マケドニア598(本編)
翌朝から、ミネルバは元の生活を取り戻そうとしていた。
目覚めると、まずは祈祷台に向かい朝の祈りを捧げる。そうしているうちに女中が鎧戸と紗のカーテンを開け、暖炉に火を入れる。身づくろいをして、食事までの時間は、読みかけになっていた書を紐解く。軽い食事の後は、長年教えを請うていた教師から授業を受けた。
かつての日常を取り戻してゆくほどに、失われたものが浮き彫りになった。修辞学と音楽、舞踏の教師はアカネイアの貴族だったが、彼らとは前線に発った日から一度も姿を見ていない。無事にアカネイアにたどり着いたのだろうか。兄に問うても、確実な答えは返ってこないだろう。彼らの行くすえに興味などありはしないのだ。
午前の授業から午後の授業が始まるまでは、マリアと過ごすのが日課だった。十のころから勉学に武芸の稽古と目まぐるしい日々を送るようになり、わずかな時間を縫って幼い妹と会うことは唯一の安らぎだった。しかしその時間は空白となった。部屋で独り、ただ物思いにふけるばかりだった。
昨日、ようやくみずから兄のもとに出向き、伝えた。次に会議がひらかれるときは自分も加えてほしい、むろんドルーアにも同行すると。ミシェイルは快諾し、愉快そうに笑っていた。手のひらで踊らされているような心地だったが、もとよりミネルバの胸のうちなどミシェイルにはお見通しのはずである。
そこで、ずっと気にかけていたことを思いきって尋ねた。
「マリアの様子を知るすべはないのですか」
ない、とミシェイルは即答した。
「おまえがドルーアへの同行を望むのはそれゆえか」
「そればかりではありませんが、理由のひとつではあります」
「知るすべがあるとすれば、おまえがドルーアに忠誠を誓い、多大な貢献を果たしたときだろうな。不利益を働けばその機会は失われる。それだけは覚えておけ」
「肝に銘じておきます」
ミシェイルは腕を組み、長椅子にもたれかかった。もう出て行けと言わんばかりだったが、ミネルバはさらに問いかける。
「あの子にはなんと伝えたのです?」
よもやマリアになにも伝えず、無理やりドルーアに引き渡したとは思いたくなかった。
「なんと言い聞かせて、了承させたのですか」
ミシェイルは少し考えこむように首をかしげ、そして淡々と言った。
「昨夜、父上が暗殺された。アカネイアはわれらを見捨て、援軍は望めない。じきに国境の砦は落ち、王都が火の海になる。多くの民が殺され、ドルーアの奴隷にされるだろう。国を守るにはドルーアと手を組むしかないが、やつらは人質を要求している。だから頼みがある。多くの民を救うためにおまえがドルーアに行ってくれ。そう伝えた」
「……それで、あの子はなんと?」
「自分一人の命で民が救われるのなら喜んで行く、と」
それを聞いた瞬間、ミネルバは手で口をおおった。こみあげる嗚咽を必死に呑みこみ、二度、大きく息を吐いた。ここで涙を見せるわけにはいかなかった。
「わかりました。それを知ることができれば充分です」
兄の前を辞し、その足で西翼のマリアの部屋へと向かった。部屋はもぬけの殻だった。
同盟が成り、マリアがドルーアへ送られたのは父の死の翌日。ミネルバがベーサ砦に到着し、負傷兵の看護をしていたときだった。シェンケルの求めに応じ、すぐに王城へ戻ったとしてもマリアと会うことは叶わなかったということだ。
最後に会ったとき、今度はすぐに帰ってくると約束をした。かならず、と指切りをした。ミネルバはすぐに帰ってきたが、今度はマリアがいない。次はいつ会えるかもわからない。あの夜が今生の別れとなるかもしれない。
部屋をそぞろ歩いていると、まだ刺しかけの刺繍をみつけた。それは小箪笥の上に無造作に置かれていた。手にとって、縫い目を指でなぞった。マリアは手巾に赤と黄色の花を刺そうとしていた。夏の終わりに庭に咲いていた花だろうか。巧みに、とは言えないが、一針一針丁寧に縫いとっていたとわかる。
きっと、これを刺しているときに兄がやってきたのだ。同盟はあわただしく結ばれ、その日のうちにドルーアへ遣られた。針を片づけるいとまもなく、そのまま連れていかれたのだろう。その光景がありありとうかび、ミネルバは涙を流した。
ドルーアにいる妹を想った。いまごろどうしているのだろうか。寂しがってはいないだろうか。怖い思いをしてはいないだろうか。
