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前編


うるさい。
うるさい、うるさい。

私は疲れてるの。
静かに寝かせて!






重い瞼を開けると、そこには見慣れた天井があった。
そう、木造の少し低い天井が。

ボーッとした頭で周囲を見渡す。
ここは私の部屋だ。


起こされた原因は、舞台に運ぶ大道具の音だろう。
それはなんとなく理解できた。
しかし、もう少し優しく扱えないのかと考える。




ゆっくりとベッドから降りた私は、普段着のドレスのままだということに気がつく。
無駄に膨らんだ裾は歩くだけでも邪魔になるのに、それを着たまま寝ていたなんて信じられなかった。
それに、エプロンは近くの椅子にかけてあるが、ほどいた記憶がないのだ。


寝る前のことを思い出してみる。




だめだ、思い出せない。






じゃぁ、何で??




そう考えたとき、一瞬血の気が引いた。
勢い良くベッドから飛び起きると、部屋に1つしかない鏡の前へと駆け寄る。
そして私は驚きに目を見開いたのだ。


段々と霧が晴れるように、頭の中に記憶が蘇ってくる。




そうだ。
私は襲われたのだ。



オペラ座の怪人に。





鏡を見つめながら自身の首を優しく撫でる。
私の首には、生々しくはっきりと痕が残っていた。
首を絞められた時についた赤黒い手形。少し触れただけでもズキズキする。
そしてそれは、なかなか消えそうに無い。


痣を見ていると、あの時の恐怖が蘇ってくる。



舞台を台無しにする奴を人目見て懲らしめようと思っていたにも関わらず、さらにオペラ座の怪人に出会ったとしても驚かないという自信があったのに、実際の私は助けを呼ぶ悲鳴さえ挙げれないほど恐怖に支配されていた。
しかも、戦いを挑もうなんて。

無我夢中だったとしても、私はバカだ。





深い溜め息が漏れた。
この首じゃ、当分はこの部屋からは出られそうにない。
けど、そうはいかない。

私には調律という大事な仕事があるのだ。
それを1日だって怠ることなんか許されない。
いや、私が許さない。



また、今以上に人目を避けなきゃいけない。

やっと慣れてきたというのに。





鏡に映った自身の首もとから目線を上に移すと、自分と目があった。
見慣れた薄いグリーンの右目がこちらを微笑んでいる。




だけど、左目は微笑まない。



色を無くしたそれは、一体どこを見ているのだろうか。

真っ白いそれは、いつかちゃんとこちらを見てくれるのだろうか。


いや、それは無理だろう。
もうずっと前からそう願っているのだから。



私が人目を避ける理由。
私がまわりから避けられる理由。

それがこれだ。




人間の好奇心とは強いもので、隠しているものほど見たくなるのだ。

だったら最初から隠さなければ良い。
そう考えて私はそのままでいる。

まぁ、ちょっとの抵抗ということで前髪では隠しているけど。
それも無意味に近い。


最初は辛かったけど、小さい頃からだからもう慣れている。


そう思いたい。







トントンッと、床が鳴った。

あぁ、またいつもと同じ1日が始まる。


「…##NAME1##?…起きてるかい??」

私はこう答える。






「もちろん起きてるわよ」






何故だろうか。
なかなかペンが進まない。

一枚。また一枚と、足下には失敗作の楽譜が散らばる。
そのほとんどが白紙に近いのだ。


これほど作曲が進まないのは何時振りだろうか。

集中できない。



ペン立てに羽ペンを戻すと、気分転換でもしようかと私はオルガンを離れた。
だが、この行動もこの1,2時間の間だけでも何回目だろうか。


全ては、私の領域に侵入したあの女が原因なのだが。
しかし、たかが女一人にここまで気持ちが引きずられるとは思ってもいなかった。
私も堕ちたものだ。







あの地下で彼女を発見したとき、さすがの私もためらった。
女性を殺めてしまうことになるのだから。

だが、この世には知らなくても良いことが沢山あるのだ。
彼女はその知らなくても良いことを、知ってはならないことを知ろうとした。
当然罰を受けなくてはならない。

さらにだ。
彼女はこの私に牙を向けた。
この私にだぞ?
もう彼女を殺すのをためらう必要など無い、これで正当な理由ができたのだから。



部屋は薄暗かったが、暗闇に慣れた私は彼女は良く見えていた。
素早い動作で彼女を拘束し、首を掴む。
手袋越しでも彼女の温かい体温が感じられた。
本当ならば愛用のパンジャブの紐で絞め殺したかったが、距離が近かったことと急な彼女の反撃に対処できなかったのだ。
だがそんなことは関係なかった。目の前の女を絞め殺すくらい、片手で十分だ。

彼女の細い首を掴んだ手に力を込め少し上へ持ち上げると、私より背の低い彼女は当然足が浮く形になる。


そのとき初めて彼女の顔を見た。
驚くことに、何日か前に深夜の劇場で私が驚かした人物と同一人物だったのだ。
偶然とは恐ろしいものだ。


彼女は苦し紛れに質問してきた。
私はその質問に丁寧に答えると、細い首を持つ右手に力を込める。




さぁ、私に見せるのだ!!
苦痛に歪む、その醜い顔をっ!








