マケドニア598(本編)
負傷した天馬騎士は、一足先に竜騎士が自身の飛竜に乗せて砦へ運んでいった。命は助かるだろうが、もう一度槍を握れるまでの回復は望めないかもしれない。
ベーサに向けて飛竜を駆るミネルバの顔は蒼白だった。疲労や恐怖のせいでもある。しかしそれ以上におのれの軽率さ、無力さをかみしめていた。
天馬騎士は竜騎士より俊敏さにすぐれ、戦闘において優位な面もいくつか見られるが、現状、マムクートとの戦いには不向きと言わざるをえない。火竜と対峙した天馬が恐慌をきたしてしまっては、いかに乗り手が手練れでもその力を十全に発揮できるはずもないのだ。連れてくるべきではなかったと、砦上空を舞う白い翼に力なく目をはせた。
討伐部隊がベーサ砦に戻ったのは正午を少しすぎたころだった。
軍装を解いたミネルバは、天馬騎士を見舞って救護室を訪れた。おだやかとは言えないが、静かな寝息を立てていることにひとまず安堵し、部屋を出て行こうとした。そこへ、セルジョが歩みより、沈んだ声で耳打ちをした。出陣前、ミネルバが看護をしていた騎士がいましがた息を引きとったとのことだった。
ミネルバはあわてて引き返し、全身を包帯におおわれた騎士のもとに駆けつけた。手をにぎってみたが、なんの反応もなかった。これで砦襲撃で失われた命は十三になる。
「……この者の、名はなんと」
「はっ。フェル・アゴストと申します」
ミネルバの顔色が変わる。
「では、そなたの……?」
「異腹の弟にございます。騎士としては未熟ではありましたが、祖国のために戦えたことはかけがえのない栄誉にございましょう。なにより殿下にお心をかけていただき、果報者であったと存じます」
セルジョは微笑をうかべて語った。
ミネルバは目をそらし、そうか、としぼりだすようにつぶやいた。フェルの、包帯におおわれていない頬を力なくなでた。
「この者たちの遺体はどうするのだ」
ミネルバの問いに、セルジョはしばし考えこんだ。
「近日中に埋葬することになろうかと」
「このようなところにか。王都まで運べぬのか」
「……いまは、どうすることも叶いませんので」
「そうだな、もっともなことだ」
すまぬ、と言い残し、ミネルバは救護室を離れた。そのまま足早に廊下の突きあたりにある司令官室にむかった。いまは独りになりたかった。
中央におかれた肘掛け椅子に身体を沈め、両手で顔をおおった。遺体の処理。その程度のことも自分で決められないのかと情けなさがつのった。
フェル・アゴストとは一度ぐらいなら言葉を交わしたことがあるはずだった。兄を崇敬のまなざしで見つめる少年の姿が、おぼろげに頭にうかんだ。だが、どうしても顔を思い出すことができない。その顔に巻かれた血のにじむ包帯だけが、鮮明に目に焼きついている……。
ミネルバはしばし眠っていた。目を開けるとあたりは暗くなっており、急いで立ちあがった。
廊下を抜けて城塔の外に出ると、ことのほか外は明るく、日暮れまでまだ時間はあるようだった。土埃をふくんだ生ぬるい風が、塔に吹きつけている。ミネルバはマントをなびかせながら内郭の階段を下りた。その華奢な体は風に巻かれ、時折頼りなげにゆれた。砦内を気もそぞろに歩いているうち、天馬の厩舎に差しかかった。そこにはパオラの姿があった。一見、愛馬テアの世話をしているかのようだが、目はうつろだった。悄然と肩を落としている。
ミネルバが近づくと、パオラははっと顔をあげた。
「大変な初陣になったものですね」
「もうしわけありません、わたし、なんのお役にも立てずに……」
ミネルバは微笑して首をふった。
「あのような化け物を前にすれば、身がすくんで当然ですよ」
テアのつぶらな瞳をみつめ、首をなでる。
「あなたも驚いたでしょう? かわいそうに」
「ドルーアには……」
パオラがおそるおそる口を切った。
「あのようなマムクートが無数にいるのですね」
ミネルバはうなずく。