いまはまだ、想うだけでなにもできない。それでも。
――いつかかならずあなたを助け出すわ。
そう胸に誓い、刺しかけの刺繍を抽斗にしまった。
* * *
数日がすぎた。じょじょに体調も戻りつつあった。
ミネルバが寝室で礼装に着替えていると、扉がひらいた。甘い芳香がただよう。
「失礼いたします」
パオラは寝室に入るやいなや、鏡の前のミネルバに駆けよってきた。身支度に手間どっているのに気づいたのだろう。少々不格好なマントの形を整え、緑玉のブローチで留める。衣装を手早くなおしてゆくパオラの目はおだやかで、口元には微笑がうかんでいた。
「ありがとう、パオラ」
ミネルバは気恥ずかしげにつぶやいた。監視役たちを追い払ったはいいが、こういったことにはまだ不慣れなのだ。最後に金の額飾りをつけるが、それも結局パオラの手を借りることとなった。後頭部で金具をとめ、肩にかかる横髪をさらりと前に流す。
ミネルバが鏡をちらりと見ると、お似合いですよ、と鏡ごしにささやいた。パオラの愛嬌のある笑顔は、やさしい乳母のものとよく似ている。
十日前、長い髪をみずから無惨に切り捨てたあと、ミネルバはパオラを部屋に呼んだ。パオラは惨事ともいえるその光景に驚きを見せたものの、ミネルバが望むとおりにハサミで毛先を整えてくれた。なぜいきなり髪を切ったのか、パオラは尋ねてくることはない。ただの衝動なのだから、理由を聞かれても答えようがないのだが、それでもパオラなりになにかを感じとったのかもしれない。
以前会ったとき、ミネルバはまともに起きあがることも話すこともできなかった。追い払われたパオラを引きとめることも呼びよせることもせず、ただ漫然とふた月も過ごしていた。いかに奇行を働いたとはいえ、気力を取り戻したミネルバの姿は、むしろパオラを安堵させたのだろう。
はたから見れば、みずから髪を切ったことも落ち度のない女官への仕打ちも、中庭や礼拝堂での醜態とおなじく一連の奇行と思われているのかもしれない。それでもミネルバはおのれの足で立ちあがり、歩まねばならなかった。
ふた月のあいだ嘆きつづけても、事態はなにも変わらなかった。メディウスが復活し、父が暗殺された。これが変えようのない事実。さらにこれからドルーアとともに大陸を巻きこむ戦争が引き起こされる。マケドニアが進む道は苦難にみちており、道がどこまでつづいているかもわからない。だからこそ、しっかりと地に足をつけていなければいけない。
――せめて、彼女の誇りとなれる主君でいなければ。
ミネルバは微笑して小卓のほうを見やる。
「とてもよい香りですね」
パオラは、あっと小さく声をあげた。急いで花束を抱えて戻ってくる。
「今日、霊廟に行かれるとおっしゃっていましたので、陛下に、と思いまして」
十を超える百合の花束がさしだされた。この季節、庭園に花はほとんど咲いていない。咲き残りの百合を急ぎかき集めてくれたのだろう。
花束を受けとったミネルバは、甘い香りにつつまれながら百合を抱きしめる。心からのいたわりにふれることほど、ひび割れた心をなぐさめるものはなかった。
「ありがとう、パオラ。無念であられた父上の御魂もきっと慰められましょう」
「……ぞんぶんにお別れを」
パオラはいまにも涙ぐみそうな顔を隠すように深く礼をとった。
部屋を出たミネルバは、そのまま主宮の屋上へ向かった。そこにはすでに世話係がイージスを連れてきていた。
イージスはミネルバの姿を見るや、首を前に突きだして喜びをあらわにした。最後にイージスの背に乗ったのは、ベーサ砦から王都に帰還したときである。竜騎士となってから、こんなにもイージスから離れていたことはなかった。
数か月ぶりに顔をなでてやると、イージスは主に甘えるように鼻をよせてきた。まるで子犬のようだとミシェイルが評したことがあるほど人懐こい性格をしている。イージスは数いる飛竜のなかでもずいぶん若い雄であるらしく、あざやかな緑色の鱗におおわれている。人間の短い生涯からすれば悠久の時を生きてきた竜だが、中身は子供と大差ないのかもしれない。
愛竜に騎乗したミネルバは、その首をなでながらささやく。
「さあイージス、父上のもとへまいりましょう」
