マケドニア598(本編)

 司令官室を出たミネルバは、力ない足どりで屋上への階段を一段ずつのぼった。パオラやセルジョの手前、つとめて平静を装おうとしたものの、いまだ手がふるえていた。石段を踏みしめる足の感覚もない。
「殿下」
 セルジョが気づかわしげに声をかけた。
「どうぞ、お気を強くお持ちください」
「わかっている」
 ミネルバとセルジョが屋上につくと、騎士たちがわらわらと駆けよってきた。
「ミシェイル殿下はなんと?」
 ミネルバは言いよどんだ。またたきをしながら、なんとか声をしぼりだす。
「ドルーアとの停戦が成ったとのことだ」
「停戦……!?」
 異口同音に困惑の声が上がった。なぜ、いったいどういうことだ、信じられん、と騎士たちがささめく。
「ゆえに、ドルーア軍が退いた。エルダ砦がもぬけの殻となったのも、そのためだ」
「おそれながら殿下」
 シスト・マルケイが焦りをにじませ、口をはさんだ。
「つい先だってもドルーアとは一時停戦状態にあったではありませぬか。にもかかわらず、砦が襲撃されたのです」
「そなたの杞憂はもっともなこと」
 ミネルバは笑みをつくり、静かな口調で言った。
「わたしもドルーアなど手放しで信用してよいものとは思っておらぬ。いや、信用してはならぬとさえ思う。ただ、ドルーアが攻撃の手をゆるめたは事実。むろん明日、明後日のことはわからぬ。だから今日は長めの休憩を取っておくがいい」
「ですが」
 食い下がるシストに、セルジョがやや厳しい声で告げる。
「おまえがそのように気を張っていては部下の疲労も癒えぬぞ」
「……承知、いたしました」
 シストが不承不承の態で礼をとると、ミネルバはきびすを返した。数歩進んでふりむくと、そこにはやわらいだ表情の兵たちの姿があった。
 激戦をくぐり抜けた兵士にとって、突然の撤退と停戦の報は拍子抜けだったのだろう。だが、それよりも安堵が勝ったようだ。前線に派遣されてからというもの、彼らはつねに死と隣り合わせだった。昨夜の一難が去って、さらに現れた巨大な火竜に、絶望的な想いを抱いていたはずだ。
(いまは、これでいい)
 ミネルバはひとり愛竜イージスを駆り、北東のエルダ砦に向かった。しばらく砦上空を旋回し、様子をうかがう。以前、斥候から受けた報告では、エルダ砦には百を超えるドルーア傭兵が占拠しているとのことだった。しかしいまは一兵たりとも残っていない。すべて引きあげたようだった。
 ミネルバは一気に降下し、腐臭ただよう砦に足を踏み入れた。郭内のあちこちにこぶし大の石が飛散しており、気を抜くと足をとられそうになる。側壁が自然に朽ち落ちたのではない。すべてマムクートによって破壊された残骸である。
 ひと月前、エルダ砦はドルーアによる侵攻を真っ先に受けた。北部を哨戒していた国境警備兵も砦に駐屯していた小隊も皆殺しの憂き目に遭った。以来、ドルーア兵に占拠されたエルダ砦にマケドニア兵は近よることもできなかった。柄のへし折れた槍や戦斧の近くにその持ち主が倒れている。亡骸はほとんど野鳥や獣に食い荒らされたようで、壊れた甲冑のすきまから骨がのぞいていた。亡骸のうち数体は首がなかった。メディウスの使者が王に見せつけるべく刈りとったのだ。
「殿下!」
 驚愕の声に、ミネルバはふりかえる。
「よもやおひとりでお越しになるとは」
 先に砦に着いていたシェンケルがあわてた様子で近よってきた。
 ミネルバは兵士の亡骸をみつめたまま、惨いものだな、とつぶやいた。
「いずれ弔ってやらねば」
「……はっ」
 シェンケルは口元を少しゆるめた。それは諾をしめすものではなく嘲笑に近い響きがあった。
「ごらんのとおり、ドルーア兵はエルダ砦から引きあげております」
「そのようだな」
