赤き幻影
・
・
・
ガーネフが俺の前に現れたのは、八の月三十日のこと。
あの日、俺は国境防衛の要ベーサ砦にいた。
知己のグイドバルド・プラージが火竜との戦いで絶命し、ミネルバもまた重傷を負ったとの急報が王城に届き、急ぎ飛竜を駆りドルーア国境へ向かった。
ミネルバは砦の救護室に運ばれ、粗末な素木の寝台に横たわっていた。命にかかわる傷ではないとのことだったが、痛みと高熱にうなされており、言葉をかわせる状態になかった。
グイドの遺体は隣室に安置されていた。グイドの傷は背から受けた傷が胸を貫通しており、一目で即死とわかった。グイドほどの竜騎士がなぜと思ったが、疑問はすぐに解けた。妹をかばって火竜の五爪をまともに背に受けたのだそうだ。まったく、実直なあいつらしい最期だ。
グイドよ。これがおまえにとっての騎士の誉れか。
問いかけてみても答えはない。蒼白な顔を見おろしたまま、俺はしばらく動けなかった。
グイドと最後に会ったのは十日ほど前。俺が先発隊の派遣に最後まで異を唱えていたため、ねぎらいの言葉ひとつかける機会もなく別れた。勇ましく敬礼をして踵をかえし、北へと飛び立っていった友の姿をぼんやりと思いだす。
部屋には一瞥するだけで見知った顔が複数あり、俺が呆けているあいだにもさらに二人が運びこまれてきた。彼らは勇壮な竜騎士に憧れ、強きマケドニアを実現せんと未来だけをみつめていた。彼らの抱いていた希望がうたかたのごとく消えてゆくさまを目の当たりにした。
やはりわれらが単独で戦うべきではなかったのだ。
父はアカネイアに援軍を要請し、早々に戦準備を始めたが、ドルーアの目的はアカネイアを滅ぼすことなのだ。それならばなぜわれらが命を張らねばならぬのか。せめてわれらが中立を保てるよう、ドルーアと交渉を試みるべきではないのか。そう父に訴えたものの、父は竜騎士団をドルーア国境に派遣し、徹底抗戦の構えをとった。
その結果がこれだ。
はじめのうちこそ、ドルーア軍との戦いはわが国が優勢と伝えられていた。事実そうであったのだろうが、獰猛な火竜の襲来がその流れを変えた。
われらが先祖は飛竜を使役し、ドルーアと壮絶な戦いをくり広げた。初代王アイオテの遺志により、竜騎士団はマムクートと互角に渡りあえるよう鍛え上げられてきた。それこそが、この国が南方の雄として諸国から一目おかれる力の源だった。
グイドたち前線に派遣された竜騎士は、解放戦争の戦士たちよりはるかに鍛錬を積み、戦術を学んだ精鋭部隊だった。グイドもミネルバもけっしてマムクートを侮っていたわけではないだろう。だが、一度に五頭もの火竜を相手にする状況など誰も想定していなかった。
しょせんは平和に慣れ、実戦を知らぬ者たちの悪あがきにすぎぬというのだろうか。
ベーサに来てから二日がたった。その間、ドルーア軍の動きはなかったが、無為に時間を過ごす気にはなれず、騎士たちの反対を押し切り、ベーサよりさらに北、エルダ砦の周辺にまで哨戒に出た。このあたりまでは何度か部族討伐のため訪れたことがある。
ドルーアの侵攻は、八の月七日、エルダ砦の襲撃から始まった。砦に駐留していた国境警備兵が一人残らず惨殺され、砦は占拠された。せめてこの砦を奪還できればと思うが、そんな余力があろうはずもない。いまのマケドニアに残された手段は、援軍がやってくるまでひたすら耐えつづけることだけだ。
われらの力は、アカネイアに侮られぬために必要なものだった。過去には軍事にさえ制限を加えられていた時代もあった。あまたの屈辱に耐え、必死に蓄えてきた国力をこんなことで浪費させられるのか。思い描いた未来がなすすべもなく奪われていくのか。希望があればこそ苦難にも耐えられたが、これではなにを希望とすればいい? なにもかもが無駄だったというのか。
やりきれなさに歯噛みした。
砦に戻り、司令官室へ入ると、長卓のうえに食事が用意されていた。固いパンと具がわずかに浮いたスープ。腹は減っているはずだが、なにも食べる気にはならなかった。酸味の強い葡萄酒だけを喉に流しこんだ。
強い疲労をおぼえた。肘掛椅子に身体を沈め、そのまま眠りに落ちた。
夜も更けたころ、なにやら寒気を感じて目が覚めた。部屋中にひりつく空気がただよっていた。あたりを見わたしていると、暗がりになにかうごめく気配があった。それが人影だと気づき、慌てて椅子から立ちあがった。
いったいどこから入った?
