赤き幻影
使者が訪れた翌日――十一日の夕刻、おもしろい見せ物があった。軍議のさなかにシモンが乗りこんできて、早々に竜騎士団をすべて前線に送れと騒ぎ立てた。これに対しシェンケルがアカネイアが援軍を派遣するのが先だと応酬し、居合わせた騎士たちもそ口々にシモンとアカネイアを糾弾しはじめた。本国に見捨てられた憐れな小役人とシェンケルが揶揄すると、シモンは激高し、剣を抜いてシェンケルに斬りかかった。
メスト公がシモンを制止して事なきを得たが、これは平時なれば大事件だ。たとえシェンケルが斬り殺されていようとも、父がアカネイアに赦しを乞わねばならぬ事態となっただろう。しかし、変われば変わるものだ。いまのわれらにはアカネイアの権威を恐れる必要がない。
メスト公がシモンに詫びを入れるのを後目に、無意味な会合と化した軍議を中座して父のもとへ向かった。
「――思いかえせば笑いがこみあげてくる。憐れな小役人と罵られたときのシモンの顔、ぜひあなたにお見せしたかった」
「愚かなことを」
父は嘆息し、肘掛椅子に身体を沈めた。
「おまえたちはシモンに恥をかかせれば事態が好転するとでも思っておるのか」
「まさか。それほど騎士たちの鬱憤が溜まっているということであろう。シモンに怒りの矛先が向いておるうちはよいが、いずれどうなることやら……」
脅しをかけたが、父はまるで意に介さなかった。今日の父は目に繻子の帯を巻いているせいで、いつも以上に表情が読めない。
沈黙がつづいた。昨夜耳にした噂の真相を直接父に問いただしたかった。俺の言動を父が不快に思っていたのは知っている。だからこそ躊躇した。逡巡していると、父が先に口を切った。
「明後日、われはメスト公とともにパレスに参る。聖都に送ったシモンの使者がいまだ戻らぬゆえ、アカネイア王に直接援軍を乞うのだ」
ばかげたことを。こぶしを握りしめる。
シモンが派遣した使者が戻らぬのは当たり前だ。パレスにたどり着く前に俺の手の者が始末している。窮地に陥れば父の心も動くかと期待して使者を手にかけたが、まったくの無駄だったということだ。
父の側近らにしても危機感というものがまるでない。
テレンス・ヴェーリは私兵を持つ有力貴族の当主でありながら武芸にはからっきしで、戦術を盤上遊戯のように考えている。実戦を知らぬヴェーリにとっては将兵も盤上の駒にひとしいのだろう。
バルトロ・プラージも、跡取りのグイドを失ったというのに焦る様子もない。かすかに憔悴の色がうかがえるが、余裕ぶった態度が癇に障る。
この二人だけではない。前線の将兵はほんの数刻で生死が分かたれる状況にあるというのに、宮廷人たちは一日を無為に過ごしてばかり。王城と北部国境とでは流れる時間の重みがまるで違う。朝も夜もわからぬ暗闇のなかにいる父なれば、なおのことだろう。
仮にドルーアにメディウスが復活しなかったとしても、この国には変革が必要だったのだ。おのが地位の安寧にしがみついた貴族どもを一掃せぬかぎり、何十年たとうと宗主国の頸木から逃れることはかなわない。だというのになぜ父はいつもこうなのだ……!?
焦燥に駆られ、父とは激しい口論となった。宰相らをのさばらせてきたこと、いまなお深い爪痕が残る八年前の飢饉のこと。過去を引き合いに出し、ろくな方策をとらぬ王としての父を責め立てた。
「今日まで将兵らを捨て駒としておきながら、ようやくあなたが決断されたことが無様に哀訴に出向くことだと言われるのか! この期におよんでそのような無策をとられるならば、昨日の使者の前で膝を折り、ドルーアにも憐れを乞われればよかったのだ。お得意であろう!」
もはや口論でさえなかった。ただ行き場のないいらだちを一方的に父へとぶつけているだけだった。侮蔑を吐いても、父は顔色ひとつ変えはしなかった。
少しは怒ってみせればよいものを。その手に握る杖で俺を打ちすえてみるがいい。だが、何十年もシモンたち弁務官の横暴に耐えつづけてきた父の心が乱れることはない。その泰然とした態度は、シモンにひざまづく父の姿を思い起こさせる。幼いころから味わってきた屈辱がよみがえってきて、たまらなくなる。
そんな諍いのさなか、ミネルバが前線から帰城した。
ミネルバは俺と父の様子を部屋の外からうかがっていたのだろう。こちらへ向かってくる表情は険しかった。父の前まで進み出ると、険悪な空気をかき消すように朗々とあいさつをした。
「父上、ただいま戻りました」
「ご苦労であった」
父はおもむろに立ちあがり、杖を突きながらミネルバに歩みよった。
「して、前線の様子は」
「いまはまだ兵の士気も高く、再度の使者が訪れたことを知っても大きな混乱は見られません。ただ……」
「いかがした」
「攻撃の手がゆるんだことで、彼らは安堵しております」
「兵にはぬか喜びをさせることになろう。熟考のため今月の末まで猶予を与えるとのことだが、しょせんはドルーアからの申し出。信用のならぬものだ。われらを油断させ、奇襲をかける腹づもりであろう」
「警戒は怠らぬよう申し伝えております。それでも休める者にはいまのうちに休息をとらせています。過酷な戦闘がつづき、多くの兵は疲弊しておりますゆえ」
「あの不意討ちから、もうひと月か」
早いものだ、と父は嘆息した。
「おまえの活躍は聞きおよんでいる。メスト公も讃えておった。われも鼻が高い。しかし重い傷を負ったとも聞いた。その様子では大事にはいたらなかったようだが、一報を受けたときは肝が冷えたぞ」
「ご心配をおかけして申しわけございません。幸いにして、致命傷は避けられました。しかし……グイドを失いました。わたしの落ち度ゆえに」
ミネルバが声をふるわせた。
「グイドバルド・プラージ……」
父が低くうなった。
「なんとも惜しい若者をなくしたことよ。あれはいずれ国の中枢を支える俊傑となったであろうに」
「空々しいことを。あなたはいったい幾人の将兵を失えばおわかりになるのだ!」
父がグイドの死を口にしたのが我慢ならず、俺は腹立ちまぎれに怒鳴った。
「もし火竜になぶり殺されたのがミネルバだったならどうされる。それでようやく無謀な戦いだと気づかれるのか。それとも怒りにまかせ総攻撃に転じ、いたずらに兵を摩滅させるだけか!」
「兄上!」
ミネルバがたしなめるように俺の腕をつかみ、俺と父のあいだに立ちはだかった。
「再度、メディウスの使者が訪れたとのこと。こたびはいったいなにを要求してきたのですか」
「メディウスはわれらに同盟を申し入れてきたのだ」
父が答えるよりも先に、俺が口を切った。
「使者が申すには、われらの善戦に敬意を表し、隷属ではなく同盟を結ぶ用意があるとのことだ」
「……同盟?」
かすかにミネルバの目がゆらいだのを見た。当然の反応だった。これ以上の過酷な戦いはおまえも望むところではないはずだ。
ミネルバが困惑気味に問いかけてくる。
「同盟を結んで、どうなるというのです。ドルーアとともにアカネイアへ攻めこめと?」
「そうだ。いち早くドルーアと連合する意思があるのなら、われらを対等な同盟国として遇する用意があるとのことだ。父上は早々に使者を追い返されたが、まだしばしの猶予は与えられている。これはわれらにとって光明でもある。いたずらにアカネイアの助けを待ち、無益な抗いをつづけるよりはいっそ――」
「ばかげたことを申すな」
父が厳しい声で割り入ってきた。
「いたずらに助けを待つ? 無益な抗いだと? 諸国の動静が鮮明にならぬうちからドルーアに屈する道理がどこにあるのだ」
