後編
ポツ...ポツ...
遠くから聞こえるその音が、なんだか心地よい。
一定の間隔で聞こえてくるそれは、シンクに落ちる水滴の音。
まだ水が出たんだ、と考えている自分がいる。
まだ考えることが出来たんだ、と驚いている自分がいる。
重いまぶたを開けると、そこは暗闇。
でも、床板の隙間から差し込む光がただの闇ではなくしていた。
オレンジ色のうっすらとした光が、なんとも幻想的である。
あぁ、また考えることが出来たんだ、と驚いた。
重く怠い体を起こす。
目眩と頭痛。そして一ヶ所に集中して感じる痛み。
なんだか、それも心地よくなってしまった気がする。
ボサボサの髪をかき上げる。
普段手入れをきちんとしていたわけじゃないけど、今の髪は誰が見ても酷い有り様だろう。
フラフラとベッドから立ち上がった。
久しぶりに地に足を付けた気がする───もちろんここは屋根裏だから、きちんとした地面というわけじゃないけど。
なんだか今日はいつも以上に落ち着かないのだ。
別に喉が乾いたわけでもない。そんなもの、とっくに忘れている。
お腹が空いた?いや違う。必要な時に必要な分だけ、必要だと思う回数食べてるじゃない。
じゃぁ、何?
何が私を動かすの??
こんな、惨めで醜い卑怯な私を。
そう、聞こえるの。
聞こえるのよ、歌が。
もう動くのも面倒だと思っていた私を呼ぶように、歌が聞こえるの。
気づくと私は屋根裏と地上を繋ぐ梯子を降りていた。
運良く回りには誰もいない。当然。時刻はおそらく深夜をまわっている。
屋根裏に差し込んでいた光も、誰かが消し忘れていたガス灯だった。
ゆらゆらと揺れる光が、冷たくとても痛い。
それから逃げるように、壁にもたれながら歌に導かれるように廊下を進んでいく。
真夜中の静まり返ったオペラ座には、昼間の華やかさは何処にもなかった。
むしろ不気味で恐ろしい。
昼間歩いていた時には感じなかった床のきしむ音や窓にぶつかる風の音。
本当に些細な音なのに、今はそれが耳を塞いでしまいたいくらい恐ろしく大きく聞こえる。
私を導く歌がだんだんと近くなっていたのは感じていた。そしてそれが、女性の声だということも。
今私は舞台の下手側にいる。
歌声は...ステージからだ。
舞台袖の吊り下がった暗幕の陰からステージ上を覗いてみた。
そこにいたのは、足元に置く蝋燭の光だけに照らされた女性。
クリスティーヌ・ダーエ。
私は驚いた。
まさか、この声の主が彼女だとは想像もしていなかったのだから。
では他に誰かを想像していた?──いや、していない。
だって、ここにはそんな技術を持った歌を歌える人間なんているなんて思ってもいないから。
だから、クリスティーヌだということに驚いたのだ。
多少の素質は彼女にはあると感じていたけど、彼女はコーラスガールだし、ましてや歌のレッスンなんて受けれる立場じゃない。
なのに、どうしてこんな歌が歌えるの?
透き通るように綺麗な声。
何かを求め手を伸ばし、懇願するような...そんな声。
でもそれは彼女が望んだ声。自ら進んで願っている声なんだ。
蝋燭に照らされているだけなのに、私には彼女がとても眩しく感じた。
そして、とても苦しい。
彼女の歌声はとても美しい。でも、何故か私はそれをただの美しいとは感じることが出来ない。
私はいつの間にか掴んでいた暗幕を離し、覗き見るのをやめた。
このまま歌い続ける彼女を見ていると、いつか自分は溶けて消えて無くなってしまうんじゃいかという錯覚に襲われたからだ。
それでも、彼女の歌は私の鼓膜を通じて体の中に伝わってくる。
『どうか、私を想って...』
そんな歌詞が何度も聞こえる。
初めて聞いた歌なのに、爪をたてられたようにズキリと心が痛む。
何でだろう。
彼女の歌声を私の体が拒絶する。
今までこんなことは無かったのに!
彼女の歌声を好んでさえいたのに!!
