【現パロ】大学生の斜堂さん+座敷わらし少女「お座敷暮らし」
引っ越しというものは、いつ、誰がやっても苦労するものなんだろう。
それはこの痩身の大学生、斜堂影麿も同じことだった。
元より体力に自信がある方ではなかったが、ひとり暮らしに最低限必要な家具、家電、それと趣味で集めた本がぎっしり詰まったダンボールを引越し業者に運んでもらったまではいいが、それを開け、片付けるだけでもあっという間に一日の時間と体力を使い果たしていた。
都心から少し離れているとはいえ、一応東京都内。
最寄り駅まで徒歩5分だと不動産屋から紹介された時は信じていなかったが、歩いてみれば本当に徒歩5分、おまけにコンビニまでは徒歩3分という奇跡的な立地に加え、この斜堂という男が強く惹かれた条件がさらにある。
――ここ、かなり日当たりが悪いんですよねぇ。
そう言った不動産屋のくたびれた顔には、そのせいで何度クレームを貰ったことか、と書かれていた。
「どのぐらい悪いんですか?」
「あー……前に住んだ人は、『日照権』って知っていますか、って捨て台詞残して夜逃げみたいに引っ越ししちゃいましたよ」
「そんなに酷いんですね……」
「まぁ、だからこそ和室の6畳ワンルームとはいえ、風呂とトイレ別、駅近、コンビニ近くで4万5千円っていう破格の家賃なんですけどね」
「いいじゃないですか……ぜひここでお願いします」
「……本当に日当たりには期待しないでくださいね?」
ええ、もちろんです。と答えた言葉に嘘はない。
世の中、誰も彼もが暖かな日差しを求めているわけではないのだ。
実際部屋に来てみれば、本当に日照権という概念が世界から失くなったかのように薄暗く、それでいて少しばかり湿気が多いような静かな部屋だった。
ああ、なんて最高の空間!
地元を離れて大学へ進学したこの春、新生活を始める部屋としてはこの上なく自分に合った部屋だろう。
地元では祖母と母との3人暮らしだったが、昔ながらの畳部屋しかない家だったからか、この新居の古びた畳すらありがたく感じる。
お世辞にも綺麗とは言い難い外装故に、あまり期待していなかった風呂場はなんとつい最近リフォームをしたばかりらしい。
お陰で特になにも困ることなくシャワーを済ますことができた。強いて言うなら給湯器の機嫌が悪かったのか、42度のシャワーを出そうとすると、どう考えても50度に近いのではと感じるぐらい熱い湯が出て驚いたぐらいだ。
これが熱烈な歓迎、というものだろうか……疲労で鈍る頭の中で、普段は高い位置でひとつにまとめて結い上げている長い髪を拭きながら、ついそんなくだらないことを呟いていた。
そして最低限の荷物――食事に使う小さなちゃぶ台、座椅子、食器、湯沸かしケトル、それと布団だけを出し、とりあえずコンビニで買ってきたカップ蕎麦の蓋を開ける。
綺麗好き、というよりはやや強迫観念の入った潔癖症としては今すぐにでもこの部屋を隅々まで掃除したいところだが、すっかり日が暮れた中、まだ初日だと言うのにもう既に腰が痛いこの疲労で掃除を始める気にはなれなかった。
続きは明日やろう、たしか駅前にはダイソーがあったはず、まずはそこで掃除に使う諸々を買ってこよう、と思案しながら質素な夕食を済ませ、敷布団を広げるのに邪魔になるダンボールの山をぐいぐい押して部屋の隅へ追いやる。
ぎっしりと本が詰まった箱を持ち上げるに必要な体力というものはもうとっくに力尽きていたが、それでも服やちょっとした雑貨だけが入っただけの比較的軽い箱はまだ持てるだろうと、これもまた昔ながらの襖を開けるタイプの押し入れに入れようとその襖に手を掛ける。
が、本来ならば横へ滑り、すとんと開くはずの押し入れは、いくら力を入れてもびくともしない。少しでも開く気配がない。
なにかが中でつっかえているのだろうか――しばらくはガタガタと襖を揺らしてみたり、再度開けようと力を入れても、この頑固な押入れ相手には全て無意味だった。
「えぇ……」
思わず情けないため息が出てしまう。
暗く、陰鬱な場所が好きな自分にとって日照権などどうでもいいが、この狭い6畳一間という部屋において、唯一の押し入れが使えないというのはなかなか……いや、かなり困る。
明日も開かなかったら……しょうがない、ダイソーに行く前に不動産屋に電話しよう。
押し入れが使えない今晩は仕方ないので、軽いダンボールは玄関まで運んで追い出し、ようやく敷布団を広げ、いつからか手放せなくなった睡眠薬を2錠口に放り込んでは布団に潜る。
