【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」
――私には気になることがある。
最近はもう、本を読んでいても、ひとりで昼に用意してもらったお弁当を食べていてもふと考えるようになってしまった。
「――宅配便でーす」
なんて声が玄関から聞こえ、この部屋の主――斜堂さんは、「大学のれぽーと」とやらを作る手を止め、ひとつ返事をして玄関に行ってしまった。
その隙を縫うよう、部屋の隅で大人しく本を読んでいた墓乃上は手元の本を置き、そっとちゃぶ台の側に寄ってみる。
ちゃぶ台の上には本と、なんでもできるという「のーとぱそこん」とやら、そして湯呑に入った「なにか」――そう、これだ!
見た目は黒に限りなく近い茶色で、香ばしいような……しかしお茶とは違うように感じる不思議な香りがするこの飲み物は、いったいなんだろう。
よくよく思い出せば、斜堂さんは買ってきた本を一気に読みたい時や、今回のように「れぽーと」を作ったりと、なにかしら集中したい時に飲んでいるみたいだ。
ある日ふとそれに気がついてからというもの、頭の中はその「不思議な飲み物」でいっぱいになってしまった。
茶とは少し違うような香りに、深い深い黒に似た色、そしてなぜこれが読書や「れぽーと」作りのお供になっているのか……少なくとも今思い出せる限りの記憶では、室町にそんな飲み物、なかったと思う。
主が席を外したそのちゃぶ台に乗ったそれを見ると、その湯呑には見覚えがあった。
そうだ、そういえば前にこの湯呑でお茶を淹れてもらって飲んだことがある。
……ということは。
一度斜堂さんから「お供え」してもらったものなのだから、きっとまだ触れるはず――恐る恐る手を伸ばすと、幽霊の手でもしっかりと持つことができた。
まだ淹れたてで温かい温度が、湯呑の無機質な物体を通してでも感じることができた。
これを飲んだらどんな味がするのだろう。
そもそもこれはいったいなんという飲み物なんだろう。
斜堂さんはなんでこれをたまにしか飲まないのだろう――「墓乃上さん?」
「どうしました?」
急に聞こえたその声に肩がびくりと飛び跳ねる。
いつの間にか玄関から戻ってきた斜堂からの問いに、なにか責めるような、怒っているような色はない。
ただただ不思議そうな顔で訊いているだけなのだが、反対に墓乃上の内心は、まるでつまみ食いがバレた猫――否、犯罪現場を見られてしまったかのような恐怖で、うまく答えを返すことができなかった。
「あ、あの、その、私……」
「……それ、お茶じゃないですよ?」
「お茶じゃない……?」
「なにか飲みたいならお茶淹れますよ。麦茶とほうじ茶、どちらがいいです?」
幽霊は空腹感も、喉の乾きも感じないというのに、もうすっかりそんなことは忘れてしまったのか、この人が良すぎる家主はそう言って湯沸かしケトルに水を入れるのだ。
「あ、あの、斜堂さん……」
「どうしました?」
「お茶じゃないって……じゃあこれ、なんなんです?」
不思議と謎に満ちた飲み物が入った湯呑を持ってそう訊くと、彼はひとつ軽く答えてくれた。「……ああ、」
「それは『コーヒー』ですよ。お茶は葉っぱを使ってできる飲み物ですが……それは特別な豆を炒って、砕いて、そうやってできる飲み物です」
「こーひー……」
「ああ、もしかしてそれを飲みたかったんですか?」
幽霊どころか墓乃上という人物に慣れすぎた斜堂は、彼女がなにを言いたかったのかすぐに理解することができた。
しかし大抵のことはできる範囲で彼女の意向(というかワガママ)を聞いてきた斜堂だが、今回は少し困ったような顔で言葉を続ける。「……でもなぁ、」
「……墓乃上さんには合わない気が……」
「合わないって?」
「なんと言いますか……うーん……コーヒーは大人の味なので……」
そう言いながら墓乃上のために淹れてくれたほうじ茶からは、いつもと変わらぬ安心する香りが湯気と共に立ち上る。
ノートパソコンや本で埋まっているちゃぶ台の邪魔にならぬよう、墓乃上はその小さな両手で湯呑を持っては押入れの襖に寄り掛かるように座る。
いつもなら斜堂が淹れてくれるお茶に不満なんてない。それどころか、わざわざ幽霊のためにここまでしてくれるなんてありがたい限りだ、と感謝してもしきれないのだが、今回は正直、手元のほうじ茶より「大人の味」という不思議なふたつ名を持った「コーヒー」が気になって気になってしょうがない。
「『大人の味』って……どういう意味なんですカ? どんな味がするんです?」