「諸国の動静などもはや明らか。アカネイアがわれらのために精鋭の騎士団を派遣するとお思いか。そもそも、聖王国の軟弱な騎士団なぞわれらが竜騎士団の足手まといにしかならぬ」
「ミシェイルよ、メディウスの使者になにを吹きこまれたかは知らぬが、ドルーアと手を組めばマケドニアは終わりぞ。諸国すべてを敵に回しわれらは孤立する。なぜおまえにはそれがわからんのだ」
「父上こそなぜおわかりにならぬ。来ることのない援軍を待ちつづけ、時を浪費するほど愚かな所業はないとわたしは申しあげているのだ」
「さもあろう。このままではこの国は滅ぶやもしれんな。おまえの偏狭な見立てによればな」
よく言えるものだ。前線の惨状を目に映せもせぬくせに。
「よいか、いまは耐えねばならぬ時ぞ。アカネイア同盟軍がドルーア打倒の兵を挙げるまではな」
「これ以上前線の兵士に耐えろと言われるのか!」
沈黙がつづいた。ミネルバも黙ったままでいた。父と言い争いになると、妹はいつも父の肩を持つ。
なぜなにも言わぬ? 父に怒りをぶつければよいものを。グイドを無駄死にさせたのはおまえではない。父ではないか。
軽いめまいをおぼえる。もやがかかったように、目の前の二人を遠くに感じた。身体の奥で逆巻く感情が抑えきれなくなる。もうたくさんだ。
「そうやって、また見殺しにされるのだな。……あなたは」
そう一言父に吐き捨て、部屋を出た。
廊下には廷臣らが居並んでおり、その視線がいっせいにこちらを向いた。俺が一瞥をくれると、目をそらす者もいれば、眉をひそめ、なにかをささやき合っている者たちもいた。
こやつらもどうせあの噂を知っているのだ。わずらわしい。
早足で廊下を突き進み、塔の階段をのぼった。日はすでに暮れて、夏の星辰が輝いていた。吹きすさぶ夜風に身をまかせ、暗闇に沈む城下をそぞろに見おろす。
道義を抜きにしても、ドルーアとの同盟に躊躇する気持ちはわからぬでもない。現状、ドルーアの全容はつかめていない。このままアカネイアの慈悲にすがって援軍を待つか、それともドルーアに降るか、そのどちらがマケドニアが生き残るための最良の手か、確証など持てはしない。
それでもひとつ確信しているのは、いまのドルーアには正面切ってアカネイアへ侵攻できるほどの力はないということだ。メディウスが同盟を持ちかけてきたのがその証。そしてそれは、われらがドルーアと手を組んだとて、たやすくアカネイアを滅ぼせるわけもないことを意味している。ガーネフは俺をおだて、同盟を結ばせようと仕向けている。父を見限ったかのようにふるまい、俺に同盟を持ちかけてきたのも、結局のところは俺を御しやすい駒と思ってのことだ。父はそれを見抜いているからこそ考えを変えようとしないのだ。
だが、それがなんだというのか。われらもやつらを利用すればよいことだ。アカネイアを滅ぼすための力としてマムクートどもを使役するまでのこと。
まったく、これほど愉快なことはないではないか。抑圧に耐えつづけた結果、まるで褒美のような好機がめぐってきた。
まさにいまは歴史の転換期。アカネイアによって作られたあらゆる秩序を破壊できる時がようやく訪れた。この好機をみすみす逃すことほど愚かなことはない。危難を嘆くのではなく、楽しめばよいのだ。
しかし父にはそれが通じない。すべての決断を宗主国にゆだねるつもりでおり、はなから賭けに出ることをあきらめている。不自由な身体にふさわしい無気力な考えしか持ち合わせていない。
そっと胸に手をやり、懐に忍ばせた短剣にふれる。
あの噂を耳にした夜から、父をこの手にかける自分の姿を何度も思いうかべている。そうすることで、喉元にせりあがる熱いものを必死に呑み下してきた。いっそ父を殺めてしまえば、この胸の疼きがおさまるのだろうか。
奥歯を噛みしめる。
……どうかしている、俺は。
「いらだっておるようじゃな」
背後から声がかかった。ガーネフだった。
こやつが俺の前に現れたのはこれで三度目……いや、四度目か。
「よくも堂々と王城に入りこめるものだ」
ふりかえって向きなおる。
「昨夜のメディウスの使者、貴様であろう?」
ガーネフはわずかに口の端を上げた。
この男の魔術はあまりに異質だ。自在に転移し、姿を変異させる魔道の力など聞いたこともない。だからこそ永の眠りについていた地竜を復活させたという話も信じられるのだ。
「ガーネフよ、もはや父を説き伏せることはかなわぬ。はじめから貴様もこうなると思っていたのだろうが」
「ならば同盟はそなたと結ぶことになろう。して、そなたが国を掌握するのはいつになる」
「……一両日中に」
ほう、とガーネフは興がった声をもらした。
「だからもうこれ以上の攻撃は仕掛けるな」
「それはできぬ。この百年、抑圧に耐えてきたマムクートどもは血に飢えておってな。この機会にかつての奴隷の子孫らに相応の意趣返しをしたいと思っておるようだ。正式に盟約を交わさぬうちはやつらを止めることはわしにもできぬよ」
「ひと月の猶予を与えると言ったのは貴様のほうではなかったか」
「たしかに申した。だから王都にマムクートどもをけしかけるのを待ってやっておるではないか」
ねめつけると、ガーネフは笑い出した。
「安心するがよい。そなたの妹には手は出させぬ。ミネルバ王女にはわれらの役に立ってもらわねばならぬゆえ。しかしいま一人は……わかっておろうな?」
「くどいぞ、何度も言わせるな」
「ならばけっこう」
そう言い残し、あたりをただよう暗闇の渦のなかへと消えていった。
父を説き伏せることができればそれでよかった。それがかなわぬとなればやむをえぬ。父がパレスに発つ明後日までにすべてを終わらせねばならない。
よくもこれほど悪い巡り合わせがあるものだと思う。歴史が大きく動くときというのは、作為ゆえではなく、あらゆる悪条件が重なった結果なのだろう。
父が病を得ていなければ、いまとは状況は違ったはずだ。父は北部国境を守る戦いに赴いたはずだろうし、王みずから前線に立つならば、宮廷が割れることもなく、国が一丸となって打倒ドルーアを掲げただろう。そうであれば、俺もアカネイアの援軍をひたすら待つことには反対しつつも、父とともに戦うことを選んだと思う。
……なんとも詮ない空想だ。
ただ援軍を待つだけの無気力な王に、人心がついてゆくはずもない。こうして噛み合うことなく狂いはじめた歯車は崩壊していく。
そしてこれはアカネイアも同様だ。
暗黒竜復活という危難のおり、年老いたアカネイア王に王女が一人しかおらぬことが運の尽きというもの。百年前もおなじだった。あのときも王家には戦える者がいなかった。
この状況でアカネイア貴族らの考えることといえばひとつ。誰が戦果を挙げ、誰が王女を手に入れ、誰が王となるのか。それがなによりも重要なのだ。アカネイアがすぐさま援軍を出せないのは、カルタス伯の再来となるのは誰か、誰であるべきなのかを決めかねているからだ。
そんな権力闘争のためにわれらが捨て駒とされる。
シモンはそんな宮廷のありようを知悉しているからこそ焦っている。おのが身が危ういと悟り、懇願のために使節を立てたが、もはや手遅れだ。ベーサが突破されれば王都が戦場となる。さっさと逃げ帰ればよいものを、なおも留まろうとするのはやつの矜持か。それともなけなしの地位を失うことを恐れているのか。
マケドニアでは王のごとくふるまえどアカネイアでは下級貴族。アカネイアにとって助ける価値もないだろう。そしてこの国もシモンと同価値。その程度の存在。
だから援軍は来ないのだ。少なくともわが国の望む形では。
この世界を守るべき聖王国、だと?