電気を消した部屋の中、ふとアラームを付けたかどうか少し不安になり、億劫だが枕元に置いたスマホに手を伸ばす。
今は午前1時半とちょっと過ぎ、アラームの設定は午前7時――少し物足りない気もするが、今飲んだ睡眠薬なんてただの気休め。もうあまり効かない身だ。
どうせいつも浅い眠りで起きてしまうのだから、長く寝ようが少しだけ寝ようがあまり変わらない。
アラームがちゃんと鳴るようになっていたと確認し、その眩しい画面を消してはまた布団に潜る。
もう大して期待していない薬がじわじわとゆっくり効いてくるのを待つだけなのだが、今日はさすがに色々と疲れていたからか、比較的いつもより眠気の迎えが早かった。
――が、その眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
がたっ、がたがたっ、ごっ。
真っ暗な深海のように静かだった部屋の中、いきなりそんな物音がすれば誰だって起きるだろう。
それも人よりも神経質な斜堂なら尚更だった。
思わず驚いた猫のように身体を起こし、その異質な物音が鳴ったのはどこだと首を傾げる。
……まぁ、もうだいぶ古いアパートなのだ。隙間風ぐらい普通に入ってくるだろう。
そういえば祖母の部屋も、もうかなり窓枠が傷んでいて隙間風が酷かった。いつぞやのこと、見かねた自分がホームセンターで買ってきた目張りのテープで塞いでやったこともある――そう思い出した頃には、ダイソーの次はホームセンターに行かないと、と頭の中で予定が組み上がり、ひとつため息をついては再度布団に入ろうとしたその時だった。
――がらっ。
そう、それは到底隙間風なんかには出せない音――あの頑固な襖が開いた音。
その音に心臓が跳ね上がり、もう限界だった。我ながら感心するほどの素早さで起き上がり、照明のスイッチに飛びついていた。
「うわ、」
暗闇から一転、部屋全体を照らす明かりの眩しさに声を出したのは自分ではなく――祖母の部屋にあった市松人形。によく似た、赤い着物に、黒髪を綺麗に短く切りそろえた少女だった。
彼女は照明の明るさにその大きな目を細め、困ったようにこちらを見ては視線が合う。「ちょっと、」
「いきなり明るくしないでくださいヨ」
*
ひとり暮らしには足りるが、ふたりとなるとやや狭く感じるちゃぶ台を挟み、斜堂と『少女』は対面に座ってはお互い正座していた。
だからといってなにを、なにから、どうやって聞けばいいのか分からず――というより、そもそもこの『少女』は一体誰なのだろうか。「あの……えっと……」
「ど、どちらさまですか……?」
情けなくも、それがようやくやっと口から出た言葉だった。
「この部屋に住み憑いてる幽霊ですヨ」
斜堂とは反対に、そう答える彼女の態度ははっきりしていた。
中学生――いや、小学校高学年かどうかも怪しいその幼い顔つきで、子供が覚えたての言葉を話すかのようにこれまた拙い敬語で彼女は話す。「正しくは部屋というよりは押し入れですネ」
「ここの押し入れ、なんかとっても落ち着くんですヨ」
「じゃ、じゃあ……その、今日押し入れが開かなかったのはあなたがいたから……ですか?」
「え? ああ、それは違いますヨ。あれは前々から立て付けが悪くて……なんでもかんでも幽霊のせいにしないでください」
「す、すみません……?」
まったくもう、と頬を膨らませる彼女につい反射的に謝ってしまった――が、そもそもなんだろうか、この状況は。
こんな夜更けに子供がわざわざこんなボロアパートにまでイタズラに来るか? それともこのアパートに住む子供なのだろうか? なぜ押し入れにいた? とりあえず警察でも……いや、なんて言えばいいのだろう? 押し入れから自称幽霊の女の子が出てきました、なんて言ったら睡眠薬どころではない。下手したら入院コースだろう。元から薬頼りの学生が、ひとり暮らしのために上京するもうまく馴染めなくて病んだ幻覚……そう言われても当然だが、どうにかそのまま入院コースの上に立つのは勘弁願いたい。
睡眠薬で鈍っていたはずの頭がこの上なくぐるぐると忙しく廻り、言葉に詰まっていると今度は彼女から問いかけられる。「人間よ、」
「あなたの名前は?」
なによりも単純でシンプル。そんな質問が飛んできたものだから、ぎこちないながらも言葉が詰まっていた喉からまともな返事をようやく返せる。
「しゃ……斜堂影麿、です……」
「しゃどうかげまろ、ですか……良い名ですねェ」
「そ、そうでしょうか……」
「私の名は墓乃上、墓乃上みつよです」
丑三つ時、墓石の上に立つ霊媒師、という誇りある名前なんですヨ!
