赤き幻影
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……ふいに手から力抜け、杯を取り落とした。
疲れているのだろうか。あの程度で酔いが回るはずがない。指のあいだを、葡萄酒が流れていく。それが一瞬、手にこびりついた赤い血に見えた。
何度も何度も洗い落したというのに、いまだ手が赤く染まって見える。あれから三日たっても、指のあいだを伝い流れる血のぬめる感触が残っている。
――父を殺めるつもりはなかった。
けっして短気は起こすなとオーダインが何度も言いふくめてきたが、言われずともそのつもりだった。激情に駆られ、おのが身を危うくする愚は犯すまい。そう心に決めていた。
だが、父と宰相の会話を盗み聞き、廃嫡の意思がたしかなものと知ったとき、俺の前に立ちはだかる壁は父であり、その壁を叩き壊さねば先へは進めぬと確信した。ことを成し遂げようと決意して父の部屋に足を踏み入れた。
だというのに、宰相を手にかけたときも、剣を父の喉元に突きつけたときでさえ、俺にはまだ迷いがあった。引き返せる道をどうにか探そうとしていた。
つくづく、おのれの甘さに嫌気がさす。
短剣を引き抜かせたのは、父の言葉だった。アカネイアを滅ぼすなどすぎた望みだと、大望を抱くことそれ自体が愚かと断じたあの言葉が、胸に激情をわき起こし、この身を縛る枷を焼き焦がした。思い描いた筋書きとは異なれども、あれはなるべくして起こった結果なのだ。
俺の行いが罪だというなら、この国難に手をこまねいている者にいっさい罪はないというのか。若く志の高い騎士たちを使い捨て、安全な場所でおのが地位の安寧に心血をそそぐ愚者こそ罰を受けるべきだろう。
父を手にかけた夜が明けると、ことの顛末を国中に公表した。ドルーアとの同盟を決意した父オズモンドが、アカネイア国王の密命を受けた刺客によって暗殺されたこと、その首謀者は弁務官シモン・ネイヤールであることを。
そして貴族にのみ、王暗殺には宰相メスト公の関与もあったと明かした。
これには貴族たちも驚愕した。王がひそかにドルーアとの同盟を画策していたことはもとより、王の幼少時より仕え、もっとも王の信を得ていたとされるメスト公の叛逆なぞ信じがたかったのだろう。
だが宰相とシモンの結託は、どこぞから降って湧いた話というわけでもない。もとより宰相は国益のためとしてアカネイアの意向に迎合し、有力貴族はもとより王の意思さえも軽んずることを厭わなかった。その意味で、弁務官シモンの信をもっとも得ていたのが宰相であり、それを王への背信と思う者もそれなりにいた。
さりとて、あまりにことを強引に進めすぎた。父の胸には宰相の剣を突き立てておいたが、そのような雑な工作がまかりとおるほど貴族どももばかではない。
不審に思ったはずなのだ。しかしやつらは目をそらし、俺を糾弾しなかった。前線では多くの兵士が無惨に息絶えている。聖王国から援軍も望めぬいま、マムクートとの戦いが避けられる、ただそれだけが、やつらの心に平安を与えたと見える。
その安堵は、すぐさま慢心と欺瞞に変わっていった。一夜が明けるころには、やつらは俺に媚びへつらうことを覚えたようで、不愉快な追従を耳にする羽目になった。苦境に立たされた王はメディウスに恐れをなし、ドルーアに降る道を選ぼうとしていたのだ。そう言って、物言わぬ父を口々に貶める始末だった。
なんとたやすい。
なんと変わり身の早いことだろう。
おまえたちこそマムクートを恐れ、アカネイアにすがろうとしていたではないか。簡単に手のひらを返す浅ましさに、怒りよりも虚しさをおぼえた。
だからシモンをこの手で葬ったときも、なんの感慨も抱かなかった。
父を殺めた二日後、疲労にさいなまれた体を奮い立たせ、地下牢へ向かった。じめじめとした石牢の最奥に、影の王と呼ばれ、二十年も宮廷を牛耳ってきた男が鎖でつながれていた。
そのみすぼらしい姿をじっと見つめていると、俺に気づいたシモンは鉄格子のすきまから懸命に枷のはまった手をのばしてきた。長い髪をふり乱し、土埃で汚れた顔を醜くゆがめ、誤解だ、助けてくれと、それ以外の言葉は知らぬかのように何度もくりかえした。
王さえもひざまづかせる男が、這いつくばり、慈悲を乞うている。
俺の前で父を辱めては、やがてはおまえもこうなると言わんばかりに下卑た視線を向けてきた。いずれはひざまづかせるはずだった俺に、おまえは情けを乞おうというのか。