パソコンを前に座り、コーヒーが入ったマグに口をつける斜堂に思わず訊いてしまう。
そんな彼女からの期待がこめられた問いに斜堂は内心、しまった、と呟いていた。
墓乃上という幽霊は好奇心が強い。
「大人の味」だなんて意味深な言い方で誤魔化せば、より一層興味を引いてしまうなんて分かりきっていたことなのだが……仕方ない。
これ以上ヘタに誤魔化してもきっと満足はしてくれないだろう。これはもう実際飲んでもらって、なぜ貴方に合わないと思ったか、ということを実体験してもらうしかない。
「そうですねぇ……じゃあ少し飲んでみます?」
そうひとつ訊けば、嬉しそうな満面の笑みで明るい返事が返ってきた。
……正直、気が引ける。
*
「――どうぞ、熱いので気をつけてくださいね」
そういってインスタントコーヒーを淹れてやったマグカップを渡してやると、待ってましたとばかりにご機嫌な様子だ。
「これが『コーヒー』……! 『大人の味』……!」
ニコニコと弾む声で呟く少女の幽霊を前に、斜堂は正直、ある意味罪悪感に似たものを感じていた。
これがまだ砂糖たっぷり、ミルクたっぷりなコーヒー牛乳ならまだしも、今台所にあるインスタントコーヒーは、自身が眠気覚ましの代わりに飲んでいたブラックコーヒーなのだ。
牛乳はそもそも今、冷蔵庫にない。せめて砂糖ぐらい入れて渡してやりたかったが、グラニュー糖なんてものも買っていない。
子供だからブラックコーヒーなんか飲めやしない、と決めつけるのもどうかと思うが、この墓乃上という幽霊は甘いものが大好きな少女――「ありがとうございます斜堂さん、」
「それじゃあいただきますネ!」
という元気な台詞の次に聞こえたのは、「ほびょっ!?」なんて尻尾を踏まれた猫のような声だった。
「にっ……!? にがいっ……! えっ……!?」
「あーあ……」
目を白黒させ、あまりの苦さに混乱している彼女を前に斜堂は、自身が思っていた予想通りの展開になってしまったことに呟いていた。「だから言ったじゃないですか、」
「墓乃上さんは甘いものがお好きですし……正直、お口に合わないなと思ってたんですよ」
「しゃ……斜堂さんはなんで、本を読む時とか、大学の宿題やる時にこれ飲んでるんです……?」
さっきまでの笑顔はどこへ行ったやら、しょぼしょぼと落ち込んだ顔をする墓乃上へ口直しの水を渡してやる。
「これには眠気をなくしたり、集中力が上がる効果がありまして……まぁ、気付け薬のようなものです」
「なるほど……てっきり私、色が似てるから……前に斜堂さんが買ってきてくれた『ちょこれいと』みたいな味がするのかと思ってましたヨ……」
まだ口が苦い気がする、なんて弱々しく呟く様子に心配になるが、そんな斜堂を前に墓乃上はあまりの苦さに半泣きになった目でひとつ笑った。「斜堂さん、せっかく淹れてくれたのにすみません、」
「『大人の味』って意味、十分分かりましたヨ」
私はどうやら『大人』になれなかったみたいですねェ。
*
――そう言ったあの時の彼女に、深い他意はないのだろう。
「大人の味」だと教えたコーヒーが飲めなかっただけの話で、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。
しかしあの時、斜堂の心に氷柱のようなものが突き刺さったのは、そんな彼女の何気ない一言だったのだ。
――大人になれずに死んだ子が笑って言うには、あまりにも無情で虚しい言葉だ。
引っ越してきてからというもの、もう何度も通い慣れたスーパーで買い出しをする。
じりじりと夏の気配をまとった日差しも、暑さも、屋外に居座る熱気など無縁のようにクーラーで冷えた店の中で、切らした調味料や野菜をカゴに放り込み、そのままカートを押して進んだのはインスタントコーヒーやココアパウダーが並ぶ棚――斜堂はその棚を前に、暫し悩んだ。
「『ちょこれいと』みたいな味がするのかと思ってました」と言った彼女の言葉に、イメージに合わせるなら、今ここで買うべきはココアパウダーだが……本当にそれでいいのだろうか。
「大人になりたい」と期待した彼女の気持ちを叶えてやりたい、という気持ちもある。が、いくら甘そうなインスタントコーヒーでも、万が一また苦い、と言って再度あんな落ち込んだ顔を見ることになってしまったら……と思うと、なかなか選びにくい。
……さて、どうしたものか……。
迷いに迷い、ようやくひとつ手に取った「それ」をカゴに入れ、そのまま会計しては真っ直ぐ帰った。