笑わせてくれる。
「ミシェイル」
ミネルバが歩みより、顔をのぞきこんでくる。そろそろこいつがやって来るころだと思っていた。
もれそうになるため息を押しとどめる。
「親父はまだ怒っていたか」
「それはもちろん。わが国を侵すドルーアを許しがたくお思いだもの」
「無用の気を回さずともよい」
苦笑しながら天を仰ぐと、ミネルバはそのとなりに立ち、笑いかけてきた。
「メスト公から聞いたわ。シモンがひどく焦っているのですって」
「あれは下劣なだけで愚鈍ではないからな。前線からの知らせだけで充分に戦況を読んでいるのだ」
「戦況をわかっているくせに王都に居座ってるのね。籠城戦になる前にパレスに逃げ帰ると思っていたのに」
「パレスに帰れば無位の田舎貴族に逆戻りだ。この国に滅んでもらっては困るのだろう」
「なんだ、少しは父上に尽くす気持ちが芽生えてくれたのかと」
「おい、冗談でも笑えんぞ」
軽口の応酬をするにつれて、自然と笑みがこぼれた。そんな俺を見て安堵したのか、ミネルバも目を細める。
こいつがここに来た魂胆はわかっている。ここ数年、妹は俺と父との仲を取りもとうと必死だ。俺がかつて父を敬愛していたという幻想をいまだ抱きつづけている。俺はもうとっくに父を見限っているというのに妹は過去にすがりついているのだ。
稚拙なとりなしであっても、いくぶん気がまぎれる。ささくれだった心が鎮まる。妹とともにいると、少しだけ昔に戻れる気がするからだろうか。まだ父を信じていられたころの自分に。
「こんなときぐらい、シモンがアカネイアに取りなしてくれればと思っていたのだけど」
妹が小さくため息をつくと、俺は鼻で笑った。
「無駄な期待ははじめからするな。シモンの使節が戻らぬことぐらい、おまえにもわかっていただろう」
「プラージ卿はドルーアの妨害だろうと」
「逃げ帰った官吏が幾人いると思っている。やつらのすべてをドルーアが抹殺したと? 危険を冒してまでマケドニアに戻る気がないのだろう」
「……そうね。彼らに期待するだけ無駄だったの。だから今度は父上がパレスにゆかれるのよ」
頃合いを慎重に見計らって、ミネルバが本題を切り出してきた。予想していた話だからこそ不快さが増した。
「なぜあれほどアカネイアを妄信されるのか。もはや一刻の猶予もないというのに、なにもおわかりではない。あの盲いた目では、先を見通す力などあるはずもなかろうが」
「父上だってアカネイアを憎く思っておられるわ。それでもアカネイアの兵力は強大なもの。いま、われらが頼るべきはあの大国しかないから、だから父上はパレスに――」
「おなじことだ、それを妄信というのだ!」
たまらず声をあららげた。
「言っておくが、ヴェーリやプラージもシモンと変わりはせん。メスト公なぞこれまで親父をいいようにあやつってきたではないか」
「なにを言うの」
「俺とてやつらの親父への忠誠までは疑わん。親父の味方と言えるのはまぎれもなくあの三人だろう。だが、あやつらが赤心から親父に仕えてきたと思っているのか」
「そんなもの、くだらないあげつらいだわ。だったらシェンケルたちはどうなの。あの者たちの勝手なふるまいのせいで王太子の評判まで悪くなっているのよ。彼らがミシェイルのことを心から支持しているだなんてわたしには思えないわ」
「ああ、そうだ。どいつもこいつも信用のならぬ者ばかり。一度餌を与えれば最後、つねに飢えを満たそうとしてくる。よく覚えておけ、ミネルバ。やつらの次の狙いはおまえなのだからな」
妹は目をしばたたかせた。それがやけに幼げな顔つきに見えて、ふいに嗜虐的な気分になった。
「わからんか。グイドが死んだいま、メスト公の狙いは息子をおまえの婿にねじこむことだ。とうに三十をすぎた一人息子の縁談を、いままでまとめずにいたのはなんのためだと思っている? グイドの死を聞いたとき、内心ほくそ笑んでいたことだろう」
「……言葉がすぎるわ」
「ヴェーリもそうだ。グルニアにいる娘を俺の妃とするのは諦めたようだが、今度は息子をおまえにあてがう心づもりだ。竜騎士にもなれぬあの不出来な男をな。いったいなんの冗談かと思うが本気のようだぞ。プラージとてまだ一人息子がいるではないか。グイドを死なせたおまえの負い目につけこめば、いかようにでもなると――」
「もういい加減にして! いまはそんな話をしているときではないでしょう!」
「いまだからこそ言っている。親父がやつらを好きにのさばらせた結果がこのざまだ」
ミネルバは唇を嚙んでうつむいた。
なにも言い返せるはずがない。宮廷を腐らせてきた要因がアカネイアにのみあるわけではないと、おまえも重々理解しているはずだ。
「……たしかに、父上にほんとうのお味方はいないのかもしれない。わたしたちのほかには……ね、そうでしょう?」
俺はなにも答えなかった。いままでなら、嘘でも肯定してやっていた。それでこいつの気がすむとわかっていた。
だがもう自分を偽ることができなかった。
黙ったままでいると。妹の手が腕にふれた。目が合うと笑みがむけられる。
「父上はアリティアにもゆかれるのよ。すでに援軍の約束は取りつけておられて、コーネリアス王は遠征の準備をなされているとか」
アリティアの援軍だと?