「ドルーアはその気になればすぐにわれらを壊滅させることもできるのです。ああやってわれらを脅して、早々に屈服するよう迫っているのです。これは、マムクートと渡り合えるわれらの力を価値あるものとみなしている証左でもあります。ですが、いつメディウスが考えを変え、総攻撃を仕掛けてくるかわかりません。だからこそ大陸の諸国が一刻も早く連合し、ドルーアと立ち向かわなければならないのです」
「……連合軍は、いつやってくるのですか」
一瞬、沈黙が流れた。パオラはしまったというふうに口元に手をあてた。
「もうじきです」
ミネルバは、恐れをふくんだパオラの目をみつめかえす。
「父上がアリティアから戻られれば、かならず……」
厩舎を出ようとしたとき、北東より迫る一騎が目にとまった。ミネルバは顔色を変え、主塔へ足を急がせた。パオラもその後を追ってきた。
ふたりが主塔の屋上にたどり着いたとき、すでに竜騎士は降下しており、いち早く駆けつけたセルジョがその無事を喜んでいた。帰還したのはドルーア領内に向かった斥候部隊であった。
斥候の隊長を務めたシスト・マルケイはミネルバが近よると勇ましく敬礼をした。しかしその表情からは困惑が見てとれた。
「いかがした?」
「それが……エルダ砦の敵軍が撤退を始めたのです」
「撤退だと?」
ミネルバは思わず言葉をくりかえしたが、ふと思い直す。あのマムクートの退き方はあまりにも不自然だった。
かたわらのセルジョに訊ねる。
「なにかの罠と思うか」
「その可能性もございます。いまならばエルダ砦を取り返すことができるやもしれませんが、あの卑劣なドルーアのこと。なにを企んでおるのやら」
あたりに戸惑いが広がるなか、パオラから声がかかった。
「上空より騎影が迫っております!」
ミネルバは、目を凝らして赤く染まる南の空をみつめた。単騎であり、援軍を連れてきた様子はない。王城からの伝令と思われた。
竜騎士は砦の上空で旋回し、ゆるやかに屋上へ降下する。飛竜から降り立った騎士は、ミネルバのもとへ大股で歩みよってきた。兜をとると栗色の髪がさらりとこぼれる。
「殿下、ご無事でなによりでございます」
竜騎士団第二部隊長ラディス・シェンケルであった。
膝をつくシェンケルに、ミネルバは吐息まじりにこたえる。
「わたしは無事だが、昨夜ベーサ砦が二匹の火竜に襲撃された。将兵に多数の死傷者が出ている。今日もまた火竜とならず者たちとの戦闘になった。くだんの火竜はなにを思ってか早々に撤退したが」
「やはりそうでございましたか……」
ふくんだ物言いに、ミネルバは眉をひそめる。
「それで、いかがしたのだ? わざわざわたしの無事を見届けに来たのではあるまい」
「王太子殿下より言伝がございます」
シェンケルは言うやいなや、蝟集する騎士たちに下がるよう命じ、セルジョ・アゴストら同格の隊長相手にも追いはらうかのような態度で接した。シェンケルはグイドバルド・プラージとともに衆望を担ってきた貴族の子弟で、その自信ゆえか高圧的なふるまいが目立つ人物だった。ある意味そんな彼らしい言動と言えたが、王女をさしおいて場を仕切るさまに騎士たちは不快感をあらわにしていた。
ミネルバはセルジョをその場に留まらせ、シェンケルに問う。
「セルジョにまで内密にせねばならぬ話か」
「そのほうがよろしいかと思いましたが、アゴストにも聞いていただいてかまいません」
「ならばひとまず場所を変えよう。パオラ、部屋に明かりを」
ミネルバはセルジョをともなって塔の階段を降り、司令官室に入った。司令官室は南側に採光用の狭窓が設けてあるが、夕刻ともなればほとんど陽が差しこまず、部屋は文目もわかぬ暗闇である。やや遅れてパオラが三又の燭台を持ってきて、長卓の中央においた。
ほの暗い部屋のなか、ミネルバが長卓の前に立つと、シェンケルはゆっくりと進み出て、儀式ばった挙措でひざまづいた。
「して、兄上はなんと仰せか」
「ただちに王城へお戻りを、とのことにございます」
