前編
「そうそう聞いてよ##NAME1##!また友達のバレーシューズが無くなったのよ!」
「でもメグ。あれは、ベットの下から見つかったじゃない…」
「もう、クリスティーヌったら。私達も一緒に探したときベットの下は確認したじゃない、その時は無かったのよー」
「見落としてしまったっていうことだってあるわ」
「いいえ!これは絶対、怪人の仕業よ!!この前だって厨房の食材が無くなったって料理長が言ってたし。あっ!!カルロッタもネックレスが無くなったって騒いでたわ。間違いなくオペラ座の怪人の仕業ね!」
白い練習着姿の二人の少女が飛んだり跳ねたり。
時には私のベッドに寝転んだりと…そんなに広い部屋じゃ無いんだけどねぇ。
そして気づくと最後にはメグの大好きな話題、"オペラ座の怪人"の話になる。
「はいはい…。で、結局は見つかったんでしょ?見つかったなら良いじゃない」
私はそんな彼女達の話を聞きながら、作業机に向かっていた。
「すっごい興味無さげねー!」
「なんか聞き飽きちゃったわよねー。ね、クリスティーヌ」
そう言った私に対してクリスティーヌは小さく苦笑した。
その仕草はとても可愛らしい。
「メグの話は毎日楽しいけど…何でもオペラ座の怪人がやったことにしてしまったら、何だか可哀想だわ」
「あら、クリスティーヌは可哀想って思うの?」
彼女の意外な発言に私は驚いた。
オペラ座の怪人と言ったら、このオペラ座内では恐怖の象徴だ。
それを可哀想だと言うなんて…。
「どうしてなのかはわからないんですけど…可哀想だなって思って…」
少し恥ずかしがりながらそう言うクリスティーヌ。
俯いた視線の先にある綺麗な白い手は、練習着を握ったり離したりしていた。
「でもクリスティーヌ、あなただって自分の物が無くなったら悲しいじゃない?ほら!あなたが言う、天使様のレッスンの時に使う楽譜とか」
私が出したお茶菓子を1つ口に入れたメグがそう言った瞬間、クリスティーヌの頬は熟したリンゴのように赤くなった。
「メ、メグ!天使様の話は…」
「天使って?」
全く話の内容を理解できていない私は、作業を一旦止めメグを振り返る。
「あ、##NAME1##には話してなかったんだ…」
「信じてもらえないと思って…」
どうやら彼女達が言う"天使様"というのは、童話や伝説なんかに出てくる天使と同じ物のようだ。
天使なんて…そんなもの信じたことは無いけど、クリスティーヌが嘘を付くとは思わないし。
「クリスティーヌの言う天使の話、聞いてみたいな」
「…信じてくれますか?」
「もちろん。興味も少しあるしね」
クリスティーヌは少し潤んだ瞳で私を見ると、小さく笑った。
「パパが送ってくれたんです。音楽の天使を…」
「そして、毎晩レッスンしてもらってるのよね??」
メグの質問に頷くと、クリスティーヌは両方の手のひらを胸の前で組んだ。
それはお祈りをしている様にも見える。
そしてクリスティーヌは天使について色々話してくれた。
「私の大切な方なんです。パパがいなくなってしまってから、ずっと私を見守ってくれているんです」
「素敵な話ね…」
正直驚いている。
夢を見る年頃だというのは理解しているけど、こんなにも嬉しそうに話をするなんて…。
目の前の少女が嘘を付いているなんて思えなかった。
「次の日が朝早い稽古だったら、クリスティーヌったらいっつも眠たそうにしてるのよー」
「メ、メグっ……。い、今は次の日が早いときは時間を早くしてもらってるの!」
彼女達の話を聞いているつもりだったけど、それよりも私は天使という存在について深く考えていた。
思い出そうとしても、あの時彼女達が話していた内容はなかなか出てこなかった。
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「…と、いうことです。ここで起きる悪い出来事、良いようにあなたの仕業だと言われてるわよ?」
少し離れた椅子に座るエリックに向かって、今朝メグやクリスティーヌから聞いた話をすべて話した私。
もちろん、彼には関係無い様な話や、秘密にして欲しいと強く言われたクリスティーヌの天使の話は除いて。
「くだらん」
エリックはただ一言吐き捨てた。
話をしている最中ちらちらと彼の様子を見てたけど、眉間のシワは深くなるばかり。
まぁ、機嫌が悪くなるのはわかるけど。
「カルロッタのネックレスについて。かなりの高価な物だったのだろうな。盗難を恐れて隠したままだ。探せば引き出しの奥からでも出てくるだろう」
私を見ることなく、淡々と話し出すエリック。
