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前編


最近、あまり良い夢を見ない。
もともと、毎日良い夢を見ていたわけではないけど。


絶対に最後は、ある声に起こされる。


低くて、それでも芯があって。
何処からともなく聞こえてくるその不思議な声は、あの日から聞こえてくるの。



あの真夜中の劇場の日から。







トントンッと部屋の床が鳴った。
ベッドの上でボーッとしていた##NAME1##は、寝癖でぐしゃぐしゃになっている髪を解かしながら音が鳴った床の上へと歩いて行き、しゃがみこんだ。

「##NAME1##、起きてるかい?」

床から若い男の声が聞こえてきた。

「もちろん起きてるわよ。待って、今準備するから」


そう言うと、##NAME1##は慣れた手つきで肩まで伸びた濃い茶色の髪をリボンで結び、目が隠れるくらい長い前髪は左へながし、ピンでとめる。
そのあとに、顔を洗いに洗面台へと移動する。
濡れた顔をタオルで拭きながらクローゼット(と言っても板を組み合わせて出来た縦長のただの箱だ)の前へ移動すると、普段着に着替え始める。
くるぶし位の長さのドレスを着込み、その上から使い古した腰巻のエプロンを巻く。

もちろんコルセットは無し、不自由すぎるんだもん。
初めて付けたときは本当に死ぬかと思ったわ。




そして、全ていつも通り。



##NAME1##は先ほど男の声がした床の前まで来ると、その床に備え付けてある小さなハンドルを回した。
ハンドルは鈍い音をたてながらゆっくりと回り、##NAME1##がそれを持ち上げると床も一緒に持ち上がった。

そこに現れたのは、木製の梯子。
その横で白いシャツを着た男がこちらを見上げている。

たしか、セカンドバイオリンの一番下だったはず。



##NAME1##が持ち上げたのは、下の階へと続く梯子がある扉であった。
しかし下の階といっても、今彼女がいる場所は大道具倉庫の屋根裏である。


「お待たせ、いつもご苦労ね」

「そんなことないさ」

##NAME1##は梯子の上で男を見下ろしながら微笑んだ。

いつも通り。


だけど男は上を見上げていても、##NAME1##と目をあわせない。
視線はキョロキョロと移動し、最終的には##NAME1##の足元で止まる。

これもいつも通り。



別に彼だけじゃない。
このオペラ座で暮らすほとんどの人達は、私と目をあわせてくれない。
そうじゃない人も最初は皆同じ反応をする。



理由は簡単。
目をあわせたくないから。



けど、もう慣れた。






「今日の日程は?」

何も気にしていないように、ゆっくり梯子を降りながら彼に聞く。
背を向けているから彼の姿は確認できないけど、無理をしているんじゃないかと思ってしまう。

だったら毎日来なきゃ良いのに…と思うけど、そうはいかないみたい。
たぶん、年老いた先輩からの命令なんじゃないのかな。
逆らったら、それこそこのオペラ座を追い出されちゃう。



「昼から三幕通し。それまでは個人練だと思う」

「わかった、ありがとう」

「いや…いいさ」

梯子を降りる際にめくれてしまっていたドレスの裾を直しながら、##NAME1##はいつも通り礼を言った。

男もいつも通り返事をする。

そして、いつも通り逃げるようにして去っていくのだ。


それを見送った##NAME1##は小さな溜め息をつくと、少し埃っぽい部屋をあとにした。





それからいつも通りに練習が始まり、時間が過ぎていった。



このオペラ座での私の仕事は『調律』。
少しはピアノやオルガンも弾いたことはあるけど、そんなに上手くはない。

普通ピアニストは自分で調律をするのが当たり前だけど、このオペラ座には専属の調律士を雇う習慣があるみたいで。

自慢じゃないけど、私は他の人よりは耳が良いみたい。
職がなかなか見つかっていなかったそんな私をマエストロが雇ってくれたのよね。
感謝感謝。


だから、私の仕事はピアノの調律で。
リペアの知識も少しあるから他の楽器の調子をみたり、修理もしたりして日々を過ごしているの。






「では、三幕の初めから」

お昼過ぎ、劇場ではキャストとオーケストラの練習が始まった。
私はピアノの隣で見学。

舞台より一段低くなっているオーケストラピットから見上げる舞台や客席は、普通に見る時と違って新しい発見があり楽しいのだ。



舞台袖から、豪華な衣装に身を包んだ歌姫カルロッタが登場した。
そして、力強いソプラノで歌い始める。



私はそれを瞼を閉じながら聞き入った。

彼女の歌は好みがわかれるかもしれない。
力強い良く通る声質だが、歌い方が一定でどんな歌でも同じように聞こえてしまうときがあるのだ。
それが喜劇を歌った曲でも、悲劇を歌った曲でも。