「――あ、おかえりなさい斜堂さん!」
買い物から帰って玄関を開けるなり、いつもと変わらぬ明るい声が飛んでくる。
眠っている時は別だが、起きている時はたとえ本を読んでいようが、お絵かきに夢中になっていようが、一旦手を止めて玄関までとたとたと来てくれるその姿に、斜堂もいつもと変わらず返事を返す。「ただいま、墓乃上さん、」
「今はなにしてたんですか?」
「今? 今は斜堂さんからもらった算術の宿題をやってたんですヨ! あとで採点してくれませんカ?」
「ええ、もちろんです」
宿題、といっても、ネットで見つけた教材をプリントしただけのものを渡しているだけなのだが、生前の記憶探しに繋がるかもしれない、と熱心に取り組む健気な姿勢には本当に感心してしまう。「じゃあ墓乃上さん、」
「少し休憩しましょうか。……私も一息つきたいですし、採点はそのあとで」
「はい、分かりました!」
いそいそとちゃぶ台に広げていたプリントや筆記用具を片付ける様子を伺いながら、斜堂は今買ってきたばかりの「それ」の封をこっそり開け、中身を掬ってはマグカップに二杯、三杯と入れてやる。
そうして彼女お気に入りのクッキーと一緒にちゃぶ台へ置いてやると、甘党な幽霊は驚きの声を口にした。「なんと……!」
「これ、もしかしてコーヒーですカ? いや、でも色味が……これはいったい?」
彼女が指差したマグカップの中で温度を持っている「それ」はコーヒーではなくミルクココアなのだが――室町時代に生きていた墓乃上にその区別がつくわけでもなく、また、斜堂もそれを教える気はないのだ。
「ええ、コーヒーですよ。……でも、前に買っていたやつは売り切れちゃってまして……これしか売ってなかったんです」
「なるほど……どうりで色とか香りも違うんですネ……」
「ええ、コーヒーもお茶みたいに色々と種類がありますから……もしかしたら墓乃上さんも、こっちのコーヒーなら飲めるかなぁって思って」
我ながら無茶苦茶な嘘をつくもんだ、と内心呆れるが、そんなずるい大人の嘘を前に、なにも知らない悪霊は「そうなんですネ!」なんて純粋に喜んで声を弾ませる。
「前回はちょっとびっくりしちゃいましたが……この墓乃上、『大人の味』とやらにもう一度挑んでみせましょう!」
ミルクココア相手にここまで気合を入れる姿を前に、お前、こんな子を騙して胸が傷まないのか、ともし誰かに訊かれれば、痛いに決まっているでしょう、と斜堂は迷わず返す。
そう、彼女へ嘘を騙る内心は痛むが――彼女が笑ってくれるとあらば、そんな痛み、どうでもいいことに等しいのだ。
「――凄い! 甘い!」
前回口にしたブラックコーヒーの衝撃が忘れられないらしい。
恐る恐る緊張した様子で一口飲んだかと思うと、それはそれで衝撃を受けたように墓乃上は目を丸くしてカップを見つめている。「なんと……!」
「これは凄い……! 前のとは全然違いますネ!? ちょこれいとみたいな味がして……甘くて美味しいです!」
なんて素晴らしい! ああ、室町にもあったらよかったのに……!
なんて感動している姿を前に、ココアパウダーが入った袋は見つからないよう、戸棚の奥の奥へ隠した斜堂は一緒になって笑ってやる。「――よかったですね、墓乃上さん、」
「美味しそうでなによりです」
「ええ……! ふふ、この墓乃上、ようやく『大人の味』が分かりましたヨ! これで私も『大人』ですネ!」
そう胸を張る屈託のない笑顔、無邪気な言葉に声、口の端に少しついたココアの汚れ――口についてますよ、と「お供え」してある布巾を渡しながら斜堂は思う。
――嘘でもいい。死後でもいい。
今目の前にいるこの子が大人になれた、と喜ぶなら、それを支えるための嘘なんかいくらでもついて、ついて、汚い大人だといつか言われようがそれでもいい。
五百年も死にきれなかったこの子に必要なものは、きっと、こんなにくだらなくて、ありふれた嘘だと信じている。
温かい牛乳に溶かし込んだココアの甘さは、室町生まれの悪霊すらあっという間に虜にしてしまったらしい。
「こんなに美味しいもの……私だけ頂くなんてとんでもないです。ねェ斜堂さん、一緒に飲みましょうヨ! これ、すっごく美味しいコーヒーですヨ!」
まさかそう呼びかけた家主に騙されてるなんて微塵も思ってない彼女の誘いに、斜堂はいつもと変わらず優しい声で頷いてやるのだ。
「ええ、そうですね。じゃあ今日のお茶会はコーヒーで、ですね」
この詐欺師め。
という自責の言葉が思い浮かんだが、聞こえないふりをした。