「次に消えた食材。犯人の特定は出来ないが、腹を空かせた奴なら誰だって忍び込むだろうな。だが、私ではない。わざわざ厨房に忍び込んで空腹を満たすほど、飢えているわけではないのでね」
「じゃぁ、消えたバレーシューズは?」
私が楽しそうにそう聞くと、キッと彼に睨まれた。
「そんなもの、聞かなくてもお前だって解るだろう。私が何が嬉しくて小娘の靴など奪う必要がある?」
「ですよねー」
そう、消えたバレーシューズは多分嫌がらせ。踊り子達の間でのそういう事件は少なくないのよね。
対象は踊りの上手い子や歌が上手い子。
「気に食わん…」
「そんな怒らないでよ」
そう、彼にはそんなに怒っては欲しくなかった。
このオペラ座にとっても彼にとっても、こんな噂がたつということは確実に良い方向に進んでいる証拠なのだから。
皆そうやって恐怖の象徴を忘れていくの。
エリックは私との約束を守ってくれている。まぁ何回か危ない時もあったけど。
ここ数ヵ月、彼は事件を起こしていないのだ。
私はそれがとても嬉しかった。
「それよりエリック。どうして今日はこの部屋を選んだの?」
彼の機嫌が更に悪くなっては困るので、私は話題を変えた。
疑問に思ってたことだから、別に唐突では無いはず。
「特に大きな理由は無い。ただ、少し探し物をしたかっただけだ」
「探し物?」
エリックはゆっくりと立ち上がると、本がギッシリと詰まった本棚から一つ一つ本を取り出し、中を確認していく。
そう、ここはいつも私達が会っているあの5番ボックス席ではない。
今日は彼の指定で支配人の部屋に来ているのだ。
「そんな堂々と探し物して良いの?もしかしたら誰か来るかもしれないし…」
「何も問題ない。ここの主は大分前にオペラ座を出ている。こんな真夜中にこの部屋に来る物好きなどいないだろう」
「じゃぁ、あなたはその物好きなのね」
私がポツリとそう言うと、エリックのページを捲る手が一瞬止まった。
「では、その物好きと一緒にいるお前はかなりの物好きだな」
何事も無かったように彼の手はまた動き出した。
本に視線を落としているその横顔は、少し微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
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「これ…設計図?」
慣れた手つきで本のページを捲るエリックを覗き込みながら私は聞いた。
「あぁ、このオペラ座のな。##NAME1##、あれを見ろ」
そう言って彼は私の後ろを指差し、私はその先を見た。
そこにあったのは部屋の入り口近くに飾られている大きな額。中にはたった今本で見た同じような設
計図が飾られていた。
「何だ、わざわざ本で見なくてもここにあるじゃない」
それに本より見やすいし、何より大きい。
「同じに見えるか?」
私の発言を鼻で笑ったエリックは、手にしていた本を私に差し出す。
ちょっとバカにされている気がするけど、気にしないでおこう。
「あ、何か…複雑。え?どういうこと?」
壁に飾られた設計図と本の設計図では明らかに後者の方が部屋や通路、さらには柱の数が多い。
「こんな所に部屋なんてないじゃない」
こんなところというのは、いつも踊り子達が稽古をしている部屋の下。
他にも言うなら寄宿舎の上や下にも、あるはずのない部屋が画かれている。
私の記憶が正しければ、部屋なんて存在しない。
「そっちの飾られている物は表向きのオペラ座の姿だ。逆にその本のものは公には出来ない裏の姿」
「じゃぁ、本当にこの部屋は存在するの!?こっちの通路とかも?」
「当然だ」
エリックは優雅な仕草でデスクの前の椅子に深く座り込んだ。
とてもシンプルな作りだけど、座り心地は良さそうだ。
「一体何のために…」
私は本のページをペラペラと捲りながら、次々に現れる設計図に驚きを隠せなかった。
細部まで細かく記されたそれは、当然私では理解できない。
「このオペラ座の建築背景に起こっていた出来事を考えれば、察しがつくだろう」
そう言ったエリックに私は首を傾げた。
呆れたように私を見上げるエリック。そして深いため息をついて話し出した。
「普仏戦争、コミューン戦争。一時期それのためにオペラ座の建築はストップし、時には占拠されたこともあった。まさに最悪な戦争だったよ。予定に無かった部屋までも増えてな。だが、そのお陰で今の私がいる」
昔のことを思い出しているのか、気づくと彼の目は伏せられていた。