「きゃぁぁぁぁぁぁっ!!!」

カルロッタが最後のフレーズを歌い終わろうとしたとき、急にバレリーナの一人が叫び出した。

その瞬間、舞台セットの背景に上手から走り去る黒い影が映り、それを追いかけるように大道具がバランスを崩し倒れ出した。

当然舞台の上は大パニックになり、演奏も演技も続けられない。



「な、なんなのよ!?一体何が起こったと言うのよっ!!」

「お、落ち着いてください!!」

カルロッタはこの出来事に激怒し、かぶっていた王冠を床に叩きつけた。



こんな出来事もいつも通りと言えばいつも通りになってしまうのかもしれないけど、さすがに今回は驚いた。
一つ間違ったら死人がでたかもしれないのに。



「オペラ座の幽霊よっ!!」

「亡霊だわっ!」

バレリーナ達や他の役者達は大混乱。演奏者達もそんな舞台上の出来事に何事かと戸惑う様子が目立つ。

「冗談じゃないわっ!!私が来てから2年よ!2年間ずっとこんなことが続いてるのよっ!!」

カルロッタは顔を真っ赤にしながら喚き散らした。せっかくセットした髪やメイクがボロボロだ。

慌てて駆けつけた支配人ムッシュ、ルフェーブルはカルロッタを落ち着かせようと必死。



騒ぎはなかなか静まらない。おそらく練習は中止だろう。





##NAME1##は未だ混乱している舞台に上がると、倒れた大道具の後ろ側を歩き出した。





私にも一瞬だけ見えた黒い影は、騒ぎが起こる前に確かに上手から下手へ移動した。
だけど途中で姿が見えなくなった場所があったのだ。




幽霊の仕業??怪奇現象??

ありえない。



不自然過ぎるもの。




##NAME1##は舞台裏の下手辺りを歩き回る。
裏方達は騒ぎを見に行ったか、逆に騒ぎに紛れて仕事をほったらかして帰ってしまったか。
意外に人はいなかった。


この騒ぎの原因は絶対にオペラ座の怪人しかない。
そんな感じがしてたまらない。

こんな出来事は初めてじゃないし、時には本当に事故だったこともある。

だけど、誰もが見たのだ。
背景幕に映る、走り去る黒い影を。



そう思ったとき、不意に触れた壁に小さな出っ張りがあるのを発見した。
足首位の高さに位置する出っ張りは、少し力を込めて押すと簡単に壁の中に埋まり、目の前に階段が現れたのだ。


周りには誰もいない。
##NAME1##はゴクリと唾を呑み込むと階段をゆっくり下りていく。

目の前は真っ暗で、冷たい風が流れた。

足を踏み外さないよう壁に手を付きながら下りていく。







階段は意外に短かった。

到着した場所は小さな部屋。
壁に炬がかけてあって少し明るい。
今まで誰かがいたのだろうか。



「やっぱり、行き止まりか…」

壁をペタペタ触りながら部屋を見回す。もしかしたらまた隠しスイッチがあるかもしれない、と思ったけど見つからない。

そして誰もいない。


なのに自身の心臓の鼓動は高まり続けている。

何だろう。
まるで夢を見た時のような、あの感じ。

あの声を聞いた時と同じ感じ。







「これはこれは、お嬢さん。道にお迷いかな?」

ゾクッと背筋が凍るような感覚に襲われた。
気づくと呼吸は荒くなり、身体が震えている。


この感じはあの夜と同じ。
少しでも気を抜くと、見えない何かに飲み込まれてしまうような。
あの感じだ。



怖い。
怖い怖い怖い。




##NAME1##は無我夢中で勢い良く振り返ると、エプロンにしまっていた調律用のドライバーを後ろに立つであろう相手に突き立てた。

「きゃっ!!」

だが、ドライバーを持った手は軽々と抑えられ、ドライバーは床へ弾かれてしまった。


「ずいぶんと乱暴なお嬢さんではないか。もう少し女性らしくしたらどうだっ!?」

「ぐっ…!!」

##NAME1##が相手を確認する前に身体は壁に押し当てられ、右手は頭の上で抑えられた。

なんとか逃げようともがくが、抑えられた手はびくともしない。
さらには、地の底から湧き出るような低い声に頭の中を支配されてしまう。


本当にやばい。


##NAME1##はキッと目の前を睨み付けた。
その瞬間、再び背筋が凍るような感覚に襲われてしまった。

目の前には暗闇に浮かび上がる不気味な白い仮面。
いや、仮面を顔半分につけた男がいたのだ。

噂に聞いていた姿だった。



「あ、あんだがっ…オペラ座の怪人!?」

目の前の男は目を細めて口の端を上げた。

「御名答、お嬢さん。はじめまして。そして───」

オペラ座の怪人と名乗った男は、##NAME1##の細い首を右手で掴んだ。
ゆっくりと力が込められる。
抵抗しようと、自由な左手で男の腕を握ぎったり叩いたりするがそれは無意味だった。



「さようなら」



そう言った男の目が一瞬、驚きに見開いたように見えた。








そこから先のことはあまり覚えていない。



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