正直これには驚いた。それならばアカネイアからの返書に取り乱す様子がなかったのもうなづける。
アリティア一国でも動くとなれば状況は変わる。ガーネフが提示した猶予には間に合わずとも王都で籠城すれば援軍が来るまで充分耐えられるだろう。切り捨てた選択肢のなかにたしかな勝機が見える。しかし――
「兄上、わたしはアリティアを信じているのです。なにもアンリの伝説にすがろうというのではありません。コーネリアス王は名将と名高き方。アカネイアの言いなりとはならず、きっとわれらの力となってくださるはず。だから、いまのわたしにできることは、父上がお戻りになるまで時間を稼ぐこと、それだけです」
「ばかめ。それまでやつらを食い止められると思っているのか」
「思っています」
「たかが火竜一匹討ちとったぐらいで思いあがるな」
いらだちまぎれに怒鳴ったが ミネルバは微笑をうかべたままだった。
「思いあがってなどいません。……むしろわたしは慄いているのです。すでに大勢の騎士が倒れ、これからもっと死を目の当たりにすることになるのですから。わたしがこうやって将兵らの死を数えていられるのもいつまでつづくかわかりません。明日か、それとも明後日か……。それでもわたしは恐れてはいけないのです。ただ希望を胸に、戦いつづけるだけ」
「戯れ言はもうよい」
聞いてはいられず、遠くを眺めるそぶりで、ミネルバに背をむけた。
俺はなににこれほどいらだっているのか。
頑迷な父に対してか。そんな父をかばいつづけるミネルバに対してか。それとも、正義の遂行が許されたアリティアに対してか。
アリティア――勇者アンリの興した国。
まったくやつらはいい気なものだ。アカネイアの盾となることを国是としている。望んでアカネイアに媚びへつらい、いいように利用されることすら喜びとするような輩とわれらは違う。捨て駒として盾となることを強いられるマケドニアとはなにもかも。
ふいに背後の気配が遠ざかるのを感じ、後ろをふりむいた。
「明日、戻るのか」
「はい、できれば早朝に。しばしの休息にはなりました」
淡々とかえすその口元には、はりついたような微笑があった。
必死に隠しているつもりだろうが、右腕と脇腹に負った傷をずっとかばっている。傷をおして火竜に立ち向かってゆく根性は見上げたものと思うが、ここまでくればいっそ愚かに思える。
こいつは向こう見ずでも恐れ知らなわけでもない。豪胆なところもあるが、根は臆病で慎重だ。取りつくろうことだけは年々うまくなったものの、少し突けば心を乱し、必死に隠した生地が現れる。
歩みより、右腕をつかみあげる。
「傷は、まだ癒えてはいないのだろう?」
「もう平気です」
「強がるな」
「強がってだなんて――」
嘘を戒めるように、腕をつかむ手に力をこめる。
「ほんとうに、それでいいのか」
「えっ……」
「父上はおまえのこともわかってはいない。いや、おまえのその口先だけの強がりに甘えているだけか。どちらにしてもあの方の目は、ほんとうになにもお見えではないようだな。理不尽にただ耐えることが美徳と思っておられる。いっそ……」
冷えた頬を指でなぞる。
「おまえが死ねば、あの方は長い眠りから目を覚まされるのか」
一等愛した娘が自分のために命を落としたとき、あなたはどう出るのだ? さすがにグイドが死んだときのように平静ではいられぬのだろう? あなたが嘆き悲しむさまを見てやりたいと思う。そして、怒りに任せてアカネイアにいかな手をとるのかも。
「……ミシェイル?」
小首をかしげ、俺をのぞきこむ目を見た瞬間、妹を強く抱きしめていた。
これからなにが起ころうとしているのか、すべて打ち明けてやりたくなる。父は俺を疎んじ、追放せんともくろんでいるのだ。すべてを知ってなお、おまえはあの愚かな父をかばうのか。
妹の手が、俺の背に回された。すがりつくようでいて、いたわるような手つきだった。慰めているつもりなのか。存外悪くない心地で、しばらく好きにさせておいたが、やがて手がとまり、妹の身体が離れていった。ためらいがちに俺を見つめてくる。
「わたしがこの戦いで命を落としても、父上がお考えを変えられることはないわ。おやさしいけれど、そういう方だから」
自分の言葉に傷ついたのか、泣きそうな顔になる。
「……なぜこの国ばかりが理不尽な災厄に見舞われるのかと神に問いたくなるときもあります。民の幸福のため、国を豊かにすること、それがわたしの望みでした。わたしがこうして生きていられるのも、多くの民の犠牲の上にあるもの。彼らに報いるべく、マケドニアをアカネイアを凌ぐ大国にすると、それだけを願って生きてきましたが、夢を叶えられぬままわたしは果てるのかもしれません。それでも……不幸な巡り合わせを呪ってみても詮なきこと。わたしは自分のなすべきことをなすために戻ります。だからミシェイルもどうか――」
「ミシェイル殿下」
オーダインが割って入ってきた。
「すでに武官らが集っております。どうぞ広間へお越しを」
「いまから軍議なの?」
「……ああ」
「それならわたしも――」
「いや、どうせ形だけの会合なのだ。出る必要はない」
「でも」
「おまえは早朝に発つのだろう。もう休め。なにかあれば追って伝える」
妹は立ち去りかけたが、すぐさま引き返し、俺の腕のなかに飛びこんできた。
「軍議では父上と言い争いなどなさらないで。いまは仲たがいなどされているときではないでしょう? どうかを父上を支えて、力になってさしあげて」
「わかっている」
吐息まじりに言って、もう行けと背を押した。
階段を降りてゆく後ろ姿を見送っていると、ふくみ笑いが聞こえてきた。
「ご立派なものですな」
一部始終を盗み見ていたオーダインが感嘆まじりに言った。
「どれほど勇敢な者であっても、死線をくぐり抜け、ひとたび安全な場所へ戻ること叶えば、ふたたび危険のなかに身を投じることなどできぬものです。姫は死ぬ目に遭われたというのに、明日にも前線に戻ろうとされている。あの方がこのまま城に留まられても恨みに思う者などおりますまいに。あのご器量、姫君であることが惜しまれまする」
「買い被りがすぎる。あんなもの、しょせんは小娘の強がりにすぎん」
「そうお思いなら、なぜ姫をお引き止めせぬのです?」
「言っても聞かぬのだから仕方あるまい。それに明日のためにはあいつが城におらぬ方が都合がよいのだ」
「……それだけが理由にございますか」
「なにが言いたい?」
「あの方を戦場へ追いやりたいのは、あなたの地位を奪わんとしているあの方を、憎くお思いだからではないのですか」
一瞬、呆然となった。
なにをばかげたことを。そう言いかけたものの言葉にならなかった。そんなふうに思いはしなかったはずだ。すぐさま否定しようとしたものの、はたしてほんとうにそうだったかと自問した。あの噂を耳にしたとき胸を貫いた衝撃は、父への失望だけだったのか。ずっとくすぶっているこのいらだちは、憎悪ゆえだったのではないのか。父に対しても、ミネルバに対しても……――
「いずれにしましても」
オーダインは北の方角に目をはせた。
「いま、前線で戦っておる者たちに、われらは一生頭が上がらぬでしょうな。まこと国のためを想い、ただひたすらに命を懸けている者たちは彼らのほかにおりませぬゆえ」
「だからこそ無益な戦闘は早々に終わらせる。あの者たちを一人でも多く帰還させるための策はこれしかないのだからな」
「それをあの者たちが望んでいるのかはわかりませんが」
白髯をなでながら、俺に向きなおる。
「あのご様子では、王女も同盟には反対のお立場のようですな」
「アリティアが動くそうだ」
