マケドニア598(本編)

 翌日の昼すぎ――オズモンド王が暗殺されたという夜から三日がたって、ミネルバはドルーア国境ベーサ砦を発った。一夜が明けてもドルーア側に動きは見られなかった。だからといって油断すべきではないが、これ以上ミネルバが前線に留まったところでなせることはない。セルジョ・アゴストに、エルダ砦にはいっさい手を出さぬよう命じ、砦付近には、異変にただちに対処できるよう竜騎士団の小隊を留まらせた。機会を見て砦を奪還するためだが、おそらくその必要はないとミネルバはなかば確信していた。
 王都への帰路を急ぐため、天馬騎士のパオラは残し、代わりに護衛としてシェンケルがついた。
 夕刻になって急に空がかげり、激しい驟雨が降り出した。冷たい雨が軍服に染み入り、じわじわと体力を奪った。雨はじきにやんだが、強い向かい風が吹き荒れるようになった。飛竜は天馬より頑強であれど、逆巻く風を凪のように御すことはできない。それでも巧みに風をつかみ、王都まで少しでも早く着かねばと愛竜を励ました。途中シェンケルが、しばしお休みになりますか、と訊ねたが、ミネルバはその軽侮するような気遣いを言下に拒んだ。

 ようやく王城に帰還したとき、日は完全に落ちていた。篝火に照らされた主宮の露台に降下し、飛竜を世話係に預けているとミシェイルが姿を見せた。
「戻ったか」
 ミネルバは憔悴した顔を兄にむけた。言いたいことがたくさんあったが、声にならなかった。そのまま立ちつくしていると、強く抱きしめられる。冷えた体に伝わるあたたかさに身をゆだねそうになり、あわてて身体を起こした。
「父上は、どちらに」
「礼拝堂におられる」
 無情な答えだった。ミネルバは唇を噛みしめ、礼拝堂に向かおうとした。
「先に話がある」
 待て、とミシェイルが腕をつかんだ。しかしミネルバはその手をふりほどき、階段を駆けおりていった。息を切らせ、足がもつれそうになりながらも、月明かりのさす回廊をひたすら走る。ようやく礼拝堂にたどり着くと、息を整えながら樫の扉を両手で押し開けた。
 祭壇の両脇に立てられた燭台が、煌々と光を放っている。側壁の高窓からそそぐ月光のもと、まっすぐに身廊を進んだ。
 柩は祭壇の前に安置されていた。おそるおそる柩をのぞきこむと、父王がかたく目を閉じて横たわっていた。その相貌は苦悶にゆがんでおらず、おだやかなものだった。
 手をのばし、蒼ざめた頬にふれる。その瞬間、ミネルバは鋭く息をのんだ。ぬくもりはすでに消え失せていた。その硬質な冷たさは、眠っているかに見える父がすでに息絶えていることを容赦なく突きつけるものだった。愚かにもすがりつこうとしたはかない希望が完全に断たれた瞬間だった。
 柩のふちをにぎる手が、激しくふるえはじめる。
「父上は心臓を一突きにされていた」
 背後から靴音が近づいてきた。両の腕が、わななく肩を抱く。
「黒幕はシモンだ。あの傲慢な弁務官が……二十年以上もわが国の政を腐らせてきたあの男が、父上を手にかけたのだ。シモンはメスト公と結託し、国王殺害を企てた」
「メスト公が……?」
 ミネルバは目をみひらき、ミシェイルを見あげる。
「まさか、そんなはずが……」
「事実だ。しかしこの件は公にはせぬつもりだ。メスト公がゆえあって大逆を働いたにせよ、それもすべてアカネイアの謀に違いないのだからな」
「……どうして、アカネイアが父上を?」
「書簡にも記していただろう。父上はドルーアとの同盟を決意されていた。それゆえにだ」
「そんなもの、なにかの間違いです。父上はパレスへゆかれるはずだったのに……アリティアとも協力を取りつけておられたのに、ドルーアとの同盟なんて決意されていたはずがない」
「俺もまったく気づかなかったが、父上は以前からそうお考えだったようなのだ。決死の覚悟で前線を守るおまえには言い出せなかったのだろうが、秘密裏に計画を進めておられた。重臣らの知るところではあったという。だが父上を責めてはならぬ。無理からぬことなのだ、この惨状ではな」
