前編
この光景は始めてではない。
おかれている状況も前とはさほど変わらないことは確かだ。
今私の足元には彼女がぐったりと横たわっている。
急に倒れたこの女に驚いた私は、気づくとボックス席から彼女の元へと足を進めていた。
目の前で急に倒れられたのだ、反射的な反応だと考えたい。
暗闇の中オーケストラピットまで来ると私は辺りを見回す──誰もいない。
そして彼女を見下ろした。
愚かな女だ。
「自身を犠牲にしてまで熱心になる理由が、そんな価値が一体どこにあるというのだ?」
当然だが彼女から返事などない。
額に汗を滲ませながら、荒く呼吸をするだけだ。
微かに右目が潤んでいるのは、苦しさのせいだろうか。
「いいか!?いくら貴様が熱心になろうとも、まわりが愚かでは完璧な音楽は作れないんだ。完璧が完璧を生む!美しいものが生まれる!素晴らしいものが生まれる!」
だから私は美しさに焦がれるのだ。
完璧を求めるのだ。
今にも意識を失いそうな女を前にしてこんなことを言う私もどうかしている。
そんなにも私は追い詰められているのか?
この女に。
彼女の潤んだ瞳と目があった。
それは恐ろしいほど真っ直ぐで、目を逸らすことはできなかった。
「…完璧な、人間なんて、いないのよ」
死にそうな位、弱々しい声。
その瞬間、ガラガラと音をたて私の中で何かが崩れたよう気がした。
「ならば教えろっ!!私は何だ!?貴様は何だっ!?」
貴様はそれを知っているのだろう?
「醜くこの世に生を受けた私達以外の者が完璧では無いと言うのならば、私は何だと言うのだっ!?やはり化け物か!?そうか、そうなのだな!?」
私は彼女の肩を掴み、押さえられない程の怒りと悲しみをぶつけていた。
「やはり化け物なんだなっ!?貴様も私も!他とは比べることさえもできない化け物なんだな!?」
私の言葉を肯定してなのか、彼女のゆっくりと閉じられた右目から、一筋の涙が頬を伝った。
それを見て、吐き出しそうになっていた罵声を飲み込んだ。
「化け物なんだよ私は。…だから美しさを求めるんだ、完璧を求めるんだ」
代わりに、高ぶった感情を抑えるようにそう言う。
「お前は、何故求めない?…いや、何故違うんだ?私とお前は…?」
答えは返ってこない。
見覚えのある天井。
少し埃っぽい臭いがする部屋。
また私は知らない間に自分の部屋に移動している。
こう何度も起これば、自分に場所を一瞬にして移動できる不思議な力があるんじゃないかと思ってしまう──まぁ、そんなこと実際ありえないけど。
「具合はどうですか?##NAME1##」
隣から声をかけられ、重たい頭を抱えるようにしてベッドから起き上がった。
少し離れた場所にジリー先生がいた。
「…ちょっと頭が痛いだけです。でも大丈夫」
まだ自分は夢の中にいるんじゃないか、と思うぐらい何だかぐらぐらしている。
意識を失う前の記憶がどこまで現実なのか、整理するのに時間がかかりそうだった。
「まさか本当に熱を出すとは思ってもいませんでした」
先生は、ひんやりと冷たい手拭いを私に手渡すと近くの椅子に座った。
「熱…ですか。嘘が本当になるなんて笑えませんね」
受け取った手拭いで顔を拭きながら私は苦笑した。
「疲れがたまっていたんでしょう。無理は良くありません。今日は休みなさい」
「……わかりました」
先生は少し微笑むと私から手拭いを受けとり、洗面台へと移動する。
「それにしても何度もすみません。また先生にここまで運ばせてしまって…そんな軽いわけじゃないのに」
そう、私は体格が良いというわけではないけど、メグやクリスティーヌとは違って小柄ではない。
先生は誰か他の人と一緒に私を運んでくれたのだと考えるけど、普通に考えて力の抜けた人間一人を運ぶなんて簡単なことじゃないと思っている。
私がふざけた感じでそんなことを言うと、先生は手拭いを洗っていた手を止めるとゆっくり振り返った。
その表情はどこか厳しい。
「あ、やっぱり私重かったですか?」
「そんなことありません」
軽い調子で言ってみたけど、軽く返されてしまった。
「じゃぁ…何か問題でも?」
先生の様子を伺いながら恐る恐る聞いてみる。
先生は少し間をおいてから口を開いた。
「あなたを運んだのは私ではありません。彼です」
「…彼?」
いまいちピンとこなかった。
だって、このオペラ座には"彼"と呼ばれる存在は沢山いるのだから。
そもそも、男性は皆そうだ。
私の頭の上にクエスチョンマークでも見えたのだろうか。
先生は少し困った表情でこう言った。
「あなたを運んだのはファントムです」
耳を疑った。
あいつが、私を運んだ?
信じられない!
