マケドニア598(本編)

 夜が明けても、まばゆい朝日は届かなかった。鎧戸が閉ざされたままで、絶えいりそうな曙光が窓辺にたゆたっている。鎧戸も紗の帳も、誰も開けにくる者はおらず、ミネルバも寝台から起きあがることができなかった。暗闇に沈む寝台のなかで、乱雑にからみあった記憶をほどくようにたどった。
 なぜわかりきったことを訊く、これが憐れな男の死にざまだ、おまえも父上のようになりたいのか――。
 あれは夢だったのではないか。そう思いたくて、おそるおそる胸下に手をのばしたが、無情な痛みが夢ではないと告げた。
(――もしわれらが、ドルーアとの盟約を破るようなことになれば、マリアの命もない)
 いまさらなにができるというのか。
 父は殺され、重臣たちも葬り去られた。高潔なるメスト公も叛逆者の汚名を着せられてその生を終えた。そのすべてが、ドルーアと手を結ぶための道程であった。
 真実が明らかとなれば、多くの者が声をあげるだろう。同盟など愚かで許しがたい売国行為だと怒りに沸くさまは容易に想像できる。だが、それでどうなるというのか。マケドニア国内が同盟反対に傾けば、盟約は破られたとドルーアはみなすだろう。ドルーアの後ろ盾がなければ、マケドニアは宗主国に楯突いた叛逆国家としての汚名だけが残る。アリティアの助力など望むべくもない。
(――おまえは、国と妹の両方を裏切ることになるのだ) 
 なにもわからぬままにドルーアに遣られた妹を想う。マムクートは話の通じぬ獣ではない。盟約を破らぬかぎり命は保証され、むごい扱いを受けることはないだろう。だが。
(――マムクートなど、この手で葬り去ってくれる)
 いずれ盟約を破るときはくる。そのとき人質がどうなるのか、考えるまでもない。
 むざむざ見捨てることなどできはしない。いずれ機会をみつけ、かならず助け出してみせる。だから早く立ち直らなければ。このままでは糸口もつかめない。
 それなのに起きあがる気力がわいてこない。おだやかな眠りを求めても、悪夢にかき消されて目が覚めた。
 しだいに、夢とうつつの境があいまいになってゆく。甘い望みを叶えてくれる、はかなくも虚しい夢がうかんでは消えていった。それが唯一のなぐさめとなっていた。

 数日がたって、パオラが部屋を訪れた。ベーサ砦で別れて以来だったが、ミネルバにはそれが遠い過去のように思えた。あのときはまだ希望を抱いていられたのだ。いまではそれがすべて崩れ去った。
 ミネルバは言葉を発することも忘れ、力なくパオラをみつめた。あの夜から、過去を転々と移りゆく夢をたくさん見てきた。そのせいで、いま目の前にいるパオラがほんとうに存在しているのか、わからなくなっていた。
 パオラは寝台のそばまで歩みよってきたものの、声をかけあぐねていた。無理もない。ミネルバはなんとか半身を起こしてはいるものの、かたわらに立つ女官ゾーエに支えられている。パオラの知るマケドニア第一王女の凛然たる姿は見る影もなくなっているのだ。
 やがてパオラは両手で顔をおおった。すすり泣きが沈黙を破ったとき、ミネルバはこれがうつつだと悟った。
「なにを、泣いているのです」
 かすれた声で問うと、パオラは顔をあげた。もうしわけありません、とすばやく涙をぬぐう。
「いまのミネルバさまにさしあげる言葉を、わたしは持ちあわせておりません。オズモンド陛下の無念と、ミネルバさまの悲しみを思えば、なぐさめの言葉などなんの意味も持たないとわかっております。ですが、どうか……どうか、お気をしっかり持たれますよう。わたしにできることであればなんでもいたします」
 パオラは腰をかがめ、掛布のうえに投げだされた手をかたく握りしめた。
 ミネルバはその熱のこもった手を握りかえせなかった。この真摯な言葉を受けとることは、背信であるかに思われた。
 パオラは王暗殺の真相を知らない。今後も知る必要はない。知れば彼女はいま以上の悲しみに囚われてしまうだろうから。