オーダインは目を見ひらいたものの、なるほど、と笑った。
「シモンどのの手前、陛下はアリティアとの交渉を秘密裏に進めておられたのですな。しかしそれはわれらにとって好都合なこと。その一件が公となり、他国の援軍に希望を見いだす者が増えようものなら、協力者の離反を招くところでした」
「おまえは違うのだな?」
「わたしはあなたに賭けると決めたのです。オズモンド王に従っていては、この老いぼれが死ぬるまでに聖王国の最期を見届けること叶いませぬゆえ」
目の奥に野生めいた光を宿らせ、では、とうながした。
メスト公がシモンを制止して事なきを得たが、これは平時なれば大事件だ。たとえシェンケルが斬り殺されていようとも、父がアカネイアに赦しを乞わねばならぬ事態となっただろう。しかし、変われば変わるものだ。いまのわれらにはアカネイアの権威を恐れる必要がない。
メスト公がシモンに詫びを入れるのを後目に、無意味な会合と化した軍議を中座して父のもとへ向かった。
「――思いかえせば笑いがこみあげてくる。憐れな小役人と罵られたときのシモンの顔、ぜひあなたにお見せしたかった」
「愚かなことを」
父は嘆息し、肘掛椅子に身体を沈めた。
「おまえたちはシモンに恥をかかせれば事態が好転するとでも思っておるのか」
「まさか。それほど騎士たちの鬱憤が溜まっているということであろう。シモンに怒りの矛先が向いておるうちはよいが、いずれどうなることやら……」
脅しをかけたが、父はまるで意に介さなかった。今日の父は目に繻子の帯を巻いているせいで、いつも以上に表情が読めない。
沈黙がつづいた。昨夜耳にした噂の真相を直接父に問いただしたかった。俺の言動を父が不快に思っていたのは知っている。だからこそ躊躇した。逡巡していると、父が先に口を切った。
「明後日、われはメスト公とともにパレスに参る。聖都に送ったシモンの使者がいまだ戻らぬゆえ、アカネイア王に直接援軍を乞うのだ」
ばかげたことを。こぶしを握りしめる。
シモンが派遣した使者が戻らぬのは当たり前だ。パレスにたどり着く前に俺の手の者が始末している。窮地に陥れば父の心も動くかと期待して使者を手にかけたが、まったくの無駄だったということだ。
父の側近らにしても危機感というものがまるでない。
テレンス・ヴェーリは私兵を持つ有力貴族の当主でありながら武芸にはからっきしで、戦術を盤上遊戯のように考えている。実戦を知らぬヴェーリにとっては将兵も盤上の駒にひとしいのだろう。
バルトロ・プラージも、跡取りのグイドを失ったというのに焦る様子もない。かすかに憔悴の色がうかがえるが、余裕ぶった態度が癇に障る。
この二人だけではない。前線の将兵はほんの数刻で生死が分かたれる状況にあるというのに、宮廷人たちは一日を無為に過ごしてばかり。王城と北部国境とでは流れる時間の重みがまるで違う。朝も夜もわからぬ暗闇のなかにいる父なれば、なおのことだろう。
仮にドルーアにメディウスが復活しなかったとしても、この国には変革が必要だったのだ。おのが地位の安寧にしがみついた貴族どもを一掃せぬかぎり、何十年たとうと宗主国の頸木から逃れることはかなわない。だというのになぜ父はいつもこうなのだ……!?
焦燥に駆られ、父とは激しい口論となった。宰相らをのさばらせてきたこと、いまなお深い爪痕が残る八年前の飢饉のこと。過去を引き合いに出し、ろくな方策をとらぬ王としての父を責め立てた。
「今日まで将兵らを捨て駒としておきながら、ようやくあなたが決断されたことが無様に哀訴に出向くことだと言われるのか! この期におよんでそのような無策をとられるならば、昨日の使者の前で膝を折り、ドルーアにも憐れを乞われればよかったのだ。お得意であろう!」
もはや口論でさえなかった。ただ行き場のないいらだちを一方的に父へとぶつけているだけだった。侮蔑を吐いても、父は顔色ひとつ変えはしなかった。
少しは怒ってみせればよいものを。その手に握る杖で俺を打ちすえてみるがいい。だが、何十年もシモンたち弁務官の横暴に耐えつづけてきた父の心が乱れることはない。その泰然とした態度は、シモンにひざまづく父の姿を思い起こさせる。幼いころから味わってきた屈辱がよみがえってきて、たまらなくなる。
そんな諍いのさなか、ミネルバが前線から帰城した。
ミネルバは俺と父の様子を部屋の外からうかがっていたのだろう。こちらへ向かってくる表情は険しかった。父の前まで進み出ると、険悪な空気をかき消すように朗々とあいさつをした。
「父上、ただいま戻りました」
「ご苦労であった」
父はおもむろに立ちあがり、杖を突きながらミネルバに歩みよった。
「して、前線の様子は」
「いまはまだ兵の士気も高く、再度の使者が訪れたことを知っても大きな混乱は見られません。ただ……」
「いかがした」
「攻撃の手がゆるんだことで、彼らは安堵しております」
「兵にはぬか喜びをさせることになろう。熟考のため今月の末まで猶予を与えるとのことだが、しょせんはドルーアからの申し出。信用のならぬものだ。われらを油断させ、奇襲をかける腹づもりであろう」
「警戒は怠らぬよう申し伝えております。それでも休める者にはいまのうちに休息をとらせています。過酷な戦闘がつづき、多くの兵は疲弊しておりますゆえ」
「あの不意討ちから、もうひと月か」
早いものだ、と父は嘆息した。
「おまえの活躍は聞きおよんでいる。メスト公も讃えておった。われも鼻が高い。しかし重い傷を負ったとも聞いた。その様子では大事にはいたらなかったようだが、一報を受けたときは肝が冷えたぞ」
「ご心配をおかけして申しわけございません。幸いにして、致命傷は避けられました。しかし……グイドを失いました。わたしの落ち度ゆえに」
ミネルバが声をふるわせた。
「グイドバルド・プラージ……」
父が低くうなった。
「なんとも惜しい若者をなくしたことよ。あれはいずれ国の中枢を支える俊傑となったであろうに」
「空々しいことを。あなたはいったい幾人の将兵を失えばおわかりになるのだ!」
父がグイドの死を口にしたのが我慢ならず、俺は腹立ちまぎれに怒鳴った。
「もし火竜になぶり殺されたのがミネルバだったならどうされる。それでようやく無謀な戦いだと気づかれるのか。それとも怒りにまかせ総攻撃に転じ、いたずらに兵を摩滅させるだけか!」
「兄上!」
ミネルバがたしなめるように俺の腕をつかみ、俺と父のあいだに立ちはだかった。
「再度、メディウスの使者が訪れたとのこと。こたびはいったいなにを要求してきたのですか」
「メディウスはわれらに同盟を申し入れてきたのだ」
父が答えるよりも先に、俺が口を切った。
「使者が申すには、われらの善戦に敬意を表し、隷属ではなく同盟を結ぶ用意があるとのことだ」
「……同盟?」
かすかにミネルバの目がゆらいだのを見た。当然の反応だった。これ以上の過酷な戦いはおまえも望むところではないはずだ。
ミネルバが困惑気味に問いかけてくる。
「同盟を結んで、どうなるというのです。ドルーアとともにアカネイアへ攻めこめと?」
「そうだ。いち早くドルーアと連合する意思があるのなら、われらを対等な同盟国として遇する用意があるとのことだ。父上は早々に使者を追い返されたが、まだしばしの猶予は与えられている。これはわれらにとって光明でもある。いたずらにアカネイアの助けを待ち、無益な抗いをつづけるよりはいっそ――」
「ばかげたことを申すな」
父が厳しい声で割り入ってきた。
「いたずらに助けを待つ? 無益な抗いだと? 諸国の動静が鮮明にならぬうちからドルーアに屈する道理がどこにあるのだ」
