マケドニア598(本編)
翌日、まだ夜が明けきらぬうちに、ミネルバはパオラたち天馬騎士の小隊をともなって王都を発った。なにやら胸騒ぎがあった。北部国境は、王が懸念したとおりとなっていた。ミシェイルとミネルバが不在であったわずかなあいだにベーサ砦が火竜に襲撃され、多大な被害が出ていた。
留守をあずかった竜騎士セルジョ・アゴストは、ミネルバの前で無念そうに膝を折った。ミネルバはうなだれるセルジョの肩にそっと手をおく。
「そなたの働きには感謝せねばならない。ベーサを守りとおしてくれたのだから」
ミネルバは色のない顔に、しいて微笑をたたえた。
ベーサ砦は、百年前の解放戦争においてアイオテとその仲間たちが帝国との戦いに用いた重要拠点である。ドルーアとマケドニアの国境は、東西にのびるタルカ山脈によって分断されている。その狭隘部に築かれたベーサ砦は、もとは竜人族の遺跡で、いにしえの時代より存在していたという。アイオテ王の時代、十年かけて砦の補強が行われ、いまも当時のままの姿で残されている。
この百年、ベーサ砦は未開部族の侵入を防ぐ役割のみを果たしてきたが、こたびのドルーアとの戦いにおいても、けっして奪われてはならぬ拠点とみなされていた。アイオテが七年ものあいだ帝国との戦いをつづけてこられたのは、この天然の要害がマムクートの南下を阻み、なおかつ迎撃に適していたためとされる。ベーサの南、スミルス要塞群までは平地がつづく。スミルスはかつて王都を防衛するために築かれた砦だったが、いまでは小隊の駐屯地でしかない。ベーサ砦を奪われれば、一気に王都まで攻め入られる。そうなることを見越して、すでに北部国境に近い村民は南へ避難させている。
だが、王都での戦いなど想定すべきではない。仮に籠城戦となれば、果敢なマケドニアの民は武器をとって戦おうとするだろう。しかし民に武器をとらせる状況となれば、それはもう敗北なのだ。王都は強固な構えを誇る城郭都市だが、マムクートの軍勢に包囲されたなら長くは持ちこたえられないだろう。
セルジョから状況報告を受けたのち、ミネルバは要塞内を見て回った。負傷兵のうめき声が通路にまでもれている。僧侶が懸命に看護にあたっているが、気休めにしかならないだろう。それでも、悲痛なうめきが聞こえるうちはまだよい。砦の一室は、遺体を安置するだけの場となっていた。
ミネルバはしばらくその部屋の前から動けず、勇敢なる騎士たちに鎮魂の祈りを捧げた。
長い夜が明けた。こうしてまた一日、ベーサで朝日を望むことができた。
早朝よりミネルバはパオラとともに負傷兵の看護に当たっていた。人手がまるで足りておらず、充分な手当てもできない状態だった。昨夜のうちにさらに二人が息を引きとった。まだ脈はあるものの、目を覚まさぬ者も増えた。マムクートに負わされた傷は刀傷とくらべ治りが遅い。ミネルバも火竜に傷を負わされたが、僧侶の治癒術を受けても傷がなかなか塞がらず、痛みも緩和されなかった。さらに何日にもわたって高熱がつづき、体力が削りとられていくのだ。
ミネルバが看護にあたった兵士の一人は、左腕の肘から下を食いちぎられ、全身に裂傷を負っていた。顔も左半分をえぐられたようで、そのほとんどが包帯におおわれていた。呼気は弱く、もう長くないのは明らかだった。濃いめに希釈した薬液で膿んだ傷口を洗い、包帯を巻きなおした。かすかに兵士の右目がひらいた。唇もわずかに動く。ミネルバはこわばった微笑をむけたが、兵士はまたすぐに眠りに落ちていった。彼の目がふたたびひらかれることはないのだろう。