「誰っ...?そこに誰かいるの?」
すぐ後ろからクリスティーヌの声が聞こえた。
少し怯えた、それでも優しい声。
「...##NAME1##さん??」
私は咄嗟に彼女から死角になるだろう暗幕の陰に隠れた。
こんな姿、クリスティーヌに見せれない。
「##NAME1##さん...よね!?良かった...」
少し駆け足で近寄ってきたクリスティーヌの足音が近くで止まった。
「クリスティーヌ...元気、そうね?」
彼女の前に姿を現すこと無く、私はこの闇のように黒い暗幕に向かってそう言った。
「あぁ...##NAME1##さん!本当に良かった。皆あなたが事故にあったとか、消えたとか恐ろしいことばかり噂するから...私、本当に心配していたんです!!」
今にも泣き出してしまうのではないかと思うくらいのクリスティーヌの声。
「また会えて良かった...私、噂が本当だったらどうしようって...」
「そんな...大袈裟よ」
彼女を安心させようとそう言った。
大袈裟?
大袈裟のはず無いじゃない。
消えてしまいたいと思っていたくせに!!
「それにしても、クリスティーヌ。あなた本当に歌が上手になったわね。私驚いちゃったわ...」
ふと気づくと、何故か手が震えていた。
今、たった布一枚挟んだ距離にいる小さな彼女を恐れている??
まさか。
「天使様が...私のマスターが。歌を教えてくれたんです」
「天使、ね...」
本当に天使がいるのなら、私も会ってみたい。
音楽を教えてもらいたい。
叶うなら、私の願いを聞いてもらいたい。
クリスティーヌが羨ましい。
「##NAME1##さん、さっきの曲は新作のオペラのアリアなんです。もちろんカルロッタが歌うんですけど、マスターが練習してみなさいって」
生き生きと話すクリスティーヌ。
聞いている私は、生き生きなんて出来るはずないけど。
「エリッサが愛しい方を想って歌うんです。離ればなれになっても、思い出して欲しいって。懐かしい日々を忘れないでいてっ───」
「クリスティーヌっ!!ごめん...やめて...」
苦しい、苦しい。
そんな歌のことなんてどうでも良い!!私には関係ない!
「ごめん...なさい」
「##NAME1##...さん?...##NAME1##さん!?」
遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。
多分、私がいるはずの場所からいなくなっていたのに驚いて、彼女が探しているんだろう。
もう戻ろう。
もう誰にも会いたくない。
でも、こういう時に限ってその願いは叶わないもの。
本当はこんな遅くまで仕事をするつもりは無かったのだけれど、あとに残すこともしたくなかった。
結局時刻は深夜を回ってしまい、ここの住人達が皆寝静まった今、自室へと急いでいる。
厨房の近くを通りすぎたそんな時、目の前の廊下を見覚えのある人物が通った。
「##NAME1##?!」
間違いない。
静かに立ち止まったその姿は彼女に間違いない。
最後に会ったのはいつだったか。
「...ジリー先生」
こちらを振り向いた彼女の顔は、結ばれていない長い髪に隠れきちんと確認することが出来ない。
しかし少し掠れてはいたけれど、その声は確かに彼女だった。
「あなた、今まであの屋根裏にいたのですか?!私達がどれだけ心配したと思っているのです!」
心配のあまり##NAME1##の腕を掴もうと手を伸ばしたが、静かに弾かれてしまった。
「先生には...関係の無いことです」
「##NAME1##...」
髪の隙間から見えた緑色の瞳に光は無い。
それに、彼女は一体どこを見ているのだろうか。目の前に私がいるというのに、一切目を合わせようとはしない。
そんな姿を見て、私は彼女に初めて会った時のことを思い出した。
その時も今のように絶対に顔を見ようとはしていなかったけど、今とはまた何か違った理由があったのだと思う。
あぁ、##NAME1##。
一体この数ヵ月の間にあなたに何があったの?