嵌め殺しの窓と廊下に面した扉を交互に見やった。うろたえる俺を嘲笑うように男は喉を鳴らした。
「あの王では話にならぬゆえな。そなたとじかに話がしたくてこうして参った」
近寄ってきたのは。黒い長衣をまとった小男だった。歳は老年にさしかかるころだろうか。浅黒い肌をしており、高い鷲鼻がやけに目につく。妖気とでも言おうか、王城を訪れたメディウスの使者とよく似た空気をまとっていた。
「貴様は、マムクートか」
「いいや、これでも人間なのだが」
「人間でありながら、マムクートどもと結託しているのか」
「さよう。アンリに封じられたメディウスをよみがえらせたのもわが術によるもの」
よみがえらせた?
虚を突かれ、二の句が継げなかった。
「信じられぬかね?」
男はしゃがれ声で笑った。
それが事実であるのなら、ドルーアの中枢にいるであろう男がこうして俺のもとに来たということだ。その意図がなんであるのか、訊かずにはいられなかった。
「貴様、何者だ」
「わが名はガーネフ。かつて白き賢者の教えを乞うていた者」
名だけは耳にしたことがあった。いつであったか、カダイン帰りの魔道士たちの口の端にのぼったのだ。
かつてアカネイアの高位司祭ミロアの双璧とまで呼ばれた魔道士だったが、禁忌を犯して師ガトーの怒りを買い、カダインを追放されたとだけ伝わっている。その所業は忌むべきもので、名を口にすることすらはばかられる存在であるそうだ。いかな禁忌を犯したのか興味を惹かれたものの、ガトー司祭には訊かずじまいとなっていた。司祭は数年前に姿を消し、いまだ行方知れずだ。
「ガーネフとやら、なにゆえメディウスを復活させたのだ? マムクートどもに世界を明けわたすつもりか」
「やつらはただの力よ。わが手足として使役しておるまでのこと。そなたらが飛竜を乗りこなしておるようにな」
「ならば、マムクートどもの力を借りてアカネイアを滅ぼそうと? 貴様はたしかアカネイアの出であったな? 故国に恨みがあるのか」
「アカネイアなどすでに腐りきった果実。もはや手に入れる価値もないわ」
節くれだった手がこちらにのばされる。
「王子よ、われらと手を組むがよい」
「アイオテの裔たるわれにマムクートどもの奴隷に成り下がれと? 痴れ者めが」
「奴隷となるもならぬも、そなたしだいよ」
ガーネフは喉を鳴らした。
「そなた、ドルーアとは中立を保ち、アカネイアを見捨てよと父王に進言したそうだな。まことおもしろい男よ」
「父にとっては、ただただ不快であったようだがな」
「仕方あるまいよ。愚者にそなたの考えを理解することなどできようはずもない」
あの父を愚者呼ばわりか。
思わず笑いがこみあげてきた。
「父は側近どもと雁首そろえて時間を浪費するばかり。パレスに使者を遣って以降は話が進展した様子もない」
「マケドニアの王はアカネイアに頸木をはめられた家畜のごとき存在。おのが意思で決められることなどなにもないのであろうな」
「御託はよい。この俺にマムクートどもと結託させんとするのはなにゆえか」
「そなたの望みを叶えさせてやろうと言っておるのだ」
「俺の望み、だと?」
「そなたの望みはドルーアを滅ぼすことか。いや、そうではあるまい。このような小国ではなく、世界を手にしたいとは思わぬか」
愉悦にみちた、しわがれた声。
「そなたはわしに似ておる。ゆえにわかるのだ。そなたのまことの望みがな……」
深い闇色の瞳が迫った。目をそらせない。
「これより大陸の歴史は大きく変わる。この歴史の転換期に、そなたほどの者が傍観者を決めこむことはあるまい?」
「この手でアカネイアを滅ぼせ、と?」
「さよう。われらと手をたずさえてな」
ドルーアと手を組む。まったく思いつかぬ策ではなかった。ドルーアとの交戦は避けるよう父には進言したものの、本心ではこの手でアカネイアを滅ぼしてやりたいと思っていた。