「殿下」
うなだれていると背後から声がかかった。セルジョだった。ミネルバは顔を取りつくろってふりかえる。
「北より軽歩兵の軍勢が迫っておるとの報が。その数およそ二百」
「わかった。これより迎撃にあたる」
ミネルバはセルジョら竜騎士団第三部隊とともにベーサを発った。パオラたち天馬騎士部隊も後方で支援に当たるべく出撃する。
険しい山々と密林におおわれたドルーアは、南部のマケドニアにくらべて天候が荒れやすい。空にはつねに鉛色の雷雲が立ちこめ、曇天を裂く稲光が幾筋も走っている。上空の風も凪ぐことがない。
ミネルバはひときわ高く飛翔し、眼下を見おろした。鬱蒼と広がる密林の奥に、ベーサに迫る集団をとらえる。
ドルーア傭兵の多くは血に飢えた荒くれ者どもで、諸王国の支配を受けぬ未開部族もふくまれている。まぎれもなく人ではあるのだが、人と戦っていることを忘れさせる異様さがあった。並の傭兵ならば、竜騎士を前にすればすくみあがり、逃げだす者もめずらしくない。しかしドルーア兵はまったくひるむことがない。その目は狂気を宿しており、腕を切り落とされ、胸を貫かれても、まだ立ち向かってくる。痛みも恐怖も感じない不気味な人形を切り伏せるたび、マケドニア兵の精神は疲弊していく。
状況は、日に日に悪化している。討伐軍として前線に派遣されたのは、全兵力の二割程度。マケドニアにはまだまだ余力があるかに見える。しかし、ドルーアの主力はマムクートであり、竜騎士か手練れの天馬騎士でなければまともに渡り合うこともできない。今後どれほど兵力を投入しようとも戦況を一変させるのは厳しいのだ。
なだれこんでくる軍勢を背に、ミネルバは悲壮な面持ちで騎士たちに向きなおる。
「栄光あるマケドニアの騎士たちよ。ベーサを守られねばわれらが祖国に明日はない。侵略者どもを殲滅せよ!」
鬨の声とともに、竜騎士団はドルーア兵めがけて一気に降下した。風を切り、勢いをつけて敵兵を薙ぎ払い、ふたたび空へと飛散する。天馬騎士たちもその俊敏さを活かし、敵兵に一撃を叩きこんでは離脱していった。
戦況はマケドニア側に優位に運んでいるかにみえた。もとより寄せ集めの雑兵など竜騎士団の敵ではない。しかし、いかんせん数が多すぎる。辟易するほどに頑丈なドルーア兵の相手は、連戦つづきの騎士にとって骨が折れるものだった。怪我と疲労ゆえに槍さばきに切れのない者も多い。
討ちもらしたドルーア兵が、疲弊したミネルバめがけて戦斧をふりかぶった。あわてて飛翔したが、騎竜は足を切り裂かれていた。
ミネルバは上空で旋回し、怒りをこめてドルーア兵に止めを刺した。槍を握りしめたまま荒い息を整える。これで終わりではない。傭兵部隊はまだ半数ほど残っている。
ミネルバは前方をにらみつけた。その視線の先に、一人の敵兵が映りこんだ。その者は修道士のような粗末な黒衣をまとった老人で、武器はなにひとつ手にしていない。あの枯れ枝のような体躯ではまともに得物を扱えるはずもない。
それがいったいなんであるのか、ミネルバが気づくには少しの間があった。これまでいくども火竜と戦ってきたが、竜人族というものを直接目にしたことはなかったのだ。
(まさかマムクート……!)
