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前編


「失礼、お嬢さん。ここは私の専用席なのだが。どこか別の席に移って頂けないだろうか?」

不意にそんな声が背後から聞こえてきたものだから、私の体はビクッと反応してしまった。
絶対来るってわかってたんだけど、こう突然じゃあね。
でもアイツのペースに持っていかれては駄目だと自分に言い聞かせながら、私はゆっくり後ろを振り向いた。

「…席はまだ空いているじゃない。それに、ここはあなたのボックス席じゃないでしょ?」

私の目の前には白い仮面を付けた男──オペラ座の怪人が立っている。
扉が開く音はしなかったから、多分別の入口がこのボックス席にはあるんだと思う。
闇に溶けてしまいそうな、そんな彼の仮面で覆われていない左半分の表情は明らかに良いものではなかった。
だけど彼は小さく鼻で笑って、まわりを確認するとゆっくりと私の方に近づいてきた。
その仕草は優雅で、オペラ座に通うどの貴族よりも貴族らしく見えて、むしろそれ以上で。

それでも危険な…そんな感じがする。




何かまた嫌味でも言われるのかと考えていた私には、彼の行動が予想外過ぎてとても焦った。
嫌味を言われた場合の対策とかも少し考えていたんだけど、そんなこと今は無意味。
何て言えば良いの!?こういう時!?





「や、やっぱりこっちに座ってっ!!」

私の左隣にひとつ席を空けて座ろうとした彼を私は引き留めた。
そして、今まで私が座っていた席に彼を座らせようと席を立つ。

こいつは何を考えているんだ!?という様な彼の表情と鋭い目線がとても痛かった。

「か、勘違いしないで。別にあんたの為に席を暖めていたわけじゃないの。ただ、こっちの席の方が舞台がよく見えるの!」

そう言いながら、彼が座ろうとした左隣の席の方に移動する。
私は何を言ってるんだろう。
これじゃ、本当に訳のわからない変な女じゃない。
だけど、はっきり言える。
席を暖めていたなんていうのは本当に無い。
うん、他に理由がある。



「訳がわからん」

眉間のシワをより一層深くしながらも、私が座っていた席に腰を下ろした怪人。
椅子に深く座り込み、腕は胸の前で組まれた。
ちらっと横目で確認すると、険しい表情は変わらぬままだ。


互いに言いたいことを言い合って、また最悪な事態になるんじゃないかと思ってたけど。
取りあえずは何とか落ち着いて話ができそうだ。

少し沈黙が続いたけど、上演されているオペラのおかげで嫌な雰囲気ではない。
私は小さく深呼吸すると、目線は舞台のまま口を開いた。




「…ありがとう」





「ありがとう」

確かにこの女はそう言った。
こちらを向いていなかったから、私のこの顔を彼女に見られずにすんだ。
自身でもわかるほど驚いている。
だが、"ありがとう"と言われる覚えはなかった。



私が黙っていると、また彼女は口を開いた。

「部屋まで運んでくれたんでしょ?先生から聞いたわ。だから、ありがとう。助かった」

そう言った彼女の横顔は何故か優しかった。
私と同じ空間にいて、こんな表情を見せた相手などいただろうか。いや、いない。
皆恐怖に震え、私の言動に怯えていたのだから。


「私のオペラ座で勝手に倒れ、私に無実の罪を着せられてはたまらんからな」

声は震えていなかっただろうか。それが心配だった。





私は嬉しかった。





久しく感謝などされたことは無かったのだ。
いや、毎晩感謝はされている。私の小さな天使から。
だがそれは私に向けられたものではなく、彼女の父親が送った『音楽の天使』へ向けられたものだ。
いつかは、そういつかは私へ向けられることを願っているのだ。

しかし所詮私は『オペラ座の怪人』。
オペラ座に住み着く亡霊だ。


だが彼女は。
この目の前の女は、私自身に感謝した。
たとえ不本意でとった(不本意かどうか、はっきりはわからない)行動だったとしても、その行動に彼女は感謝したのだ。



「そう言うだろうと思った」

クスッと笑いながら彼女はこちらを振り向いた。

「私ね、あなたのやり方は正しいとは思えない。でも、どこかであなたの才能を認めてる自分がいたのよ。だけどそれを認めたくなかったから、あなたに反抗してた。あ、もちろんこれからだって反抗していくわ」