「諸国の動静などもはや明らか。アカネイアがわれらのために精鋭の騎士団を派遣するとお思いか。そもそも、聖王国の軟弱な騎士団なぞわれらが竜騎士団の足手まといにしかならぬ」
「ミシェイルよ、メディウスの使者になにを吹きこまれたかは知らぬが、ドルーアと手を組めばマケドニアは終わりぞ。諸国すべてを敵に回しわれらは孤立する。なぜおまえにはそれがわからんのだ」
「父上こそなぜおわかりにならぬ。来ることのない援軍を待ちつづけ、時を浪費するほど愚かな所業はないとわたしは申しあげているのだ」
「さもあろう。このままではこの国は滅ぶやもしれんな。おまえの偏狭な見立てによればな」
よく言えるものだ。前線の惨状を目に映せもせぬくせに。
「よいか、いまは耐えねばならぬ時ぞ。アカネイア同盟軍がドルーア打倒の兵を挙げるまではな」
「これ以上前線の兵士に耐えろと言われるのか!」
沈黙がつづいた。ミネルバも黙ったままでいた。父と言い争いになると、妹はいつも父の肩を持つ。
なぜなにも言わぬ? 父に怒りをぶつければよいものを。グイドを無駄死にさせたのはおまえではない。父ではないか。
軽いめまいをおぼえる。もやがかかったように、目の前の二人を遠くに感じた。身体の奥で逆巻く感情が抑えきれなくなる。もうたくさんだ。
「そうやって、また見殺しにされるのだな。……あなたは」
そう一言父に吐き捨て、部屋を出た。
廊下には廷臣らが居並んでおり、その視線がいっせいにこちらを向いた。俺が一瞥をくれると、目をそらす者もいれば、眉をひそめ、なにかをささやき合っている者たちもいた。
こやつらもどうせあの噂を知っているのだ。わずらわしい。
早足で廊下を突き進み、塔の階段をのぼった。日はすでに暮れて、夏の星辰が輝いていた。吹きすさぶ夜風に身をまかせ、暗闇に沈む城下をそぞろに見おろす。
道義を抜きにしても、ドルーアとの同盟に躊躇する気持ちはわからぬでもない。現状、ドルーアの全容はつかめていない。このままアカネイアの慈悲にすがって援軍を待つか、それともドルーアに降るか、そのどちらがマケドニアが生き残るための最良の手か、確証など持てはしない。
それでもひとつ確信しているのは、いまのドルーアには正面切ってアカネイアへ侵攻できるほどの力はないということだ。メディウスが同盟を持ちかけてきたのがその証。そしてそれは、われらがドルーアと手を組んだとて、たやすくアカネイアを滅ぼせるわけもないことを意味している。ガーネフは俺をおだて、同盟を結ばせようと仕向けている。父を見限ったかのようにふるまい、俺に同盟を持ちかけてきたのも、結局のところは俺を御しやすい駒と思ってのことだ。父はそれを見抜いているからこそ考えを変えようとしないのだ。
だが、それがなんだというのか。われらもやつらを利用すればよいことだ。アカネイアを滅ぼすための力としてマムクートどもを使役するまでのこと。
まったく、これほど愉快なことはないではないか。抑圧に耐えつづけた結果、まるで褒美のような好機がめぐってきた。
まさにいまは歴史の転換期。アカネイアによって作られたあらゆる秩序を破壊できる時がようやく訪れた。この好機をみすみす逃すことほど愚かなことはない。危難を嘆くのではなく、楽しめばよいのだ。
しかし父にはそれが通じない。すべての決断を宗主国にゆだねるつもりでおり、はなから賭けに出ることをあきらめている。不自由な身体にふさわしい無気力な考えしか持ち合わせていない。
そっと胸に手をやり、懐に忍ばせた短剣にふれる。
あの噂を耳にした夜から、父をこの手にかける自分の姿を何度も思いうかべている。そうすることで、喉元にせりあがる熱いものを必死に呑み下してきた。いっそ父を殺めてしまえば、この胸の疼きがおさまるのだろうか。
奥歯を噛みしめる。
……どうかしている、俺は。
「いらだっておるようじゃな」
背後から声がかかった。ガーネフだった。
こやつが俺の前に現れたのはこれで三度目……いや、四度目か。
「よくも堂々と王城に入りこめるものだ」
ふりかえって向きなおる。
「昨夜のメディウスの使者、貴様であろう?」
ガーネフはわずかに口の端を上げた。
この男の魔術はあまりに異質だ。自在に転移し、姿を変異させる魔道の力など聞いたこともない。だからこそ永の眠りについていた地竜を復活させたという話も信じられるのだ。
「ガーネフよ、もはや父を説き伏せることはかなわぬ。はじめから貴様もこうなると思っていたのだろうが」
「ならば同盟はそなたと結ぶことになろう。して、そなたが国を掌握するのはいつになる」
「……一両日中に」
ほう、とガーネフは興がった声をもらした。
「だからもうこれ以上の攻撃は仕掛けるな」
「それはできぬ。この百年、抑圧に耐えてきたマムクートどもは血に飢えておってな。この機会にかつての奴隷の子孫らに相応の意趣返しをしたいと思っておるようだ。正式に盟約を交わさぬうちはやつらを止めることはわしにもできぬよ」
「ひと月の猶予を与えると言ったのは貴様のほうではなかったか」
「たしかに申した。だから王都にマムクートどもをけしかけるのを待ってやっておるではないか」
ねめつけると、ガーネフは笑い出した。
「安心するがよい。そなたの妹には手は出させぬ。ミネルバ王女にはわれらの役に立ってもらわねばならぬゆえ。しかしいま一人は……わかっておろうな?」
「くどいぞ、何度も言わせるな」
「ならばけっこう」
そう言い残し、あたりをただよう暗闇の渦のなかへと消えていった。
父を説き伏せることができればそれでよかった。それがかなわぬとなればやむをえぬ。父がパレスに発つ明後日までにすべてを終わらせねばならない。
よくもこれほど悪い巡り合わせがあるものだと思う。歴史が大きく動くときというのは、作為ゆえではなく、あらゆる悪条件が重なった結果なのだろう。
父が病を得ていなければ、いまとは状況は違ったはずだ。父は北部国境を守る戦いに赴いたはずだろうし、王みずから前線に立つならば、宮廷が割れることもなく、国が一丸となって打倒ドルーアを掲げただろう。そうであれば、俺もアカネイアの援軍をひたすら待つことには反対しつつも、父とともに戦うことを選んだと思う。
……なんとも詮ない空想だ。
ただ援軍を待つだけの無気力な王に、人心がついてゆくはずもない。こうして噛み合うことなく狂いはじめた歯車は崩壊していく。
そしてこれはアカネイアも同様だ。
暗黒竜復活という危難のおり、年老いたアカネイア王に王女が一人しかおらぬことが運の尽きというもの。百年前もおなじだった。あのときも王家には戦える者がいなかった。
この状況でアカネイア貴族らの考えることといえばひとつ。誰が戦果を挙げ、誰が王女を手に入れ、誰が王となるのか。それがなによりも重要なのだ。アカネイアがすぐさま援軍を出せないのは、カルタス伯の再来となるのは誰か、誰であるべきなのかを決めかねているからだ。
そんな権力闘争のためにわれらが捨て駒とされる。
シモンはそんな宮廷のありようを知悉しているからこそ焦っている。おのが身が危ういと悟り、懇願のために使節を立てたが、もはや手遅れだ。ベーサが突破されれば王都が戦場となる。さっさと逃げ帰ればよいものを、なおも留まろうとするのはやつの矜持か。それともなけなしの地位を失うことを恐れているのか。
マケドニアでは王のごとくふるまえどアカネイアでは下級貴族。アカネイアにとって助ける価値もないだろう。そしてこの国もシモンと同価値。その程度の存在。
だから援軍は来ないのだ。少なくともわが国の望む形では。
この世界を守るべき聖王国、だと?