頭上で雷光が閃いた。老人はしなびた腕をのばし、てのひらを天にかざした。その手にはまがまがしく光る石がある。石の輝きに呼応するかのように、フードの奥で双眸が赤く光った。
「全騎、退避せよ!」
ミネルバは叫んだ。閃光があたりをつつむなか、竜騎士と天馬騎士は反射的に上空へ舞いあがった。
目を焼かんばかりの光が老人から放たれた。干からびた大地がゆれ、亀裂が走る。ひりついた空気があたりにたちこめると、天馬たちは高くいななき、主をふり落とさんばかりに棹立ちになった。いかに訓練された天馬であっても本能には抗えはしなかった。
パオラは怯える愛馬を懸命に叱咤していたが、地上の光景に息をのむ。
マムクートが変異したのは、またしても火竜であった。しかもこれまでに討ちとった火竜とは異なり、山のごとき巨体をしていて、黒い妖気をまとっている。
言葉を失うマケドニア騎士を嘲笑うように火竜は咆哮し、火炎をまき散らした。上空にいてもなお、巻きあがる熱気で身を焼かれそうになる。
「イヤシキニンゲンドモヨ」
ドルーア兵の屍を踏みつぶしながら、火竜は不気味なうなり声を発した。
「ワガホノオにヤカレ、クチハテルガイイ」
火竜はすさまじい勢いで紅蓮の炎を吐き出した。炎から逃れようとする騎士を前足をふりまわして追いかける。竜騎士はからくも難を逃れたが、混乱した愛馬を御しきれなかった天馬騎士の一人が鉤爪の餌食となった。左腕から右脚にかけて引き裂かれ、鋭い悲鳴をあげた。なんとか落馬はまぬがれたが、白い天馬の首と腹が鮮血に染まった。
火竜は間髪入れずに火炎を吐き、騎士たちを威嚇する。
さすがのミネルバもこれには心をくじかれそうになった。銀槍を持つ手がふるえている。これは癒えぬ傷の痛みからではない。まぎれもない恐怖からだった。それでも恐怖を忘れようとした。左手で利き手のふるえを抑えこみ、銀槍の穂先を火竜に向ける。
それに気づいた火竜は牙をむき出しにして笑った。ミネルバはひるまず愛竜を駆り、加速させ、火竜の背後に回った。勢いをつけて頸部を切り裂く。たしかな手ごたえはあった。しかし厚い鱗におおわれた火竜に致命傷を与えることはできなかった。
「コシャクナコムスメガ……」
怒った火竜が尾をふりまわした。ミネルバはその軌道をすばやく読み、回避しようとした。が、わずかに目算が狂った。火竜の尾を間一髪でよけたものの、態勢を大きく崩してしまう。そこにすかさず、火竜は前足をくりだした。ミネルバは銀槍を逆手に持ちかえ、固い鱗に突き立てようとした。手に鈍い衝撃が伝わった。一打はたやすく薙ぎ払われ、槍を取り落としそうになった。
「ムダナコトヲ」
嘲笑とともに火竜はもう片方の前足をふりおろした。鋭い五爪が迫る。避けきれない。身をよじることもかなわず、ミネルバはとっさに目を閉じた。一度は命拾いをした。グイドバルドの代わりに生きのびた。しかし今度ばかりはだめだと覚悟した。
息を止め、じっと身がまえていた。しかし、どれほど待っても予測した痛みは訪れなかった。
おそるおそる目をひらくと。あたりには白い靄が立ちこめており、火竜をおおっていた。やがて靄が晴れていくと、腰の曲がった老人の影がうかびあがってくる。
「人間にしてはなかなかのものよ」
喉を鳴らして笑う。
「憶えておくがよい、マケドニアの姫よ。わが名はショーゼン。ふたたびまみえることもあろう」
ショーゼンと名乗ったマムクートは、黒い煙をまとって消えていった。マムクートが用いる魔道の力だろう。
一帯にようやく平安が訪れた。安堵の吐息が次々にもれるなか、セルジョがミネルバのもとに駆けつけた。
「殿下、お見事でございました」
「……違う」
ミネルバはうめくように否定した。
セルジョが怪訝そうな顔つきになったが、ミネルバはさらにかぶりをふった。
