前編
私達は黙ったまま互いに睨み合い続けた。
その間も、我々を急かすように序曲は続いていく。
「貴様とこれ以上話しても意味がない。もう行け」
最初に口を開いたのは私だった。
目の前の彼女は少し驚いた表情で、だが私に対する警戒心を消さずにこちらを見ている。
「これ以上貴様といると私は今度こそ、本当にお前を殺してしまうだろう」
これは嘘だ。
早くここから去って貰うための演技でしかない。
この女に対して怒りは感じるものの、殺意はもう無かった。
それよりも、私は何か別な感情を抱いていた。
──同情──
この言葉が正しいのかどうかはわからない。だが、確実に彼女に対する特別な感情を抱いてしまったことは確かだ。
「悪いが、いくら考えても私には謝罪をする心当たりがない」
動こうとしない彼女にそう言う。
これが最後の言葉だ。
私はマントを翻すと、彼女に背を向けた。
少し間が空いて、ゆっくりと扉が開く音が聞こえたかと思うと、直ぐにそれは閉じられた。
後ろを振り返る。
もちろん彼女はいるはずはない。
不思議だ。
いざ彼女がいなくなると、何か物足りさを感じる自分がいるのだ。
彼女があんなことさえ言わなければ、もしかしたら音楽について会話ができたかもしれない。
だが、私に対する彼女の気持ちは全く違ったようだ。
あれだけ敵意を剥き出しにされれば、会話を楽しもうなどと思えるはずがない。
(何をやっているのだ、私は…)
ボックス席の椅子に深く座り込み、曲調が変わった彼女が『真の音楽』というものに耳を傾ける。
理解できない。
この醜い音楽を彼女は何故美しいというのか。
醜さは罪なのだ!
私はそれを嫌というほど味わってきた。
芸術も同じだ。
醜いものは評価されず、一度きりで終わる。
なのに彼女は───
理解できん。
心臓の鼓動がまだ激しい。
私は廊下を速足で通り抜け、大階段前で足を止めた。
階段の下に支配人ムッシュー、ルフェーブルと舞台衣裳姿の役者達が数人集まっていた。
稽古が始まっているというのに、一体何をやっているのだろうか。
今はあまり人に会いたくなかったけど、この階段を下りなければ目的地にはつけない。
困った。
運の悪いことに、役者の一人に見つかってしまった。
「##NAME1##、ちょうど良いところに来た」
「何でしょうか?」
支配人に手招きされ、ゆっくりと階段を下りる。その間に、自身を落ち着かせるために大きく深呼吸をした。
私が支配人のもとへ行くと、他の役者達は逃げるように舞台へといなくなって行った。
私はそれを微笑みながら見送る。
いつも通り。
「##NAME1##、君は調律の他にいつもオペラのバランスを聞いているようじゃないか。私は専門的なことはわからないが、それが高く評価されているらしい」
支配人の言葉は意外なもので、私は驚いた。
厄介ごとには首を突っ込みたくないこの男が、"わけあり"の私に話しかけてくることなんてほとんど無かったのに。
珍しく話しかけられたと思ったら、そんな内容だもの。
「そんな、評価されるようなことはしてませんよ」
私は苦笑する。
「いやいや、十分素晴らしいことだ!それでだ。##NAME1##、君に音楽監督をやって貰いたいと思ってるんだが──」
「ちょ、ちょっと待ってください!急すぎません?何かおかしいですよ!?」
はっきり言って、音楽監督なんて任せられる立場じゃない。
調律係でいられるだけでありがたいのに、それ以上なんて必要なかった。
それになんか、嫌な予感がする。
「そ、そんなことは無い!素晴らしいオペラ公演するために考えた結果だ…」
そう言った支配人の顔色は、良いものじゃなかった。
見ると手紙を一枚握っている。黒く縁取られた白い紙。
あぁ、良く考えればわかったことじゃない。
「手紙、見せてください」
支配人は額に汗をかきながら、ゆっくりと手紙を差し出した。
私はそれに目を通す。
やっぱり。
実物は見たことは無かったけど、噂通りの手紙だ。
乱暴に書きなぐられた文字。
あからさまな脅迫文。
そして送り主のO.Gという文字。
「幽霊に指示されたからですか」
手紙を折り目通りに閉じると支配人に突きつけた。
「申し訳ありませんが、私はこのまま今まで通りの仕事を今まで通りやっていきます。
こんな手紙の指示になんて従いませんからっ!!」
冗談じゃない。
何であんな奴の指示に従わなきゃいけないの!?
目の前の男は見えない脅迫者に怯えて、何も出来ないなんて。
本当にここの支配人なのか疑いたくなる。
「その手紙に返信でもしておいて下さい。あなたの指示には従えませんと」
一体あの男が何を考えてるのかがわからない、ありえない。
殺さずに生かしたと思えば、急に現れて。
知らないところでは勝手に私の仕事を決めようとしている。
理解できない!