 だが、同盟が成った以上、アカネイアとの戦争は回避できない。マケドニアには聖王国に憎しみを抱きながらも弓引くことを畏れる者は多い。だからこそ王の死が利用され、民は扇動されてゆく。その渦中に、パオラもいやおうなく巻きこまれてゆくのだろう。なにも知らぬまま、姑息なごまかしで純粋な想いを利用されるのだ。
 ミネルバには、おぼろげながら国がたどる末路が見えている。ひそかに進みゆく崩壊の音が聞こえている。けれどもそれに抗うすべがみつからない。抗えるだけの力がない。
 掛布をぎゅっと握りしめ、パオラの少し赤くなった目をみつめる。
「……ごめんなさい」
 ぽつりと、吐息のような声でつぶやいた。
「なにを、謝られるのですか」
 パオラは狼狽を見せた。するとゾーエが咎めるような声音で割りこんだ。
「パオラどの、姫さまは陛下がお亡くなられてお心を痛めておいでなのです。ほんとうにわたくしたちも見るに忍びないほどですもの」
「はい……」
 パオラはもうしわけなさそうにうつむく。
「姫さまもマリアさまがいらっしゃれば、少しはお心をなぐさめられたでしょうに」
 ゾーエの無遠慮な一言に、ミネルバは肩をふるわせた。そして次にパオラの発した言葉が、ミネルバに衝撃を与えた。
「お寂しくなりますね、マリアさまが遠くへゆかれてしまって」
 パオラは悲しげに眉をさげる。
「マリアさまもお寂しく思われているでしょうが、あのようなことがあったのですもの。やはり城を離れられたほうがよいのかもしれません」
「……なにを、言っているのです?」
 マリアはドルーアに遣られたのだ。寂しくなるなどと、あまりに間の抜けたなぐさめに思えた。
 当惑するミネルバに、お忘れにございますか、とゾーエが憐れむように声をかけた。
「陛下が暗殺され、王城は混乱をきわめておりますでしょう? 幼いマリアさまには酷ゆえ、当分のあいだ辺境の修道院へ避難させるとミシェイル殿下がお決めになられたではありませんか」
 唖然とするミネルバに、ゾーエは笑みをはりつけて念を押す。
「どこにおられても元気でいらっしゃるとは思いますが、あの笑顔を拝見できなくなるのはお辛うございますね」
「……ええ」
 そう相槌をうつのがやっとだった。これ以上なにか言葉を発すれば涙がこぼれてしまいそうだった。
 ドルーアのどこが安全な場所なのか。あんな子供一人を犠牲にしておいて、なんという杜撰な取りつくろいだろう。
 激しい怒りがこみあげると同時に、人質の件を伏せねばならぬ事情も理解していた。同盟はあくまでアカネイアを討つためのものと公表される。要求されるがままに人質を捧げ、ドルーアに服従したなどとけっして民に知られてはならぬのだ。
 目頭が熱くなるのを感じ、ミネルバは両手で顔をおおった。
「それではパオラどの、そろそろ……」
 ゾーエがためらいがちに、しかし有無を言わさぬそぶりで退室をうながした。パオラはひかえめに食い下がろうとしたが、扉の前でひかえていたベラが、姫さまはお疲れなのです、と強引に急き立てた。
 ミネルバが引き止めるいとまもなく、パオラは出て行ってしまった。二人の女官は兄の息のかかった者たちなのだろう。献身的に身の回りの世話をするかたわら、つねに目を光らせた監視者なのだ。もし真実を口外しようものなら、パオラになんらかの危害を加えるかもしれない。隙のないふるまいが、そう警告されているかに思えた。
 だが、そんな女官たちでさえ、ことの全貌を把握しているわけではないようだった。
 しばらくして、王殺しの咎で拘束された刺客が、広場で吊るされたとゾーエから伝え聞いた。アカネイアの役人も同様に吊るされ、その亡骸は朽ちるまで広場で晒されるのだという。
「陛下を無残に殺めた者どもを、われらはけっして許しはしません」
