前編
何でだろう。
何でこうなってしまったんだろう。
私は最悪な女だ。
本当に、本当に最悪な女だ。
彼に...エリックに嘘をついた。
今、私を震えながらも強く抱き締めてくれている彼に嘘をついた。
いや、嘘をつき続けていた。この方が正しいかもしれない。
そして私は、これからもつき続けるんだ。
温かい。
彼の体温をこんなに近くに感じる日が来ることなんて無いと思っていたのに...私はそれを裏切るんだ。
彼がとっているこの行為がどれ程価値があって勇気が必要なものか、私はわかっていたはずなのに。
私は彼に嘘をつく。
彼を裏切る。
エリックは泣いていたのだろうか?
私を強く抱きしめ首元に顔を埋めた彼を、私は感じることは出来なかった。
初めて来た彼の王国。
私のことを気遣いながら、ゆっくり手を引いて彼が連れてきてくれた夜の王国。
あまり覚えていない。
濡れて冷えた体を暖めろと、暖炉の前に案内してくれてタオルをくれたエリック。
そのタオルが何色で、どんな香りがしたか。
あまり覚えてない。
飲めと手渡された紅茶。
どんな味だったか。
あまり覚えていない。
そのあと、彼とどんな別れをしたのか。
彼がそのとき何を言ったのか。
覚えていない。
彼がどんな顔をしていたのか。
知らない。
あのときのことを思い出そうとするたびに、何故か左目が酷く痛んだ。
まるで、私を責めているかのように痛むのだ。
「随分と仕事を溜め込んでいるみたいだな」
てっきり私の存在に気付いていると思って##NAME1##に声をかけたのだが、彼女はそうでは無かったようだ。
手に持っていたペンチを床に落とし、目を丸くしながら左に立つ私を見上げていた。
「い、いつからそこにっ!?」
そこまで驚かなくても良いだろうと思いながら、私は近くにあった椅子に腰掛ける。
舞台で使わなくなった使い古した椅子だが、いつの間にかそれは私専用の椅子になっていた。
三枚ある背もたれの板が一枚破損してしまっていて、修理しようかと彼女に聞いたが「それが良い」のだと断られた記憶がある。
「お前が休憩を終え、再びそこに座ったあたりからだ」
「そ、そう...」
困ったような表情を浮かべた##NAME1##。
私はそんな彼女を真っ直ぐに見つめた。
「そんなに驚くことか?そんな反応をされては、話しかけたこちらが逆に驚くではないか」
私は大袈裟な仕草で溜め息をつく。
いつもなら、このあと彼女は私のこの態度に何か一言二言文句をつけてくるのだが、何故かそれは無い。
「そうよね...」と小さく呟くと、彼女は落としてしまったペンチを拾い再び作業を始めた。
私は何故だかそれが気に入らない。
私の気にし過ぎかもしれないが、最近の##NAME1##はどこかよそよそしいのだ。
今も私の方を振り向いて微笑んだが、何故か私はそれが嬉しくない。
彼女が微笑んでくれることに慣れた?
いや、慣れではない。
それだけははっきり言える。
「私といるのは楽しくないか?」
「えっ...?!」
何故そんなことを聞いてしまったのか自分でもわからないが、目の前には当然のように驚く##NAME1##がいた。
目を丸くし(と言っても、隠れていない右目だけなのだが)、再びペンチを落としそうなくらい驚いている。
冗談もいいところだ。
そんなこと、今の彼女に聞いて何になるというのか。
彼女を試すようなことを言ってしまった自分が愚かだ。
彼女は私を受け入れてくれたのだ。
私の素顔を見ても、彼女は拒絶しなかったのだ。
その時の彼女は驚いた表情はしていた。だがそれは急に起こってしまった出来事に対してであり、私に対してではないだろう。
私の素顔を見てきた人間共は皆、醜い悲鳴を上げ腰を抜かし、そして逃げて行く。
だが、彼女は違った。それだけだ。
それで良いではないか、それ以上に彼女に何を望む?
いや、望むことはある。
だがそれは今ではないのだ。
「すまない、バカなことを聞いた。忘れてくれ」
やはり私の考え過ぎなのだ。
こんなことで彼女を困らせてしまうとは...。
「あのね、エリック...」
「何だ?」
少しの間を置き口を開いた##NAME1##は何かを躊躇っているように見える。
「その...」
「##NAME1##、何を恐れてるんだ?お前らしくもない」
そう、彼女らしくない。
私の知っている彼女は物事を恐れず、もっと積極的だった。
本当にどうしたと言うのだ!
「##NAME1##、言ってくれないと私にもわからない!」
「あなたについてっ!...悪い噂が流れてるから...それが気になって...」
声を張り上げた私に対して、彼女も同じく声を張り上げた。
だが、何が不安なのか。
声は直ぐ弱々しく小さくなる。
「悪い噂?」
実際口には出さなかったが、そんなことかと内心思っていた。そんなことを気にしていたのかと。
私はオペラ座の怪人だ。悪い噂などいくらでも持っている。
今更何を言う。
「最近の...」
「あぁ、そんなことか。なに、心配は要らないさ。私の正体に関しての噂ならもう聞き飽きた。私が最近"仕事"をしないものだから、噂好きの輩が言い回っているに違いない。まわりから注目されたいのだろう、懲りないものだな」
骸骨に幽霊、悪魔に怪物。次は何だ?