コロコロと表情を変えてそう言った彼女を、私は不思議でたまらない。
何なんだ、この女は。

「お前は、私が怖くないのか?」

彼女は一瞬キョトンとした表情を見せたが、それもすぐに微笑みに変わった。

「最初は怖かったわ。でも今は違う。何ていうのかな…ほら、私もこの目のおかげで変わった存在じゃない?だからかな」

恐怖はない。
その言葉がまた嬉しかった。
そして驚いた。
彼女は自身の容姿を苦に思っていないのだろうか。

「お前はどうして──」

「あーお前お前って!私には##NAME1##っていう名前があるの!」

私はビシッと人差し指を突き付けられた。

「なっ…」

「##NAME1##」

彼女は自身の名前をゆっくり、はっきりと繰り返す。
その目は"早く言え"と、訴えているようにも見える。

「…##NAME1##。お前は──っ」

「あー、結局は"お前"になっちゃうのかぁ…。"君"って言われるのも何か違うしなぁ…。"あなた"…は、気持ち悪い。駄目」

「おい」

「あっ!ごめんなさいっ。つい…」

そう言いながら、また彼女は笑う。
本当にこの女がわからなかった。
私と普通に…いや、もしかしたらそれ以上に、躊躇いもなく話をするこの女がわからなかった。

だが、心のどこかで彼女の名前を、"##NAME1##"という名を何度も繰り返している自分がいる。
不便だからとか事務的にとか、そういうわけではない。
彼女は私に名を教えた。
私にそう呼んで欲しくて教えたのだ。



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「私もあなたに聞きたいことがあるんだけど…良い?」

彼女の言動に頭が着いていかず呆然としていた私を覗き込むように、##NAME1##は言った。
彼女は今更私に何が聞きたいと言うのか。

助けた理由か?
そんなもの、先程言ったことが全てだ。
では他に何がある?


あぁ、あるではないか!!私の最大の秘密が。
急に顔の右半分を覆っている仮面が重くなったように感じた。
暑くもないのに嫌な汗が流れる。

やはり知りたがるのだな。
避けられないことなのだな。




「…何だ?」

さあ、言ってみろ。
仮面を取って欲しいと、素顔を見せろと!
そして恐怖に怯えろ!!










「名前、教えてくれない?」

彼女の質問は意外なものだった。
意外すぎて言葉がでない。

いや、話の流れから考えればわかったことじゃないか。何を私は焦っていたのだ!?
怯えていたのは私ではないか。


「ま、まさか…"オペラ座の怪人"が本名だなんて言わないわよね?」

何も反応を示さなかった私を不思議に思ったのか、彼女は困った表情を浮かべながらそう言う。

「…わ、私は亡霊だ。名前など……無い」

落ち着け自分。
何を焦っているのだ。
ただ名前を聞かれただけではないか。

「そんな、あなたは人間なんだもの…名前だってあるはずよ!お母様はあなたを名前で呼んでたでしょ?」

あぁ、どうしてこの女はこうも簡単に私が求めていることを言うのだろうか。
母でさえ化け物だと恐れたこの私を、人間だと。



「…母は。母は、私のことをエリックと呼んだ」

気づくと、今まで流れ続けていた音楽が止まっていた。

「エリック…。エリックね」

そんな静寂の中、##NAME1##はポツリポツリと私の名前を呟く。
名前で呼ばれ慣れていない私にとってそれはなんだか照れ臭かった。
ただ名前を呼ばれているだけなのに。
そんな普通なことが嬉しかった。



「さて、エリックさん」

彼女の言葉と共に、舞台ではニ幕が幕を開けた。
豪華な衣装に身をまとったカルロッタが登場し、アリアを歌い始める。

「私はさっきも言ったけど、あなたのやり方には賛成できないし、放っておこうとも思わない」

急に彼女は真面目な表情でそう言う。

「でも、ぶつかり合うばかりじゃなくて、こうやってまた色々なことについてあなたと話がしたいの。ほら、何て言うのかなぁ…お互いの意見を尊重し合うというか、高め合うというか…」

私は今日、何度彼女に驚かされれば良いのだろうか。
もうゆっくりと一つのことを考える暇さえ無い。

「…つまり、お前は私にどうしろと言いたいのだ?」

私は溜め息混じりでそう言った。
決して投げやりになった訳では無い。ただ、予想していなかったことが起こりすぎて少し疲れただけだ。

「もう、人の生死に関わるような事件は起こさないで。あなたが姿を公にできない理由があるのはわかる。だったら、あなたの意見は私が預かるわ。そして、あなたが求める物に近づけるように努力する」

「お前は正気か?」

私は彼女の発言に耳を疑った。
そこまでする理由がどこにあるというのだ。

「正気よ?やり方は違うけど、あなたはあなたの求める音楽ができる。このオペラ座も、恐ろしい亡霊に怯えることなく素晴らしいオペラを上演できる。別に悪い話じゃないと思うんだけど」

どうやら私はこの女を甘く見ていたようだ。それもかなり。

「お前はどうなんだ。何か得でもするのか?」

「私?うーん…素晴らしい舞台が観れるし、恐ろしいことが起こらないなら…それで良いかな」

何となく彼女の答えは予想ができた。そしてそれが不思議でたまらないが、今は考えないようにしよう。

もう一度彼女の提案を思い出す。確かに悪い条件ではない。嘘は無いだろう。

「わかった。これからは、うっかり手を滑らさないよう気を付けようではないか」

「その言い方ちょっと引っ掛かるけど…まぁ良いわ。これからよろしくね、エリック!」

##NAME1##はニコニコと笑いながら私に右手を差し出した。
一瞬躊躇いながらも、私はその手を握る。
手袋越しでも伝わる彼女の手は温かかった。



この日から、私と彼女の奇妙な関係が始まったのだ。

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