 ゾーエもベラもミシェイルの発表をなんら疑っている様子もなく、無様な命乞いをしていたと処刑の様子をうれしげに語った。誇らしげですらあった。アカネイアの報復など恐るるに足らず。〈アイオテの再来〉を王に戴き、自由を勝ちとるのだと湧きたっていた。
 父王が病を患って以降、ミシェイルは一部の者から〈アイオテの再来〉と呼ばれるようになっていた。ミシェイルはその呼び名を好んではいなかったが、同盟が結ばれてのちは多くの者がこぞってその異名を口にするようになっていた、ミシェイル殿下ならば聖王国の間接支配から祖国を解放してくれる、そう民は信じているのだと女官たちはミネルバに言った。
 女官たちはミシェイルに命じられているためか、普段は多くを語ることはない。ミネルバが問うたことにのみ、短くこたえるだけだった。その言葉の端々から、この者たちは真相を知っているのか、それとも騙されているふりをしているだけなのかを探った。
 おそらくなにも知らないのだろう。それがミネルバの出した結論だった。

 閉ざされた部屋で、漫然と朝と夜をくりかえしてゆくにつれ、すでに日の感覚もなくなっていた。季節が移ろっても、ミネルバの意識はあの夜に縫い留められ、ゆらゆらとただよっていた。
 一日のほとんどを寝台のうえで過ごしている。今日も目覚めてから一度も寝台をおりていない。ゾーエの手で肌を拭われ、長い髪を丹念に梳られながら、壁に掛けられたタペストリーをうつろな目でみつめていた。
 精緻に織りこまれているのは、マケドニア王家の紋章。その中央に配された飛竜は、落とし格子のうえで両の翼を広げており、竜騎士の国たるマケドニアの象徴にふさわしいかに見える。しかし飛竜は足を金鎖の枷で囚われている。もとは野生の飛竜を御したアイオテの力を示すものであったが、時代をへるにつれ、マケドニア王そのものの象徴と揶揄されるようになった。
 マケドニアはドルーアと果敢に戦った勇者アイオテの築いた国ではあるが、建国の内実は栄光や華々しさとは程遠い。
 百年前、時のアカネイア王カルタスの全面援助のもと国家が形成されたのは、グルニアの勢力拡大を阻止するためでもあった。はじめから聖王国の手足とすべく造られた国家ゆえに、歴代のマケドニア王たちは聖王国からの理不尽な要求に苦しめられてきた。王とは、権力者でありながら、国を守るために屈辱をその身に受けいれる生贄のようなものであった。
 紋章の飛竜は、太陽と月に照らされている。この聖アカネイアとドルーアの象徴は、さながらマケドニア王国の暗部を建国当初から予言していたかのようである。ドルーアと果敢に戦ったアイオテの雄姿とその後に国がたどった過酷な運命。王国の光と影。アイオテの栄光も国の発展も、すべては聖王国の威光あってものであり、鎖に囚われたマケドニア王はアカネイアに飼いならされた番犬にすぎぬ、そう突きつけられているかのようだった。
 ふいに室内が騒がしくなり、ミネルバは扉口を見やった。ベラの指示で女中が薪を運びこんできた。暖炉に火が入れられてようやく、冬が近いのだと知った。そんな日の朝のことだった。
「少しは頭が冷えたか」
 突然ミシェイルが部屋を訪れた。ミシェイルは女官たちを下がらせ、ミネルバに近づいてくる。
 ミネルバは驚いて身を引いたものの、どこにも逃げ場はない。うつむき、じっと自分の手を見つめていた。すると、なにかが掛布のうえに投げられた。それは鞘におさまった剣だった。金の柄に緑玉がはめられた片手剣。あの夜、月光がふりそそぐ礼拝堂で、ミネルバが兄にむけて抜いたものだ。
 いやがおうにも記憶が引き出されていく。
 剣から目をそらすように、ミネルバはミシェイルを見あげた。ミシェイルに特に変わった様子は見られない。不自然なほどになにも変わらない。なにも変わらないことがミネルバの神経を逆なでした。どうしてこうも平然としていられるのだろうか。
「グルニアもドルーアと連合したぞ」
 ミシェイルはゆったりと腕を組み、口を切った。
「そう」
