マケドニア598(本編)
清浄な朝の空気に、白い吐息が溶けてゆく。うっすらと雪が降りつもった中庭をながめながら、ミネルバは回廊を歩いた。灌木の花々はようやくひらき、あざやかな赤を雪からのぞかせている。
礼拝堂の扉は従容と左右に開かれていた。静謐につつまれた身廊を進み、祭壇の前に立つ。薔薇窓からふりそそぐ光のもと、ミネルバは凛とした挙措で跪拝した。
「主よ、われらが父ナーガよ。苦しみに耐え、天に召されし者たちの道を照らしたまえ。光の御許に導き、勇敢なる者たちに永遠の憩いを与えたまえ……」
その祈りは、同胞たちへの追悼だった。
先日、エルダ砦に残されていた遺体をすべて回収し終わった。鎧や衣服から身元のわかる者たちは家族のもとへ戻ることができた。前線で果敢に戦い、命を散らした者たちも、すべて王都郊外の墓地に葬られた。
オズモンド王が派遣したドルーア討伐軍は、みずから志願して前線に赴いた者が多かった。未曽有の国難を前に、国のため、愛する者たちのために命をかえりみず戦った。彼らこそが英雄だった。しかし、人々は彼らのことを忘れつつある。いまやドルーアは同盟国であり、マムクートと戦い、討ちとった者たちへの賞賛は聞かれなくなった。国を挙げての追悼式に難色を示す者さえいた。
マケドニアをおおっていた脅威が去ったいま、ドルーアへの恐れは、王を殺めた聖アカネイアへの怒りに取って代わられていた。
「おお、これはこれはミネルバさま」
フロスト司祭だった。ミネルバは顔を起こした。わずかに肩にかかるほど短くなった髪がさらりとゆれる。
「あなたさまがここにお越しだったとは」
「わたしは毎年ここへ来ておりますよ。母が信心深い人でしたから、物心のつく前から今日の祈りを欠かしたことはありません」
「それは存じあげておりますが、ミシェイルさまがよい顔をされんでしょう。降臨節の祭儀も、今日は中止となりましたし……」
言いよどむフロストに、ミネルバは微苦笑を向ける。
「この日は毎年、夜が明ける前から祈りを捧げていましたが、そのかたわらに兄がいなくなってから……もうずいぶんになります」
「昨今、神を軽んじる者はめずらしくもありませんが、ミシェイルさまはなんと申しますか……」
ミシェイルをその誕生のときから知るフロストは言葉を濁した。
兄の不信心には神への侮蔑がまじっていた。熱心に祈るミネルバを責めはしなかったが、揶揄することはあった。そんなときの兄は、神の存在そのものを憎んでいるように見えた。ミネルバはそんな兄を憐れみはしなかったが、悲しく思うことがあった。
「兄は祈ることを逃避だと思っておりますから」
「ミシェイルさまのお心もわからぬでもないのです。今宵、多くの民が守護神に祈りを捧げようとも、復活したメディウスを滅してくれるはずもなく……。今後、この国の民の心から、ナーガ神への畏敬は薄れていくやもしれませんな」
フロストは、失言でございますと苦笑し、香炉に火をつけた。沈香が、清浄な空気とまざりあってゆく。
激動の五九八年が、あと数日で終わりを告げる。守護神ナーガ降臨節の七日間、例年であれば、王城の礼拝堂で祭儀が執り行われ、国中が神聖なる祈りでつつまれているはずだった。しかし今年は国を挙げての祭儀は行われない。表向きはアカネイアによる父の暗殺が理由としたが、ミシェイルにとっては父の死さえ祝祭を取りやめるよい口実だったのだろう。マケドニアの民が守護神ナーガを崇めることをミシェイルは以前から嫌悪していた。
「フロストどの」
ミネルバは祭壇に一歩近づく。
「そう遠くないうちに、わが国はアカネイアと戦になります。早ければ来年のうちに」
フロストがぎょっとしてふりかえった。狼狽のあまり、香炉を取り落としそうになっていた。
「神に守られし聖王国に弓引くこと、聖職者たるあなたはどうお考えですか」
