前編
静まり返ったパリ・オペラ座ガルニエ宮。
ここ数日、このオペラ座でオペラの公演は行われていなかった。
オペラ座のプリマドンナ、カルロッタが長期休暇をとって旅行に行ってしまったことが大きな理由だけど、その他にも新しい演目に切り替わる為の準備期間でもある、ということも理由になるだろう。
だけど、カルロッタが長期休暇をとったことも、二日しか公演していない演目が急遽変更になったのも、原因は同じ。
──オペラ座の怪人。
原因はこれ。
私がオペラ座に勤める前から噂は聞いていたけど、これほど酷いものだとは思ってもいなかった。
平気で舞台を台無しにする最低な奴。
それが私のオペラ座の怪人への第一印象。
オペラ座の関係者は怪人のことをオペラ座に住み着く本当の幽霊や亡霊だと思っているみたいだけど、私はそうは思わない。
だって、幽霊が給料を請求するなんて聞いたことが無いもの。
初めて聞いたときは笑っちゃったわ。
ポケットから小さな懐中時計を取り出すと、時刻は午後の十一時をまわっていた。
舞台の前に一段低く設けられたオーケストラピットで、##NAME1##はピアノの鍵盤を一定の間隔をあけ押したり離したりしている。
その度にピアノの弦は弾かれ、同じ音を何度もホールへと響かせた。
ほとんどの関係者が仕事を終え寝静まるこの時間、何も知らない者がホールへやって来てこの音を聞けば、亡霊の歌だ!!呪いの曲だ!!などと言いながら震え上がるかもしれない。
それほどこのオペラ座は静まり返っているのだから。
真っ暗な、お世辞にも広いとは言えない通路を全身を黒で包み、長いマントを羽織った男が歩いている。
唯一黒じゃない部分。
それは彼の顔と、その右半分を覆う不気味な白い仮面。
彼の姿を見たものは皆同じことを言う。
オペラ座の怪人
(ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ)
と。
時々壁に黒い手袋をはめた手を当て、立ち止まったり歩いたりする。
よく耳をすますと、まだ寄宿舎で噂話に花を咲かせているバレリーナ達の話し声や、金儲けのことしか考えていない支配人達の会話が聞こえてくるのだ。
私が今歩いているのは、関係者や女の尻を追いかけているような愚かなパトロン達が歩く廊下ではない。
私しか知らない、私の為の通路──隠し通路だ。
しかし、なんとも滑稽な風景ではないか。
私に聞かれていることも知らずに、ベラベラと必要の無いことまで話している。
少し驚かせてやろうと思い、バレリーナ達の部屋でギラギラと燃る蝋燭の近くの壁裏まで移動すると、ほんの少しそこに触れた。
するとどうだろう!
今まで燃えていた蝋燭の火が風もないのにフッと消えたと思うとその瞬間、バレリーナ達の耳も覆いたくなるような下品な悲鳴が響き渡るではないか。
その悲鳴に気付いた周囲の部屋の者は何事かとこの部屋へ流れてくる。
何のことはない。
風を利用したただのトリックだ。
私はそのままボックス席へと裏通路を進んでいく。
5番ボックス席内の柱を通り裏通路から出た私は、いつもとは違うホールの様子に反応し身を隠した。
何かの音が聞こえる。
だが音の正体はすぐにわかった。ピアノの音だ。それもずっと同じ音。
先客がいたのか…
私はゆっくりとボックス席から舞台を覗き込み、目を細めた。
一人の女がピアノを弾いているではないか。
しかし、何故こんな時間にピアノを弾いているのか?
普通の人間ならば、こんな真夜中にピアノなど弾かないだろう。
しかもだ。
このオペラ座には恐ろしい噂があるのだぞ?
オペラ座の怪人が現れるという噂が。
最近ここに住み始めた噂の知らない新人だろうか?
遠くからでは良くわからないが、初めて見る顔だろう。
新人であるならば挨拶が必要だ。このオペラ座の主人として、亡霊として。
無垢な女性に、このオペラ座の恐ろしさを教えてやらなくては。
均等に鳴らしていた音が、だんだんと一つの旋律に聞こえてきた。
弾き出された音が、ホールの中を響き渡り少し遅れて返ってくる。
この不思議な現象は嫌いじゃない。
「もう少しキツくした方が良いかしら…」
##NAME1##は椅子から立ち上がると、右手にペンチを持ちながらピアノの中を覗き込んだ。
だがピアノ線に手を伸ばそうとしたその瞬間、何処からともなく声が聞こえてきたのだ。
いや、声というより歌だ。それも女性の。
「な、なにっ…?!」
ガバッと顔を上げた##NAME1##は辺りを見回す。だが誰もいない。
客席を見上げても、たとえ人がいたとしても気づけ無いほどそこは暗闇に支配されていた。
「じょ、冗談じゃ無いわよっ…誰かいるんでしょっ!?」
##NAME1##は声を張り上げる。
だが声は反響し、虚しく消えるだけ。
その間も不気味な歌は女性の声で足下から聞こえたり、更には頭上から男性の声で聞こえたり子供の声で聞こえたり。
まるで、目に見えない群衆に取り囲まれているような錯覚に##NAME1##は襲われた。
良い気分なわけない。
気持ちが悪い。
両手で必死に耳を押さえても、指の間をすり抜け歌たちは直接鼓膜に響いてくる。
##NAME1##は無我夢中で両腕を振り上げると、勢い良く目の前の鍵盤に叩きつけた。
大音量の不協和音が響き渡る。
気づけば、それに掻き消されたかのように歌は消えていた。
##NAME1##は鍵盤に腕を叩きつけたままキッと客席上を睨み付けた。
睨み付けた先はボックス席。
絶対に売りに出ることの無い5番ボックス席。
確かに誰かいた。
だけどもう何も見えない、感じない。
ゆっくりと鍵盤から手を離した##NAME1##は、そのまま床に座り込んだ。
再び静まり返ったホール。自分の呼吸音しか聞こえない。
亡霊の声?死者の歌?
どちらとも信じない。
じゃぁ何?
決まってる。
オペラ座の怪人
(ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ)
「……最悪」
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