 そっけなくこたえると、それだけか、とミシェイルは苦笑する。
「グルニアとわが国がドルーアに与すればどうなるのか、わかっているのだろう?」
「戦争が始まるのでしょう? もくろみどおりにことが運んでいるとわざわざ報告にこられたのですか」
 ミシェイルはこらえきれないというように声を立てて笑った。
「嫌みを言えるほどには頭が回るようになったか。あの夜のおまえはまるで話にならなかったが」
 ミネルバは顔をそむけようとしたが、顎をつかまれ引き戻される。
「今後、三国が連合し開戦準備を推し進めることになる。俺がドルーアへ出向くことも増える。そのときはおまえも同行しろ」
 返事はしない。異議など意味がない。どうせ時が来れば是も非もなく受けいれなければならないのだ。
 かたくなな態度に、ミシェイルは苦笑まじりに嘆息した。寝台に腰かけ、脚を組む。
「いつまでも部屋に閉じこもっているわけにはいかないだろう。多くの者がおまえを心配している」
「勝手なことばかり。鍵をかけて閉じこめておいて」
「その気になれば出られたはずだ。たかが女官二人、いかようにでもなるだろうに」
 そう言いながら、ミシェイルはミネルバの前髪を指ではらった。自分とおなじ色をした、妹の目をのぞきこむ。
「父上のこと、そんなに心を痛めていたのか」
 かわいそうに、とからかうように言った。
 ミネルバは蒼白な顔にかっと朱をのぼらせたが、その反応さえ、ミシェイルは愉しんでるようだった。
「それだけ元気があれば大丈夫そうだな」
 そう言ってミネルバの腕をつかむと、強引に寝台から引きずりおろした。とまどうミネルバをよそに部屋を逡巡し、寝台の足元におかれた櫃を物色する。襟を毛皮で縁どったガウンを手に戻ってくると、ミネルバに着せかけた。
「外へ出るぞ」
「……いまから?」
「そうだ、ついてこい」
 手を引かれたミネルバは、あわてて室内履きを履き、部屋を出た。先を歩くミシェイルについていこうとしたが、足が追いついていかない。毛織物のガウンがやけに重く感じる。いままでは甲冑をまとい、剣を佩き、飛竜を御していても平然としていたというのに、まっすぐに姿勢を保つのも難儀だった。ひどく力が衰えていた。脚にまとわりつく寝間着さえうまくさばけない。
 もたついているうちに兄との距離がひらいていく。焦って追いつこうとしたために、片方の部屋履きが脱げ、足をひねってしまった。身体が傾いだが、踏みとどまることも受け身をとることもできず、右半身を強く床に打ちつけてしまう。
 ミネルバはうめき、痛みをこらえながら身体を起こした。しかし立ちあがることはできず、緋毛氈の敷かれた床をじっと見つめていた。その視界に、ミシェイルの靴先が入りこみ、身を固くした。
 きっとあきれた顔をしているのだろう。嘲笑をうかべているのかもしれない。今度はなにを言われるのだろうか。
 しかしその予想に反し、ミシェイルはため息さえつかなかった。まともに歩けそうにないと悟ったのか、ミネルバの背と膝下に腕を回して抱きあげた。ミシェイルは困惑するミネルバを見ず、まっすぐ前を見て歩きだした。
 そんな兄の横顔を、ミネルバはうかがうように見た。口元には微笑がうかんでいたが、嘲る気配はない。ミネルバは混乱した。兄がなにを考えているのか、まったくわからない。これまでは容易に胸のうちがわかっていたというのに。
(わかったつもりでいただけかもしれない)
 一抹の寂しさに襲われ、ミネルバは兄の胸に顔をうずめた。知らずのうちに、黒絹の服を握りしめていた。すがるかのようだった。

 ふたりは階段を下りて回廊を進み、陽光が燦々とふりそそぐ中庭へ出た。最後に見たときは夏のあざやかな花が咲き乱れていたが、いまでは花などほとんど残っていない。冬にも咲く花が植えられているものの、蕾はまだ固く、花が開くのはまだ先になる。