だが、私は驚きに目を見開いた。

信じられなかった。



首を圧迫され苦しいはずなのに、目の前の女は笑っていたのだ!
震える口をひきつらせながら、確かに笑っていた!!


ありえん!
今まで見てきた人間は全て、死に直面すれば死にたくないと抵抗し、殺さないでくれ、と顔を歪ませながら私に懇願してくるのだ!
整った顔を誰もが歪ませ、醜いと嘲笑った私にお願いしてくるのだぞ!?



私は彼女から手を離し、支えを無くしたその身体はまるで糸の切れた人形のように私の足下に転がった。
反動で仰向けに転がった彼女の目は虚ろで、だが左右で色の違うそれは明らかにこちらを見ていた。
髪で隠れていて気づかなかったが、彼女の白い左目は不気味だ。

だが、何故か嫌いでは無い。
私と同じように己の顔に醜さを持っているかだろうか。





苦しそうに息をする彼女を私は黙って見下ろしていた。
おそらく意識は無いだろうが、生きている。
今その細い首を再び握れば、確実に彼女は死ぬだろう。
だが、私はそうしなかった。


静かにその場を離れ地上へと戻ると、舞台裏を静かに歩く。もちろん人には見つからないように。
そして再びあの地下へ戻るのだ。だが一人で、ではない。
私の存在を知っているバレエ教師のマダム・ジリーも一緒だ。
舞台裏でワザと彼女に見つかるように行動し、舞台で起こった出来事は私の仕業だと考えた彼女は私を追うだろう。
だが、ジリーが地下に着いたとき私はもういない。

これで良いのだ。




「…エリック?いらっしゃるのでしょう!?エリッ──##NAME1##っ!!!あぁ、##NAME1##!一体どうして…」



あの後ジリーがあの女をどうしたかは知らないが、おそらく地上へ連れ帰っただろう。
たとえ、あの場であの女が死のうが助かろうが、私の知ったことではない。







空になったカップをテーブルの上に置くと、ポケットにしまってある時計を取り出し時間を確認する。
もうすぐ地上で舞台稽古が始まる時間だ。
私のオペラ座での新しい演目の進み具合がどうなのか、確認しなければならないのだ。



結局作曲は進まなかったが、まぁ久しぶりにこういう日があっても良いだろうと考える──甘い考えかもしれないが。



タイを素早く結び直すと、いつもの燕尾服を身にまとう。
その上から更に黒いマントを羽織り、黒の皮手袋を身につける。
これで完璧。



地下の王国を出ると、地上へと歩みを進めていく。


昨日の稽古は最悪であったからな。舞台美術の再確認と、あの下品な歌姫をどうにかしなければならないのだが…さて、どうしたものか。
美術の方は、まぁなんとかなるだろう。
問題はカルロッタだ。
長期休暇をとっていなくなったと思えば、またノコノコとこのオペラ座に帰ってくるではないか。
だが当然だろう。
あの女の実力ではどこへ行ってもお払い箱にされるだけだ。結局はここに戻ってくるしかないのだから。

あの女の代わりになる者がいれば別なのだが、そうも上手くいかないのが現実だ。
もう少し素直に、私に従ってくれれば何も問題は無いのだがな。


だが、カルロッタがプリマドンナの座から下ろされるのも時間の問題だ。
私には最高の天使がいるのだから。
しかし、動き出すにはまだ早い。
もう少し時間がかかるのだ。
未熟なまま天使を羽ばたかせてしまえば、何が起こるか想像すら出来ないのだからな。









私がいつもの席、5番ボックス席に着いたとき既に稽古は始まっていた。
しかし、まさか始まっているとは思ってもいなかった。

確かに私が聞いていた時間通りに稽古は始まったのだろう。
だが、ここへ来る途中に微かに聞こえていたあの演奏、歌。本当にあれは稽古をしていたのか?

この演目の初日は明後日だ。
昨夜、支配人宛に手紙は出しておいた筈──私を恐れている支配人が読んでいないはずはない。
一体、支配人は何をやっているんだ!?
使えん男だ。





それにしても酷い音楽だ。
いつにも増して酷い!!

原因は…オーケストラか。



私はボックス席から少し身をのりだしオケピットを覗いた。
指揮者でもあり音楽指導のマエストロ、レイエが汗だくになりながら指揮棒を振り回しているではないか。


あぁ、また音が違う!

リズムが違う!!

音程を合わせろっ!!



何故たった1日でここまで悪くなるのだ!?これなら、カルロッタを抜かせば昨日の演奏の方がまだマシだ!!



私のオペラ座でこれ以上無礼な音楽を奏でてみろ!
今度は怪我人だけでは済まない程、恐ろしいことが起こるぞっ!!!