「これも伝えておこう。近くグルニアもドルーアの傘下に加わることとなる」
「グルニアも……」
「百年前、崩壊したドルーア帝国の広大な領土に二つの国が興った。それがマケドニアとグルニアだ。もとは一つであった三国で同盟を組み、ドルーア帝国を再興させる。そしてアカネイアを滅ぼす。これはそなたにとっても悪い話ではないはずだが、どうかね?」
むしろ願ってもない話だ。
われらの力はけっして解放戦士らに劣るものではない。竜騎士団の力をアカネイアにぶつければどうなるのか、試してみたくもあった。
ドルーアの力を得られるのなら、父があれほどまで畏れ、崇める聖王国とて滅ぼすことは可能となる。そもそもアカネイアなど百年前に一度滅ぼされた国ではないか。なぜ俺はこれが叶わぬ願いと思いこんでいたのか。
「ひとつ訊いておきたい。貴様の申し出はドルーアの……メディウスの意思なのか」
「わしが提言したことだが、むろんあやつの望むところではある。あれは永い眠りから目覚めたばかりゆえ、まだ真の力を取り戻してはおらぬのだ。しかと口には出さぬが、同志を欲しておる。たとえそれがわれら卑しき人間であってもな」
これには少し驚いた。秘中の秘であろう事情をこれほどあっさり明かすとは思わなかった。偽りの可能性もあるが、ドルーアが手駒を欲しているのは事実だろう。
ガーネフをうかがうように見やると、満足げに唇をつりあげた。
「すでにそなたの心は決まっておるようだな。だが王子よ、われらはマケドニア王との同盟を望んでおるのだ」
「俺に王位を簒奪せよと?」
「そこまでせよとは言っておらぬ。なに、そなたが父王を説き伏せればよいことであろう?」
よくもぬけぬけと。それができぬとわかって俺のもとへ来たのだろうに。ようやくこの男の腹づもりが読めた。
「しばし猶予を与えてやろう。あの王に同盟を承服させるのは一筋縄ではいかぬであろうゆえ」
「しばしとは?」
「せいぜいひと月じゃな。わしは人間ゆえな、悠久の時を生きるマムクートほど気長ではない。時がくれば、ドルーアに集結したマムクートをすべて率いて王都に攻め入ることとなろう」
ひと月。思わず舌打ちしそうになった。
十日前、アカネイアに援軍を乞う使節団が王都を発った。数日中にはアカネイア王の返書が届いてもよいころではある。だがアカネイアがどのような決断を下そうと、猶予がたったひと月ではとても援軍は間に合わぬ。
「近いうちに王城に使者を遣わそう。それまでに父王の心を変えられるよう努めてみるのだな」
そう言い残すや、ガーネフは姿を消した。なにもかもあやつのいいように操られているかに思えたが、不思議と腹は立たなかった。
ついさきほどまで胸に巣食っていた恐怖と絶望が、跡形もなくかき消えていた。研ぎ澄まされた刃物でそっくりくり抜かれたかのようで、胸に心地よい風が吹きこんでくるようだった。
「殿下」
声がかかり、司令官室の扉が開いた。
「ミネルバ姫がお目覚めになられました。いまは僧侶の手当てを受けておられますが、お会いになられますか」
入ってきたのは、竜騎士団第二部隊長をつとめるラディス・シェンケルであった。
無言のまま、じっとその顔を見すえていると、シェンケルはけげんそうに眉をよせた。
「あの、殿下……」
「いま、おまえはどんな気分だ?」
「……は?」
「おまえはグイドを嫌っていただろう? やつの死をどう思う?」
シェンケルは一瞬呆けた顔になったが、すぐさま狼狽を見せた。
「なにを言われます。たしかにわれらは時に意見をたがえ、口論となることもございましたが――」