そういって堂々と胸を張り、誇らしげな顔で高飛車に笑うその姿に、自分が今まで漠然とイメージしていた「幽霊」という不気味で恐ろしい存在があっという間に砕け散っていた。
「はかのうえ、って凄い名前ですね……押し入れに住んでるのに」
「だって私のお墓、もうどこにあるのか分かんないんですもん」
「はぁ……だからってなにも押し入れに住まなくても……というか墓乃上さん、でしたっけ……あなた本当に幽霊なんですか?」
あんなに驚いて飛び起きたのが馬鹿らしくなるほど、もうすっかり恐怖というものはなくなっていた。
今ある感情は、よく分からないこの状況を、厄介事を誰か消してくれないだろうか、という困惑だった。
「はぁ? もしかして信じてないんですカ? わざわざ夜中に押し入れから出てきてあげたのに?」
「え、あれって私を怖がらせるためにわざわざタイミング図ってたんですか……?」
「たいみんぐ?」
知らない言葉を聞いたオウムのように首を傾げるその様は、本当にただの子供だ。
ある意味、幽霊だと言われても信じるほうが難しいぐらいに。「まったく……しょうがないですねェ、」
「これでどうです? 信じます?」
彼女は部屋の端に寄せていたダンボールへ手を伸ばすも、その白くて細い手は無骨な箱へ触れることなく、水面へ静かに沈むように飲み込まれていった。
「この箱は斜堂さん、あなたの持ち物なので私が触ることはできません」
どうですカ? 信じてくれましたカ?
もう一度首を傾げ、こちらに笑いかけるその猫のように大きな瞳と、なにをどうやってもダンボールをすり抜ける彼女の手を前に、それらカオスな状態から逃げようと脳が諦めたのか、今更ながら睡眠薬が意識を強制的にシャットダウンしようとしていた。
そしてふらつく頭を抱え、思わず一言呟いていた。
――ああ、これは入院コースかも。
*
午前7時に鳴るようにしていたはずのスマホは、もうそんなに起きないならずっと寝てろ、と機嫌を損ねたのか、8時には持ち主を起こすことを諦めて沈黙していた。
疲れと薬、混乱で痛む頭でやっと布団から出られたのは、もうとっくに午後1時を回った昼下がりのことだった。
今日は1日この新居の片付けと掃除をしようと思っていたのに、昨夜の騒動のせいで寝坊までしてしまった――騒動?