「いやはや……」
フロストは困り果てたように禿頭をなでた。
「姫さまは答えにくいことをずばりとお聞きになりまするな」
「あなたを困らせるつもりはありません。ただ、わたしも兄ほどの不信心ではないですが、守護神の加護にすがる気にはなれないのですよ。ましてやアカネイアの神性については、はなはだ疑問に思うばかり」
いにしえの時代、大陸に暮らす人間は恐ろしい魔物に食いつくされそうになり、生き残った人々が七年と七か月七日間、天に祈りを捧げた。その願いは聞き届けられ、守護神ナーガによって巨人が地上に遣わされた。ナーガの化身であるその巨人は、光を発する剣と伍色にかがやく盾で魔物を消滅させたと伝わる。聖アカネイアは、建国王アドラが守護神ナーガから三種の神器を授けられたとされており、以後六百年にわたり神に守られし国と崇められてきた。ゆえに、アカネイアに弓引くことは神に弓引くのとおなじ、そう考える者もいまだ多い。マケドニアの民がアカネイアを憎みながらも畏れてきたのは、ナーガへの信仰のせいでもあった。
だが、どれほどナーガ神に祈ろうとも、北の地によみがえった悪しき地竜を葬り去ってはくれない。飢えに苦しみ、死んでいった子供たちも救われなかった。親たちも血を吐くほどに天へ祈っただろうに聞き届けられはしなかった。
「王の仇討ちとはいえ、聖王国に叛くわれらは神の罰を受けると思われますか」
「いえ、けしてそのようには」
フロストは静かに首をふった。
「神というのは、天よりわれらを見守っておられる方。ゆえに祈れば願いが叶い、許しを乞えば罪が消えるというものでもありません。であるからして、人と人の営みに関与なさるものではなく、たとえ聖アカネイアとてそのかぎりではないと、わたしはそのように考えております」
「わたしも、そのように考えていますよ」
瞠目するフロストに、ミネルバは静かな微笑をむけた。
「幼いころ、わたしにそう説いた方がいたのです」
そう言って、身廊を引き返した。
――神は、見守っておられるのだ。かつて救った人々の行く末を。
どうして神さまは民を救ってくださらなかったの。涙ながらに問うミネルバにそう諭したのは、北の村に住む隠者――ガトー司祭だった。ガトーの答えは、幼い兄妹には受けいれがたいものだった。しかしいまならば、神の御心というものをおぼろげながら理解できる。
すべては人の営みなのだ。飢饉が命を奪い去っていったわけではない。慈悲を与えぬアカネイアとそれに抗えぬマケドニアの犠牲となったのだ。神が無慈悲だったのではない。
たしかにアカネイアは神に守られていたのだろう。しかし平和に安居した結果、一度滅びた。そしていまも享楽に耽り、打つべき手を打たず、手をこまねいている。
だから聖アカネイアは、百年前とおなじ轍を踏むのだろう。
そして、それはマケドニアもおなじだ。
アイオテの伝承を紐解けば、マケドニアもまた神の加護を享けし国と思われる。野生の飛竜にうちまたがり、マムクートに立ち向かったアイオテは、片目がつぶれ、腕と脚を一本ずつ失っても戦いつづけたという。アイオテは屈強な戦士だったに違いないが、おそらくその並外れた力は神の加護を得てのものなのだろう。その証が、王家に伝わる盾、そして殺竜石を埋めこんだ剣と槍だ。きっと神は、かつて救った人々の行く末を天より見守っていたのだろう。だから決死の戦いをつづける者たちを憐れみ、力を授けたのだろう。
しかし、これから大陸に嵐を起こす大戦は、アイオテ直系の手によって引き起こされる。欺かれた民もまた、ドルーアとの同盟を受けいれてしまった。今後どれほど多くの騎士が傷つき倒れようとも、そのすべてはマケドニアが望んだ結果。だから神の加護を求めるなど滑稽なことだ。
礼拝堂を出たミネルバは、雪の舞い散る蒼天を見あげた。
「暗黒竜再び目覚めし時、神は選ばれし者に剣を遣わし闇を払わん……」
