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後編


薄暗い聖堂を燭台に置かれた数本の蝋燭が弱々しく照らし出す。
壁には白い布をまとった天使が描かれたステンドグラスがある。
その天使の足元に、まるでそこから現れたのではないかと思ってしまうほど美しい女性が両手を顔の前で握り、何かを祈っている。
女性というよりか少女に近いかもしれない彼女を、私は少し離れた場所から見ていた。

「クリスティーヌ...良い子だ」

私がそう言うと、彼女はパッと顔を上げ嬉しそうに私に近づいてくる。
いや、正確には私の声がした壁へと近づいてくるのだ。

「マスター、毎日ありがとうございます」

クリスティーヌはそう壁に話しかける。
そこに私がいるとも知らずに、彼女の音楽の天使に話しかける。
"マスター"と呼ばれるだけで、私の心は何かに満たされていた。

「...では、昨夜の続きから」

壁一枚挟んだ先にいる彼女に私はそう言う。
クリスティーヌは可愛らしく小さく頷くと、静かに旋律を歌い出した。
透き通るような美しいソプラノ。
彼女は今、私のために歌っているのだ。
そう。
私は彼女の音楽の天使。
彼女の"師"だ。
彼女が父親を亡くし、悲しみと絶望の淵にいたまだ幼かった頃から歌を教え、育ててきた。
私の愛しい子。
今まで彼女の声は私の世界だけのものだった。だが、もう違う。
彼女の声が、彼女の歌か羽ばたく時は近いのだ。
あぁ、この高鳴る気持ち。
体が熱い!
彼女の歌が私の心を高揚させ、更なる高みへと二人で旅立つのだ!!
そうだ。もっと響かせろ。
心を解き放て!奏でるのだ!!

私達二人の音楽をっ!!!




「っ...す、すみません。マスター!」

急に私は、現実に引き戻されたような例えようもない感覚に襲われた。
カデンツァに入る直前、クリスティーヌが急に歌うのを止めたのだ。
彼女は自身でもわからないと言ったように、喉に手を当て俯いている。


「...どうしたんだい、私のクリスティーヌ。お前の今の歌には迷いが見える」

「マスター...。私、心配なんです。友達が...」

彼女の言葉に、私は無意識のうちに鼻で笑っていた。もちろん彼女には聞こえていないだろうが。
友達?
そんなモノのためにこの子は迷い、歌えなくなったというのか??
馬鹿らしいにも程がある。
いつもの私なら、ここで集中しろとこの子を叱るのだが...見た様子、相当重症のようだ。
先を急いでも良い結果は得られないと不本意だが自身に言い聞かせ、私は口を開いた。

「そんなに心配なのかい?その友達というのは...」

「はい!とても大切な...友達なんです!!」

今にも泣き出してしまうのではないかと思ってしまうくらい、彼女の大きな瞳は揺れていた。

「お前がいつも話してくれるメグという子かい?」

「いえ...違います」

クリスティーヌは首を横に振ると、また俯いてしまった。
あぁ、何故こうはっきりしないのだ。年頃の娘というのはこういうものなのか!?
たとえ愛しいクリスティーヌだとしても、私は今のこの状況に苛立ちを隠せないでいた。
だが、今ここで彼女を責めても事態は悪化するだけだろう。そう予想は出来た。

「...話してみなさい」

深いため息をつきながら、私はそう言った。
クリスティーヌはというと、少し困った表情で目の前の壁を見上げた。
あり得ないのだが、私が見えているのではないかと疑ってしまうほど、彼女の目は私を見つめていたのだ。

「さぁ...クリス───っ」

「##NAME1##さんが...心配なんです」


彼女の口から発せられたその名に私は息を飲んだ。
胸の辺りが、針に刺された様に急に痛み出す。
信じられないかった。


あぁ、クリスティーヌ!
お前まで私を裏切るのか!!
煮え湯を飲まされるとはこういうことなのかっ!?
何故お前がその名を呼ぶのだ!!
忘れていたのに。
忘れることが出来ていたのにっ!!
何故あの女の名を呼ぶのだ!!!!


##NAME1##!
やはりお前は私の邪魔をするのだなっ!!
初めて会ったときからずっと、変わらずにだ!
お前は私を裏切った。
私の思いを踏みにじった!
私を騙し、心の中では嘲笑っていたのだ!
なのに、何故お前はっ...光を受けれる。何故、心配される。
何故、私と同じではないんだ!


##NAME1##。
私はお前が憎い!