そんなにもオペラ座の怪人の正体を知りたいとは。
最近は私と対面したという輩もいるみたいじゃないか。可笑しくて笑えてくる。私と会っているのなら、もうこの世には存在しないというのに。
「##NAME1##、お前が心配することじゃない」
そう、本当に気にすることでは無いんだ。
だから、いつものお前に戻っておくれ。
「ごめん、エリック。そうだよね、気にし過ぎだったのかな私...」
私のそんな心の声が聞こえてしまったのか。
##NAME1##はくしゃくしゃと自身の髪に触れると、苦笑した。
あぁ、やっといつもの彼女に戻ってくれたのか。
だがその反面、私は自分でも理解できない何かを自身の中に感じていたのだ。
身体の中に異物が入ったような、例えようもない不快感。
その原因は目の前の彼女にあるのは間違いなかった。
「ごめん、エリック。引き出しからドライバー取ってくれないかな」
私の隣にある机を指差しながら、##NAME1##はそう言った。
私の方は見ずに、意識は目の前の鉄と木の固まりに向かっている。
どうやら、本当にいつもの彼女が戻ってきたようだった。
作業を再開したその表情は楽しげだ。
「わかった」
私は引き出しを開けると目的の物を探す。
女性の机の中を見るというのは何とも不思議な気分だが、相手が彼女であるから何も心配はいらなかった。
現に引き出しの中には女性の持ち物とは思えないような物が詰まっていたのだから。
「なかなか面倒でさ、結構前からこの修理頼まれてたのよね...」
彼女のそんな独り言のような言葉が聞こえてくる。
私は目的の物を見つけると、彼女の元へと動く。
「ねぇエリック、ドライバーまだ──っ」
私は無言で##NAME1##にドライバーを差し出していた。
そう、彼女の左から。
だが彼女がそれに気づいたのは私が差し出してから少しの時間が経過してからであり、その間に私は奇術の一つでも披露することが出来たかもしれない。
なかなか振り返らない彼女を最初は心配な気持ちで見ていた。
だが、すぐ別なものにその気持ちは変わったのだ。
好奇心とでも言おうか。
いや、これは私が最近彼女に対して抱いている反感か。
それとも先程から感じているこの不快感か。
振り向いた彼女の表情が少しずつ良くない方へ変わっていったのを見逃しはしなかった。
「あ、ありがとう...ごめんね、気づかなくて...」
##NAME1##はドライバーを受け取ろうと手を差し出しながら笑った。
ただ私の手からそれを受け取るだけなのに、手は震えている。
そんなにも怖いか?この私が?
今の彼女の笑顔は、誰が見ても作り笑いにしか見えない。
あぁ。
私は何となく、わかってしまったような気がする。
決定的な根拠はまだ無いが、彼女の私に対する態度が変わってしまった訳と、彼女がしつこく噂を気にする理由。
今のこのおかしな行動の理由がわかってしまったような気がする!
そして残酷なことに、その理由をはっきりさせる方法も私は思い付いてしまった。
こんな時に限って、私の頭は冷静に良く働く。自身で意識していなくても、残酷なアイディアが溢れるように浮かぶのだ。
落ち着いて。
落ち着くのよ##NAME1##。
ただ余所見をしていただけじゃない、何も心配することは無いわ。
今は何事もなかったように作業をすれば良いの。
ネジを回して、金具を繋げて......
大丈夫。
大丈夫だから。
「##NAME1##」
優しい声。
怪しくて、それでも引き込まれるような彼の声に呼ばれて私は振り向いた。
「な、何?!っえ───...」
その瞬間、一気に血の気が引いた。
何もされていないのに身体はゆっくりと震えだし、嫌な汗が流れる。
彼に。
エリックに、右目を押さえられているだけなのに。
「エリック...?」
エリックの行動が理解できない。
今一番彼に知られたくない───いや、彼だけじゃなくこれからだって誰にも触れられたくない私の"秘密"が、危険にさらされていることに動揺が隠せないでいた。
「エ、エリック...。やめよう、こんなこと」
どうしよう。
喉が震えて普通に話せない。
だけど彼は何も言わない。何も聞こえない。
何で、何で何も言ってくれないの?
「...お、お願い放してっ!」
両手で彼の腕を掴んで引っ張って叩いても、ビクともしない。
目の前にいるのに、目の前にいるはずなのに。
これじゃぁ...何も...。
「エリックっ!!!」
「##NAME1##、私の顔は美しいか?」
私の問いかけには一切答えず、私の名前を呼んだ時とは変わらない声色で彼はそう言った。
「な、何でそんなこと聞くの?ねぇエリック...バカなことはやめて」
一体エリックは何を考えているのか。
私はどうしたら良いの?!