「わたしに戻れと、兄上がそう言われたというのか」
「はい、ミネルバさまをお連れするようわたしに命じられました」
「ばかな……いま前線を離れることなどできようはずがない」
「いいえ、いまはそのような事態ではございません」
「話が見えぬ。いったいなにがあったというのだ」
「まことに申しあげにくいことでございますが……」
顔を上げたシェンケルは、鋭くまなじりをつりあげた。
「オズモンド陛下がご崩御されました。それゆえにあなたさまにはただちに王城へお戻りいただきたいのです」
色もなく、淡々とシェンケルが述べた。セルジョは頬をこわばらせ、パオラは悲鳴にも似た引きつった声をもらした。
なにを言っているのか。ミネルバは問いかえそうとしたが、唇がわずかに動いただけで声にならなかった。しだいに手が小刻みにゆれはじめる。
「……ミネルバさま」
かたわらによりそうパオラが、気づかわしげに名を呼んだ。ふるえる手をかたく握りしめられ、そこでやっとミネルバは正気を取り戻した。シェンケルをみつめ、かすれた声をしぼりだす。
「くわしい話を聞かせてくれ。父上はなにゆえ? よもや病ではあるまいな」
「どうぞこちらを。王太子殿下よりお預かりした書簡にございます」
シェンケルは細く巻かれた羊皮紙を懐から取りだした。
ミネルバはぎこちない手つきで封蝋を割り、書をひらいた。燭台に近づけ、食い入るように文字に目を走らせる。そこにはまごうことなく兄の手蹟で、父の死がつづられていた。
『おまえの無事を祈りながら、急ぎこの書をしたためている。しかしおまえがこの書を読むと思えば胸がつまる。それでも知らせぬわけにはゆかぬことゆえ、心して読むがいい。
九の月十二日の深夜、われらが父上がみまかられた。暗殺されたのだ。アカネイアの刺客の手によってな。
父上はプラージらと執務室で要談を交わしておられた。そのさなかに凶刃に襲われた。アカネイアはドルーアとの同盟を決意した父上を叛逆者として抹殺せんとしたのだ。これを受け、弁務官をはじめアカネイアの官吏すべてを拘束した。
これが昨夜から朝までの出来事だ。
そして先ほど、ドルーアの使者が訪れた。王の死を聞きつけて早々にやってきたのだ。俺が王の名代として交渉にあたり、ひとまず停戦が成った。まこと大変な日であった。いや、ほんとうに大変なのはこれからだろう。
この件について、おまえと話し合わねばならぬ。急ぎ城に戻れ。父上もおまえの帰りを待っておられる』
「なぜ、このようなことに……」
すべてを読み終えたミネルバは、書を握りしめてうめいた。
「なぜ父上がアカネイアに命を奪われねばならぬ? 父上がドルーアとの同盟を決意されていただと? そのようなもの、なにかの間違いであろう。先日お会いしたときはパレスに出向かれると言っておられたのだ。それにアリティアにも――」
「困惑されるのも無理からぬことでございます」
落ちつきはらった声で、シェンケルがなだめるように言った。
「王都でも民に動揺が広がっております。暗殺の件もいずこからか漏れたようで、蜂起した民がアカネイア公館を襲撃するにいたったほど。役人らを館から引きずり出して取り囲み、暴行を加えたと」
青ざめるミネルバに、早々に鎮圧いたしましたが、とシェンケルは付け加えた。
「暴動を受け、王太子殿下が民に向けて経緯を発表されました。同盟を決意した王を抹殺するためにアカネイアから刺客が送りこまれたのだ、と。その結果、在留のアカネイア人をすべて拘束する形となったのです」
「それを、みなは信じたのか」
「はい。アカネイアならばやりかねぬと――」
「父上が同盟を決意されていたと、みなが信じたのか」
「……むろん、いぶかしむ者もございます」
「わたしも、にわかには信じられぬ。父上はなにも言ってはおられなかった。ドルーアとの同盟など国を売りわたす所業とさえおっしゃっていたのだ」