「マス、ター...?天使様?」

反応が無くなった私に不安になったのか、クリスティーヌが何度も私を呼ぶ。

「クリスティーヌ、今の気持ちでは素晴らしい調は奏でられない。今日はもう帰りなさい」

「えっ...そ、そんな!マスター!?」

慌てるクリスティーヌなど気にならなかった。
そう、レッスンでは良くあることだ。
聖堂を後にしながら、私は自分自身を嘲笑した。
"今の気持ちでは素晴らしい調は奏でられない"?
馬鹿馬鹿しい。
他ならぬ自分のことではないか。

ダンッ!という音と共に、右手が痺れる。
私は地下通路の壁に無意識のうちに右腕を叩きつけていた。
自然に出来た岩の壁が、手袋越しでもわかるほど冷たい。




##NAME1##。
何故お前は、私の中から消えない。




痛い。
とても痛い。


ぼんやりとした視線の先には、散乱した仕事道具や衣類。
倒れた椅子や割れた食器。
大事にしていたはずの楽譜や本も、バラバラと足の踏み場が無くなるくらい散乱している。
それを見ると、なんだか悲しくなる。でも原因は私なのだけど。
床にうつ伏せに倒れている為か、下の部屋からの隙間風が冷たかった。



痛い。
とても痛い。


ゆっくりと首だけを反対側へと向けだ。
その時、不意に右目が捕らえた物に私は焦り無我夢中で飛び付いた。
もう動かないと思っていた体も、まだ動いたのだ。

「ごめんっ!ごめん...本当にごめんなさい!!こんなつもりじゃなかったの、本当よ!?皆を乱暴に扱うつもりなんて無かったのよ!酷いことしてごめんなさい、許して、お願い許して!!本当に...ごめんなさい」

拾い上げたそれを強く抱き締める。
それは、赤い石が付いた鍵が刺さったままになっている小さな木箱。
私の大切な物だ。

「ごめんなさい...。本当にごめんなさい」

ゆっくりと鍵を回し蓋を開けると、現れた蓋の裏に付いた鏡が醜い私を写し出し、反射的に目を背けてしまった。
何故かその自身の動作に恐ろしさを感じ、溜めていた何かがはち切れた気がした。


「私ね、もう嫌なんだ。もう、辛いんだ。うん、辛い。そして怖いの、この世界が。彼が。私が。このまま生きてたらさ、また沢山の人を不幸にしちゃう。絶対にしちゃうよ...。もう、したくないよ。不幸なんて。悲しいだけだよ...だからさ...もう、やめちゃっても...良いかな?やめたいよ...やめたいんだよ」

箱の中身に話しかけても、もちろん返事は無い。

「そっちに行けるかな?無理かな?行きたいな。行けるかな?行けないよね...。私、沢山の人を不幸にしちゃったから」

恐る恐る、蓋の鏡を覗いてみた。
ボサボサの髪。
乾燥してひび割れたカサカサの唇に、痩けた頬。
泣きすぎて腫れた右目に、皮膚が抉れた傷だらけの不気味な白い目。

あぁ、私がバケモノだ。



ふと、鏡に写った背後の床が光ったような気がした。
振り替えって目を凝らす。
また光った!気のせいじゃない。
重い体を引きずりながら、光が見えた場所へ移動すると原因を探し始める。
その原因はすぐ見つかった。
散らばった本や楽譜の隙間から覗いていた光の正体は、金の海中時計だった。
震える手でそれを拾い上げ、耳を澄ましてみる。
チチチッと連続して中から機械音が聞こえてきた。壊れていない!
懐かしいようなその音に、一度流れ始めた涙は何故か止まらなかった。

彼の時計。
エリックの時計。
初めてが沢山詰まった私の大切な時計。


痛い。
とても痛い。


「皆が、教えてくれたんだね...ありがとう。ありがとう...ごめんね、やっぱり私、まだやめれない。やめちゃいけないんだよ」

この海中時計を貰った時を何度も、何度も思い出す。
胸が締めつけられるように痛いけど、あの日のことを忘れるはずは無かった。
あのとき彼が望んだこと。

『...またこうして私の気まぐれに付き合ってくれることを、お前に望むよ』

エリックが最初に何を言おうとしていたかはわからない。でも、私はその願いを叶えるって心に決めていたじゃない!

ギュッと、時計を握る手に力が入る。

「私は、あなたを救いたいっ!!...あなたに幸せになって貰いたい!」

ボロボロと溢れる涙を拭うと、その海中時計を首から下げる。
大切な木箱をドレッサーの上に置き、静かに蓋を閉めた。

「...私バカだった。こんなことしてたって、何にもならないよね。皆はそれを気づかせてくれたんだよね?ありがとう」

泣いてなんかいられない。
私は、やっぱり彼を愛しているんだから。






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