまま俯いていた彼女はそのまま少し頭を下げ、小さく礼を口にした。「……ありがとうございます、」

「斜堂さんはいつでも、なんでも分かりやすく教えてくださるから……聞いている内になんだか……その、自然と励まされちゃいますネ」

 そう言った言葉に嘘はなかった。
 
 胡散臭く霊感を騙って商売している部分には霊媒師として腹立たしさを感じたが、自分の存在に対し、悪霊と呼んではあれこれ勝手に言うこと自体にはむしろ納得していた。だって正真正銘、自分は悪霊なのだ。事実なのだから。

 押し入れから這い出ては寝起きの頭でぼうっと玄関を見つつ、ああもう、騒がしいもんだ、前にも追い払ったことがあるが……仕方ない、今回もそうしてやるか、と呑気にあくびをしている内に、斜堂が急に強く言い返しては自分を庇って強引に戸を閉めた様子に驚いてしまった。

 斜堂という人間が幽霊に理解があるというたまたま変わった人間だっただけで、自分はもう何百年も死にきれていない惨めな悪霊なのに。
 人間からどう言われようがそれは揺るがない事実であり、事実を言われて今更怒る気にもなれない。

 そもそも怒ったところでなんになる?
 
 生き返るわけでもない。成仏できるわけでもない。

 結局今までとなにひとつ変わらない、生きてもいない、死んでもいない中途半端な存在であることには変わらないと思っていたのに――死後何百年。全てに諦め冷めた心に、優しき同居人である斜堂からの穏やかな励ましに気がつけばぽろぽろと涙がこぼれ、とうの昔に体温なんか失くした自分の手に落ちていた。

「……今日は嫌なことがありましたし……お夕飯の後、気分転換にアイスでも食べましょうか」

 優しい声と一緒に差し出されたのは、小さな赤い飾り紐がお気に入りの、彼が「お供え」してくれた可愛いハンカチ――「泣いてたらご飯、食べられませんよ」

「今日のご飯、墓乃上さんが好きな焼き鮭なんですから……好きなものを食べて、美味しいデザートを食べて……忘れちゃいけないこともたくさんありますけど、忘れたほうがいいことだってたくさんあるんですよ、墓乃上さん」

 墓乃上は差し出されたハンカチで強引に目元を拭い、そう笑ってくれる同居人に頷いていた。
 そうですネ、とひとつ答えると、彼もまた安心したように小さく頷き返してくれた。

「……あれこれ言われたのは忘れますけど……私、斜堂さんが庇ってくれたのは忘れません」

「そうですか……それは嬉しいですね」

「斜堂さんと食べる美味しいご飯も、お菓子も、……この墓乃上、忘れません」

「ええ、私もです」

「……ねぇ斜堂さん、」

 命を失くした無温の涙を受け止めるハンカチを強く握りながら、彼女は震える口元で少しだけ笑ってみせた。

「私……生きてた時も、斜堂さんみたいな優しい人、と……会ってたのかなぁ……?」

 墓乃上という彼女の理性を映す拙い敬語も纏わぬ心からの問いに、斜堂はなにひとつ迷うことなく答える。

「……ええ、お会いしてたと思いますよ。……だって墓乃上さん、とっても素直で、頑張り屋さんだから……きっと、それを支えてあげたいって思う人、たくさんいたと思います」

――甘く、優しく、穏やかで、それでいてなにひとつ確証もない答えだ。

 それでも墓乃上の真っ直ぐな性格を、情を知る斜堂はそれを疑うことなく信じ、彼女と向き合う。
 死者と生者――手を伸ばせば触れられるはずの目の前にいるというのに、その頬に流るる涙の一粒すら掬ってやれないなんて、なんてもどかしいものか!

 それでも諦めない。諦められるものか。

 彼女が途方もない記憶の海に独りで沈み、そこから息継ぎに浮かび上がってくる一瞬、その一瞬の理解者でいてやりたい。
 生者である自分だからこそできる支えがあると信じ、墓乃上が目覚め起きて過ごしている間だけでも側にいてやりたい――だってこの子は。

「……あなたがいるから、ボクは……」

「え……?」

「……きっと、墓乃上さんに助けられてた人もたくさんいると思いますよ。私みたいに……」

「…………」

 暮れた夜の外は雨脚が強くなったらしい。
 このアパートの古ぼけた窓ガラスを叩き、濡らし、流れていく音が部屋にも入ってくる。

 そんな騒がしい外とは反対に、彼女の口は暫しの無言を選んだ。
 そうして少しばかり涙が引き、震えはなくなった口元でほんの僅かに笑ってみせた。「……だったら、」

「だったらみんな……みんなのこと、さっさと思い出してやらなきゃ、ですネ」

「ええ、そうですね。……だから嫌なことなんかさっさと捨てちゃいましょう?」

「……あいすを食べて?」

「ふふ、墓乃上さんが好きな雪見だいふく、ありますよ」

「なんと……!じゃあはんぶんこに、ですネ!」

 ようやく持ち前の明るさが滲んできた言葉、泣き顔を拭い捨てて笑う墓乃上の姿――ああ、そうだ、こんなふうに素直で、健気で、なによりも前向きな――自分にはなにひとつ無いものを強く持っているこの子の純情で、ひたむきな姿に、自分の死んだ心は動かされたんだ。

「ああ、そういえば……雪見だいふくって、あいすはふたつ入っているのに……なんで楊枝は一本だけなんですかねェ?」

「……さぁ……?」

 本当に嫌なことは全て丸めてゴミ箱へ叩き込み、綺麗さっぱり片付けました! といった感じで、普段となんら変わらず気ままな疑問に首を傾げる幽霊を前に、現代を生きる人間である斜堂は手元のスマホを取り出してはネットの海に答えを求めてみる。

「うーん……」

「お、なにか分かりましたカ?」

「……すみません、なんで一本しかないのかはちょっと分かりませんでしたが……なんでもあの楊枝、ハートとかウサギとかが描いてある珍しいものがあるらしいですよ」

 「レア! 持ち手にハートがある楊枝が入ってたらラッキー!」「ウサギはもっと珍しい!」なんて特集されているページに思わず感心してしまう。
 墓乃上にも画面を見せてやると、「なんと……!」と、彼女が驚いた時お決まりの口癖が聞こえた。

「入ってたらいいですねェ、ウサギ」

 そうにやつくご機嫌な様子に、彼女の理解者兼保護者でありたいと思っている斜堂は一言、「その前にご飯の準備しますよ」と平和的な注意をひとつした。

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