「陛下のお考えについては兄君がよくご存じのはず。直接おうかがいになられたほうがよろしいでしょう。いまここで、わたしの口から申せることはございません」
「……わかった、その件は兄上よりお訊きする。だが、いますぐここを離れるわけにはいかぬ」
「ミシェイル殿下の交渉により停戦は成ったのです。国境を守る必要がなくなった以上、いますぐ王城へ帰還されるべきかと」
「その停戦とやら、どこまで信用するに足りるのだ」
ミネルバは食い下がる。
「兄上がどのような交渉をされたにせよ、ドルーアを全面的に信用するのはいかがなものか。つい先だっても猶予を与えると言っておきながらベーサ砦を襲撃する始末。獰猛な火竜との戦いで十三人もが息絶えたのだ!」
ミネルバは声を荒らげた。その声には涙がまじっていた。
見かねたようにセルジョが割り入った。
「殿下のおっしゃるとおり、われらとしてはドルーアとの停戦などただちに受け入れることはできかねる。陛下のことも、この状況で兵に伝えるわけにもゆかぬのだし、せめて一日、様子を見る必要があるとわたしは考える。シェンケル、前線は混乱しているのだ。まずはこの場をおさめねば」
「……仕方ありませんな」
シェンケルは立ちあがった。
「わたしも微力ながらお力添えいたしましょう」
シェンケルが下がっても、ミネルバはその場で微動だにできずにいた。足元がゆれているかに思え、とっさに卓上に両手をつく。
「大丈夫ですか!」
パオラの手がそれを支えた。ミネルバはうなづくのがやっとだった。うつむいたまま、唇をかみしめていると、セルジョが沈痛な面持ちで語りかけてきた。
「よもや陛下が暗殺されたなどと……なにかの手違いということは考えられませぬか」
「手違いであれば、兄がこのような書を寄こすことはない」
物分かりのよいふりをしながらも、ミネルバはまだ事態を受けいれられずにいた。父の暗殺も、その経緯も、ドルーア軍が撤退したことも、なにもかもが信じられない。
それを察してか、セルジョはもうなにを言わなかった。
ミネルバは書を懐にしまい、パオラにこわばった笑みを向けた。
「あなたは負傷兵を頼みます」
ベーサに向けて飛竜を駆るミネルバの顔は蒼白だった。疲労や恐怖のせいでもある。しかしそれ以上におのれの軽率さ、無力さをかみしめていた。
天馬騎士は竜騎士より俊敏さにすぐれ、戦闘において優位な面もいくつか見られるが、現状、マムクートとの戦いには不向きと言わざるをえない。火竜と対峙した天馬が恐慌をきたしてしまっては、いかに乗り手が手練れでもその力を十全に発揮できるはずもないのだ。連れてくるべきではなかったと、砦上空を舞う白い翼に力なく目をはせた。
討伐部隊がベーサ砦に戻ったのは正午を少しすぎたころだった。
軍装を解いたミネルバは、天馬騎士を見舞って救護室を訪れた。おだやかとは言えないが、静かな寝息を立てていることにひとまず安堵し、部屋を出て行こうとした。そこへ、セルジョが歩みより、沈んだ声で耳打ちをした。出陣前、ミネルバが看護をしていた騎士がいましがた息を引きとったとのことだった。
ミネルバはあわてて引き返し、全身を包帯におおわれた騎士のもとに駆けつけた。手をにぎってみたが、なんの反応もなかった。これで砦襲撃で失われた命は十三になる。
「……この者の、名はなんと」
「はっ。フェル・アゴストと申します」
ミネルバの顔色が変わる。
「では、そなたの……?」
「異腹の弟にございます。騎士としては未熟ではありましたが、祖国のために戦えたことはかけがえのない栄誉にございましょう。なにより殿下にお心をかけていただき、果報者であったと存じます」
セルジョは微笑をうかべて語った。
ミネルバは目をそらし、そうか、としぼりだすようにつぶやいた。フェルの、包帯におおわれていない頬を力なくなでた。
「この者たちの遺体はどうするのだ」
ミネルバの問いに、セルジョはしばし考えこんだ。
「近日中に埋葬することになろうかと」
「このようなところにか。王都まで運べぬのか」
