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前編


あぁ、やってしまった。

どうやら私は1日中寝てしまっていたみたい。



初日が近いというのに、仕事をサボってしまったっ!!
明日が初日だなんて…頭がついていかない。


これも全てあいつが悪いっ!!

って思いたいけど…。
説明しても信じてもらえそうにないし。

どうせこの首の痕も変な病気にかかったなんて思われるんだろう。

近寄ったら感染するぞーとか、また言われるんだろうけど。


楽屋裏で踊り子達が片付け忘れた白粉を発見したからちょっと塗ってみたけど、あまり変わってないのが現実よね。




私があーだとかうーだとか唸っていると、誰かが近寄ってきた。

「##NAME1##さん、大丈夫ですか?首まだ赤いですよね…?これ、ジリー先生が持たせてくれたんです。使って下さい」

透き通るような、聞いたことのある声。
振り向くと、目の前には胸に何かの布を抱いたクリスティーヌ・ダーエが立っていた。
バレリーナの白い衣装を身にまとい、その大きな瞳でこちらを見つめている。

クリスティーヌはゆっくりと、布を差し出した。
私はそれを受け取り確認する。
これはスカーフだ。

「ありがとう。でも、なんでジリー先生が?」

スカーフを貰えたことはありがたいけど、疑問が一杯だ。

「私、いつも舞台下で作業をしている##NAME1##さんを見ているんですよ?でも昨日は稽古の時に##NAME1##さんの姿が見当たらなくて…。それで先生に聞いたら、アレルギー性の発熱で寝込んでいるって聞いたんです。今日も熱のせいできっと顔が赤いだろうからって、心配していた私に先生が持たせてくれたんです」


アレルギー性の発熱!?
は、初耳だ。


私が休んでいる間にそんな話が流れていたのね…通りで周りの反応が想像してたのと違ったわけだ。

とても有難いけど、でも何故ジリー先生がそんな嘘を…。
もしかしたら、私が眠っている間に起こった出来事も何か知っているのかもしれない。


まだ少し時間はあるから、会いにいってみるか。



「クリスティーヌ、本当にありがとうね」

私はスカーフを首に巻いた。
少し香水の匂いが染み付いたそれはとても良い匂いがしたけど、なんだか私には合わない気がする。

「##NAME1##さん、お仕事頑張って下さいね!!」

「クリスティーヌも頑張って♪」

ニコッと微笑んだ彼女は小さくお辞儀をすると、舞台の方へ駆けていった。


見た目は大人っぽく見える彼女だけど、まだ14歳か15歳なのよね。時々見せる仕草がとても子供っぽくて、でも愛らしい。




まだ私がオペラ座へ来たばかりのとき、始めてクリスティーヌと会ったのは楽屋前。
ジリー先生と一緒にいた彼女は、私の目を見るとジリー先生の後ろに隠れ震えていた。


あれは今でも覚えている。


そんな反応は慣れていたから、これ以上怖がらせるのは申し訳ないと思い、私は短い挨拶だけをして立ち去ろうとした。
でも彼女はゆっくりと私に歩み寄ってこう言った。


「…ごめんなさい。最初はとても怖かった…だけど、本当は凄く綺麗な眼だと思うわ」


本当に驚いたわ。
ほんの少し前まで震えていた彼女が、今は私の前で笑っているのだから。


それからクリスティーヌはオペラ座では新人の私に、周りの目なんて気にせずに色々なことを教えてくれた。
ジリー先生の娘さんのメグも紹介してくれて、今では大の仲良しなのよね。


本当に彼女には感謝している。
なかなか仕事を始められなかった私をいつも心配してくれていたのも彼女だし。
まさか年下に面倒を見られるとは思ってもいなかったけど、当時はそんなことは言ってられなかったのが現実だ。





ジリー先生とは舞台裏で会うことができた。
だけど稽古前ということで人が多く、私達は場所を移動することになった。




移動した先は、まさかの5番ボックス席。

ここで長年働いているはずの先生が、何故あえてこの呪われた場所を選ぶのか?
不思議でたまらない。








「お元気そうで何よりです。でも、今日も休んでいて良かったのですよ?皆にもきちんとお伝えしていますし」

入口近くに立って先生はそう言った。

「別に痛いとか声が出ないとかでは無いんで大丈夫ですよ。アレルギーなんてのもありませんし」

先にボックス席に入っていた私は、稽古の準備のために騒がしい舞台を覗き込みながらそう言う。

何故嘘の話を流したのか、少し探りを入れようと思っていた。本当はこんなやり方したくないし、苦手なんだけど今は仕方ない。
だけど、先生の言葉は予想以上にスッキリしていた。

「アレルギー性の発熱なんて嘘に決まっているではないですか。まさか、皆にあなたは襲われて気絶しているなんて言えるわけありません」


こんなにハッキリ言われると思っていなかったから、正直驚いた。









マダム、ジリー。
オペラ座のバレエ教師であり、メグ・ジリーの母親。
とても厳しく、バレエに対する想いはこのオペラ座で上に出るものはいないだろう。
そんな彼女にも噂はある。
それは、このオペラ座で誰よりも『オペラ座の怪人』に詳しいと言うこと。


ただの噂だけどたった今、噂が真実に変わった。




「##NAME1##、彼は危険です。これ以上オペラ座の怪人には関わってはいけません」




オペラ座の怪人を先生は"彼"と呼ぶ。ここでは誰もそんな呼び方はしないのに。
それに、全ては話してくれなかったけど私が眠っている間に起こった出来事も話してくれた。




「大丈夫です。もうあんな失敗はしませんから」

私は軽く微笑んだ。
だけど先生は首を横に振る。

「##NAME1##…私はあなたが心配です。その首の痕だって皆に何を言われるかわからないんですよ?」

「大丈夫ですって。慣れてます」

「しかし──」

先生が先を話そうとしたとき、舞台の方から彼女をを呼ぶ声が聞こえてきた。
もちろん私達がここにいることは誰も知らない。
だから、声の主は舞台の上を行ったり来たりしているわけで。



