このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

前編


「いやいやいや!!実に素晴らしかった!」

「なんとも面白い演目じゃないか!」

「私の気に入った場所はあそこだ!ほら、舞踏会のところだよ!!」

「初日に観にこれて本当に良かったわ」





私がホールからロビーに出ると、まだ熱の冷めない観客達がそんなことを話しているのが聞こえてきた。
今日の初日を観に来てたのは、ほとんどがお金持ちの貴族達ばかり。
着ているものや身に付けているものなんか、私が一生働いても買えそうに無いものばかりだ。
と言っても、そんなものは欲しいとは思わないし、あっても身につけることなく大事にしまっておくんだけど。
それか、もしもの時には質屋にでも売り払ってしまうかもしれないわね。これから何があるかわからないもの、きっと高く売れるに違いない。

まぁ、そんなことは高価な物を手に入れてから考えれば良いことなんだけれど。
どうするかなんて個人の自由だものね。




観客達の会話の内容は踊りについてがほとんど。
時々、歌姫カルロッタの話が出てくるけど笑いのネタになってることの方が多いかもしれない。
でも今日の公演で、彼女の名前は今まで以上に有名になったのではないかしら。
観客に与えた彼女の印象は小さくないはず。



実をいうと私は今回の初日に対して満足していない。
もちろん、舞台は大成功だった。客席は満席だったし、大きな失敗も無かった。
支配人なんて大喜びよ。怪人に邪魔されなかったのだから。
関係者達も満足しているんじゃないかしらね。

でも、なんていうか…私は違う。










「今日の君は美しかったよ!誰よりも輝いてたさ!!」

「聞いて聞いて!今日の公演、あの有名なハロウズ伯爵が来てたんですって!!」

「やぁ、可愛い子猫ちゃん。君のお名前は??もし良かったら、これから食事なんてどうかな?」

「その衣装、君にピッタリだ!」





自室に戻るために今度は楽屋前へと移動した私の目の前を、まだ本番衣装のままの姿で行ったり来たりするのは踊り子達。
その後ろをニコニコしながらついて回るのは、若い青年から落ち着いた雰囲気の紳士達。いわゆるパトロンだ。

右も左もとっても賑やか。
初日は成功したのだ。そんな雰囲気になるのが普通よね。
でも、何故か私はそうはなれない。




聞こえてくる会話の中に“音楽”という単語は一つも無かった。
あんなに頑張ったのに。
結局、この劇場に足を運ぶ客は皆それが目当てじゃない。
客が興味があるのは踊り子だ。それも美しい。
音楽になんて興味は無い───いや、興味がある人の方が少ないんだ。

私たちの音楽は客が興味を持つような、凄いと思うような音楽では無かったという事。
結局は自己満でしかないのだ。


ここにあの男がいたら、今の私を見て鼻で笑うだろう。
完璧を求めるあいつの指示に従っていたら、こんな結果はまねかなかったかもしれない。

でも、あいつのやり方は許されるものじゃない。







知らない金髪の青年に声をかけられた。
この男も踊り子目当てでこの劇場へ来たのだろうか。今の私にはそんなことしか考えられなかった。
私は何も反応を示さず、早足で廊下を歩いていく。
今は少しでも早く自室に戻りたかったし、人とはあまり関わりたくなかった。
ましてや、金や地位で女を釣ろうとする男なんかに興味は無い。




いや、私をそんなもので釣ろうとする男なんているはず無いか。






「##NAME1##?##NAME1##ー。おーい」

そう呼ばれて、私は驚いたように左を振り向いた。
目の前にはこちらを除き込むように呆れた顔で見つめているメグがいる。

「何ボーッとしてんのよ」

「あ、いや…」

「ちょっと大丈夫??すっごい顔してるわよ」


正直に言って、彼女の存在に気づいていなかった。
考え事をしていたからかもしれないけど、部屋に自分一人だと思っていたのに急に声をかけられたのだから、驚かない方が凄い。

「何々?何かお困り?」

「べ、別に…いつからそこに?」

「質問の答えになってなーい。ちなみに結構前から。見えなかったの?」

人差し指で私の額をツンッと突いたメグは、私のベッドに腰を下ろした。

作業机に向かって座ったままだった私は椅子から立ち上がると、白い練習着姿の彼女の隣に座る。


「ちょっと考え事をしてただけ。それで?私に何か用?」

「別に用は無いんだけどねー」

足をバタバタと動かしながら、メグは子供っぽい笑みを浮かべた。
蝋燭の光に照らされて金色に輝く髪にピッタリな白い肌。整った顔。綺麗な眼。

少し羨ましい。
私が手に入れることのできなかったそれを、彼女が持っているのだから。


「なんか、元気無さそうだったから。クリスティーヌも心配してたわよー」

ベッドから飛ぶように立ち上がったメグは腰に手を当てながらそう言った。


最近、心配されてばかりだ。
私の今の複雑な気持ちは、表面に出てしまっているのだろうか。
年下に心配ばかりされるなんて…みっともないじゃない。



「お子様に心配されるようなことは何もありませんよー」

「ちょっ、お子様って酷くない!?せっかく心配してあげたのに!!」

「ふふふ…ごめんごめん」

私もベッドから立ち上がると、メグの頭をクシャクシャと撫でた。
彼女が小さいわけじゃないけど、一般女性より背の高い私からすると、彼女の頭の位置は丁度良い。
まぁ、これを本人に言うと怒られるんだけどね。