訳のわからない恐怖が何処からともなく涌き出てくる。
恐い。
彼が恐い。
「今、確認したいんだ。##NAME1##、私の顔は美しいか?」
私が必死に腕をどかそうとしているにも関わらず、質問を続けるエリック。
その冷静な口調が凄く恐ろしく、もう私は無我夢中で口を開くしかなかった。
早くこの状況から逃げ出したい、訳のわからない恐怖から逃れたい。
その一心で。
「う、美しいわ!美しいに決まってるじゃない。...た、確かに仮面で隠してしまう理由も、わかる。わかるわ、本当よ?!でも、大したことないじゃない!そうよ、大したことないわ!ちょっと歪んでたって気にしない!...ほ、ほら!私だって同じよ!!わかるでしょ?!」
もう、自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ、ただ。
この腕をどかして欲しかった。
「だからお願い放してっ!!」
僅かにだけど、私の右目を押さえる指に力が入った気がした。
「美しい、か...お前と変わらない、か...。これでも...そう、言えるのか?」
ゆっくりと彼の指は離れ、圧迫されていた右目に少しずつ光が戻ってきて、目の前の光景に私は絶望した。
「...っ!!いやぁぁっ!!!」
##NAME1##は近づけていた私の腕を振り払うと、勢い良く椅子から転げ落ちた。
驚きと恐怖で目を見開き、私から遠ざかろうと身体を引き摺るように無我夢中で壁際へと移動していた。
私はそんな##NAME1##を自身でも驚くぐらい冷静に見下ろしていた。
「お前は初めてでは無いはずだ」
怒りなど無い。
ただ、虚しかった。
「何か変だと感じていたんだ。まさか...見えていなかったとはなっ!」
無意識に、力無く仮面を握っていた右手に力が入った。
そう、今までの彼女の行動を思い出せば解ったはずなのだ。
彼女は自分の左側には絶対に人を居させなかった。
5番ボックス席でも、支配人のオフィスでも、必ず彼女は私の左にいた。
あの時も私の素顔を見たのは、彼女の白く濁った左目だ。
彼女の左目は見えていない!
「ち、違うの...」
##NAME1##は自身の身体を両手で抱き、首を弱々しく左右に振った。
その動作がまた、私を失望させる。
「本当に私が愚かだったよ。お前の言葉を信じ、浮かれていたんだっ!!」
さあ、良く見ろ!
これがお前が美しいと言った顔だっ!
引きつって爛れ、一生完全に閉じることの無い瞼。
腫れ上がった唇。
骨格は歪み、あり得ない箇所が窪んだ骸骨の様なこの顔。
これがお前の言う美しさなのだろう?!
お前は受け止めてくれていたのでは無かったのか?!
「違うっ...」
「貴様も他の連中と同じだっ!さぞかし楽しかっただろうな?!この私が滑稽に見えただろうっ?!どうだ、オペラ座の怪人を誑かした気分は?!」
同じだ。
目の前の彼女は恐怖に怯え、顔を歪め、私を恐れる奴等と。
見世物小屋にいた時と同じだ!
何も変わってはいなかったんだ!!
あとは「バケモノ」と泣きながら叫ぶだけだ、それさえあれば私はお前を殺せる!!
「私が恐ろしいだろう?!悲鳴をあげ、助けを呼ぶがいいっ!!」
「違うっ!!」
「何も違くはないっ!!」
やはり私は冷静にはいられなくなっていた。
この目の前の女を呪い殺せるであろう言葉が、次々に喉の奥から湧き出てくるのだ。
「ここの連中に噂話を持ちかけたのも貴様なのだろう?!知りもしないことをベラベラとっ...!」
私の気持ちも知らずに、在りもしない嘘を広めている彼女を想像するだけで冷静さなど保っていられなくなる。
この女が...憎い。
「ち、違うっ!私は───」
「お前だけは、お前だけはと思っていたのにっ!」
このままこの女を殺してしまおうか。
なに、噂は出回っているんだ。
オペラ座の怪人が再び"仕事"を始めたところで、不思議がる者などいるはずも無い。
ましてや、この変わり者の調律士を心配する者など存在するわけがない。
「違う...違うっ」
涙を流し、ただひたすら首を横に振り続けるこの女に、もう何も感じはしなかった。
「もう、終わりだな」
やはり我々はわかり合うことは出来なかったのだ。
私は仮面をあるべき場所へ戻すと、彼女に背を向け歩き出した。
「違うっ!違うの、エリックっ───」
「私をその名で呼ぶなっ!!貴様に...その名を呼ぶ権利など無い!」
もう、誰にも呼ぶ権利は無いのだ。
皆、私を拒絶する。
皆、私を見ない。
振り返りはしなかった。
今私がすることは、彼女のために繋げた隠し通路を開き、そして閉じることだけだった。
もう二度と開かぬよう、誰も通ることがないように。
気のせいか、扉を閉める際に彼女の啜り泣く声が聞こえたような気がした。
後悔か?
今更もう遅い。
もう何もかも遅いんだ。
誰も私を愛してはくれない。
前編 End