笑わせてくれる。
「ミシェイル」
ミネルバが歩みより、顔をのぞきこんでくる。そろそろこいつがやって来るころだと思っていた。
もれそうになるため息を押しとどめる。
「親父はまだ怒っていたか」
「それはもちろん。わが国を侵すドルーアを許しがたくお思いだもの」
「無用の気を回さずともよい」
苦笑しながら天を仰ぐと、ミネルバはそのとなりに立ち、笑いかけてきた。
「メスト公から聞いたわ。シモンがひどく焦っているのですって」
「あれは下劣なだけで愚鈍ではないからな。前線からの知らせだけで充分に戦況を読んでいるのだ」
「戦況をわかっているくせに王都に居座ってるのね。籠城戦になる前にパレスに逃げ帰ると思っていたのに」
「パレスに帰れば無位の田舎貴族に逆戻りだ。この国に滅んでもらっては困るのだろう」
「なんだ、少しは父上に尽くす気持ちが芽生えてくれたのかと」
「おい、冗談でも笑えんぞ」
軽口の応酬をするにつれて、自然と笑みがこぼれた。そんな俺を見て安堵したのか、ミネルバも目を細める。
こいつがここに来た魂胆はわかっている。ここ数年、妹は俺と父との仲を取りもとうと必死だ。俺がかつて父を敬愛していたという幻想をいまだ抱きつづけている。俺はもうとっくに父を見限っているというのに妹は過去にすがりついているのだ。
稚拙なとりなしであっても、いくぶん気がまぎれる。ささくれだった心が鎮まる。妹とともにいると、少しだけ昔に戻れる気がするからだろうか。まだ父を信じていられたころの自分に。
「こんなときぐらい、シモンがアカネイアに取りなしてくれればと思っていたのだけど」
妹が小さくため息をつくと、俺は鼻で笑った。
「無駄な期待ははじめからするな。シモンの使節が戻らぬことぐらい、おまえにもわかっていただろう」
「プラージ卿はドルーアの妨害だろうと」
「逃げ帰った官吏が幾人いると思っている。やつらのすべてをドルーアが抹殺したと? 危険を冒してまでマケドニアに戻る気がないのだろう」
「……そうね。彼らに期待するだけ無駄だったの。だから今度は父上がパレスにゆかれるのよ」
頃合いを慎重に見計らって、ミネルバが本題を切り出してきた。予想していた話だからこそ不快さが増した。
「なぜあれほどアカネイアを妄信されるのか。もはや一刻の猶予もないというのに、なにもおわかりではない。あの盲いた目では、先を見通す力などあるはずもなかろうが」
「父上だってアカネイアを憎く思っておられるわ。それでもアカネイアの兵力は強大なもの。いま、われらが頼るべきはあの大国しかないから、だから父上はパレスに――」
「おなじことだ、それを妄信というのだ!」
たまらず声をあららげた。
「言っておくが、ヴェーリやプラージもシモンと変わりはせん。メスト公なぞこれまで親父をいいようにあやつってきたではないか」
「なにを言うの」
「俺とてやつらの親父への忠誠までは疑わん。親父の味方と言えるのはまぎれもなくあの三人だろう。だが、あやつらが赤心から親父に仕えてきたと思っているのか」
「そんなもの、くだらないあげつらいだわ。だったらシェンケルたちはどうなの。あの者たちの勝手なふるまいのせいで王太子の評判まで悪くなっているのよ。彼らがミシェイルのことを心から支持しているだなんてわたしには思えないわ」
「ああ、そうだ。どいつもこいつも信用のならぬ者ばかり。一度餌を与えれば最後、つねに飢えを満たそうとしてくる。よく覚えておけ、ミネルバ。やつらの次の狙いはおまえなのだからな」
妹は目をしばたたかせた。それがやけに幼げな顔つきに見えて、ふいに嗜虐的な気分になった。
「わからんか。グイドが死んだいま、メスト公の狙いは息子をおまえの婿にねじこむことだ。とうに三十をすぎた一人息子の縁談を、いままでまとめずにいたのはなんのためだと思っている? グイドの死を聞いたとき、内心ほくそ笑んでいたことだろう」
「……言葉がすぎるわ」
「ヴェーリもそうだ。グルニアにいる娘を俺の妃とするのは諦めたようだが、今度は息子をおまえにあてがう心づもりだ。竜騎士にもなれぬあの不出来な男をな。いったいなんの冗談かと思うが本気のようだぞ。プラージとてまだ一人息子がいるではないか。グイドを死なせたおまえの負い目につけこめば、いかようにでもなると――」
「もういい加減にして! いまはそんな話をしているときではないでしょう!」
「いまだからこそ言っている。親父がやつらを好きにのさばらせた結果がこのざまだ」
ミネルバは唇を嚙んでうつむいた。
なにも言い返せるはずがない。宮廷を腐らせてきた要因がアカネイアにのみあるわけではないと、おまえも重々理解しているはずだ。
「……たしかに、父上にほんとうのお味方はいないのかもしれない。わたしたちのほかには……ね、そうでしょう?」
俺はなにも答えなかった。いままでなら、嘘でも肯定してやっていた。それでこいつの気がすむとわかっていた。
だがもう自分を偽ることができなかった。
黙ったままでいると。妹の手が腕にふれた。目が合うと笑みがむけられる。
「父上はアリティアにもゆかれるのよ。すでに援軍の約束は取りつけておられて、コーネリアス王は遠征の準備をなされているとか」
アリティアの援軍だと?