 ミシェイルはミネルバを抱きかかえたまま庭園の中央へと進み、幸福の女神を象った噴水の前で立ちどまる。
「昔、よくここで遊んだな」
 覚えているか、と問う。こたえないミネルバを意に介すこともなく、ミシェイルはゆっくりと噴水の縁に腰をおろした。ミネルバは兄の膝のうえで、流れおちる水をぼんやりと眺める。
「いつだったか、おまえが水にうかぶ花にふれようとして足を滑らせたな。ずぶ濡れのおまえを連れ帰ったら俺が乳母に怒られた」
 夏になると、灌木の咲きこぼれた花が噴水の盆に落ち、水とともに流れてくる。あれはたしか夾竹桃だっただろうか。深紅の花がとてもきれいでふれようとしたのだ。しかしあのうつくしい花には毒があり、ふれてはならないものだと後に知った。
「……覚えているわ」
 ミネルバがつぶやくと、ミシェイルが屈託のない声をあげて笑った。思わず兄を見やったミネルバは瞠目した。その微笑には、昔日の少年の面影がかいま見えた。瞳にも、あの昏い憎悪は宿っていない。
 目をほそめ、ミネルバは追憶にふける。
 あれは悪い夢だったのだろうか。ほんとうに兄は父を殺したのだろうか。ミネルバはその場に居合わせていたわけでもない。ただミシェイルがそう言ったというだけなのだ。もしかしたらあれは嘘だったのではないのか。妙な疑いをかけたから、聞きわけのないことばかり言ったから、あんなに怒ったのではないだろうか。
(ねえ、ミシェイル)
 胸によりかかり、おだやかに笑むその横顔を眺める。
(あなたはほんとうに父上を殺めたの?)
 ふいに、なにか赤いものが目の端をかすめた。赤い花だった。枝から噴水に落ちて、水盆を流れていった。ミネルバは身をのりだして池のなかを探したが、花はみつからない。頭上の枝木を見ても、いまは花などひとつも咲いてはいない。
 それは幻影だったのか。還らぬ日々を求めるがゆえに、過去といまが、夢とうつつが錯綜しているのだろうか。
 しぶきとともに光が散らばる。ミネルバは昔日をなつかしむように、きらきらと光る流水に手をのばした。水はあたたかな日差しを受け、少しぬるまっている。袖が濡れるのもかまわず、ミネルバは水と戯れつづけた。ミシェイルはなにも言わず、その肩を抱いていた……。
 ――水音にまぎれ、あたりが妙に騒がしくなっていた。
 ミシェイルが背後をふりかえる。ミネルバもおなじ方向に目をやった。回廊には十人ほどの廷臣が集まり、ささめき合いながら、二人の様子をうかがっていた。やがて、そのうちのひとり――王家の縁戚でありミシェイルの守役であったコルセオ・カゾーニが進み出てきた。
 カゾーニは、久方ぶりに姿を見せたミネルバを痛ましげに見た。直視しかねて、目をそらそうとさえしていた。いつも隙なく軍服に身をつつみ、気高くふるまっていた第一王女が、いまは寝間着にガウンをはおった姿で、兄王子の腕に抱かれている。陽光のもとでも顔色は悪く、病人さながらであった。幼子のように噴水に手をのばすさまも、心ここにあらずの態に見えたことだろう。
「ミネルバさま、おひさしゅうございます」
 声をかけられても、ミネルバはとっさに返事ができなかった。声にはならぬ吐息だけをもらす。
「お加減はもうよろしいのですか」
「花が見たいと言うので連れ出したのだ」
 逡巡するミネルバに代わって、ミシェイルがほがらかな声音でこたえた。
「じい、おまえにも心配をかけたが、妹はこのとおり順調に回復している」
 安心するがよい、とミネルバの痩せた頬をなでた。その手つきはいたわりにみちてはいたが、わざと周囲に見せつけるかのようでもあった。
 しかしながらカゾーニはなんら訝しむ様子もなく、目元にしわを深く刻んだ。
「それはなんともよろこばしいかぎり」
 かつてはオズモンド王の守役をつとめ、兄妹が生まれたときよりいつくしんできたカゾーニにとって、一連の惨事はその心をひどく痛めるものだったのだろう。厳しくも情にもろいこの老公は、兄妹のなごやかな空気にふれ、いまにも涙ぐみそうになっていた。