ゆっくりと教典の一節を諳じる。
祈れば願いが叶い、許しを乞えば罪が消えるわけではない。それでも神に祈るしかすべのない力なき民の救済だけは、神へ乞わずにいられなかった。
ミネルバが自室に戻ると、女官たちがあわただしく部屋を出入りしていた。女官長タマーラがてきぱきと指示を出し、衣装と装身具を整えていた。戻ってきた王女に気づくと、女官たちは手をとめていっせいにお辞儀をする。
ミネルバはタマーラに微笑して問う。
「遅くなりました。間に合いますか」
「急ぎお支度をいたしましょう。まずは御髪を」
タマーラはミネルバを鏡台の前に座らせ、鏡をのぞきこむ。
「いかがいたしましょうか」
「ふさわしいように。この長さでは結えはしないでしょうが」
「どうぞおまかせを」
タマーラは短くなった髪を丹念にくしけずると、金の額飾りをおごそかな手つきでのせた。額飾りの周囲には繊細な金鎖が長くたれており、その先端に大粒の月長石がちりばめられている。耳にも額飾りと揃いの耳飾りをつけた。
「次はお召しものを」
立ちあがったミネルバの前に、襟と胸元に金糸でアカンサス模様を刺繍した黒絹のドレス――大礼装がひろげられた。黒一色の大礼装は一見すると豪奢とは言いがたく、ともすれば質素に思われるが、近くで手にとってみれば黒地に黒糸で百合の花を総柄で縫いとった手のこんだ衣装とわかる。さらに白貂の毛皮が裏打されたローブをまとい、ブローチで留めると一気に重厚さが増した。ブローチは飛竜のインタリオが刻まれた緑玉で、何代も王家に受け継がれてきた品である。
装身具は彫金の腰帯と真珠の二連首飾りで、ひかえめながらも黒一色のドレスに華やかさをそえた。
タマーラが一歩下がると、ミネルバは広がった裳裾をさばき、姿見に向きなおった。あたりから、なんとお似合いなのでしょう、と感嘆の声が上がる。
「まるでモイラさまを見るようでございます」
タマーラは目を細め、鏡のなかのミネルバをみつめた。かつて仕えた亡き王妃に想いをはせているのだろう。ミネルバはタマーラにぎこちない微笑をかえした。
母モイラについて、ミネルバはさほど多くの記憶を持たない。ミネルバを産んでから病がちで、一日のほとんどを床についてばかりいたせいもあるのだが、四つ上のミシェイルにしても母に対する記憶に大差はないだろう。アイオテの血統に連なる名家の出である母は、夫たる王を崇め、献身的に尽くし、子に対しても王妃としての厳格さを崩さなかった。幼子とて甘えは許さず、やさしく抱擁することもなかった。母の慈愛とは、もっぱら乳母によって与えられるものであり、母から与えられたのは王族としての心得だった。幼いころから賛辞された凛然たる立ち居ふるまいは、すべて母の薫陶によるものである。
年に数度ある式典のおり、母は病をおして王のかたわらに立ち、民の前にその麗姿を見せた。誰の目にもうつくしく、冷厳たる佇まいであった。幼心に、自分もああならねばならぬと思わせるものだった。
いまミネルバがまとう大礼装は、そんな母の形見を仕立て直したものだ。だからこそタマーラは亡き妃の姿をミネルバに見いだしていたのだろうが、鏡をみつめるミネルバの顔は微笑では隠せぬ憂いをふくんでいた。このような形でなければ、その賞賛を誇らしく思えたであろうにと。
「失礼いたします、殿下」
扉が開き、声がかかる。
「謁見の間へお越しを。兄君がお待ちでございます」
女官たちに導かれ、ミネルバは謁見の間にむかう。真珠の首飾りと腰にたれる金細工の帯が、歩を進めるごとに重たげにゆれた。
謁見の間には、支度を終えたミシェイルが待っていた。黒絹の大礼装の上にまとうのは、赤い天鵞絨に白貂の毛皮を裏打ちしたマント。それは、マケドニア王が式典や祝祭の場において身につけるものである。一年前の今日、父王も盲いであることを忘れさせる堂々たる威容で深紅のマントをまとっていた。その姿は鮮明に思い出せるというのに、ひどく遠い過去へと追いやられてしまっている。