 ミネルバは兄の腕を力なくつかんだ。その胸によりかかることで、かろうじて立っていられた。
「もっとも、父上にとってドルーアとの同盟など姑息な手段にすぎぬ。傍観を決めこむ大国が重い腰を上げるまでの時間稼ぎのおつもりだったはずだ。だがアカネイアはそれすら叛逆とみなした。計画を嗅ぎつけたシモンがアカネイア王の密命を受け、刺客を手引きしたらしい。そして同盟を阻止せんと父上に凶刃を突きたてたのだ。下手人どもがそう白状した。それとこれは書簡に記すのを控えたが、テレンス・ヴェーリにバルトロ・プラージも殺害された。惨いものだ、ふたりとも喉を切り裂かれていた。バルトロは致命傷を負いながらも刺し違えて刺客に深手を負わせた。ゆえにやつを捕らえることができた。……あれの働きがなければ、真実は闇に葬られていたやもしれんな」
 すべてを聞くのも待てず、ミネルバの頬を涙が伝う。
「……アカネイアは……援軍もよこさずに、よくもこんな……」
 父の柩にすがりついた。しかし立ってはいられず、柩のふちを握りしめたまま冷たい床にくずおれた。涙が次々に石段へと吸いこまれていく。
 あの日――王城にメディウスの使者がやってきた夜から、ミネルバは絶えず恐怖にさいなまれていた。けれども恐れてはいけなかった。恐れを見せてもいけなかった。だから悲しみよりも悔しさが勝った。
 なんのために多くの犠牲を払って戦ってきたのか。なにもかもが無駄だった。なにもできない自分が許せなかった。
 耐えがたい徒労感に襲われたとき、ずっとこらえてきたものが一気にあふれだしてきた。抑えこんだ慟哭が身体中をめぐり、息がつまりそうになる。苦しさにもがき、引きつれた声が嗚咽となって喉からもれた。それでも声をあげて泣くことはできなかった。
 ひとしきり咳きこんで、涙にぬれた顔をあげた。ミシェイルは薔薇窓を背に、月明かりを受けて立っていた。その顔は蒼白く冴えており、ぞくりとするほど悲壮感にみちていた。
「……すみません」
 ミネルバは指先ですばやく涙をぬぐう。
「大事のときに、取り乱してしまって」
「いや、無理もない」
 近よってきたミシェイルがミネルバの手をとり、ゆっくりと立たせた。まなじりににじむ涙をそっとぬぐい、頬に手をそえる。
 やさしいいたわりに、また涙があふれそうになったが、ミネルバは必死にこらえた。父の死後になにが起こったのか、兄に確かめねばならない。
「くわしい話を聞かせてください」
 挑むように兄をみつめる。
「ドルーア軍が前線から退きました。いったいなにをされたのですか」
「その様子では、もう察しているのだろう?」
 すっと鋭く切れあがった眼が、ミネルバを正面から射る。
「ミネルバ、俺はドルーアと手を組む。ドルーアとともにアカネイアを滅ぼす。ドルーアの目的はアカネイアの滅亡にある。なんとも好都合ではないか。父上が反対しておられたゆえ俺も耐えていたが、父上もおなじ考えだったとあれば迷うこともない」
 ミネルバが黙したままでいると、ミシェイルは嘆息まじりにつづけた。
「すぐに受けいれられるものではないだろう。俺も同盟受諾は最後の手段と考えていた。だが、父上が殺されずとも、わが国はこの道しか選べなかったのやもしれん。……はじめからな」
 たしかに国境線が破られるのは時間の問題だっただろう。ショーゼンと名のったあのマムクートは、すさまじい憎悪をマケドニア兵にむけてきた。百年前、野望を打ち砕かれたことへの恨みなのか。それとも、かつてドルーアの奴隷だった子孫たちへの侮蔑なのか。刃向かう騎士たちの四肢を引きちぎり、すべて燃やしつくしても、あの憎しみが消えることはないように思えた。
 そんなマムクートがあっさりと手を引いた。メディウスの命でもなければ、攻撃の手をゆるめるはずもない。
 ミネルバは瞑目し、やがてうなだれた。
「ドルーアは、われらを嘲笑っているのでしょうね。情けをかけてやったのだ、と」
「情けでもよいではないか」