首をもたげ、翼をひろげたイージスは、悠然と空へと舞いあがった。
目覚めると、まずは祈祷台に向かい朝の祈りを捧げる。そうしているうちに女中が鎧戸と紗のカーテンを開け、暖炉に火を入れる。身づくろいをして、食事までの時間は、読みかけになっていた書を紐解く。軽い食事の後は、長年教えを請うていた教師から授業を受けた。
かつての日常を取り戻してゆくほどに、失われたものが浮き彫りになった。修辞学と音楽、舞踏の教師はアカネイアの貴族だったが、彼らとは前線に発った日から一度も姿を見ていない。無事にアカネイアにたどり着いたのだろうか。兄に問うても、確実な答えは返ってこないだろう。彼らの行くすえに興味などありはしないのだ。
午前の授業から午後の授業が始まるまでは、マリアと過ごすのが日課だった。十のころから勉学に武芸の稽古と目まぐるしい日々を送るようになり、わずかな時間を縫って幼い妹と会うことは唯一の安らぎだった。しかしその時間は空白となった。部屋で独り、ただ物思いにふけるばかりだった。
昨日、ようやくみずから兄のもとに出向き、伝えた。次に会議がひらかれるときは自分も加えてほしい、むろんドルーアにも同行すると。ミシェイルは快諾し、愉快そうに笑っていた。手のひらで踊らされているような心地だったが、もとよりミネルバの胸のうちなどミシェイルにはお見通しのはずである。
そこで、ずっと気にかけていたことを思いきって尋ねた。
「マリアの様子を知るすべはないのですか」
ない、とミシェイルは即答した。
「おまえがドルーアへの同行を望むのはそれゆえか」
「そればかりではありませんが、理由のひとつではあります」
「知るすべがあるとすれば、おまえがドルーアに忠誠を誓い、多大な貢献を果たしたときだろうな。不利益を働けばその機会は失われる。それだけは覚えておけ」
「肝に銘じておきます」
ミシェイルは腕を組み、長椅子にもたれかかった。もう出て行けと言わんばかりだったが、ミネルバはさらに問いかける。
「あの子にはなんと伝えたのです?」
よもやマリアになにも伝えず、無理やりドルーアに引き渡したとは思いたくなかった。
「なんと言い聞かせて、了承させたのですか」
ミシェイルは少し考えこむように首をかしげ、そして淡々と言った。
「昨夜、父上が暗殺された。アカネイアはわれらを見捨て、援軍は望めない。じきに国境の砦は落ち、王都が火の海になる。多くの民が殺され、ドルーアの奴隷にされるだろう。国を守るにはドルーアと手を組むしかないが、やつらは人質を要求している。だから頼みがある。多くの民を救うためにおまえがドルーアに行ってくれ。そう伝えた」
「……それで、あの子はなんと?」
「自分一人の命で民が救われるのなら喜んで行く、と」
それを聞いた瞬間、ミネルバは手で口をおおった。こみあげる嗚咽を必死に呑みこみ、二度、大きく息を吐いた。ここで涙を見せるわけにはいかなかった。
「わかりました。それを知ることができれば充分です」
兄の前を辞し、その足で西翼のマリアの部屋へと向かった。部屋はもぬけの殻だった。
同盟が成り、マリアがドルーアへ送られたのは父の死の翌日。ミネルバがベーサ砦に到着し、負傷兵の看護をしていたときだった。シェンケルの求めに応じ、すぐに王城へ戻ったとしてもマリアと会うことは叶わなかったということだ。
最後に会ったとき、今度はすぐに帰ってくると約束をした。かならず、と指切りをした。ミネルバはすぐに帰ってきたが、今度はマリアがいない。次はいつ会えるかもわからない。あの夜が今生の別れとなるかもしれない。
部屋をそぞろ歩いていると、まだ刺しかけの刺繍をみつけた。それは小箪笥の上に無造作に置かれていた。手にとって、縫い目を指でなぞった。マリアは手巾に赤と黄色の花を刺そうとしていた。夏の終わりに庭に咲いていた花だろうか。巧みに、とは言えないが、一針一針丁寧に縫いとっていたとわかる。
きっと、これを刺しているときに兄がやってきたのだ。同盟はあわただしく結ばれ、その日のうちにドルーアへ遣られた。針を片づけるいとまもなく、そのまま連れていかれたのだろう。その光景がありありとうかび、ミネルバは涙を流した。
ドルーアにいる妹を想った。いまごろどうしているのだろうか。寂しがってはいないだろうか。怖い思いをしてはいないだろうか。