「呼ばれてますよ?」

私が舞台を覗きながら楽しそうに言うと、先生は何か言いたそうだったが1つ溜め息をつくとボックス席から出ていった。



暫くして舞台上に先生は姿を現し、整列していたバレリーナ達に指示を出していた。





5番ボックス席には初めて入る。まぁ、他のボックス席にも入ったこと無いんだけど、ここはやっぱり特別じゃない?
いるかわからない(本当は実在する)幽霊専用のボックス席なんだもの。

置いてある椅子や柱などを珍しそうに眺め、触れる。
そしてボックス席を出ようとしたとき、私は背後に人の気配を感じた。
何度か感じたことのある、この感じ。
だけど今日は恐怖は無かった。

ゆっくりと、それでも恐る恐る後ろを振り返る。


やっぱり、いた。




黒いマントに身を包んだ男が、白い仮面を浮かび上がらせながらこちらを見ている。




「こんにちは、お嬢さん。またお会いしましたね?しかし今日は随分と大人しい」

「一昨日の様に暴れてあげましょうか?しかも悲鳴もあげながら」

一歩。また一歩と近づいてくる男に、私は警戒しながらそう言う。
男は──いや、怪人はそんな私を見ながら鼻で笑った。


「そんなことはさせないさ。少しでも変なことをしてみるが良い、今度は確実にあの世行きだ」

その言葉に嘘はないだろう。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。



あぁ、こんなことになるなら早くここから出れば良かった。
でも、ボックス席なんて滅多に入る機会が無いものだから興味があったのよね。




「…私は仕事があるので、失礼します」

怪人の様子を伺いながら私は扉へと移動する。
一秒でも早くここから出たかった。だが、仮面の下からの鋭い視線が痛い。


でも、逃げるように歩く自分がなんか悔しい。
一昨日もあいつに遅れをとって、また今日も同じ。




「謝罪を…」

気づくと私はそう呟いていた。

「何?」

「…謝罪をして欲しいのよ」

私はキッと怪人を睨み付けた。
そうだ、私はこの目の前の男から謝罪の言葉を聞きたかったのだ。

長い間(私はまだここへ来てから1年しか経っていないが)、ここでオペラ座の怪人が起こした事件は数多い。
それは幽霊の仕業、形の無いものの仕業だと思われていたが、真実は今目の前にいる男の仕業だ。

私にもっと力があれば、捕らえて警察へとつき出してやれるのに。





私を睨んだ眼は、方眼だけだというのに強い光を宿しているように見えた。

「面白いことを言うのだな、お前は」

今まで私にそんなことを言ってくる者などいなかった。
いや、その前にこう面と向かって話をする者などいなかった、という方が正しいだろうか。

だが、実に面白い。




この女ともっと話をしたい。




私は彼女に対する謝罪を考える。思い当たるのは1つ。

「謝罪…そうだな、地下でお前を殺そうとしたことは謝罪しようではないか」

私には目の前の女が滑稽に見える。
そうだろう?
殺されるかもしれないというのに、また私に楯突こうとするのだから。

私は彼女の反応が気になって、面白がって大袈裟な動作で頭を下げようとした。
黒いマントが羽のように舞い上がる。

だが、彼女は予想外なことを口にした。






「…いらない」

そう彼女が言った瞬間、イ短調の和音が大音量で響き渡った。
主音の低音が太く鳴り響く中、遠くの方から近づいてくるように、バイオリンの悲しい旋律が姿を現す。

明日が初日のオペラ『悲しき愛』の序曲だ。
全幕通し稽古が始まったらしい。



「私への謝罪なんていらないわ。私はあなたに、神聖な音楽の場を汚したことを謝って欲しいの!!」


彼女のその言葉で、会話を楽しもうという気は一切無くなってしまった。
それどころか今すぐにでもその細い首をへし折って、二度と口を開けなくしてしまいたかった。



「汚したっ?いつ私が汚したというのだ!?
自らのことは棚に上げ、良くそんなことが言えたものだなっ!!良いか!?汚しているのは下で呑気にお歌を歌っている連中だ!!技術も無ければセンスさえも無いっ!!」

幼き頃からこのオペラ座の地下に潜み、その大半を真の芸術への追求に注いできたこの私を全て否定するその言葉。これ程屈辱的なことは無いだろう!


私達は互いに声を張り上げたが、全てこの悲劇の幕開けを告げる音楽に溶けてしまっていた。


「あなたは、自分が音楽を台無しにしていることに気づいていないの!?いつも舞台を台無しにする!…上手い下手があるかもしれない。でも、演者が奏でるもの、それは全て音楽よ!芸術よ!」

「ふざけるなっ!ならば貴様はこの雑音も神聖な音楽と呼ぶのか?音程、速さ、リズム、全てが狂っているこれもそう呼ぶのか!?
いや、これだけではない。技術や表現、それ以上のものが揃ってこそ真の音楽だ!!完璧な芸術だ!」

「えぇ、呼ぶわ!確かに今は完璧じゃないかもしれない、だけど皆一生懸命奏でてる、演じてる!」

身体の内から溢れ出すものを抑えるよう、彼女は自らの体を力強く抱いた。

「完璧だけが全てじゃないっ!!」










あぁ、そうか。

この女がここまで音楽に対して、芸術に対して必死になるのは、完璧という言葉に敏感なのは、もしかしたら私と同じなのかもしれない。



自らを芸術に重ねているのだ──






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