 いまはな、とミシェイルは歯噛みする。
「このひと月というもの、おまえには無理を強いた。初陣であったというのによく耐えてくれたものだと思う。父上もおまえの身をつねに案じておられた」
「わたしはなにもできませんでした。グイドを……多くの将兵を死なせてしまった。こんな醜態をさらすぐらいならば、せめて父上のおそばにいたほうがよかった……」
「父上のそばにいれば、おまえの身も危険にさらされただろう」
 どうにもならなかったのだ、と諭すように言って、ミネルバの髪をなでた。
「あまりに過酷な戦いだったが、もうドルーアと戦わずともよくなった。これ以上、おまえが血を流す必要はないのだ。父上もきっと安堵されているだろう」
 ミシェイルはほほえんだ。久方ぶりにむけられたやさしい微笑に、ミネルバはうれしさよりも困惑をおぼえた。
 ドルーアの侵攻がはじまってから、ミシェイルはいつも険しい顔つきをしていた。父となじりあってばかりで、笑みといえば、嘲笑か、皮肉っぽく笑むことぐらいだった。
 いったいなにが兄をおだやかにさせたというのか。
「ドルーアと戦わなくてもよいのなら……」
 ミネルバはそっと兄から目をそらす。
「これからマケドニアはどうなるのですか」
「同盟が成ったとて、いましばらくはなにも変わりはせぬ。むろん、アカネイアとの関係は完全に断ち切れることになるが」
「そしてアカネイアとの戦争が始まるのね?」
「それがメディウスの望みだからな。総力をもってアカネイアを討つことになる」
「アカネイアだけではないのでしょう?」
「オレルアンとアリティアは確実に敵に回るだろうな」
「アリティアは、われらを助けてくれるつもりだったのよ?」
「やむをえぬことだ」
「やむをえぬ? ミシェイルはこれをよしとするの? 遺恨なき国を攻め滅ぼすことを」
「愚問だな。いまのわれらに他国を慮る余裕はない」
「だったら、わたしたちはなんのために戦うの?」
「くどいぞ。しょせんは山と海を隔てた北方の国。ドルーアと国境を接するわれらの労苦なぞ理解できぬ」
 ミシェイルはそこで口を閉ざした。この件には答える気がないのだとミネルバは察した。
 ふつふつと疑問が沸きあがってくる。一度は受けいれかけていた暗殺の真相が、とたんに疑わしく思えてきた。嵌め絵パズルの最後のひとかけらが合わず、一から嵌め直しているような感覚だった。
 ドルーアの標的ははじめからアカネイアだった。マケドニアに同盟を持ちかけてきたのも、下手に滅ぼすよりは、味方に引き入れ、その力を使い捨てるのが得策と考えたからにほかならない。
 だから、けっしてアカネイアと接触をもたせてはならなかったのだ。援軍要請のためパレスへ向かった使節もドルーアの手によって始末された可能性が高い。
 ならば、父の暗殺はどうか。
 下手人が白状したという経緯に合点がいかない。たしかにマケドニアがドルーアと手を結んだならば、アカネイアは裏切りの代償を払わせようとしただろう。しかしオズモンドはメディウスの要求を強固にはねつけ、ただちに討伐軍を挙げたのだ。誰の目にもドルーアに屈する意思がないのは明らかだった。王を討ったのは、アカネイアではなくドルーアの刺客と考えるほうがよほど得心がいく。なにもかもがドルーアにとって都合のいいように進んでいるのだから。
 ドルーアは、アカネイア軍の派兵を阻止したかった。父王は、パレスに出向こうとしたから討たれた。マケドニア王オズモンドこそ、ドルーアにとって最大の障害だった。それはひそかに同盟を望んでいたミシェイルにとっても同様のはずであった。
 ミネルバの脳裏を不穏な考えがよぎった。
 マムクートに恨みを抱くマケドニアをドルーアと結託させるには、どうすればよいか。簡単なことだ。アカネイアへの憎悪を煽ればよい。王の暗殺を知った民が暴動を起こすほどに宗主国への憎しみは根深い。憎しみゆえに、民はたやすく踊らされてしまう。そして国は打倒アカネイアへと傾いてゆく。
(違う、そんなはずはない!)