新居に来たからといって特に変わることのない朝の身支度をする手がふと止まる。
あ、と思い出し、迷わず例の押し入れの襖に手を掛けた。「えっと……墓乃上さん?」
「墓乃上さん、いますか?」
あいも変わらず立て付けが悪すぎる襖は押しても引いてもガタガタ鳴るだけで、その向こうからなにか声がするわけではない。
よかった、座敷わらしみたいな幽霊なんていなかったんだ。色々と疲れていた自分が見た悪夢か幻覚の一種なんだろう。
そう安堵すると同時に、そんな自分へ悲観的なため息が出る。
まさかあんな幻覚を見るほどまでに病んでいたとは……。いつまでも市販の睡眠薬なんかで誤魔化せるわけがないのは分かっていたけれど……しかしこのご時世、メンタルクリニックも心療内科も予約が取りにくいと聞くし、第一、まだ全然馴染んでいないこの広い東京で良い病院を探せるかどうか……。
「昼からどうしたんですカ、死人みたいな顔しちゃって」
「いえ、ちょっと病院に行くかどうか悩んでまして……」
「ふーん、斜堂さん病気なんです?」
お大事になさってくださいねェ、という他人事で実にお気楽な言葉に気づいた時にはもうあの襖は開き、まだなにも入れていない(というより入れられなかった)空っぽの押し入れに座りながら、日向に当たる猫のようにあくびをする黒髪の彼女と目が合った。「――え、」
「えっ、……ほ、本当にいる……?」
「いるもなにも、夜にご挨拶したじゃないですカ」
「ま……まだ昼ですけど……?」
「いやァ、なんで人間って幽霊は夜にしかいないって思うんでしょうねェ」
「そ、そう聞かれましても……」
切りそろえた黒髪に白い肌、金の糸で縫われた花が鮮やかな赤い着物、拙い敬語を口にする小さな唇――夜中に見た悪夢か幻覚か、そう思っていた存在が今、まだこの押し入れにいる。目の前にいる。
「そうだ! 斜堂さん、私あなたにお願いしたいことがあって出てきたんですヨ!」
「な、なんでしょう……」
「私、ご飯が食べたいんです!」
「ご飯……?」
幽霊から人間に対する要求というものは、身体を乗っ取らせろとか、魂をくれ、とか、そういった物騒なものかと勝手に身構えたが、目の前にいる彼女はどうやら違うらしい。
「ちょっとでいいんですヨ、煮干しひと欠片とかでも」
幽霊と人間、両手を合わせて命乞いでも懇願すべきは人間のはずなのに、幽霊である彼女のほうが慈悲をくれと手を合わせている。「いや、まぁ……別に構いませんけど、」
「どうやって食べるんですか? 触ろうとしても持てないのでは……」
頭痛に鈍る頭の中で、水面に手を沈めるようにダンボールをすり抜けた彼女の手を思い出す。
あんな調子では箸のひとつも持てないだろう。
幽霊とはいえ彼女はまだ子供――そんな幼い子が食事をしたいと頼み込んでいる姿に、恐怖というものは微塵も存在しなかった。できることならばなんとかしてやりたい、というやるせない気持ちしかなかった。
「それだったら、たったひとつだけ方法があるんですヨ。……でも、これは斜堂さんの協力がないとできません」
「……できる限りのことはしますよ、どうすればいいんです?」
彼女は本当に幽霊か、と思うほど表情がとても豊かで、尚且とても分かりやすい。そんな彼女の瞳がうるうると訴えかけてくる。
「私の前に食べ物を置いて、『お供えします、お供えします、お供えします』って唱えてくれたら食べられるようになるんですヨ!」
あまりにも拍子抜けだ。もっとこう、霊的な儀式じみたものが必要かと思っていたが、なんとも簡単すぎる協力に半信半疑になる。
が、疑ってもしょうがないことだ。
気がつけば買いだめしていたカップうどんの蓋を開け、湯沸かしケトルからお湯を注ぎ、スマホのタイマーが4分後に鳴るようにタップしていた。「これは?」
「これはなんですカ?」
「そうですね……時計が鳴ったらできあがる不思議なうどん、です」
軽く閉じた蓋の隙間から漏れる湯気さえも不思議そうに、なんの変哲もないカップうどんをせわしなく見つめるその様子に、斜堂は祖母の友人が飼っていたオウムのマーくんを思い出していた。
彼も好奇心が旺盛で、お茶しに行った祖母を迎えに行くついでに少し遊んでやろうと指を差し出すと、ちょうど今カップうどんを見つめる彼女のようにせわしなく動いては可愛いものだった。
が、ある日いきなりあの大きなくちばしで人差し指の付け根を思いっきりつねってきた日を境に会わなくなってしまった。
ある意味ケンカ別れというやつだろうか。今はどうしているだろうか。まだ孫のミキちゃんから強奪したリカちゃん人形相手に求愛でもしているだろうか――そんなことをぼんやり思い出していたが、スマホのタイマーが思い出から現実へ引き戻してくれた。
鳴り響くスマホを止め、蓋を剥がし、ダシの効いた汁が香るキツネうどんを彼女へ差し出す。「どうぞ、」
「不思議なうどんができましたよ」
「なんと……!!」
目をきらきらと輝かせ、あまりの感動からか小さく拍手する彼女に、気がつけば自然と両手を合わせ、彼女から頼まれていた「協力」を口にしていた。
「……お供えします、お供えします、お供えします」
正直なにがどう変わったのかは分からないが、唱え終わると同時に彼女はその手でしっかり、うどんと一緒に差し出した箸を握った。「斜堂さん……!」
「ありがとうございます! いただきます!」
どこにでもいる人間と変わらず、箸も器も普通に持ってはうどんを啜る姿に驚いてしまう。
まさか本当にこんな、こんな呪文とも言えない簡単なことで幽霊が食事できるようになるとは――!