「おまえがグイドをどう思っていようと責めるつもりはない。いや、たとえおまえがあれの死を喜んでいようとも、当然のことと思っている。おまえたちは年も近く、幼少のころからともに研鑽を積んできたというのに、王家に連なるグイドは生まれながらにすべてを手にし、おまえはその一段も二段も下に留めおかれる。この国の貴族たちは元をたどればみなアイオテとともに解放戦争を戦った者の末裔だというのに、いつからこのようないびつな序列がはびこるようになったのやら」
横並びだった貴族の力関係が崩れたのは、祖父ビセンテ王の代だ。幼くして即位した王を支えんと、外戚たちに権力が集中したことに端を発する。そして父オズモンドの治世において権勢をほしいままにしているのが宰相エラルド・メスト――母の叔父だ。亡き母の生家メスト家を筆頭にヴェーリにプラージといった、いずれも王家と縁戚関係にある者だけが国の中枢に居座っており、シェンケルら下級貴族とは歴然たる差がある。
そんな有力貴族を束ね、国の方針を決めるのは王ではない。アカネイア王に全権をゆだねられた弁務官だ。この国における「王」とは、国を守るべく屈辱をその身に受けいれる生贄の美称にほかならない。
「滑稽なことだと思わんか。あの偽りの聖王国から見れば、われらはなべて虫けらにひとしい存在であろうにな」
「……まこと、理不尽な世にございます」
「かつてわれらの先祖がドルーアと戦って勝ちとった自由は不完全なものだった。マムクートの手枷は外れたが、かわりに聖王国の頸木につながれた。あれから百年がたつというのに、いまだわれらは囚われたまま。手をこまねいているうちに葬ったはずの暗黒竜が目覚め、わが国は危機に瀕することとなった。従順でありつづけるかぎり、われらには奴隷となる道しか残されおらぬということだ」
「殿下、いったいなんの話を――」
「俺はずっと考えてきた。この世にあらたなる秩序を作り出さんとするのなら、いまある秩序のすべてを破壊しつくさねばならぬのだと」
「あなたは……」
シェンケルが息をのんだ。
「いったい、なにをなさるつもりなのです」
シェンケルは困惑しているかに見えたが、しかしその茶色い瞳は期待に輝いていた。
やはり思ったとおりだ。こいつはこちら側の人間だ。
ゆっくりと近づき、その肩に手をおく。
「俺はドルーアと手を組む。そのうえでアカネイアを滅ぼす。それはおまえも望むところだろう? ラディス・シェンケル」
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ガーネフが俺の前に現れたのは、八の月三十日のこと。
あの日、俺は国境防衛の要ベーサ砦にいた。
知己のグイドバルド・プラージが火竜との戦いで絶命し、ミネルバもまた重傷を負ったとの急報が王城に届き、急ぎ飛竜を駆りドルーア国境へ向かった。
ミネルバは砦の救護室に運ばれ、粗末な素木の寝台に横たわっていた。命にかかわる傷ではないとのことだったが、痛みと高熱にうなされており、言葉をかわせる状態になかった。
グイドの遺体は隣室に安置されていた。グイドの傷は背から受けた傷が胸を貫通しており、一目で即死とわかった。グイドほどの竜騎士がなぜと思ったが、疑問はすぐに解けた。妹をかばって火竜の五爪をまともに背に受けたのだそうだ。まったく、実直なあいつらしい最期だ。
グイドよ。これがおまえにとっての騎士の誉れか。
問いかけてみても答えはない。蒼白な顔を見おろしたまま、俺はしばらく動けなかった。
グイドと最後に会ったのは十日ほど前。俺が先発隊の派遣に最後まで異を唱えていたため、ねぎらいの言葉ひとつかける機会もなく別れた。勇ましく敬礼をして踵をかえし、北へと飛び立っていった友の姿をぼんやりと思いだす。