 疑念をふりはらわんと、ミネルバはすがるようにミシェイルの目をみつめた。ミシェイルもミネルバをみつめていた。その細められた目の奥に、冷たい光が宿っているのをみつける。凍てついた感情。誰も寄せつけぬ蒼い炎のゆらめき。それは憎悪をはらんで鈍くかがやいている。
 ミシェイルのこんな目を、ミネルバは幼いころからそばで見てきた。不遜な弁務官らをじっと見すえるときの目だった。けれどもそれがミネルバに向けられることはなかった。
 恐れをひた隠し、兄を見すえる。
「いまからでも同盟は覆すべきだわ」
「ばかげたことを。おまえは父上を無惨に殺されてもなおアカネイアに頼ろうとするのか」
「父上を殺したのは、ほんとうにアカネイアの刺客なの?」
 兄の顔色がかすかに変わったのを、ミネルバは見逃さなかった。
「わたしにはどうしても信じられない。ドルーアはわが国を取りこみたかったのでしょう? 父上の死にはドルーアが関わっているのではないの? パレスへ向かった使節だってドルーアの妨害に遭ったわ。父上の暗殺だってきっと……画策したのががシモンだとしても、ドルーアにそそのかされたのよ。父上におかしな濡れ衣を着せて、反逆者としてアカネイアに討たせるよう仕向けたに決まってるわ。父上が亡くなって得をするのはいったい誰?」
 押し黙るミシェイルに、ミネルバはたたみかける。
「こんなの、なにもかもおかしいわ。信じてはだめ。ほんの一時であってもドルーアと組むだなんて、父上のお考えであるはずが――」
「真相などどうでもよい」
 ミシェイルが冷たくさえぎった。
「メディウスは復活し、父上は殺された。それが事実だ。ゆえに、われらに残された道はひとつしかない」
「いいえ、これがドルーアの仕掛けた罠であるなら、父上の遺志を継ぎ、諸国に呼びかけをなさるべきだわ」
「無駄だ。あの腐りきった聖王国が兵を挙げぬかぎり諸国も応じぬ。アリティアとて、しょせんはアカネイアの走狗にすぎん。やつらがドルーア討伐に乗り出すころ、わが国の民はマムクートどもの餌食となっていよう。民が殺されるのをただ待つなど父上のご遺志ではない」
「アカネイアを滅ぼしたところでどうなるというの? ドルーアはわれらを利用するだけでしょう? 用済みとなれば簡単に切り捨てるわ」
「そうはさせぬ。アカネイアを滅ぼすために、われらがやつらを利用するのだ」
 ミシェイルはミネルバの両肩をつかんだ。双眸に狂気じみた怒りをたぎらせ、細い肩を激しくゆさぶる。
「近くグルニアもドルーアと組むとメディウスの使者が言っていた。あの気弱なルイでは十中八九そうなるだろうさ。グルニアにつづく国も出てくるやもしれん。そうなればアカネイアを滅ぼしたのちにドルーアを討つことも……けっして容易ではないが、充分に可能性はあるのだ!」
 ミシェイルが必死に同盟の利を説くにつれ、ミネルバの顔には絶望が広がっていった。
 メスト公が王と国を裏切る必要がどこにあったというのか。宰相はアカネイアに対し強硬な姿勢をとることはなく、その方針は時に弱腰と批判されたが、公本人は信義を重んじる騎士で、一度たりとて国益に反する行いはしなかった。
 殺されたヴェーリやプラージもそうだ。彼らはつねに国の行く末を案じ、王に忠実で、思想も共有してきた。
(彼らもひそかに同盟を進めていたから? だからアカネイアにとって邪魔だった?)