顔の半分を仮面で覆われていても、複雑な気持ちだということは見てわかる。
怒り、悲しみ、後悔。どれかに当てはまるのか、当てはまらないのか。
「その言い方だと…まるでここの建設に立ち合ったように聞こえるんだけど?」
本をあった場所に戻しながら私はそう聞く。
「もちろんだ、他に誰がやる?」
エリックは高らかにそう答えた。その表情はとても嬉しそうだったが、一瞬にして怒りに変わった。
「だが…完成してすぐ、私はここを離れた!私は油断していたのだ!」
「離れた?」
「愚かなジプシー共だっ!」
ダンッと、エリックは勢い良く自身の拳をデスクに叩きつけた。
その反動でデスク上のペン立ては飛び上がり転げ落ちてしまった。
私は少し驚きながらも、ゆっくり彼に近寄ると落ちてしまったペン立てを拾い、あった場所へと戻す。
「憎い、あいつらが憎い!…だがそれよりも、二度もミスを犯した自分が憎くてたまらない!」
鬼の様な形相でそう叫ぶエリック。
「落ち着いて、エリック…」
エリックと関わるようになってから、彼の性格や癖が何となくわかるようにはなっていた。
過去にも何回か気持ちが爆発してしまうこともあった。こんなことは珍しくない。
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「…すまない、悪い癖だとわかってはいるのだが」
自分を見つめる私に気づいたのか、エリックは椅子から立ち上がりウロウロし始めた。
落ち着こうと席を立ったんだと思うけど、見ているこっちには決して落ち着こうとしているようには見えない。
彼が動くたびに、黒い翼の様なマントが生きているようになびいていた。
私は彼を目で追った。
エリックはまだ落ち着かないのか、部屋に飾られている額や置かれている花瓶などに触れては離しての繰り返しだ。
力無く垂れた左手の指はパラパラと不均等に動いている。
「でも、まさかこのオペラ座をあなたが造ったなんて信じられないなー」
私がそう言った時、エリックは美しい装飾が施された壁に優しく触れていた。
懐かしそうに、切れ長の目は細められる。
「…建設に携わった、という方が正しいかもしれない。設計はガルニエという男だ」
「造ったことには変わり無いでしょ?…ということは、あの設計図の中の隠し部屋にあなたが住んでるっていうことよね?」
私に背を向けていた彼が素早く振り返った。
「…何故そうなる?」
向けられたその表情はとても険しい。
あまり良い話題ではないことは、わかっているつもりだ。
「だって、戦争とかのお陰で今の私がいるって…あなた言ったじゃない」
先程の自分の発言を思い出したのか、エリックは小さく溜め息をついた。
それは私に向けられたものでは無いだろう。
「……間違ってはいないが、探しても無駄だ。命を危険にさらすことになる」
「探さないわよ、あなたが知られたら困ることを知ろうとはもう思わない。私だって知られたくないことはあるもの」
「そうか…」
壁時計が時を告げる音が鳴り響く。
2つの音が同時にぶつかり合いながら鳴る音。それでも不思議なくらい透き通るような音色は、ゆっくりと2回木の箱から弾き出された。
嫌いな音じゃない。
音が鳴る回数が少なかったことに少しがっかりした自分がいる。
エリックはこういう音を聞いて、どう思っているのだろうか少し気になった。
「すまないが、私はこれで失礼する」
私が時計の音色に浸っていると、何かを思い出したかのようにエリックはいきなりそう言った。
いつもならまだ別れる時間ではないのだけど、今日は違うみたいだ。
「何?用事?」
「あぁ、オペラ座の怪人も忙しいものでね」
エリックは早足で私の前を通り過ぎる。
「ねぇ、エリック」
呼び止めた私に彼は振り返った。
「何だ?」
"天使っていると思う?"
そう聞いてみたかった。
多分、とても幸せそうに天使の話をしてくれたクリスティーヌが忘れられなくてそう思ったんだと思う。
でも、何故か声は出なくて。
心のどこかで、これは聞いてはいけない事なんだと思っていた。
タブーなんだと、感じている自分がいる。
「ううん…何でもない」
「変な奴だ」
そう言って、エリックは本棚横の壁へ移動し手を当てる。
「では、また会おう。##NAME1##」
「うん、また今度」
私が見ているにも関わらず、堂々と秘密の出入口を開くエリック。
そして、そのまま彼は暗闇へと消えていった。
急に静かになった部屋の中。
彼が消えた壁に触れてもそこは開くことはなく、目を凝らして見てもただの壁にしか見えなかった。