これからミシェイルの即位式が執り行われるが、伝統に則った形での挙行はされない。マケドニア王の即位はアカネイア王の勅許を要する。この建国以来変わることのない不文律は、ドルーアの傘下に入り宗主国の軛を脱したことで価値をなくした。下ることのない勅許は待たず、民の前で宣言を行うのだ。アカネイアの司祭によって行われる戴冠式も、ミシェイルが不要と断じた。
諸外国はミシェイルを王と認めないだろう。アカネイアは、王暗殺の濡れ衣を着せられ、弁務官を処刑された。マケドニアは野蛮な無法国家で、王太子は王位簒奪者だと激しく糾弾しているに違いない。
国内にもミシェイルの発表を疑う貴族が少なからずいる。オズモンド王変死の真相は王太子が握っている。そうまことしやかにささやかれている。無理もない。王と王太子の不和を知らぬ貴族はいなかった。王太子に批判的だったテレンス・ヴェーリとバルトロ・プラージが同時に殺害され、死人に口なしとばかりにエラルド・メスト公を叛逆者と断じたこと。これらがミシェイルに疑いの目が向く要因となっている。
すでに嘘は暴かれつつある。流言をあたうかぎり抑えるには民心を掌握するほかない。新王こそが国を真に救う者だと民に認めさせるのだ。
その即位式において、ミシェイルのかたわらにミネルバがいることが、不敬な噂をかき消す最良の一手となるだろう。
あのとき、オーダインがひどく焦って叫んだ。王女まで手にかけられては、と。
つまりは、そういうことなのだ。それた刃は慈悲でも情でもない。打算で自分は生かされたのだと悟った。
慕うふりをしなければならない。父上を殺めたこの人を、敬愛のまなざしでみつめなければならない……
ミネルバは、王の衣を身につけた兄を無感情な目でみつめていた。兄がいつかこのマントをまとい、王として即位する日を、幼いころから夢見ていた。兄はただの第五代国王ではない。マケドニアはアカネイアからくもりのない自由を勝ちとり、燦然と輝く栄光につつまれている。それはかならずやってくる未来だと信じていた。
――よいですか。あなたは陛下の御為に生き、お兄さまをお支えするためにすべてを捧げなさい。
病褥に伏した母妃が、今際の際に娘を呼びよせて言った。瘦せ衰え、身体を起こすことができなくなっても、最後の力をふりしぼり、幼子の手に爪を食いこませ、父王と将来王となる兄への忠誠を誓わせた。
母の遺言に従うこと、それがミネルバにとって生きる道しるべとなっていた。兄とともに多くの教師につき、あらゆることを学んだ。王女でありながら前例のない竜騎士となったのもそうだ。すべて、父と兄の役に立ちたいと望むがゆえであった。
だが、なんの役にも立てぬまま父は死んだ。兄は父を弑逆して王となる。もし母が生きていたなら、とミネルバは思う。
母さまは、まだ兄を支えよと望まれますか――
そこから動こうとしないミネルバに、ミシェイルは近よった。薄笑みをうかべて見おろす。
「母上の衣装だな」
嘲弄するかの響きがあり、ミネルバはさっと顔をそむけようとした。しかしミシェイルはそれを許さず、強く顎をつかむ。
「そのような陰気な顔で出て行くつもりか」
不躾な手をふりはらうように、ミネルバは顔をそむけた。
「これよりわれらは民の前で宣誓を行うのだ。その場にふさわしい風格というものがある」
「このうえもなくふさわしいでしょう? 父を無惨に殺された娘としては」
「ならば、そのままでいろ」
驚いたミネルバが横目で見やると、ミシェイルは唇をつりあげる。
「せいぜいアカネイアへの恨みを連ねるがいい。そして父の仇討ちを民に誓え。ああ、そうだな。涙でも見せれば民は沸き立つ」
嘲笑を残し、マントをあざやかにひるがえした。