 いたたまれなくなり、ミネルバはカゾーニから目をそらした。ねめつけるように、回廊に居並ぶ貴族たちをゆっくりと見わたす。そこにはオズモンド王を長年支えてきた重臣たちの姿はなかった。カゾーニだけを残し、宮廷の中枢にいた貴族たちが入れ替わったのだ。
 その集団のなかに、テレンス・ヴェーリの実弟クライドがいるのをミネルバは見とがめた。クライドは兄とは異なり、王にも王太子にも同調せず中立を保っていたはずだった。兄が王太子に暗殺されたと彼は知っているのだろうか。日和見なクライドのこと、真相を知ればなおのことミシェイルに取り入りそうでもある。
 メスト公の縁者は見られない。公の裏切りは表に出さぬとミシェイルは言っていたが、噂などすぐに広まる。わざと噂を広めたのかもしれない。当主の謀叛により、第三代ビセンテ王の時代より宮廷の中核にあったメスト家が完全に権勢を失った。
 プラージ家の者も見られない。当主バルトロは王の巻きぞえで暗殺され、跡を継ぐはずの長子グイドバルドは戦死した。ミネルバをかばって死んだのだ。グイドバルドには弟がいるが、ミネルバと同年である。まだ成年にみたぬ子供しかあの家には残っていない。
 そして一番奥にもっとも若く、唯一軍装をまとった男がいた。ラディス・シェンケルであった。ミネルバと目が合うと、シェンケルは胸に手を当てて一礼する。シェンケルはミシェイルの命令で伝令にやってきたが、あのときすでに王は王太子の手にかかったことも知っていたはずだ。
 ふと、ミネルバは思い立つ。
 パレスに向かった使節は誰一人として戻らなかった。父王はそれをドルーアの妨害工作と考えていたが、実のところ、敵は身中にいたのではないだろうか。それはなんの根拠もない憶測なれども、ほとんど確信に近かった。
 王の死を境にすべてが一変し、マケドニアはアカネイアとの戦争へと向けて動きはじめている。すべてはミシェイルの思いどおりに。
「殿下、そろそろ広間のほうへ。会議の刻限でございますゆえ」
 カゾーニに切り出され、ミシェイルは、そうであったな、とたったいま思い出したかのように言った。
「どうする? そろそろ部屋に戻るか」
 ミネルバはうつむいたまま兄の胸を押しやった。
「ひとりで、戻ります」
 膝から降り、むりやりに立ちあがった。ひねった足首に痛みが走り、眉をしかめる。
「無理をするな」
「いいえ、兄上はお忙しいでしょうから」
 すぐさま身をひるがえすと、強情で困る、とミシェイルはカゾーニに笑いかけていた。

 茶番劇から逃げるようにミネルバは庭園を飛び出した。走り出してすぐ、足の裏に痛みが走った。尖った小石を踏みつけてしまったらしい。そこでやっと自分が裸足であることに気づいたが、かまっていられなかった。
 晒し者にされた気分だった。広間へむかう貴族たちはこの回廊をかならず通る。ミシェイルはそれをわかっていてミネルバを連れ出したのだ。ふたりの睦まじい姿を見せつけるために。あの光景を目にすれば、誰も王太子が父王を殺めたとは思うまい。
 足の痛みをこらえ、とぼとぼと回廊を歩いた。自室へ戻ろうとしたが、中庭の回廊を抜ければすぐに礼拝堂である。憐れな父にささやかな祈りを捧げたいと思い、石段をのぼり、両開きの扉を押しひらいた。
 礼拝堂には、宮廷付きの司祭フロストと祈りの聖句を唱える騎士がいた。ミネルバは身廊をまっすぐ進んだが、そのなかほどで急に血相を変えて祭壇まで走った。祭壇の前に安置されていたはずの父の柩はない。ミネルバはうろたえ、父上の御柩をいったいどこへやったのかとフロスト司祭に問いつめた。フロスト司祭はとまどいながらも、陛下の御柩はテミス聖堂の霊廟に安置されてございます、と告げた。葬儀がすでに執り行われたのだと、いまごろになってミネルバは知った。