「……いまは、どうすることも叶いませんので」
「そうだな、もっともなことだ」
すまぬ、と言い残し、ミネルバは救護室を離れた。そのまま足早に廊下の突きあたりにある司令官室にむかった。いまは独りになりたかった。
中央におかれた肘掛け椅子に身体を沈め、両手で顔をおおった。遺体の処理。その程度のことも自分で決められないのかと情けなさがつのった。
フェル・アゴストとは一度ぐらいなら言葉を交わしたことがあるはずだった。兄を崇敬のまなざしで見つめる少年の姿が、おぼろげに頭にうかんだ。だが、どうしても顔を思い出すことができない。その顔に巻かれた血のにじむ包帯だけが、鮮明に目に焼きついている……。
ミネルバはしばし眠っていた。目を開けるとあたりは暗くなっており、急いで立ちあがった。
廊下を抜けて城塔の外に出ると、ことのほか外は明るく、日暮れまでまだ時間はあるようだった。土埃をふくんだ生ぬるい風が、塔に吹きつけている。ミネルバはマントをなびかせながら内郭の階段を下りた。その華奢な体は風に巻かれ、時折頼りなげにゆれた。砦内を気もそぞろに歩いているうち、天馬の厩舎に差しかかった。そこにはパオラの姿があった。一見、愛馬テアの世話をしているかのようだが、目はうつろだった。悄然と肩を落としている。
ミネルバが近づくと、パオラははっと顔をあげた。
「大変な初陣になったものですね」
「もうしわけありません、わたし、なんのお役にも立てずに……」
ミネルバは微笑して首をふった。
「あのような化け物を前にすれば、身がすくんで当然ですよ」
テアのつぶらな瞳をみつめ、首をなでる。
「あなたも驚いたでしょう? かわいそうに」
「ドルーアには……」
パオラがおそるおそる口を切った。
「あのようなマムクートが無数にいるのですね」
ミネルバはうなずく。
「ドルーアはその気になればすぐにわれらを壊滅させることもできるのです。ああやってわれらを脅して、早々に屈服するよう迫っているのです。これは、マムクートと渡り合えるわれらの力を価値あるものとみなしている証左でもあります。ですが、いつメディウスが考えを変え、総攻撃を仕掛けてくるかわかりません。だからこそ大陸の諸国が一刻も早く連合し、ドルーアと立ち向かわなければならないのです」
「……連合軍は、いつやってくるのですか」
一瞬、沈黙が流れた。パオラはしまったというふうに口元に手をあてた。
「もうじきです」
ミネルバは、恐れをふくんだパオラの目をみつめかえす。
「父上がアリティアから戻られれば、かならず……」
厩舎を出ようとしたとき、北東より迫る一騎が目にとまった。ミネルバは顔色を変え、主塔へ足を急がせた。パオラもその後を追ってきた。
ふたりが主塔の屋上にたどり着いたとき、すでに竜騎士は降下しており、いち早く駆けつけたセルジョがその無事を喜んでいた。帰還したのはドルーア領内に向かった斥候部隊であった。
斥候の隊長を務めたシスト・マルケイはミネルバが近よると勇ましく敬礼をした。しかしその表情からは困惑が見てとれた。
「いかがした?」
「それが……エルダ砦の敵軍が撤退を始めたのです」
「撤退だと?」
ミネルバは思わず言葉をくりかえしたが、ふと思い直す。あのマムクートの退き方はあまりにも不自然だった。
かたわらのセルジョに訊ねる。
「なにかの罠と思うか」
「その可能性もございます。いまならばエルダ砦を取り返すことができるやもしれませんが、あの卑劣なドルーアのこと。なにを企んでおるのやら」
あたりに戸惑いが広がるなか、パオラから声がかかった。
「上空より騎影が迫っております!」
ミネルバは、目を凝らして赤く染まる南の空をみつめた。単騎であり、援軍を連れてきた様子はない。王城からの伝令と思われた。
竜騎士は砦の上空で旋回し、ゆるやかに屋上へ降下する。飛竜から降り立った騎士は、ミネルバのもとへ大股で歩みよってきた。兜をとると栗色の髪がさらりとこぼれる。