一瞬、ミネルバはあっけにとられたが、すぐにおもてをあらため、兄の後につづいた。
礼拝堂の扉は従容と左右に開かれていた。静謐につつまれた身廊を進み、祭壇の前に立つ。薔薇窓からふりそそぐ光のもと、ミネルバは凛とした挙措で跪拝した。
「主よ、われらが父ナーガよ。苦しみに耐え、天に召されし者たちの道を照らしたまえ。光の御許に導き、勇敢なる者たちに永遠の憩いを与えたまえ……」
その祈りは、同胞たちへの追悼だった。
先日、エルダ砦に残されていた遺体をすべて回収し終わった。鎧や衣服から身元のわかる者たちは家族のもとへ戻ることができた。前線で果敢に戦い、命を散らした者たちも、すべて王都郊外の墓地に葬られた。
オズモンド王が派遣したドルーア討伐軍は、みずから志願して前線に赴いた者が多かった。未曽有の国難を前に、国のため、愛する者たちのために命をかえりみず戦った。彼らこそが英雄だった。しかし、人々は彼らのことを忘れつつある。いまやドルーアは同盟国であり、マムクートと戦い、討ちとった者たちへの賞賛は聞かれなくなった。国を挙げての追悼式に難色を示す者さえいた。
マケドニアをおおっていた脅威が去ったいま、ドルーアへの恐れは、王を殺めた聖アカネイアへの怒りに取って代わられていた。
「おお、これはこれはミネルバさま」
フロスト司祭だった。ミネルバは顔を起こした。わずかに肩にかかるほど短くなった髪がさらりとゆれる。
「あなたさまがここにお越しだったとは」
「わたしは毎年ここへ来ておりますよ。母が信心深い人でしたから、物心のつく前から今日の祈りを欠かしたことはありません」
「それは存じあげておりますが、ミシェイルさまがよい顔をされんでしょう。降臨節の祭儀も、今日は中止となりましたし……」
言いよどむフロストに、ミネルバは微苦笑を向ける。
「この日は毎年、夜が明ける前から祈りを捧げていましたが、そのかたわらに兄がいなくなってから……もうずいぶんになります」
「昨今、神を軽んじる者はめずらしくもありませんが、ミシェイルさまはなんと申しますか……」
ミシェイルをその誕生のときから知るフロストは言葉を濁した。
兄の不信心には神への侮蔑がまじっていた。熱心に祈るミネルバを責めはしなかったが、揶揄することはあった。そんなときの兄は、神の存在そのものを憎んでいるように見えた。ミネルバはそんな兄を憐れみはしなかったが、悲しく思うことがあった。
「兄は祈ることを逃避だと思っておりますから」
「ミシェイルさまのお心もわからぬでもないのです。今宵、多くの民が守護神に祈りを捧げようとも、復活したメディウスを滅してくれるはずもなく……。今後、この国の民の心から、ナーガ神への畏敬は薄れていくやもしれませんな」
フロストは、失言でございますと苦笑し、香炉に火をつけた。沈香が、清浄な空気とまざりあってゆく。
激動の五九八年が、あと数日で終わりを告げる。守護神ナーガ降臨節の七日間、例年であれば、王城の礼拝堂で祭儀が執り行われ、国中が神聖なる祈りでつつまれているはずだった。しかし今年は国を挙げての祭儀は行われない。表向きはアカネイアによる父の暗殺が理由としたが、ミシェイルにとっては父の死さえ祝祭を取りやめるよい口実だったのだろう。マケドニアの民が守護神ナーガを崇めることをミシェイルは以前から嫌悪していた。
「フロストどの」
ミネルバは祭壇に一歩近づく。
「そう遠くないうちに、わが国はアカネイアと戦になります。早ければ来年のうちに」
フロストがぎょっとしてふりかえった。狼狽のあまり、香炉を取り落としそうになっていた。
「神に守られし聖王国に弓引くこと、聖職者たるあなたはどうお考えですか」
「いやはや……」
フロストは困り果てたように禿頭をなでた。
「姫さまは答えにくいことをずばりとお聞きになりまするな」