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カーテンの影から、私はぼんやりと舞台を見下ろした。
普段ボックス席から観劇なんてしないから、ここから見える景色は少し特別な感じがする。
だけど、あまり気が乗らないのは確か。なんてったって、ここは5番ボックス席──あいつの場所。
というか、あいつが勝手に決めているだけなんだけど。
舞台では初演を迎えたばかりの新作オペラが上演中だ。
ちょうど今は、召し使い達の二重唱の場面。そうそう、ここのビオラの旋律が難しいのよね。
本来なら私も演奏者の中に入っているんだけど、今日はお休みを貰ったからここにいる。
楽しげな音楽に耳を傾けながら、私はジリー先生との会話を思い出していた。
「あいつが…私を運んだ?」
「そうです」
先生は小さく首を縦に振り、そしてゆっくりと私に近寄ると隣に座った。
信じられない。
一度は殺そうとしたのに、今度は助けるなんて。
だけど先生の顔に嘘はない。
私は何故か先生から顔を背けてしまった。
「……私、わからないんです。あいつが良い奴だなんて思わない。やっていることだって正しくない、許されないことなんです。
でも、私の理想は認められなくて、あいつの完璧な理想は世間からは認められる!それがわからない!」
左目を隠している前髪をくしゃくしゃと掻きみだしながら、私はそう言った。
先生は信用できる、とても頼りにしている。
でも、今までこんなことを先生には言ったことなんて無かった。いや、むしろ誰かに話したことなんて無い。話せる人なんていなかった。
やっぱり今の自分はおかしい。
「…彼の声は、恐ろしいほど、美しいんです」
気づくとポツリと、そんなことを呟いてしまっていた。
でもそれは私の本音。
直接頭の中に響いてくるような、不思議で妖しい声。
完璧を求める彼に相応しい声だ。
「あなた達は、似ていますね」
「えっ…」
先生の口から意外な言葉が出た。
「詳しいことはわかりません。でもあなた達の理想は似ています。そして、芸術に対する想いと…」
「そ、そんな!あんな最悪な奴と一緒にしないでください!!」
まさか先生にそんなことを言われてしまうとは思ってもいなかった。
似ていると言われて、素直に賛成できるはずがない。
「では、そんな最悪な奴が何故あなたを助けたのでしょう?」
そう聞かれて何も答えられなかった。
「##NAME1##、今のあなたが同じ立場だったなら、彼と同じことをしたのではないですか?」
先生の言葉に私は"NO"とは言えなかった。
別に責められているわけではないし、叱られているわけでも無いのに。
自分が酷く惨めに感じてしまった。
私の気持ちは変わっていたのだ。
本当は信じたくないけど。
あいつと初めて会った時には絶対に感じることは無かったこの感情。
彼に対する好奇心と言えるかもしれない。いや、それは言い訳だ。
「わかりません…」
あの男のことを知りたい。
もっと知りたい。
もっと話がしたい。
「…怪人と会うためには、どうしたら良いですか?」
そう私が言うと先生は少し驚きながら、でも優しく微笑んだ。
「オペラ座に住む者なら皆知っているはずです。怪人が現れる場所、怪人の専用席」
「…5番ボックス席」
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##NAME1##の部屋からのびる梯子を降りると、私は深く溜め息をついた。
入り口を見上げても何も物音はしない。
夜の公演まで時間があるからと、##NAME1##はもう一度眠りについたのだろうか。
本当なら、##NAME1##とオペラ座の怪人を巡り会わせたくはなかった。
二人の全てを知っているわけではないけれど、お互いに意味嫌い合う存在だとわかっていたからだ。
でも二人は出会い、互いに興味を持ってしまった。
昨夜、私の前に現れた彼はぐったりとした##NAME1##を抱いていた。
どうしたのかと聞いてみても、彼は複雑な表情で私に手を貸して欲しいと言うだけ。
私の案内で##NAME1##の部屋に着いてからの彼の行動も今でも信じられない。
ベッドに優しく寝かせると、躊躇いがちに彼女の汗を拭いてやっていたのだ。
幽霊として今まで生きてきた彼が、自ら進んで人と関わろうとするなんて。
信じられなかった。
そのあと私とは目を合わさず、あとは頼むと一言だけ残して彼は消えてしまった。
彼は恐ろしい。
存在的な意味でも、内に秘めているものの意味でも。
だけど、私には彼を止めることも支えることもできない、そんな資格はない。
ジプシーの見せ物になっていた孤独な彼をこのオペラ座へ連れてきたのは私であり、彼をオペラ座の幽霊にしたのも私だ。
今さら何も言うことはできない。
だけど##NAME1##なら、彼を変えてくれるのではないかと思っている自分がいた。
彼と同じように容姿に苦しみながらも、彼女は芸術に真剣だった。
それもまた、恐ろしく思ってしまったこともある。
でも彼女なら、と。
なんて身勝手な考えだろう。
彼への償いを彼女が代わりに行っているようなものではないか。
でも私はそれを止めることはできない。もう止めることはできないのだと、気づいてしまった。
##NAME1##は彼に会いに行く。
あの場所へ、5番ボックス席へと。
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