薄汚い豚め。
鉄格子に手を差し入れ、片手でシモンの首をつかんだ。皮膚に爪を食いこませ、力のかぎり絞めあげた。不快な命乞いはなおもつづいていた。
さっさと黙らせたくて、短剣を首に突き立てた。くぐもった悲鳴が地下牢に響き、血の臭いがあたりにみちた。
気分が高揚する。突きあがる衝動のままに刃を深く深く沈めていった。血しぶきが顔にふりかかった。わずかに目に入り、視界が濁った。首を斬り落とさんと刃をななめに押しつけてゆく。力をこめるほどに頭の芯が白く染まる。
うめき声が聞こえなくなっても、俺は執拗に刃を穿ちつづけた。やがて柄を握る手が血ですべり、短剣が石床に落ちた。そこでようやく顔を起こし、深く息をついた。
こめかみがどくどくと脈打っている。むせかえる血の臭いにめまいをおぼえた。肩で息をしながら、かろうじて首の皮一枚で胴体とつながった頭に目を落とす。
絶命したシモンの顔は苦悶にゆがみ、口元は血のあぶくとよだれにまみれ、涙にぬれて血走った目は飛び出んばかりにみひらかれていた。
幼いころより激しく憎悪し、いつかこの手で屠ってやると呪いつづけてきた男の最期は、憐憫さえおぼえるほどに無様なものだった。
父はなぜ、あんな男に苦しめられてきたのだろうか。
俺はなぜ、このような道を選ばねばならなかったのか。
(それがお前の出した答えなのだな)
ああ、そうだ。これこそが俺の望み。
父上。
あなたはアカネイアと戦おうとしなかった。これほどの好機をふいにしようとし、敗者でありつづける道を選んだのはあなた自身だ。
戦えぬ者、敗残の者はただ朽ち果てるのみ。石の柩のなかで永久の眠りにつけばよい。
そして俺は、おのれの信ずる道を征く。
――あのとき。
父の胸に短剣を突きたて、刃が肉を裂いて沈みこんでいったとき、全身が暗闇へ引きずりこまれるような感覚をおぼえた。踏み入ってはならぬ領域に、とうとう入りこんでしまったと思った。もう引き返せはしない、元に戻ることはできない、それを突きつけるかのように、眼前を赤い幻影がただよっている。
それは血に濡れた父の手。
父が俺に手をのばしてきたのは、苦しまぎれの最後のあがきだったのか、それとも、なにかを訴えようとしてのものだったのか。いまとなってはなにもわからない。
はらりと空を切り、そのまま床に投げ出された父の手。
かくも力なく、頼りなげであったのか。かつては大きく力強く感じたというのに……。
あれは春のよく晴れた日だった。妹を外へ連れ出して遊ばせるのはいつものことだったが、その日は父が僻地まで賊討伐へ出向いていた。父さまはいつ戻ってくるの、と朝から何度も訊かれ、すぐ父を出迎えられるよう中庭で待つことにした。昼下がりの陽気のなか、楽しげにはしゃぐ妹を眺めながら噴水のへりに腰かけていると、頭上を黒い影がよぎった。あたりに風が巻きおこり、飛竜が舞い降りてきた。
花をつんでいた妹が高い声をあげて走りだした。
賊討伐から戻った父は、駆けよる幼い妹を軽々と抱きあげた。白銀の甲冑をまとい、午後の陽光を背に立つ父の姿は雄大だった。俺は後からゆっくりと父に近づいていき礼をとった。
顔を上げると妹の手がこちらにのばされていた。白い花のにぎられたちいさな手が、俺をあたたかな輪のなかへ引きいれようとする。一歩踏み出すと、父の腕が俺の肩を抱き、ともに歩きはじめた。
妹は父の活躍を聞きたがって、舌足らずな声で次々に問いかけていた。父はそれにやさしく答えながらも、時折こちらに苦笑を向けてきた。
俺も苦笑しながら、十になったら父上のお供をさせてください、と乞うた。すると、ともに空を駆ける日が楽しみだな、と温和な声が返ってきて、籠手におおわれた手で頭をなでられた。めったにないことだったから驚いた。期待されれば誇らしくて、けれども気恥ずかしくもあって、うかがうように父の顔を見あげた。
光のもとで俺に向けられた目はほほえんでいた。
……あの柔和な微笑を、俺はもう思い出すことができない。光がかき消え、黒く塗り潰されていく。まとわりつく過去も闇に呑まれていく……。
ならば、このままかたく蓋をとざし、深く沼へと沈めてしまえ。
そうだ。これでようやく断ち切れた。わずらわしいしがらみから解放されたのだ。
あの男の言ったとおりに、いまの俺に迷いはない。だから苦しみもない。
……それなのに、なぜだろう。いつまでも胸の疼きがおさまらない。(了)