「あなたを困らせるつもりはありません。ただ、わたしも兄ほどの不信心ではないですが、守護神の加護にすがる気にはなれないのですよ。ましてやアカネイアの神性については、はなはだ疑問に思うばかり」
いにしえの時代、大陸に暮らす人間は恐ろしい魔物に食いつくされそうになり、生き残った人々が七年と七か月七日間、天に祈りを捧げた。その願いは聞き届けられ、守護神ナーガによって巨人が地上に遣わされた。ナーガの化身であるその巨人は、光を発する剣と伍色にかがやく盾で魔物を消滅させたと伝わる。聖アカネイアは、建国王アドラが守護神ナーガから三種の神器を授けられたとされており、以後六百年にわたり神に守られし国と崇められてきた。ゆえに、アカネイアに弓引くことは神に弓引くのとおなじ、そう考える者もいまだ多い。マケドニアの民がアカネイアを憎みながらも畏れてきたのは、ナーガへの信仰のせいでもあった。
だが、どれほどナーガ神に祈ろうとも、北の地によみがえった悪しき地竜を葬り去ってはくれない。飢えに苦しみ、死んでいった子供たちも救われなかった。親たちも血を吐くほどに天へ祈っただろうに聞き届けられはしなかった。
「王の仇討ちとはいえ、聖王国に叛くわれらは神の罰を受けると思われますか」
「いえ、けしてそのようには」
フロストは静かに首をふった。
「神というのは、天よりわれらを見守っておられる方。ゆえに祈れば願いが叶い、許しを乞えば罪が消えるというものでもありません。であるからして、人と人の営みに関与なさるものではなく、たとえ聖アカネイアとてそのかぎりではないと、わたしはそのように考えております」
「わたしも、そのように考えていますよ」
瞠目するフロストに、ミネルバは静かな微笑をむけた。
「幼いころ、わたしにそう説いた方がいたのです」
そう言って、身廊を引き返した。
――神は、見守っておられるのだ。かつて救った人々の行く末を。
どうして神さまは民を救ってくださらなかったの。涙ながらに問うミネルバにそう諭したのは、北の村に住む隠者――ガトー司祭だった。ガトーの答えは、幼い兄妹には受けいれがたいものだった。しかしいまならば、神の御心というものをおぼろげながら理解できる。
すべては人の営みなのだ。飢饉が命を奪い去っていったわけではない。慈悲を与えぬアカネイアとそれに抗えぬマケドニアの犠牲となったのだ。神が無慈悲だったのではない。
たしかにアカネイアは神に守られていたのだろう。しかし平和に安居した結果、一度滅びた。そしていまも享楽に耽り、打つべき手を打たず、手をこまねいている。
だから聖アカネイアは、百年前とおなじ轍を踏むのだろう。
そして、それはマケドニアもおなじだ。
アイオテの伝承を紐解けば、マケドニアもまた神の加護を享けし国と思われる。野生の飛竜にうちまたがり、マムクートに立ち向かったアイオテは、片目がつぶれ、腕と脚を一本ずつ失っても戦いつづけたという。アイオテは屈強な戦士だったに違いないが、おそらくその並外れた力は神の加護を得てのものなのだろう。その証が、王家に伝わる盾、そして殺竜石を埋めこんだ剣と槍だ。きっと神は、かつて救った人々の行く末を天より見守っていたのだろう。だから決死の戦いをつづける者たちを憐れみ、力を授けたのだろう。
しかし、これから大陸に嵐を起こす大戦は、アイオテ直系の手によって引き起こされる。欺かれた民もまた、ドルーアとの同盟を受けいれてしまった。今後どれほど多くの騎士が傷つき倒れようとも、そのすべてはマケドニアが望んだ結果。だから神の加護を求めるなど滑稽なことだ。
礼拝堂を出たミネルバは、雪の舞い散る蒼天を見あげた。
「暗黒竜再び目覚めし時、神は選ばれし者に剣を遣わし闇を払わん……」
ゆっくりと教典の一節を諳じる。