(違う、彼らを邪魔に思っていたのは……)
 こんなことを考えてはいけない。ミシェイルがそんなことをするはずがない。この二日、ミネルバは時折頭をよぎる考えを懸命にかき消してきた。けれどもう、どうあっても否定することはできなくなっていた。
 いずれこんなことになるのではないか。心の片隅ではそんな予感を抱いていた。あの大飢饉を境に兄の父への信頼は失われてしまった。父への態度も目に見えて変わっていった。それでもミシェイルは折に触れてミネルバに語ってきた。将来は父上を支え、マケドニアを強国にするのだと。そんな兄に、ミネルバも夢を語り、誓った。父と兄を扶け、民が不当に苦しめられることのない国をつくるのだと。そのために身命を捧げると。
 だからずっと信じようとしてきた。父への怒りはアカネイアへ向けたものであって、けっして父への憎しみゆえではないのだと。
「……父上は知っておられたわ。ミシェイルがアカネイアを滅ぼしたがっているのを。だからドルーアとの同盟を望んでいることも……」
 茫然とつぶやくと、ミシェイルが眉をよせた。
「ミシェイルは父上が臆病だからアカネイアに逆らわないとでも思っていたの? 違うわ。父上が恐れておられたのは、この国が滅ぶことよ。かの国と事を構えれば最後、先祖たちが苦難に耐えて築きあげてきたものがすべて無に帰すことになるのだと……。いまはまだその時ではないのだと。だからこそ、おまえたちの代でかならずや成し遂げよ、と。ミシェイルなら……」
 涙で言葉がつまる。
「ミシェイルなら、きっと叶えられるから、だから兄を支えよとわたしにおっしゃって……。父上はほんとうにミシェイルを頼りにしておられたのに」
「頼り、だと?」
 ミシェイルは吐き捨てた。
「疎んじていた、の間違いだろう。あの男は俺を――」
 言いかけて、かぶりをふる。
「……いまさらどうでもよいことだ。もう、もとに戻れはしないのだからな」
 もはや取りつくろう気もないようだった。
 ミネルバは肩におかれた手をふりはらい、一歩身を引いた。
「父上を、手にかけられたのね?」
「なぜ、わかりきったことを訊くのだ」
 冷たい嘲笑に、ミネルバは色をなした。
「どうしてこんな……いったいなんのために……! ドルーアを手を組むために父上を殺めたというの!?」
「おまえとて、このままでは先がないとわかっていたのだろう? おまえにわかることが親父には理解できなかった。それゆえにだ」
 ミシェイルは突としてミネルバの腕をつかんだ。抵抗をものともせず父の柩へと引きずっていき、よく見ておけ、と力強く前へ押し出した。
「これがアカネイアを妄信しつづけた男の憐れな死にざまだ」
 父の死顔が眼前に迫り、ミネルバは鋭く息をのむ。
「俺たちはずっと見てきただろう? アカネイアの低俗な役人にさえ這いつくばる無様な姿を。あれは王たる者の姿ではない。だから光を失い、おのが息子の手にかかり、こうして柩に横たわっているのだ。真に王たるべきは誰か、わかっているはずだ。おまえも俺が王となることを望んできただろう?」
「王を……それも父親を殺めた者を、いったい誰が王と認めるというの!」
「ずいぶんな言い草だな。すでに主立った貴族は俺を王と認めているというのに」
「彼らはすべて知っていて?」
「まさか。しかし多くが同盟には賛同している。おおかた怯懦に駆られたのだろう。やつらの威勢のよさは口先だけということだ」
「わたしはドルーアに与するなんて認めない。真実がつまびらかになれば多くの者が同盟に異を唱えるわ」
 ミネルバはつかまれた腕をふりほどこうともがいた。それをたやすく押さえこみ、ミシェイルは鼻で笑う。
「ばかな考えは起こすなよ。同盟は王たる俺が決めたことだ。誰にも覆すことはできぬ」
 ミネルバは力のかぎり身をよじった。そのとき、右の脇腹に負った傷に鋭い痛みが走った。傷が開いたのだ。脇腹を押さえたまま膝をつく。
「ああ、そうだ。伝えるのを忘れていたが……」
 うずくまるミネルバを、ミシェイルは見おろす。
「マリアはドルーアに遣ったぞ。盟約の証として要求されたゆえな」
「マリア、を……!?」
 予想だにしなかった事態に、ミネルバは声をつまらせた。
 人質だなんて、そんなもの以前は要求してこなかったのに、どうして。ドルーアに遣るだなんてひどい。あの子はまだ子供なのに……。
 駄々のような言葉が次々とあふれたが、ミシェイルはそれを、どうにもならぬ、と一蹴した。