「殿下、ご無事でなによりでございます」
竜騎士団第二部隊長ラディス・シェンケルであった。
膝をつくシェンケルに、ミネルバは吐息まじりにこたえる。
「わたしは無事だが、昨夜ベーサ砦が二匹の火竜に襲撃された。将兵に多数の死傷者が出ている。今日もまた火竜とならず者たちとの戦闘になった。くだんの火竜はなにを思ってか早々に撤退したが」
「やはりそうでございましたか……」
ふくんだ物言いに、ミネルバは眉をひそめる。
「それで、いかがしたのだ? わざわざわたしの無事を見届けに来たのではあるまい」
「王太子殿下より言伝がございます」
シェンケルは言うやいなや、蝟集する騎士たちに下がるよう命じ、セルジョ・アゴストら同格の隊長相手にも追いはらうかのような態度で接した。シェンケルはグイドバルド・プラージとともに衆望を担ってきた貴族の子弟で、その自信ゆえか高圧的なふるまいが目立つ人物だった。ある意味そんな彼らしい言動と言えたが、王女をさしおいて場を仕切るさまに騎士たちは不快感をあらわにしていた。
ミネルバはセルジョをその場に留まらせ、シェンケルに問う。
「セルジョにまで内密にせねばならぬ話か」
「そのほうがよろしいかと思いましたが、アゴストにも聞いていただいてかまいません」
「ならばひとまず場所を変えよう。パオラ、部屋に明かりを」
ミネルバはセルジョをともなって塔の階段を降り、司令官室に入った。司令官室は南側に採光用の狭窓が設けてあるが、夕刻ともなればほとんど陽が差しこまず、部屋は文目もわかぬ暗闇である。やや遅れてパオラが三又の燭台を持ってきて、長卓の中央においた。
ほの暗い部屋のなか、ミネルバが長卓の前に立つと、シェンケルはゆっくりと進み出て、儀式ばった挙措でひざまづいた。
「して、兄上はなんと仰せか」
「ただちに王城へお戻りを、とのことにございます」
「わたしに戻れと、兄上がそう言われたというのか」
「はい、ミネルバさまをお連れするようわたしに命じられました」
「ばかな……いま前線を離れることなどできようはずがない」
「いいえ、いまはそのような事態ではございません」
「話が見えぬ。いったいなにがあったというのだ」
「まことに申しあげにくいことでございますが……」
顔を上げたシェンケルは、鋭くまなじりをつりあげた。
「オズモンド陛下がご崩御されました。それゆえにあなたさまにはただちに王城へお戻りいただきたいのです」
色もなく、淡々とシェンケルが述べた。セルジョは頬をこわばらせ、パオラは悲鳴にも似た引きつった声をもらした。
なにを言っているのか。ミネルバは問いかえそうとしたが、唇がわずかに動いただけで声にならなかった。しだいに手が小刻みにゆれはじめる。
「……ミネルバさま」
かたわらによりそうパオラが、気づかわしげに名を呼んだ。ふるえる手をかたく握りしめられ、そこでやっとミネルバは正気を取り戻した。シェンケルをみつめ、かすれた声をしぼりだす。
「くわしい話を聞かせてくれ。父上はなにゆえ? よもや病ではあるまいな」
「どうぞこちらを。王太子殿下よりお預かりした書簡にございます」
シェンケルは細く巻かれた羊皮紙を懐から取りだした。
ミネルバはぎこちない手つきで封蝋を割り、書をひらいた。燭台に近づけ、食い入るように文字に目を走らせる。そこにはまごうことなく兄の手蹟で、父の死がつづられていた。
『おまえの無事を祈りながら、急ぎこの書をしたためている。しかしおまえがこの書を読むと思えば胸がつまる。それでも知らせぬわけにはゆかぬことゆえ、心して読むがいい。
九の月十二日の深夜、われらが父上がみまかられた。暗殺されたのだ。アカネイアの刺客の手によってな。
父上はプラージらと執務室で要談を交わしておられた。そのさなかに凶刃に襲われた。アカネイアはドルーアとの同盟を決意した父上を叛逆者として抹殺せんとしたのだ。これを受け、弁務官をはじめアカネイアの官吏すべてを拘束した。