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……ふいに手から力抜け、杯を取り落とした。
疲れているのだろうか。あの程度で酔いが回るはずがない。指のあいだを、葡萄酒が流れていく。それが一瞬、手にこびりついた赤い血に見えた。
何度も何度も洗い落したというのに、いまだ手が赤く染まって見える。あれから三日たっても、指のあいだを伝い流れる血のぬめる感触が残っている。
――父を殺めるつもりはなかった。
けっして短気は起こすなとオーダインが何度も言いふくめてきたが、言われずともそのつもりだった。激情に駆られ、おのが身を危うくする愚は犯すまい。そう心に決めていた。
だが、父と宰相の会話を盗み聞き、廃嫡の意思がたしかなものと知ったとき、俺の前に立ちはだかる壁は父であり、その壁を叩き壊さねば先へは進めぬと確信した。ことを成し遂げようと決意して父の部屋に足を踏み入れた。
だというのに、宰相を手にかけたときも、剣を父の喉元に突きつけたときでさえ、俺にはまだ迷いがあった。引き返せる道をどうにか探そうとしていた。
つくづく、おのれの甘さに嫌気がさす。
短剣を引き抜かせたのは、父の言葉だった。アカネイアを滅ぼすなどすぎた望みだと、大望を抱くことそれ自体が愚かと断じたあの言葉が、胸に激情をわき起こし、この身を縛る枷を焼き焦がした。思い描いた筋書きとは異なれども、あれはなるべくして起こった結果なのだ。
俺の行いが罪だというなら、この国難に手をこまねいている者にいっさい罪はないというのか。若く志の高い騎士たちを使い捨て、安全な場所でおのが地位の安寧に心血をそそぐ愚者こそ罰を受けるべきだろう。
父を手にかけた夜が明けると、ことの顛末を国中に公表した。ドルーアとの同盟を決意した父オズモンドが、アカネイア国王の密命を受けた刺客によって暗殺されたこと、その首謀者は弁務官シモン・ネイヤールであることを。
そして貴族にのみ、王暗殺には宰相メスト公の関与もあったと明かした。
これには貴族たちも驚愕した。王がひそかにドルーアとの同盟を画策していたことはもとより、王の幼少時より仕え、もっとも王の信を得ていたとされるメスト公の叛逆なぞ信じがたかったのだろう。
だが宰相とシモンの結託は、どこぞから降って湧いた話というわけでもない。もとより宰相は国益のためとしてアカネイアの意向に迎合し、有力貴族はもとより王の意思さえも軽んずることを厭わなかった。その意味で、弁務官シモンの信をもっとも得ていたのが宰相であり、それを王への背信と思う者もそれなりにいた。
さりとて、あまりにことを強引に進めすぎた。父の胸には宰相の剣を突き立てておいたが、そのような雑な工作がまかりとおるほど貴族どももばかではない。
不審に思ったはずなのだ。しかしやつらは目をそらし、俺を糾弾しなかった。前線では多くの兵士が無惨に息絶えている。聖王国から援軍も望めぬいま、マムクートとの戦いが避けられる、ただそれだけが、やつらの心に平安を与えたと見える。
その安堵は、すぐさま慢心と欺瞞に変わっていった。一夜が明けるころには、やつらは俺に媚びへつらうことを覚えたようで、不愉快な追従を耳にする羽目になった。苦境に立たされた王はメディウスに恐れをなし、ドルーアに降る道を選ぼうとしていたのだ。そう言って、物言わぬ父を口々に貶める始末だった。
なんとたやすい。
なんと変わり身の早いことだろう。
おまえたちこそマムクートを恐れ、アカネイアにすがろうとしていたではないか。簡単に手のひらを返す浅ましさに、怒りよりも虚しさをおぼえた。
だからシモンをこの手で葬ったときも、なんの感慨も抱かなかった。
父を殺めた二日後、疲労にさいなまれた体を奮い立たせ、地下牢へ向かった。じめじめとした石牢の最奥に、影の王と呼ばれ、二十年も宮廷を牛耳ってきた男が鎖でつながれていた。
そのみすぼらしい姿をじっと見つめていると、俺に気づいたシモンは鉄格子のすきまから懸命に枷のはまった手をのばしてきた。長い髪をふり乱し、土埃で汚れた顔を醜くゆがめ、誤解だ、助けてくれと、それ以外の言葉は知らぬかのように何度もくりかえした。
王さえもひざまづかせる男が、這いつくばり、慈悲を乞うている。
俺の前で父を辱めては、やがてはおまえもこうなると言わんばかりに下卑た視線を向けてきた。いずれはひざまづかせるはずだった俺に、おまえは情けを乞おうというのか。
薄汚い豚め。