正直これには驚いた。それならばアカネイアからの返書に取り乱す様子がなかったのもうなづける。
アリティア一国でも動くとなれば状況は変わる。ガーネフが提示した猶予には間に合わずとも王都で籠城すれば援軍が来るまで充分耐えられるだろう。切り捨てた選択肢のなかにたしかな勝機が見える。しかし――
「兄上、わたしはアリティアを信じているのです。なにもアンリの伝説にすがろうというのではありません。コーネリアス王は名将と名高き方。アカネイアの言いなりとはならず、きっとわれらの力となってくださるはず。だから、いまのわたしにできることは、父上がお戻りになるまで時間を稼ぐこと、それだけです」
「ばかめ。それまでやつらを食い止められると思っているのか」
「思っています」
「たかが火竜一匹討ちとったぐらいで思いあがるな」
いらだちまぎれに怒鳴ったが ミネルバは微笑をうかべたままだった。
「思いあがってなどいません。……むしろわたしは慄いているのです。すでに大勢の騎士が倒れ、これからもっと死を目の当たりにすることになるのですから。わたしがこうやって将兵らの死を数えていられるのもいつまでつづくかわかりません。明日か、それとも明後日か……。それでもわたしは恐れてはいけないのです。ただ希望を胸に、戦いつづけるだけ」
「戯れ言はもうよい」
聞いてはいられず、遠くを眺めるそぶりで、ミネルバに背をむけた。
俺はなににこれほどいらだっているのか。
頑迷な父に対してか。そんな父をかばいつづけるミネルバに対してか。それとも、正義の遂行が許されたアリティアに対してか。
アリティア――勇者アンリの興した国。
まったくやつらはいい気なものだ。アカネイアの盾となることを国是としている。望んでアカネイアに媚びへつらい、いいように利用されることすら喜びとするような輩とわれらは違う。捨て駒として盾となることを強いられるマケドニアとはなにもかも。
ふいに背後の気配が遠ざかるのを感じ、後ろをふりむいた。
「明日、戻るのか」
「はい、できれば早朝に。しばしの休息にはなりました」
淡々とかえすその口元には、はりついたような微笑があった。
必死に隠しているつもりだろうが、右腕と脇腹に負った傷をずっとかばっている。傷をおして火竜に立ち向かってゆく根性は見上げたものと思うが、ここまでくればいっそ愚かに思える。
こいつは向こう見ずでも恐れ知らなわけでもない。豪胆なところもあるが、根は臆病で慎重だ。取りつくろうことだけは年々うまくなったものの、少し突けば心を乱し、必死に隠した生地が現れる。
歩みより、右腕をつかみあげる。
「傷は、まだ癒えてはいないのだろう?」
「もう平気です」
「強がるな」
「強がってだなんて――」
嘘を戒めるように、腕をつかむ手に力をこめる。
「ほんとうに、それでいいのか」
「えっ……」
「父上はおまえのこともわかってはいない。いや、おまえのその口先だけの強がりに甘えているだけか。どちらにしてもあの方の目は、ほんとうになにもお見えではないようだな。理不尽にただ耐えることが美徳と思っておられる。いっそ……」
冷えた頬を指でなぞる。
「おまえが死ねば、あの方は長い眠りから目を覚まされるのか」
一等愛した娘が自分のために命を落としたとき、あなたはどう出るのだ? さすがにグイドが死んだときのように平静ではいられぬのだろう? あなたが嘆き悲しむさまを見てやりたいと思う。そして、怒りに任せてアカネイアにいかな手をとるのかも。
「……ミシェイル?」
小首をかしげ、俺をのぞきこむ目を見た瞬間、妹を強く抱きしめていた。
これからなにが起ころうとしているのか、すべて打ち明けてやりたくなる。父は俺を疎んじ、追放せんともくろんでいるのだ。すべてを知ってなお、おまえはあの愚かな父をかばうのか。
妹の手が、俺の背に回された。すがりつくようでいて、いたわるような手つきだった。慰めているつもりなのか。存外悪くない心地で、しばらく好きにさせておいたが、やがて手がとまり、妹の身体が離れていった。ためらいがちに俺を見つめてくる。
「わたしがこの戦いで命を落としても、父上がお考えを変えられることはないわ。おやさしいけれど、そういう方だから」
自分の言葉に傷ついたのか、泣きそうな顔になる。
「……なぜこの国ばかりが理不尽な災厄に見舞われるのかと神に問いたくなるときもあります。民の幸福のため、国を豊かにすること、それがわたしの望みでした。わたしがこうして生きていられるのも、多くの民の犠牲の上にあるもの。彼らに報いるべく、マケドニアをアカネイアを凌ぐ大国にすると、それだけを願って生きてきましたが、夢を叶えられぬままわたしは果てるのかもしれません。それでも……不幸な巡り合わせを呪ってみても詮なきこと。わたしは自分のなすべきことをなすために戻ります。だからミシェイルもどうか――」
「ミシェイル殿下」
オーダインが割って入ってきた。
「すでに武官らが集っております。どうぞ広間へお越しを」
「いまから軍議なの?」
「……ああ」
「それならわたしも――」
「いや、どうせ形だけの会合なのだ。出る必要はない」
「でも」
「おまえは早朝に発つのだろう。もう休め。なにかあれば追って伝える」
妹は立ち去りかけたが、すぐさま引き返し、俺の腕のなかに飛びこんできた。
「軍議では父上と言い争いなどなさらないで。いまは仲たがいなどされているときではないでしょう? どうかを父上を支えて、力になってさしあげて」
「わかっている」
吐息まじりに言って、もう行けと背を押した。
階段を降りてゆく後ろ姿を見送っていると、ふくみ笑いが聞こえてきた。
「ご立派なものですな」
一部始終を盗み見ていたオーダインが感嘆まじりに言った。
「どれほど勇敢な者であっても、死線をくぐり抜け、ひとたび安全な場所へ戻ること叶えば、ふたたび危険のなかに身を投じることなどできぬものです。姫は死ぬ目に遭われたというのに、明日にも前線に戻ろうとされている。あの方がこのまま城に留まられても恨みに思う者などおりますまいに。あのご器量、姫君であることが惜しまれまする」
「買い被りがすぎる。あんなもの、しょせんは小娘の強がりにすぎん」
「そうお思いなら、なぜ姫をお引き止めせぬのです?」
「言っても聞かぬのだから仕方あるまい。それに明日のためにはあいつが城におらぬ方が都合がよいのだ」
「……それだけが理由にございますか」
「なにが言いたい?」
「あの方を戦場へ追いやりたいのは、あなたの地位を奪わんとしているあの方を、憎くお思いだからではないのですか」
一瞬、呆然となった。
なにをばかげたことを。そう言いかけたものの言葉にならなかった。そんなふうに思いはしなかったはずだ。すぐさま否定しようとしたものの、はたしてほんとうにそうだったかと自問した。あの噂を耳にしたとき胸を貫いた衝撃は、父への失望だけだったのか。ずっとくすぶっているこのいらだちは、憎悪ゆえだったのではないのか。父に対しても、ミネルバに対しても……――
「いずれにしましても」
オーダインは北の方角に目をはせた。
「いま、前線で戦っておる者たちに、われらは一生頭が上がらぬでしょうな。まこと国のためを想い、ただひたすらに命を懸けている者たちは彼らのほかにおりませぬゆえ」
「だからこそ無益な戦闘は早々に終わらせる。あの者たちを一人でも多く帰還させるための策はこれしかないのだからな」
「それをあの者たちが望んでいるのかはわかりませんが」
白髯をなでながら、俺に向きなおる。
「あのご様子では、王女も同盟には反対のお立場のようですな」
「アリティアが動くそうだ」
オーダインは目を見ひらいたものの、なるほど、と笑った。
「シモンどのの手前、陛下はアリティアとの交渉を秘密裏に進めておられたのですな。しかしそれはわれらにとって好都合なこと。その一件が公となり、他国の援軍に希望を見いだす者が増えようものなら、協力者の離反を招くところでした」
「おまえは違うのだな?」
「わたしはあなたに賭けると決めたのです。オズモンド王に従っていては、この老いぼれが死ぬるまでに聖王国の最期を見届けること叶いませぬゆえ」
目の奥に野生めいた光を宿らせ、では、とうながした。