祈れば願いが叶い、許しを乞えば罪が消えるわけではない。それでも神に祈るしかすべのない力なき民の救済だけは、神へ乞わずにいられなかった。
ミネルバが自室に戻ると、女官たちがあわただしく部屋を出入りしていた。女官長タマーラがてきぱきと指示を出し、衣装と装身具を整えていた。戻ってきた王女に気づくと、女官たちは手をとめていっせいにお辞儀をする。
ミネルバはタマーラに微笑して問う。
「遅くなりました。間に合いますか」
「急ぎお支度をいたしましょう。まずは御髪を」
タマーラはミネルバを鏡台の前に座らせ、鏡をのぞきこむ。
「いかがいたしましょうか」
「ふさわしいように。この長さでは結えはしないでしょうが」
「どうぞおまかせを」
タマーラは短くなった髪を丹念にくしけずると、金の額飾りをおごそかな手つきでのせた。額飾りの周囲には繊細な金鎖が長くたれており、その先端に大粒の月長石がちりばめられている。耳にも額飾りと揃いの耳飾りをつけた。
「次はお召しものを」
立ちあがったミネルバの前に、襟と胸元に金糸でアカンサス模様を刺繍した黒絹のドレス――大礼装がひろげられた。黒一色の大礼装は一見すると豪奢とは言いがたく、ともすれば質素に思われるが、近くで手にとってみれば黒地に黒糸で百合の花を総柄で縫いとった手のこんだ衣装とわかる。さらに白貂の毛皮が裏打されたローブをまとい、ブローチで留めると一気に重厚さが増した。ブローチは飛竜のインタリオが刻まれた緑玉で、何代も王家に受け継がれてきた品である。
装身具は彫金の腰帯と真珠の二連首飾りで、ひかえめながらも黒一色のドレスに華やかさをそえた。
タマーラが一歩下がると、ミネルバは広がった裳裾をさばき、姿見に向きなおった。あたりから、なんとお似合いなのでしょう、と感嘆の声が上がる。
「まるでモイラさまを見るようでございます」
タマーラは目を細め、鏡のなかのミネルバをみつめた。かつて仕えた亡き王妃に想いをはせているのだろう。ミネルバはタマーラにぎこちない微笑をかえした。
母モイラについて、ミネルバはさほど多くの記憶を持たない。ミネルバを産んでから病がちで、一日のほとんどを床についてばかりいたせいもあるのだが、四つ上のミシェイルにしても母に対する記憶に大差はないだろう。アイオテの血統に連なる名家の出である母は、夫たる王を崇め、献身的に尽くし、子に対しても王妃としての厳格さを崩さなかった。幼子とて甘えは許さず、やさしく抱擁することもなかった。母の慈愛とは、もっぱら乳母によって与えられるものであり、母から与えられたのは王族としての心得だった。幼いころから賛辞された凛然たる立ち居ふるまいは、すべて母の薫陶によるものである。
年に数度ある式典のおり、母は病をおして王のかたわらに立ち、民の前にその麗姿を見せた。誰の目にもうつくしく、冷厳たる佇まいであった。幼心に、自分もああならねばならぬと思わせるものだった。
いまミネルバがまとう大礼装は、そんな母の形見を仕立て直したものだ。だからこそタマーラは亡き妃の姿をミネルバに見いだしていたのだろうが、鏡をみつめるミネルバの顔は微笑では隠せぬ憂いをふくんでいた。このような形でなければ、その賞賛を誇らしく思えたであろうにと。
「失礼いたします、殿下」
扉が開き、声がかかる。
「謁見の間へお越しを。兄君がお待ちでございます」
女官たちに導かれ、ミネルバは謁見の間にむかう。真珠の首飾りと腰にたれる金細工の帯が、歩を進めるごとに重たげにゆれた。
謁見の間には、支度を終えたミシェイルが待っていた。黒絹の大礼装の上にまとうのは、赤い天鵞絨に白貂の毛皮を裏打ちしたマント。それは、マケドニア王が式典や祝祭の場において身につけるものである。一年前の今日、父王も盲いであることを忘れさせる堂々たる威容で深紅のマントをまとっていた。その姿は鮮明に思い出せるというのに、ひどく遠い過去へと追いやられてしまっている。