部屋には一瞥するだけで見知った顔が複数あり、俺が呆けているあいだにもさらに二人が運びこまれてきた。彼らは勇壮な竜騎士に憧れ、強きマケドニアを実現せんと未来だけをみつめていた。彼らの抱いていた希望がうたかたのごとく消えてゆくさまを目の当たりにした。
やはりわれらが単独で戦うべきではなかったのだ。
父はアカネイアに援軍を要請し、早々に戦準備を始めたが、ドルーアの目的はアカネイアを滅ぼすことなのだ。それならばなぜわれらが命を張らねばならぬのか。せめてわれらが中立を保てるよう、ドルーアと交渉を試みるべきではないのか。そう父に訴えたものの、父は竜騎士団をドルーア国境に派遣し、徹底抗戦の構えをとった。
その結果がこれだ。
はじめのうちこそ、ドルーア軍との戦いはわが国が優勢と伝えられていた。事実そうであったのだろうが、獰猛な火竜の襲来がその流れを変えた。
われらが先祖は飛竜を使役し、ドルーアと壮絶な戦いをくり広げた。初代王アイオテの遺志により、竜騎士団はマムクートと互角に渡りあえるよう鍛え上げられてきた。それこそが、この国が南方の雄として諸国から一目おかれる力の源だった。
グイドたち前線に派遣された竜騎士は、解放戦争の戦士たちよりはるかに鍛錬を積み、戦術を学んだ精鋭部隊だった。グイドもミネルバもけっしてマムクートを侮っていたわけではないだろう。だが、一度に五頭もの火竜を相手にする状況など誰も想定していなかった。
しょせんは平和に慣れ、実戦を知らぬ者たちの悪あがきにすぎぬというのだろうか。
ベーサに来てから二日がたった。その間、ドルーア軍の動きはなかったが、無為に時間を過ごす気にはなれず、騎士たちの反対を押し切り、ベーサよりさらに北、エルダ砦の周辺にまで哨戒に出た。このあたりまでは何度か部族討伐のため訪れたことがある。
ドルーアの侵攻は、八の月七日、エルダ砦の襲撃から始まった。砦に駐留していた国境警備兵が一人残らず惨殺され、砦は占拠された。せめてこの砦を奪還できればと思うが、そんな余力があろうはずもない。いまのマケドニアに残された手段は、援軍がやってくるまでひたすら耐えつづけることだけだ。
われらの力は、アカネイアに侮られぬために必要なものだった。過去には軍事にさえ制限を加えられていた時代もあった。あまたの屈辱に耐え、必死に蓄えてきた国力をこんなことで浪費させられるのか。思い描いた未来がなすすべもなく奪われていくのか。希望があればこそ苦難にも耐えられたが、これではなにを希望とすればいい? なにもかもが無駄だったというのか。
やりきれなさに歯噛みした。
砦に戻り、司令官室へ入ると、長卓のうえに食事が用意されていた。固いパンと具がわずかに浮いたスープ。腹は減っているはずだが、なにも食べる気にはならなかった。酸味の強い葡萄酒だけを喉に流しこんだ。
強い疲労をおぼえた。肘掛椅子に身体を沈め、そのまま眠りに落ちた。
夜も更けたころ、なにやら寒気を感じて目が覚めた。部屋中にひりつく空気がただよっていた。あたりを見わたしていると、暗がりになにかうごめく気配があった。それが人影だと気づき、慌てて椅子から立ちあがった。
いったいどこから入った?
嵌め殺しの窓と廊下に面した扉を交互に見やった。うろたえる俺を嘲笑うように男は喉を鳴らした。
「あの王では話にならぬゆえな。そなたとじかに話がしたくてこうして参った」
近寄ってきたのは。黒い長衣をまとった小男だった。歳は老年にさしかかるころだろうか。浅黒い肌をしており、高い鷲鼻がやけに目につく。妖気とでも言おうか、王城を訪れたメディウスの使者とよく似た空気をまとっていた。
「貴様は、マムクートか」
「いいや、これでも人間なのだが」
「人間でありながら、マムクートどもと結託しているのか」
「さよう。アンリに封じられたメディウスをよみがえらせたのもわが術によるもの」
よみがえらせた?