「もう充分気がおすみでしょう。ベーサへお戻りを」
 身を返そうとしたシェンケルを、ミネルバは引きとめる。
「先ほど、そなたに聞きそびれたことがある」
「まだなにかご不明な点が?」
 ミネルバ軽く目を閉じ、ゆっくりとひらく。
「話は、あれですべてか」
「どういう意味でございましょう?」
「そなた、わたしに隠していることはないのか」
「……姫さま」
 ややあって、シェンケルはなだめるような口調で言った。
「心中お察しいたします。陛下の突然のご崩御には、われわれも胸を痛めております。ただちに受けいれられるものではない、そう存じております。ですが、いまは国難のとき。どうぞ気を強くお持ちくださいますよう」
「わかっている」
「では、早朝にここを発つことといたしましょう。今日はお疲れでしょうから」
「いや、ひとまず明日いっぱいは様子を見たい」
「ですが、先ほどご説明いたしましたように――」
「停戦が成った以上、もう国境を守る必要はない。そうであったな?」
 強い口調でさえぎり、ミネルバは挑むような目でシェンケルを見た。
「そなたの話は理解している」
「おわかりならば、これ以上はなにも申しあげません」
 声はつとめていらだちを隠していながら、目には怒りの気配があった。王族とはいえ小娘に従わねばならぬのが不服なのだろう。
 先に歩きはじめたシェンケルを、ミネルバはやや間をおいて後を追った。
 さきほどシェンケルは国境を守る必要がないと言った。あれほど断言するからには、前回ドルーアが与えた猶予とはわけが違うのだろう。徹底抗戦の構えを崩さなかった王の死により、ドルーアとの関係が大きく変わったということだ。
(――これはわれらにとって光明でもある。いたずらにアカネイアの助けを待ち、無益な抗いをつづけるよりは、いっそのこと――)
 父と兄の口論が脳裏をよぎる。あの苛烈な兄ならば、父の死を受けてどのような交渉をドルーアと成し、国境の軍勢を退かせるのか。
(そう、ミシェイルならばきっと……)
 ミネルバには確信があった。もうすでにドルーアとの同盟は成ったのだ。いかに仲たがいしていたとはいえ、父王がアカネイアの手にかかったとなれば、ミシェイルは仇討ちを選ぶだろう。もとよりミシェイルはアカネイアを滅ぼすためにドルーアと手を結びたがっていたのだ。もう迷うことはない。
 しかし、父王がドルーアと同盟を結ぶつもりでいたというのがミネルバには腑に落ちなかった。父には父の考えがある。未熟な娘にすべてを明かすことはしないだろう。そうであっても、先日の会話のどの一片からも父の隠された意図は読みとれなかった。
 早く城へ戻り、ミシェイルから話を聞かなければ。
 気持ちがはやる一方で、恐れがあった。まだ父の死そのものを信じられないでいた。なにかの間違いであってほしいと願わずにはいられなかった。
 父王が亡くなった九の月十二日とは、ミネルバが王城を発った日の深夜である。その日の朝、父王は前線に舞い戻るミネルバを見送りに出向いた。あいさつを交わし騎乗しようとしたミネルバを引きとめ、人目もはばからず抱きしめた。そのぬくもりはまだ思い出せるというのに、あれから一日もたたぬうちに父の命は絶たれてしまったというのか。
 いや、父王にはメスト公がついていた。公はすでに老年にさしかかっているものの、近衛隊長をつとめ、王の懐刀と称えられてきた者なのだ。おのが目で確かめるまで、父の死を信じるわけにはいかない。兄はなにかを偽る必要があって、あのような嘘を書簡にしたためたのではないか。なにか、考えがあってのことではないのか――。
 そんなはかない望みにすがりつくことで、気丈にふるまいつづけた。
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