これからミシェイルの即位式が執り行われるが、伝統に則った形での挙行はされない。マケドニア王の即位はアカネイア王の勅許を要する。この建国以来変わることのない不文律は、ドルーアの傘下に入り宗主国の軛を脱したことで価値をなくした。下ることのない勅許は待たず、民の前で宣言を行うのだ。アカネイアの司祭によって行われる戴冠式も、ミシェイルが不要と断じた。
諸外国はミシェイルを王と認めないだろう。アカネイアは、王暗殺の濡れ衣を着せられ、弁務官を処刑された。マケドニアは野蛮な無法国家で、王太子は王位簒奪者だと激しく糾弾しているに違いない。
国内にもミシェイルの発表を疑う貴族が少なからずいる。オズモンド王変死の真相は王太子が握っている。そうまことしやかにささやかれている。無理もない。王と王太子の不和を知らぬ貴族はいなかった。王太子に批判的だったテレンス・ヴェーリとバルトロ・プラージが同時に殺害され、死人に口なしとばかりにエラルド・メスト公を叛逆者と断じたこと。これらがミシェイルに疑いの目が向く要因となっている。
すでに嘘は暴かれつつある。流言をあたうかぎり抑えるには民心を掌握するほかない。新王こそが国を真に救う者だと民に認めさせるのだ。
その即位式において、ミシェイルのかたわらにミネルバがいることが、不敬な噂をかき消す最良の一手となるだろう。
あのとき、オーダインがひどく焦って叫んだ。王女まで手にかけられては、と。
つまりは、そういうことなのだ。それた刃は慈悲でも情でもない。打算で自分は生かされたのだと悟った。
慕うふりをしなければならない。父上を殺めたこの人を、敬愛のまなざしでみつめなければならない……
ミネルバは、王の衣を身につけた兄を無感情な目でみつめていた。兄がいつかこのマントをまとい、王として即位する日を、幼いころから夢見ていた。兄はただの第五代国王ではない。マケドニアはアカネイアからくもりのない自由を勝ちとり、燦然と輝く栄光につつまれている。それはかならずやってくる未来だと信じていた。
――よいですか。あなたは陛下の御為に生き、お兄さまをお支えするためにすべてを捧げなさい。
病褥に伏した母妃が、今際の際に娘を呼びよせて言った。瘦せ衰え、身体を起こすことができなくなっても、最後の力をふりしぼり、幼子の手に爪を食いこませ、父王と将来王となる兄への忠誠を誓わせた。
母の遺言に従うこと、それがミネルバにとって生きる道しるべとなっていた。兄とともに多くの教師につき、あらゆることを学んだ。王女でありながら前例のない竜騎士となったのもそうだ。すべて、父と兄の役に立ちたいと望むがゆえであった。
だが、なんの役にも立てぬまま父は死んだ。兄は父を弑逆して王となる。もし母が生きていたなら、とミネルバは思う。
母さまは、まだ兄を支えよと望まれますか――
そこから動こうとしないミネルバに、ミシェイルは近よった。薄笑みをうかべて見おろす。
「母上の衣装だな」
嘲弄するかの響きがあり、ミネルバはさっと顔をそむけようとした。しかしミシェイルはそれを許さず、強く顎をつかむ。
「そのような陰気な顔で出て行くつもりか」
不躾な手をふりはらうように、ミネルバは顔をそむけた。
「これよりわれらは民の前で宣誓を行うのだ。その場にふさわしい風格というものがある」
「このうえもなくふさわしいでしょう? 父を無惨に殺された娘としては」
「ならば、そのままでいろ」
驚いたミネルバが横目で見やると、ミシェイルは唇をつりあげる。
「せいぜいアカネイアへの恨みを連ねるがいい。そして父の仇討ちを民に誓え。ああ、そうだな。涙でも見せれば民は沸き立つ」
嘲笑を残し、マントをあざやかにひるがえした。
一瞬、ミネルバはあっけにとられたが、すぐにおもてをあらため、兄の後につづいた。