「人質の要求は、親父が同盟を渋っていた弊害でもある。使者いわく、簡単にわれらを信用できぬということだ」
「……こんなもの、ばかげてるわ」
 荒い息を噛み殺し、ミシェイルを見あげる。
「同盟だの連合だのと口先でつくろってみたところで、こんなものただの隷属だわ」
「そうだ、これは対等な同盟ではない。しかしミネルバよ、わが国は長きにわたりアカネイアに隷属してきたのだ。なんの違いがある?」
「それでもアカネイアは……人間だわ」
「ほう、おまえはやつらとわれらがおなじと思うのか」
 やさしげな手つきでミネルバの横髪をなでた。一房をくるりと指にからめ、いきなり引っぱる。
「しかと思い出せ、ミネルバ。よもや忘れたとは言わせん。わが国の民が飢餓に苦しむなか、昼夜をわかたず宴に興じていたような輩を、おまえはわれらが同胞と言うのか」
 飢餓に苦しんだ冬がようやく去った春の日。中央から左遷された官吏を迎える歓待の宴が王城で開かれた、官吏はその簡素な宴に辟易したらしく、パレスで夜ごと開かれていた宴の様子をなつかしげに語った。
 水晶のシャンデリアからこぼれる光。楽団が奏でる宝石の音楽。銀器に盛られた色とりどりの料理。貴族たちは豪勢な食事には目もくれず、歌い、踊り、一夜の愛をささやきあう。
 甘美なる宴。それは奪いつくした食糧のゆくさき。幼子が飢えて死んでも、親には慟哭する力さえ残っていなかった。腹を空かせて泣く子をあやす子守歌。息絶えた子に捧げる追悼の聖句。どれほど深い愛情があっても、そんなものしか与えられなかったのだ。
 軽薄な官吏の悪意なき暴言は、その場に居合わせた者を激しく怒らせた。彼らの怒りのわけを、愚かな官吏は理解することもできず、ただ故国の権威を盾に脅しつけるだけだった。
 その様子を、ミシェイルとミネルバは柱の陰から眺めていた。身を寄せあい、かたく手を握りあって、そしてふたりは同時に悟った。われらと聖王国の民は、けっしてわかり合えはしないのだと。
「いずれにせよ」
 ミシェイルはミネルバを一瞥し、酷薄に笑う。
「あいつが人質となってくれたおかげで、ようやくアカネイア侵攻が叶うというわけだ。あの凡才の末妹が、思いのほか役に立ってくれた。不具となった父上も死をもってようやく国と民に尽くされた。きっと本望であられたことだろう。いまは国の命運を左右する大事のとき。王族でありながら戦えぬ者は、その身をもって武功の代わりとせねばな」
「よくも、そのようなことを……」
「くだらん感傷に浸っているようでは困るな。おまえにもいずれ果たしてもらわねばならぬことがある。ドルーアの将として、俺の片腕として、アカネイアを打ち滅ぼすという大役がな」
 ミネルバは力なくかぶりをふる。
「わたしはいままでドルーアと戦っていたのよ。多くの者が死んでいって、わたしをかばって命を落とした者も……。それなのにいまさらドルーア軍として戦えと? そんなこと……あの者たちになんと言って詫びればいい。こんな裏切りはない」
「おまえが気に病むことではない。将兵らは親父の決断が遅れたばかりに死んだのだ。だからこそ、おまえはあの者たちの死を無駄にせぬ道を選べ」
「ドルーアに与すれば、国のために戦った彼らは無駄死にだわ」
「国を守れねば、それこそ無駄死だ」
「こんなやり方で国を守ったと言えるの? この先にいったいどんな未来があると?」
 ミシェイルはこたえない。否を許すつもりはなく、ただ是だけを突きつけていた。
「……父上が言われたとおりね」
 ミネルバは笑いながら兄を見る。
「国を守るため? 違うでしょう? マムクートの手下となってでもアカネイアに仇を返したいだけでしょう? 父上はこうおっしゃったのよ、ミシェイルは耐えることを知らない、だから危ういのだと」
 言葉を発するごとに、ミシェイルのまとう空気が冷たい怒気へと変じていった。ミネルバもまた怒りをこめてつづけた。
「結局、父上が危惧されたとおりになってしまった……。父上は憐れだわ。あれほど期待をかけて、次代を託すつもりだった息子の手にかかるだなんて。どんなに無念であられたことか」
「黙れ、おまえになにがわかる」
「わかりたくもない。あなたは復讐のために国をドルーアに売ったのだから」
 ミネルバは腰に佩いた剣に手を伸ばし、ゆっくりと立ちあがった。剣を引き抜き、両手でにぎりしめる。しかしその細身の刀身は、嵐に耐える小枝のようにふるえていた。手に力をこめようとするほどに、切っ先は激しくゆれるばかり。