これが昨夜から朝までの出来事だ。
そして先ほど、ドルーアの使者が訪れた。王の死を聞きつけて早々にやってきたのだ。俺が王の名代として交渉にあたり、ひとまず停戦が成った。まこと大変な日であった。いや、ほんとうに大変なのはこれからだろう。
この件について、おまえと話し合わねばならぬ。急ぎ城に戻れ。父上もおまえの帰りを待っておられる』
「なぜ、このようなことに……」
すべてを読み終えたミネルバは、書を握りしめてうめいた。
「なぜ父上がアカネイアに命を奪われねばならぬ? 父上がドルーアとの同盟を決意されていただと? そのようなもの、なにかの間違いであろう。先日お会いしたときはパレスに出向かれると言っておられたのだ。それにアリティアにも――」
「困惑されるのも無理からぬことでございます」
落ちつきはらった声で、シェンケルがなだめるように言った。
「王都でも民に動揺が広がっております。暗殺の件もいずこからか漏れたようで、蜂起した民がアカネイア公館を襲撃するにいたったほど。役人らを館から引きずり出して取り囲み、暴行を加えたと」
青ざめるミネルバに、早々に鎮圧いたしましたが、とシェンケルは付け加えた。
「暴動を受け、王太子殿下が民に向けて経緯を発表されました。同盟を決意した王を抹殺するためにアカネイアから刺客が送りこまれたのだ、と。その結果、在留のアカネイア人をすべて拘束する形となったのです」
「それを、みなは信じたのか」
「はい。アカネイアならばやりかねぬと――」
「父上が同盟を決意されていたと、みなが信じたのか」
「……むろん、いぶかしむ者もございます」
「わたしも、にわかには信じられぬ。父上はなにも言ってはおられなかった。ドルーアとの同盟など国を売りわたす所業とさえおっしゃっていたのだ」
「陛下のお考えについては兄君がよくご存じのはず。直接おうかがいになられたほうがよろしいでしょう。いまここで、わたしの口から申せることはございません」
「……わかった、その件は兄上よりお訊きする。だが、いますぐここを離れるわけにはいかぬ」
「ミシェイル殿下の交渉により停戦は成ったのです。国境を守る必要がなくなった以上、いますぐ王城へ帰還されるべきかと」
「その停戦とやら、どこまで信用するに足りるのだ」
ミネルバは食い下がる。
「兄上がどのような交渉をされたにせよ、ドルーアを全面的に信用するのはいかがなものか。つい先だっても猶予を与えると言っておきながらベーサ砦を襲撃する始末。獰猛な火竜との戦いで十三人もが息絶えたのだ!」
ミネルバは声を荒らげた。その声には涙がまじっていた。
見かねたようにセルジョが割り入った。
「殿下のおっしゃるとおり、われらとしてはドルーアとの停戦などただちに受け入れることはできかねる。陛下のことも、この状況で兵に伝えるわけにもゆかぬのだし、せめて一日、様子を見る必要があるとわたしは考える。シェンケル、前線は混乱しているのだ。まずはこの場をおさめねば」
「……仕方ありませんな」
シェンケルは立ちあがった。
「わたしも微力ながらお力添えいたしましょう」
シェンケルが下がっても、ミネルバはその場で微動だにできずにいた。足元がゆれているかに思え、とっさに卓上に両手をつく。
「大丈夫ですか!」
パオラの手がそれを支えた。ミネルバはうなづくのがやっとだった。うつむいたまま、唇をかみしめていると、セルジョが沈痛な面持ちで語りかけてきた。
「よもや陛下が暗殺されたなどと……なにかの手違いということは考えられませぬか」
「手違いであれば、兄がこのような書を寄こすことはない」
物分かりのよいふりをしながらも、ミネルバはまだ事態を受けいれられずにいた。父の暗殺も、その経緯も、ドルーア軍が撤退したことも、なにもかもが信じられない。
それを察してか、セルジョはもうなにを言わなかった。
ミネルバは書を懐にしまい、パオラにこわばった笑みを向けた。
「あなたは負傷兵を頼みます」