「とにかく...私の部屋へいらっしゃい。とても健康そうには見えません。食事もきちんとしていないのでしょう?」
「...関係ありません」
冷たくそう切り捨てられる。
こんなに感情をおもてに出す子じゃなかったはずなのに。
「関係なくはないわ。それに、あなたに聞きたいこともあるの。彼につい──」
「関係ないって言ってるじゃないっ!!」
急に声を荒くする##NAME1##。
髪の下から覗く右目が、明らかに敵意を剥き出しにして私を捕らえた。
「##NAME1##、落ち着いて...」
聞きたくないと言うように両手で耳を覆い、頭を激しく振る。
今にも暴れ出しそうな彼女の腕を掴み、私は息をのんだ。
掴んだ彼女の手の指は真っ赤に染まり、所々赤黒い塊が付着しているのだ。
考えなくたってわかる。これは、血よ。
「あなたっ!怪我をしてるのっ!?見せなさいっ!」
「やめて!離してっ!!」
本当はこんなことはしたくなかった。でも、こうするしか無かったの。
私は逃げようとする##NAME1##の腕を引っ張り、ボサボサで手入れのされていない茶色い長い髪を払った。
「...っ!」
恐怖で心臓が止まるかと思った。
彼女の隠れた左目はグワッと音が聞こえてきてもおかしくないほど見開かれ、こちらを凝視しているのだ。
そしてそれは、恐ろしいほどに白く濁っていた。
だかその白い目と同じくらい目を引くものがまだあった。
眉の上辺りから瞼を通って頬の上まで伸びた、無数の痛々しい引っ掻き傷だ。
肉は抉れ傷痕は腫れ上がり、放っておかれた血は黒く固まっている。
何度も、何度も。同じ場所を引っ掻き続けた結果だ。
「気持ち悪いですよね?怖いですよね?!悲鳴をあげても良いんですよ!?だって呪われてるんですから!こんな不気味な目が付いてるのに、これは何も見てくれないんです!叩いたって引っ掻いたって、この目は何も見ない!何も見れない!!何も見えないんですよっ!」
私には、ぐしゃぐしゃと狂ったように髪を掻き回す##NAME1##にかける言葉が見つからなかった。
いや、もしかしたら今の彼女にはかけれる言葉は存在しないのかもしれない。
「でも無くせないんですよ...無くしちゃだめ、なんです。これを抉り出しちゃ駄目なんです!だって、そんなことしたら、そんなことしたら!!あの人達が何のために死んだのかわからなくなっちゃう!!」
静かな厨房に彼女のすすり泣く声が響き渡った。
左目から垂れる涙は、血が混じって赤色に変わってしまっている。
とても、とても痛々しい。
「...こんなつもりじゃ無かった。私は彼を騙そうとなんて思ってなかった...。私は、私はっ!」
エリックに嫌われたくなかった。
ただ、それだけなの。
私の左目は見えない。
でもそれは生まれつきではなかった。
ある時を境に、急に見えなくなったのだ。
呪いだって。
皆言った。
悪魔だって。
皆言った。
でも、父と母。
それに庭師のおじさんも、そんなこと一度も言わなかった。
私は、それだけで嬉しかった。
彼らがいてくれるだけで幸せだった。
でも、それは急に起こった。
彼らは死んでしまった。
私一人残して死んでしまった。
やっぱり、呪いなんだと実感した。
視力の代わりに、私は悪魔の呪いを貰ったんだと実感した。
死にたかった。
でも、自分で死ねなかった。
自殺は決してしてはいけないことだって、教わってたから。
だから私は人と関わらないように生きてきた。
もしかしたら、誰かが私を殺してくれる時が来るかもしれない。
そう信じながら。
普段は家にこもり、契約者から仕事があれば出ていく。
仕事中は一切立ち入らせない。
だって、呪われたくないでしょ?
死にたくないでしょ?
そうするしかなかった。
そして、契約者が死んだ。
事故。
本当かどうかはわからない。
契約者───彼は、私の左目の秘密を知っていた。
視力が無いと知っていた。
あぁ、だから死んでしまったのか。
それから私はここにきた。
パリ・オペラ座、ガルニエ宮。
最悪な職場だった。
皆私と関わろうとするのだ。
私の気など知らないで。
でも友達が出来た。
可愛い二人のコーラスガール。
人の暖かさを久し振りに感じた気がした。
そして彼に出会った。
嫌いになれないその存在。
哀しみを宿したあの瞳。
人から避けて暮らす、その人生。
恐ろしいくらい完璧な芸術性。
気づいたら、私は彼を好きなっていた。
彼自身を好きになっていた。
だから、嫌われたくなかった。
拒絶されたくなかった。
私は必死だった。
だから、あの時の恐怖は忘れない。
何も見えないことに、あんなにも恐ろしさを感じるとは思わなかった。
そして、彼の素顔。
バケモノだって思った。
悪魔が、この左目を返して貰うためにやって来たのかと錯覚もした。
でもそれ以上に、彼にこの秘密を知られてしまったことに絶望して何も言えなかった。
怖くて、苦しくて、悲しくて。
何も言えなかった。
でも私はまだ、彼と離れたくない。