「あの……なんでお供えします、って言っただけで触れるようになるんですか……?」
美味しい、美味しい、ご飯なんて何年ぶりだろうか、そう感涙しながらあっという間に汁の一滴までも飲み干し、十分に満足したと再度押し入れに戻ろうとする彼女に聞くと、彼女は少しなにかを考えたように空を見つめてから、さぁ、と首を横に振った。
「私にも分かりませんねェ」
「……あなたはいつからここに憑いているんです? かつて住んでいたここの住人が、今みたいにあなたへ食事を出したこと、あるんですか?」
「んー……あったような……なかったような……気がついたらここに憑いていたので、私もよく分かんないんですよねェ」
「分かんないって……墓乃上さん、霊媒師なんじゃないんですか? 専門家でしょう?」
「それは生前の話ですヨ。いやァ、昔は未練残した幽霊を成仏させたりしましたけど、まさか自分が悪霊になるとはねェ」
「え、墓乃上さんって悪霊なんですか?」
「ええ、こんなに永く現世に憑いて人間に関わってるなんて悪霊ですネ」
「いや、墓乃上さんは悪霊というよりは座敷わら」
し、と言い終える寸前、それを打ち消すように否定が重なる。「違いますヨ!」
「座敷わらしなんかじゃありませんヨ! 失礼な!」
(かつては)誇りある霊媒師(だった悪霊)なんですから! と、彼女が勢いよく脚を振るも、その脚は斜堂の身体をかすめることもなく、蒸気のように音も立てずにすり抜けた。「……あの、墓乃上さん、」
「今キックしようとしました?」
「きっく?」
「蹴りです、蹴り」
「……惜しかった」
いや、なにがどう惜しかったのか分かりませんけど、という斜堂の言葉を待たず、機嫌を損ねた悪霊は押し入れに飛び込むように入り、内側からその襖を強く締めた。
「あ……あの、墓乃上さん?」
自称悪霊だと言う幽霊を座敷わらしだと言ったことのなにが失礼だったのか、なにが悪かったのか、とにかく分からないが、彼女を怒らせてしまったことには違いないのだろう。
ただえさえ人間同士でのコミュニケーションすら苦手だというのに、気まぐれな悪霊を相手にどうしろというのか――しょうがない、とひとつため息をつき、襖を数回ノックする。
「あの……墓乃上さん、気を悪くしたならすみません」
「…………」
「……今日の夕飯、なにがいいです?」
どこにでもあるような古びた襖の向こうから、お魚! と一言だけ返ってきたことに、斜堂は思わず笑っていた。
上京して初めての春、ひとり暮らしを始めようと思っていたこの春、まさか幽霊とルームシェアするとこになるとは夢にも思ってもいなかった。
神経質で不眠気味、おまけにまだ軽度とはいえ潔癖症という難儀な大学生、斜堂影麿と、いつから憑いているのか、なぜ未だ現世に残っているのか分からない自称霊能力者(だった悪霊)の少女、墓乃上みつよのルームシェア――六畳一間のお座敷暮らしは、多分この世のどこよりも前途多難であろう。
「――……墓乃上さん、」
これからよろしくお願いしますね、と自然と口にしていた挨拶に、再度襖の向こうから声だけの返事が返ってくる。「……しょうがないですねェ、」
「こちらこそよろしくです、斜堂さん」
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