いまはまだ、想うだけでなにもできない。それでも。
――いつかかならずあなたを助け出すわ。
そう胸に誓い、刺しかけの刺繍を抽斗にしまった。
* * *
数日がすぎた。じょじょに体調も戻りつつあった。
ミネルバが寝室で礼装に着替えていると、扉がひらいた。甘い芳香がただよう。
「失礼いたします」
パオラは寝室に入るやいなや、鏡の前のミネルバに駆けよってきた。身支度に手間どっているのに気づいたのだろう。少々不格好なマントの形を整え、緑玉のブローチで留める。衣装を手早くなおしてゆくパオラの目はおだやかで、口元には微笑がうかんでいた。
「ありがとう、パオラ」
ミネルバは気恥ずかしげにつぶやいた。監視役たちを追い払ったはいいが、こういったことにはまだ不慣れなのだ。最後に金の額飾りをつけるが、それも結局パオラの手を借りることとなった。後頭部で金具をとめ、肩にかかる横髪をさらりと前に流す。
ミネルバが鏡をちらりと見ると、お似合いですよ、と鏡ごしにささやいた。パオラの愛嬌のある笑顔は、やさしい乳母のものとよく似ている。
十日前、長い髪をみずから無惨に切り捨てたあと、ミネルバはパオラを部屋に呼んだ。パオラは惨事ともいえるその光景に驚きを見せたものの、ミネルバが望むとおりにハサミで毛先を整えてくれた。なぜいきなり髪を切ったのか、パオラは尋ねてくることはない。ただの衝動なのだから、理由を聞かれても答えようがないのだが、それでもパオラなりになにかを感じとったのかもしれない。
以前会ったとき、ミネルバはまともに起きあがることも話すこともできなかった。追い払われたパオラを引きとめることも呼びよせることもせず、ただ漫然とふた月も過ごしていた。いかに奇行を働いたとはいえ、気力を取り戻したミネルバの姿は、むしろパオラを安堵させたのだろう。
はたから見れば、みずから髪を切ったことも落ち度のない女官への仕打ちも、中庭や礼拝堂での醜態とおなじく一連の奇行と思われているのかもしれない。それでもミネルバはおのれの足で立ちあがり、歩まねばならなかった。
ふた月のあいだ嘆きつづけても、事態はなにも変わらなかった。メディウスが復活し、父が暗殺された。これが変えようのない事実。さらにこれからドルーアとともに大陸を巻きこむ戦争が引き起こされる。マケドニアが進む道は苦難にみちており、道がどこまでつづいているかもわからない。だからこそ、しっかりと地に足をつけていなければいけない。
――せめて、彼女の誇りとなれる主君でいなければ。
ミネルバは微笑して小卓のほうを見やる。
「とてもよい香りですね」
パオラは、あっと小さく声をあげた。急いで花束を抱えて戻ってくる。
「今日、霊廟に行かれるとおっしゃっていましたので、陛下に、と思いまして」
十を超える百合の花束がさしだされた。この季節、庭園に花はほとんど咲いていない。咲き残りの百合を急ぎかき集めてくれたのだろう。
花束を受けとったミネルバは、甘い香りにつつまれながら百合を抱きしめる。心からのいたわりにふれることほど、ひび割れた心をなぐさめるものはなかった。
「ありがとう、パオラ。無念であられた父上の御魂もきっと慰められましょう」
「……ぞんぶんにお別れを」
パオラはいまにも涙ぐみそうな顔を隠すように深く礼をとった。
部屋を出たミネルバは、そのまま主宮の屋上へ向かった。そこにはすでに世話係がイージスを連れてきていた。
イージスはミネルバの姿を見るや、首を前に突きだして喜びをあらわにした。最後にイージスの背に乗ったのは、ベーサ砦から王都に帰還したときである。竜騎士となってから、こんなにもイージスから離れていたことはなかった。
数か月ぶりに顔をなでてやると、イージスは主に甘えるように鼻をよせてきた。まるで子犬のようだとミシェイルが評したことがあるほど人懐こい性格をしている。イージスは数いる飛竜のなかでもずいぶん若い雄であるらしく、あざやかな緑色の鱗におおわれている。人間の短い生涯からすれば悠久の時を生きてきた竜だが、中身は子供と大差ないのかもしれない。
愛竜に騎乗したミネルバは、その首をなでながらささやく。
「さあイージス、父上のもとへまいりましょう」
首をもたげ、翼をひろげたイージスは、悠然と空へと舞いあがった。