 フロストともにいた騎士は、テレンス・ヴェーリの嫡子マチスだった。彼もまた父を謀殺された者だが、その死の真相を知るはずもない。憐れむような目でミネルバを見ていた。激しく狼狽する王女は気がふれているかに見えるものだった。夏の終わりからずっと姿を見せなかったのも、それゆえと思ったことだろう。
 礼拝堂を後にしたミネルバは、近々王家の霊廟へ行かねばとぼんやりと思った。今日にでも行くべきと思われたが、いまはとても城外に出る気になれかった。階段をのぼる足どりは重く、しばしば立ちどまった。ひねった足首が少し腫れてきている。
 少し考えればわかることだった。すでに季節は冬。あれからふた月がゆうに過ぎている。王の柩がいつまでも礼拝堂に安置されているはずがない。父は死をもって国に尽くしたとミシェイルは言った。聖アカネイアによって謀殺された、それこそが父王の価値なのだ。第四代国王オズモンドは憐れな犠牲者としてマケドニアの歴史に刻まれることとなる。その葬儀は民の憎悪をかきたてるべく立派なものが営まれたことだろう。まさに生贄であった。
(わたしは、なにをしているの)
 ミネルバは悔しさに身をふるわせた。
 ミシェイルの言うとおりだった。部屋から出ようと思えば出られたのだ。いつまでも悲劇を嘆き、夢とうつつのはざまで還らぬ日々を求めてばかりいたから、いいようにもてあそばれるのだ。
(こんなざまでは、憐れまれても蔑まれても仕方がない)
 忸怩たる思いを抱えて自室に戻ると、ゾーラとベラの姿はなかった。応接室を素通りし、寝室まで進み、姿見の前に立った。おのれの姿を眺め、自嘲するように笑う。
(よくもこんな姿で……)
 寝間着のまま、髪を結いもせず、足に傷を負って血を流している。さながら逃げ出した囚人のようで、王族らしからぬ醜態だった。
 もうずいぶん長いあいだ鏡を見ていなかった。見る必要がなかった。身なりを整えるのはすべてゾーラに任せきりだった。毎朝毎夜、ゾーラは髪を梳いていた。とても丹念で規則的な動きだった。このふた月の出来事で思い出せるのはそんなことばかりだった。
 ミネルバはふりかえり、寝台に置かれたままの剣をとった。久々に手にすると、ずしりとした重みが手首にのしかかる。苦笑をうかべつつ、迷いなく鞘から引き抜いた。銀色の刀身をじっとみつめる。血曇りのない磨かれた鋼に、病んだ相貌が映しだされた。
 ミネルバは目を閉じた。髪を後ろ手でひとつかみにし、首の後ろに刃をまわした。力をこめ、ゆっくりと刃を滑らせていく。
 目をひらき、ゆるく頭をふると、短くなった横髪が肩にふれた。手をひらくと、指のすきまから毛束が滑りおち、裸足の足元に弧を描いて散らばっていく。
 静かな部屋で、しばらく姿見をみつめていた。不思議なことに、鏡のなかの姿はさっきよりもいくぶんまともに見えた。不ぞろいの髪は不格好だが、目に光が宿り、彼女の知る自分の姿によほど近いものだった。
 静寂を破ったのは、女官のけたたましい悲鳴だった。
 ゾーラが仕着せの裾を乱して駆けより、ミネルバの手から剣を奪いとった。なぜこのようなことを、と非難じみた言葉を口のなかでくりかえし、扉の外へむかって、ベラ、早く来てちょうだい、と金切り声で叫んだ。
「まったく、どうしてこのような……」
 ゾーラは剣を片腕に抱えたまま、もとに戻るわけでもないのに髪をかき集めている。ミネルバは狼狽する女官を冷めた目でみやり、剣に触るな、返せと言った。
「なにをおっしゃっているのです。すぐにミシェイル殿下をお呼びいたします」
「くだらぬことで兄をわずらわせるな」
 ミネルバは剣を奪いとり、ゾーラをねめつけた。そこへ、ベラが息を切らせてやってきた。ベラは、髪を切った王女と、その手に握られた剣、座りこむゾーラを順に見て、後じさった。そのおもては恐怖にゆがんでいる。
 ミネルバは短く息を吐いた。おののく二人の女官を見すえ、威厳をたたえて言い放つ。
「今後そなたらの介添えはいらぬ。出てゆけ」
8/12ページ
スキ