虚を突かれ、二の句が継げなかった。
「信じられぬかね?」
男はしゃがれ声で笑った。
それが事実であるのなら、ドルーアの中枢にいるであろう男がこうして俺のもとに来たということだ。その意図がなんであるのか、訊かずにはいられなかった。
「貴様、何者だ」
「わが名はガーネフ。かつて白き賢者の教えを乞うていた者」
名だけは耳にしたことがあった。いつであったか、カダイン帰りの魔道士たちの口の端にのぼったのだ。
かつてアカネイアの高位司祭ミロアの双璧とまで呼ばれた魔道士だったが、禁忌を犯して師ガトーの怒りを買い、カダインを追放されたとだけ伝わっている。その所業は忌むべきもので、名を口にすることすらはばかられる存在であるそうだ。いかな禁忌を犯したのか興味を惹かれたものの、ガトー司祭には訊かずじまいとなっていた。司祭は数年前に姿を消し、いまだ行方知れずだ。
「ガーネフとやら、なにゆえメディウスを復活させたのだ? マムクートどもに世界を明けわたすつもりか」
「やつらはただの力よ。わが手足として使役しておるまでのこと。そなたらが飛竜を乗りこなしておるようにな」
「ならば、マムクートどもの力を借りてアカネイアを滅ぼそうと? 貴様はたしかアカネイアの出であったな? 故国に恨みがあるのか」
「アカネイアなどすでに腐りきった果実。もはや手に入れる価値もないわ」
節くれだった手がこちらにのばされる。
「王子よ、われらと手を組むがよい」
「アイオテの裔たるわれにマムクートどもの奴隷に成り下がれと? 痴れ者めが」
「奴隷となるもならぬも、そなたしだいよ」
ガーネフは喉を鳴らした。
「そなた、ドルーアとは中立を保ち、アカネイアを見捨てよと父王に進言したそうだな。まことおもしろい男よ」
「父にとっては、ただただ不快であったようだがな」
「仕方あるまいよ。愚者にそなたの考えを理解することなどできようはずもない」
あの父を愚者呼ばわりか。
思わず笑いがこみあげてきた。
「父は側近どもと雁首そろえて時間を浪費するばかり。パレスに使者を遣って以降は話が進展した様子もない」
「マケドニアの王はアカネイアに頸木をはめられた家畜のごとき存在。おのが意思で決められることなどなにもないのであろうな」
「御託はよい。この俺にマムクートどもと結託させんとするのはなにゆえか」
「そなたの望みを叶えさせてやろうと言っておるのだ」
「俺の望み、だと?」
「そなたの望みはドルーアを滅ぼすことか。いや、そうではあるまい。このような小国ではなく、世界を手にしたいとは思わぬか」
愉悦にみちた、しわがれた声。
「そなたはわしに似ておる。ゆえにわかるのだ。そなたのまことの望みがな……」
深い闇色の瞳が迫った。目をそらせない。
「これより大陸の歴史は大きく変わる。この歴史の転換期に、そなたほどの者が傍観者を決めこむことはあるまい?」
「この手でアカネイアを滅ぼせ、と?」
「さよう。われらと手をたずさえてな」
ドルーアと手を組む。まったく思いつかぬ策ではなかった。ドルーアとの交戦は避けるよう父には進言したものの、本心ではこの手でアカネイアを滅ぼしてやりたいと思っていた。
「これも伝えておこう。近くグルニアもドルーアの傘下に加わることとなる」
「グルニアも……」
「百年前、崩壊したドルーア帝国の広大な領土に二つの国が興った。それがマケドニアとグルニアだ。もとは一つであった三国で同盟を組み、ドルーア帝国を再興させる。そしてアカネイアを滅ぼす。これはそなたにとっても悪い話ではないはずだが、どうかね?」
むしろ願ってもない話だ。
われらの力はけっして解放戦士らに劣るものではない。竜騎士団の力をアカネイアにぶつければどうなるのか、試してみたくもあった。
ドルーアの力を得られるのなら、父があれほどまで畏れ、崇める聖王国とて滅ぼすことは可能となる。そもそもアカネイアなど百年前に一度滅ぼされた国ではないか。なぜ俺はこれが叶わぬ願いと思いこんでいたのか。
「ひとつ訊いておきたい。貴様の申し出はドルーアの……メディウスの意思なのか」
「わしが提言したことだが、むろんあやつの望むところではある。あれは永い眠りから目覚めたばかりゆえ、まだ真の力を取り戻してはおらぬのだ。しかと口には出さぬが、同志を欲しておる。たとえそれがわれら卑しき人間であってもな」
これには少し驚いた。秘中の秘であろう事情をこれほどあっさり明かすとは思わなかった。偽りの可能性もあるが、ドルーアが手駒を欲しているのは事実だろう。
ガーネフをうかがうように見やると、満足げに唇をつりあげた。