鉄格子に手を差し入れ、片手でシモンの首をつかんだ。皮膚に爪を食いこませ、力のかぎり絞めあげた。不快な命乞いはなおもつづいていた。
さっさと黙らせたくて、短剣を首に突き立てた。くぐもった悲鳴が地下牢に響き、血の臭いがあたりにみちた。
気分が高揚する。突きあがる衝動のままに刃を深く深く沈めていった。血しぶきが顔にふりかかった。わずかに目に入り、視界が濁った。首を斬り落とさんと刃をななめに押しつけてゆく。力をこめるほどに頭の芯が白く染まる。
うめき声が聞こえなくなっても、俺は執拗に刃を穿ちつづけた。やがて柄を握る手が血ですべり、短剣が石床に落ちた。そこでようやく顔を起こし、深く息をついた。
こめかみがどくどくと脈打っている。むせかえる血の臭いにめまいをおぼえた。肩で息をしながら、かろうじて首の皮一枚で胴体とつながった頭に目を落とす。
絶命したシモンの顔は苦悶にゆがみ、口元は血のあぶくとよだれにまみれ、涙にぬれて血走った目は飛び出んばかりにみひらかれていた。
幼いころより激しく憎悪し、いつかこの手で屠ってやると呪いつづけてきた男の最期は、憐憫さえおぼえるほどに無様なものだった。
父はなぜ、あんな男に苦しめられてきたのだろうか。
俺はなぜ、このような道を選ばねばならなかったのか。
(それがお前の出した答えなのだな)
ああ、そうだ。これこそが俺の望み。
父上。
あなたはアカネイアと戦おうとしなかった。これほどの好機をふいにしようとし、敗者でありつづける道を選んだのはあなた自身だ。
戦えぬ者、敗残の者はただ朽ち果てるのみ。石の柩のなかで永久の眠りにつけばよい。
そして俺は、おのれの信ずる道を征く。
――あのとき。
父の胸に短剣を突きたて、刃が肉を裂いて沈みこんでいったとき、全身が暗闇へ引きずりこまれるような感覚をおぼえた。踏み入ってはならぬ領域に、とうとう入りこんでしまったと思った。もう引き返せはしない、元に戻ることはできない、それを突きつけるかのように、眼前を赤い幻影がただよっている。
それは血に濡れた父の手。
父が俺に手をのばしてきたのは、苦しまぎれの最後のあがきだったのか、それとも、なにかを訴えようとしてのものだったのか。いまとなってはなにもわからない。
はらりと空を切り、そのまま床に投げ出された父の手。
かくも力なく、頼りなげであったのか。かつては大きく力強く感じたというのに……。
あれは春のよく晴れた日だった。妹を外へ連れ出して遊ばせるのはいつものことだったが、その日は父が僻地まで賊討伐へ出向いていた。父さまはいつ戻ってくるの、と朝から何度も訊かれ、すぐ父を出迎えられるよう中庭で待つことにした。昼下がりの陽気のなか、楽しげにはしゃぐ妹を眺めながら噴水のへりに腰かけていると、頭上を黒い影がよぎった。あたりに風が巻きおこり、飛竜が舞い降りてきた。
花をつんでいた妹が高い声をあげて走りだした。
賊討伐から戻った父は、駆けよる幼い妹を軽々と抱きあげた。白銀の甲冑をまとい、午後の陽光を背に立つ父の姿は雄大だった。俺は後からゆっくりと父に近づいていき礼をとった。
顔を上げると妹の手がこちらにのばされていた。白い花のにぎられたちいさな手が、俺をあたたかな輪のなかへ引きいれようとする。一歩踏み出すと、父の腕が俺の肩を抱き、ともに歩きはじめた。
妹は父の活躍を聞きたがって、舌足らずな声で次々に問いかけていた。父はそれにやさしく答えながらも、時折こちらに苦笑を向けてきた。
俺も苦笑しながら、十になったら父上のお供をさせてください、と乞うた。すると、ともに空を駆ける日が楽しみだな、と温和な声が返ってきて、籠手におおわれた手で頭をなでられた。めったにないことだったから驚いた。期待されれば誇らしくて、けれども気恥ずかしくもあって、うかがうように父の顔を見あげた。
光のもとで俺に向けられた目はほほえんでいた。
……あの柔和な微笑を、俺はもう思い出すことができない。光がかき消え、黒く塗り潰されていく。まとわりつく過去も闇に呑まれていく……。
ならば、このままかたく蓋をとざし、深く沼へと沈めてしまえ。
そうだ。これでようやく断ち切れた。わずらわしいしがらみから解放されたのだ。
あの男の言ったとおりに、いまの俺に迷いはない。だから苦しみもない。
……それなのに、なぜだろう。いつまでも胸の疼きがおさまらない。(了)
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