「クリスティーヌにも伝えておいて。私は元気だからって」

そう言って私は笑ってみせた。
結局何も解決してないけど、なんとなく気持ちがスッキリした気がする。
若い者の力ってやつだろうか。
感謝するべきものよね。


「あと他には?」

ニヤニヤしながら彼女はワザとらしくその場で回ってみせた。



「あなた達の踊り、素晴らしかったわよ」



私の本音もこれだった。



font size="2">
時計の針が丁度上向きに二つ重なる頃。オペラ座からは一つ、また一つと光が消えていった。

まだ扉の隙間から光が漏れる部屋があるのは、初日の成功を祝いきれていない者達が顔を真っ赤にしながら酒を交わしている証拠だ。


ほとんどの者が寝静まるこの時間、足音をたてずにこのオペラ座を見回る。
それが私の日課となっていた。
そして最後は私の専用席──呪われた5番ボックス席へと向かうのだ。
それなりに良い位置に設けられた席でもあるが、幽霊としてここに住みつく私にとって、構造上とても行動しやすい席でもある。
しかし何よりも、私はそこからの眺めを気に入っていた。
いつかそこから、心を許した女性と共に私が作曲したオペラを観ることができたらと、いつも願っている。




静かにボックス席の扉を開けた。
目の前に広がるのは闇。
だが、暗闇に慣れた私にはそんなものは無意味だ。
通い慣れた通路をゆっくりと進み、闇を含んだような赤色をしたカーテンを優しく撫でた。
手袋越しでは質感はわからないが、見ただけでも素晴らしい物だとわかる。




ふと舞台の方に視線を向けると、端の方に小さな灯りが見えた。
外がまだ明るい時間なら直ぐ様柱の陰に隠れ様子を伺っただろうが、暗闇が支配するこの時間ではそんなことは必要ない。

光はゆっくりと舞台を横切るとオーケストラピットへと移動し、ピアノの前で止まった。
そしてしばらくすると、ピアノの音色が聞こえてきたではないか。
短調から始まるこの曲、昨日初日を終えたオペラの序曲だ。

弾いているのは一人の女性──##NAME1##と言っただろうか。
ドレスやスカート等を身につけた女性しか見たことが無かったが、今の彼女は顔や髪型を見なければ男同然の格好をしている。オペラで言えばズボン役だ。
初めて会った時から女性らしさを感じてはいなかったのだが、ここまでとは。




なんと無く彼女はここに来るのではないかと想像はしていたが、まさか本当に現れるとは。



少しの間、彼女の様子をうかがってみた。
何度も何度も同じフレーズを繰り返し弾いていたが、一回一回何かが違っていた。
上手くはない。だが、強弱、表現、バランス。どれも同じだった時は無い。
何が不服なのか理解できないが、弾いては止め、弾いては止めの繰り返しだ。


こう何度も同じ場所を奏で続け、終いにはその苛立ちを鍵盤へとぶつけているのは、明らかに今回のオペラの出来に悔いが残っている証拠ではないか。


私は小さく鼻で笑うと、暗闇の中から哀れなピアニストに拍手を送った。


</font>


パンッと、乾いた音が均等な間隔で続いて響き渡った。
私は演奏を止め、音の鳴った方へとゆっくり視線をずらす。
視線の先は5番ボックス席。
そこは真っ暗だけど、良く見ると白い仮面が浮いていた。
多分あいつと会うのが初めてなら、本当に仮面が浮いているのではないかと驚くと思うけど、それはない。


「たくさんの素晴らしい演奏を感謝しよう。しかし、貴様が求めたものはどれだ?どれが本当の演奏なのかね?」


あぁ、やっぱりいた。
あの上から目線な話し方。あの男しかいないじゃない。
なんで私はここに来ちゃったんだろう。今あいつに会えば、絶対に何も起こらないはず無いのに。
自分がわからない。


「これでわかっただろう!?結局、求められるのは一つなんだ。いくら貴様が綺麗事を言おうとも、何も変わりはしないのだ」


あぁ、よくも人が気にしていることをズバッと言ってくれる。

腹が立つ。

じゃぁ、来なきゃ良かったじゃない──いや、来たかったんだ。

ほんと腹が立つ。




「あんたの言いたいことはわかってる。そして正しい。でも、私はあんたのやり方が気に入らない」

真夜中のホールは不気味なほど静かで、大声をあげなくても互いの声は届いていた。

「でも、これが現実なのはわかってる。可笑しいわよね?オペラ座に来る客はほとんどが踊り子目当て。素敵な女の子達を探しに来てるのよ?」

あぁ、なんだか笑えてきた。
こっちからはあいつは良く見えないけど、あいつには私が見えてるだろう。きっと今の私はお世辞にも美しいとは言えない、ひきつった笑みを浮かべてるに違いない。

「オペラ座としては嬉しいことかもしれないわよね。お馬鹿なパトロンが増えるかわりに、お金が入ってくるんだもの」

普段こんなこと思ってても言わないのに何で今になって、しかもあいつの前で。
何だろう。
私、この空間に酔っている?
だって静か過ぎるのよ。これじゃぁ、あいつの声しか聞こえなくなっちゃうじゃない。


──低く、そして妖しい


まずい。
やっぱり今日は調子が良くないんだ。早く帰らないと。
これ以上ここにいたら、自分がわからなくなる。












「……泣いて、いるのか?」






確かにあいつはそう言った。


でも、私はそれを確認することは出来なかった。
椅子から立ち上がろうとした瞬間激しい目眩に襲われ、私はそのまま意識を手放してしまったのだから。




6/13ページ
スキ