「すでにそなたの心は決まっておるようだな。だが王子よ、われらはマケドニア王との同盟を望んでおるのだ」
「俺に王位を簒奪せよと?」
「そこまでせよとは言っておらぬ。なに、そなたが父王を説き伏せればよいことであろう?」
よくもぬけぬけと。それができぬとわかって俺のもとへ来たのだろうに。ようやくこの男の腹づもりが読めた。
「しばし猶予を与えてやろう。あの王に同盟を承服させるのは一筋縄ではいかぬであろうゆえ」
「しばしとは?」
「せいぜいひと月じゃな。わしは人間ゆえな、悠久の時を生きるマムクートほど気長ではない。時がくれば、ドルーアに集結したマムクートをすべて率いて王都に攻め入ることとなろう」
ひと月。思わず舌打ちしそうになった。
十日前、アカネイアに援軍を乞う使節団が王都を発った。数日中にはアカネイア王の返書が届いてもよいころではある。だがアカネイアがどのような決断を下そうと、猶予がたったひと月ではとても援軍は間に合わぬ。
「近いうちに王城に使者を遣わそう。それまでに父王の心を変えられるよう努めてみるのだな」
そう言い残すや、ガーネフは姿を消した。なにもかもあやつのいいように操られているかに思えたが、不思議と腹は立たなかった。
ついさきほどまで胸に巣食っていた恐怖と絶望が、跡形もなくかき消えていた。研ぎ澄まされた刃物でそっくりくり抜かれたかのようで、胸に心地よい風が吹きこんでくるようだった。
「殿下」
声がかかり、司令官室の扉が開いた。
「ミネルバ姫がお目覚めになられました。いまは僧侶の手当てを受けておられますが、お会いになられますか」
入ってきたのは、竜騎士団第二部隊長をつとめるラディス・シェンケルであった。
無言のまま、じっとその顔を見すえていると、シェンケルはけげんそうに眉をよせた。
「あの、殿下……」
「いま、おまえはどんな気分だ?」
「……は?」
「おまえはグイドを嫌っていただろう? やつの死をどう思う?」
シェンケルは一瞬呆けた顔になったが、すぐさま狼狽を見せた。
「なにを言われます。たしかにわれらは時に意見をたがえ、口論となることもございましたが――」
「おまえがグイドをどう思っていようと責めるつもりはない。いや、たとえおまえがあれの死を喜んでいようとも、当然のことと思っている。おまえたちは年も近く、幼少のころからともに研鑽を積んできたというのに、王家に連なるグイドは生まれながらにすべてを手にし、おまえはその一段も二段も下に留めおかれる。この国の貴族たちは元をたどればみなアイオテとともに解放戦争を戦った者の末裔だというのに、いつからこのようないびつな序列がはびこるようになったのやら」
横並びだった貴族の力関係が崩れたのは、祖父ビセンテ王の代だ。幼くして即位した王を支えんと、外戚たちに権力が集中したことに端を発する。そして父オズモンドの治世において権勢をほしいままにしているのが宰相エラルド・メスト――母の叔父だ。亡き母の生家メスト家を筆頭にヴェーリにプラージといった、いずれも王家と縁戚関係にある者だけが国の中枢に居座っており、シェンケルら下級貴族とは歴然たる差がある。
そんな有力貴族を束ね、国の方針を決めるのは王ではない。アカネイア王に全権をゆだねられた弁務官だ。この国における「王」とは、国を守るべく屈辱をその身に受けいれる生贄の美称にほかならない。
「滑稽なことだと思わんか。あの偽りの聖王国から見れば、われらはなべて虫けらにひとしい存在であろうにな」
「……まこと、理不尽な世にございます」
「かつてわれらの先祖がドルーアと戦って勝ちとった自由は不完全なものだった。マムクートの手枷は外れたが、かわりに聖王国の頸木につながれた。あれから百年がたつというのに、いまだわれらは囚われたまま。手をこまねいているうちに葬ったはずの暗黒竜が目覚め、わが国は危機に瀕することとなった。従順でありつづけるかぎり、われらには奴隷となる道しか残されおらぬということだ」
「殿下、いったいなんの話を――」
「俺はずっと考えてきた。この世にあらたなる秩序を作り出さんとするのなら、いまある秩序のすべてを破壊しつくさねばならぬのだと」
「あなたは……」
シェンケルが息をのんだ。
「いったい、なにをなさるつもりなのです」
シェンケルは困惑しているかに見えたが、しかしその茶色い瞳は期待に輝いていた。
やはり思ったとおりだ。こいつはこちら側の人間だ。
ゆっくりと近づき、その肩に手をおく。
「俺はドルーアと手を組む。そのうえでアカネイアを滅ぼす。それはおまえも望むところだろう? ラディス・シェンケル」