怒りのあまり席から立ち上がろうとした時、ガチャリと後ろのドアが開く音がした。
私は怒りを抑え気配を消す。

「エリック?いらっしゃるのでしょう??」

この声はジリーか。
周りに聞こえないよう、この雑音の中では耳をすまさないと聞こえないくらい小さな声だ。

「…何か用か??」

声の主が彼女ではなくただの侵入者であったら、おそらく私はその者を殺していただろう。
まぁ、彼女も侵入者といえばそうなのだが、彼女はこのオペラ座で唯一怪人の正体を知っている存在であるのだ。
他のオペラ座関係者に比べれば優秀で利用しやすい存在である。


「ここで一体何をしてらっしゃるの?」

「何を?決まっている。稽古の見学だよ、私のオペラ座だ。作品の出来を知ることは当然の仕事であり、指示も必要だろう。
しかし、もう指示は決まった。どうやらここの人間はもっと恐ろしい目にあわなければ成長しないらしい!」

怒りをあらわにしながら私が言うと、ジリーは困ったように眉を寄せた。

「エリック…」

「何か言いたげだな、マダム?」

私が促すと彼女は口を開く。
他に聞きたいことがあるらしい。

「エリック、あなた##NAME1##に何をしたの?」

「##NAME1##??何の事だかわからんな」

「昨日、##NAME1##が舞台裏の地下室に倒れていたわ。犯人はあなたしかいないのよ」

あぁ、あの愚かな女のことか!
せっかく忘れかけていたことを思い出させられるとは。

「##NAME1##は今、自分の部屋で眠っているわ。もう少し見つけるのが遅かったら、危なかった」

なんと、生きているとは。
運の良い女だ。
直ぐにジリーを連れてきた私に感謝して貰いたいものだ。

「なるほど、生きているのか。だが仕方の無いことだ、あの女が悪い。オペラ座の怪人の秘密を探ろうとしたのだからな」

驚いた様子も見せずに、私は淡々とそう言う。






「それよりあの女は何者だ?見たことが無い」

「ご存知無いのですか?一年前からここで働いている調律係です」

調律係だと?
私が知っている調律係は白い髭が印象的な年老いた老紳士だったはずだ。

私が顎に手をそえながら考えていると、彼女から溜め息が聞こえてきた。

「あなたが前任の調律係を辞めさせたんですよ?お忘れですか?そのあとに##NAME1##が雇われたんです」


まさかっ!
前任の調律係が1年前に辞めていただと!?
確かに前任の腕前は最悪で、私は何度も支配人に手紙を書いたり、接触したりしたこともあった。
だが、最近のオーケストラのバランスが良いと思っていたのは、あの男が腕を上げたわけでは無かったのだな!?

「では、その…##NAME1##という調律係が今まで調律をしていた、ということなのだな?」

「そうです。とても優秀な調律係だと私は思っています。あなたも感じているのではないですか?」



私はジリーに背を向け、再び舞台を覗き込んだ。
あの女の姿を探すが、いるはずは無い。

私がそうしたのだから。




「##NAME1##は他の人よりも耳が良いのです。だから調律だけではなく、他の場面でも活躍しているのですよ。もしかしたら、あなたと同じくらい…いえ、それ以上に耳が良いのかもしれませんね」


私よりも優秀。
というジリーの言葉にひっかかるところもあったがそれよりも、その##NAME1##という女のことをもっと知りたいという気持ちの方が強かった。



昨日と今日で違うこと、それは調律係がいないということだ。

なんとも驚きではないか!!

あの女がいたからこそ、今までのバランスが保たれていたということになるのか!?





「しかし、変ではないか?」


私はある疑問に気づく。
だが、私はその答えを本当は理解しているのだろうが、ハッキリさせたかった。


「そのような高い能力を持っているのであれば、働き始めてからすぐにでも昨日までのような演奏が出来ていたはずだ。
だが、オーケストラの演奏が安定してきたのはつい最近だ。彼女はそれまで何をしていた?」


そう、おかしいのだ。
演目を変える前から毎日劇場に通っていた私が、彼女を知らないはずがないのだから。


「…直接##NAME1##に会っているのなら、その理由がわかるのではないですか?」

苦しそうな表情でジリーは言った。
だが、私は無言でその先を促す。

「…仕事に来れなかったんです」

私を見つめたジリーの目はこれ以上言わせるな、と訴えていた。

やはり私の予想は正しかったようだ。
この先を話す相手がこの私では、さすがの彼女も話づらいだろう。


「そうか、あの目が原因か」

今知ったかのように、大袈裟に演技をする。

実に面白い。
芸術的に高い能力を持っていて、更に醜いときた。


私達はもう一度会わなければならないだろう。
いや、もう一度会う運命なのだ。

そう感じて仕方がない。




「初日は明後日だ。調律係のお早い復帰を願うだけだな」

「エリック、##NAME1##にはもう何も──」

「しないさ!…彼女が私に歯向かわなければな」


身体の奥底から込み上げるような興奮を抑えながら、私は言った。



この気持ちは一度感じたことがある!

私が光を見つけたとき──あぁそうだ!あの地下の礼拝堂で小さな少女を見つけたときと同じ気持ちだ。




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