 もとより、なにも突き刺せはしない刃だった。身を切り裂くほどの痛みが、やり場のない想いが、ミネルバに剣を抜かせただけなのだ。
 手負いの獣にも似た怯えたふるまいに、ミシェイルは嗤笑をうかべた。
「そんなもので、どうしようというのだ?」
 ミシェイルが一歩、一歩、にじりよってくる。ミネルバは息をつめて後じさろうとした。しかしそれよりも早く、ミシェイルが剣を奪った。とっさに剣を奪い返そうとしたが、のばした手首をつかまれ、冷たい石床に引きずり倒される。
 馬乗りになったミシェイルは、奪った剣を逆手に持ち、ミネルバの胸に突きつけた。
 二人は睨みあっていた。妹を見おろすミシェイルの目は酷薄で鋼のようにゆらがなかったが、兄を見あげるミネルバの目は水面にひろがる波紋のようにわなないていた。
「……こうやって、父上を殺したの?」
「そうだ。おまえも父上のようになりたいのか」
 ミネルバは唇だけを動かした。歯の根が合わず、言葉がうまく出てこない。しゃくりあげると喉がひゅっと鳴る。
「これが最後だ。臣下として王に従え」
 長い沈黙ののち、ミネルバはいびつな笑みをつくる。
「好きにすればいい。父上のようにわたしも殺せばいい。簒奪者の言うなりになどならぬ。あなたなど、もう兄ではない――」
 言い終わらぬうちに剣が高くかざされた。月光をおびた刃がふりおろされるのを、ミネルバははりつめた目でみつめていた。まじろぎもせず、みじろぎもせず。ただ、まなじりに涙があふれていた。
「――殿下! おやめください!」
 礼拝堂に絶叫と跫音が響きわたった。同時に、ミネルバは鋭い痛みと衝撃を覚えた。
 軍服が裂けて血がにじむ。心臓めがけてふりおろされた刃はわずかにそれ、肋骨のあたりをかすめる位置に突き立てられていた。刃がそれたのだとミネルバが気づくまでにはやや間があった。
「なんということを…! 王女まで手にかけられたとあっては貴族らを抑えられません!」
 駆けよってきたオーダインは、ミシェイルを羽交い絞めにするようにして立たせた。そしてすぐさまミネルバの傷の具合を検めた。あばらの傷は浅くはないものの致命傷にはいたらず、のちに障りが残るほどには深くなかった。ただ放心しているだけだとわかり、オーダインは胸をなでおろしたようであった。
 ミシェイルはオーダインの腕をふりほどき、あおのいたままのミネルバに一瞥をくれた。
「すでに賽は投げられたのだ。このうえわたしに逆らうとなれば妹とて容赦しない。国家に対する反逆者として処罰する。もしわれらが、ドルーアとの盟約を破るようなことになれば、マリアの命もない。おまえは、国と妹の両方を裏切ることになるのだ。それをよく考えるのだな」
 語尾に重なるように、高い音が響いた。投げ捨てられた剣が、石床に円を描いて転がる。
「安心しろ。俺はドルーアに国を売り渡すつもりはない。マムクートなど、この手で葬り去ってくれる」
 そう言い捨てるとミシェイルは身をひるがえした。
 靴音が高く響き、やがて遠ざかっていった。
 それに入れ替わるように、別の靴音が近づいてくる。やってきたのは二人の女官――ゾーエとベラだった。
「姫さま」
 女官たちは黒い仕着せの裳裾をもちあげ、ミネルバのそばにうやうやしく膝をついた。ゾーエは血が流れる胸部にそっと布を押し当て、ベラは背に手を差し入れてこわばった身体をゆっくりと抱き起こした。
「傷が痛まれましょう? お早く手当てをいたしましょう」
 ミネルバは一度またたきをしただけで、微動だにできなかった。身体に力が入らず、歩くことはおろか立ちあがることもままならない。女官たちに両脇から抱きかかえられるようにして自室へ連れていかれた。足を引きずりながら冷たい寝台にくずおれる。
 ゾーエの手で上衣がとかれ、兄に負わされた傷と、いましがた開いた脇腹の裂傷を水で洗われた。そうしているうちにベラに連れられた僧侶がやってきて治癒術をほどこされる。ふさがれた傷口に膏薬が塗られ、包帯が巻かれていった。なにもかもされるがままでいると、ふっと視界が暗闇につつまれた。寝台の脇におかれた燭台の火がすべて消されたのだ。
「もう心配ございません。ごゆるりとお休みいただきますよう」
 ゾーエの声はいたわりにみちているかに思えた。しかし次の瞬間、扉に錠がかけられる音が暗闇に響いた。
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