あのマムクートはおのが不利を悟って引いたのではない。みずからの意思で化身を解き、戦いをやめたのだ。マムクートと戦って死者が出なかったのは僥倖と言えるのかもしれない。しかしベーサの襲撃にしろ、ドルーアにもてあそばれているだけに思え、ミネルバは歯噛みした。
「……すまぬ。呆けてしまっていた」
地上を一望して、セルジョに向きなおる。
「ひとまずあのマムクートは退いた。ドルーア軍も殲滅できた。負傷者は出たが、目的は達せられた」
ミネルバは声を張った。
「全騎、ベーサ砦に帰還せよ」
留守をあずかった竜騎士セルジョ・アゴストは、ミネルバの前で無念そうに膝を折った。ミネルバはうなだれるセルジョの肩にそっと手をおく。
「そなたの働きには感謝せねばならない。ベーサを守りとおしてくれたのだから」
ミネルバは色のない顔に、しいて微笑をたたえた。
ベーサ砦は、百年前の解放戦争においてアイオテとその仲間たちが帝国との戦いに用いた重要拠点である。ドルーアとマケドニアの国境は、東西にのびるタルカ山脈によって分断されている。その狭隘部に築かれたベーサ砦は、もとは竜人族の遺跡で、いにしえの時代より存在していたという。アイオテ王の時代、十年かけて砦の補強が行われ、いまも当時のままの姿で残されている。
この百年、ベーサ砦は未開部族の侵入を防ぐ役割のみを果たしてきたが、こたびのドルーアとの戦いにおいても、けっして奪われてはならぬ拠点とみなされていた。アイオテが七年ものあいだ帝国との戦いをつづけてこられたのは、この天然の要害がマムクートの南下を阻み、なおかつ迎撃に適していたためとされる。ベーサの南、スミルス要塞群までは平地がつづく。スミルスはかつて王都を防衛するために築かれた砦だったが、いまでは小隊の駐屯地でしかない。ベーサ砦を奪われれば、一気に王都まで攻め入られる。そうなることを見越して、すでに北部国境に近い村民は南へ避難させている。
だが、王都での戦いなど想定すべきではない。仮に籠城戦となれば、果敢なマケドニアの民は武器をとって戦おうとするだろう。しかし民に武器をとらせる状況となれば、それはもう敗北なのだ。王都は強固な構えを誇る城郭都市だが、マムクートの軍勢に包囲されたなら長くは持ちこたえられないだろう。
セルジョから状況報告を受けたのち、ミネルバは要塞内を見て回った。負傷兵のうめき声が通路にまでもれている。僧侶が懸命に看護にあたっているが、気休めにしかならないだろう。それでも、悲痛なうめきが聞こえるうちはまだよい。砦の一室は、遺体を安置するだけの場となっていた。
ミネルバはしばらくその部屋の前から動けず、勇敢なる騎士たちに鎮魂の祈りを捧げた。
長い夜が明けた。こうしてまた一日、ベーサで朝日を望むことができた。
早朝よりミネルバはパオラとともに負傷兵の看護に当たっていた。人手がまるで足りておらず、充分な手当てもできない状態だった。昨夜のうちにさらに二人が息を引きとった。まだ脈はあるものの、目を覚まさぬ者も増えた。マムクートに負わされた傷は刀傷とくらべ治りが遅い。ミネルバも火竜に傷を負わされたが、僧侶の治癒術を受けても傷がなかなか塞がらず、痛みも緩和されなかった。さらに何日にもわたって高熱がつづき、体力が削りとられていくのだ。
ミネルバが看護にあたった兵士の一人は、左腕の肘から下を食いちぎられ、全身に裂傷を負っていた。顔も左半分をえぐられたようで、そのほとんどが包帯におおわれていた。呼気は弱く、もう長くないのは明らかだった。濃いめに希釈した薬液で膿んだ傷口を洗い、包帯を巻きなおした。かすかに兵士の右目がひらいた。唇もわずかに動く。ミネルバはこわばった微笑をむけたが、兵士はまたすぐに眠りに落ちていった。彼の目がふたたびひらかれることはないのだろう。
「殿下」
うなだれていると背後から声がかかった。セルジョだった。ミネルバは顔を取りつくろってふりかえる。
「北より軽歩兵の軍勢が迫っておるとの報が。その数およそ二百」
「わかった。これより迎撃にあたる」
ミネルバはセルジョら竜騎士団第三部隊とともにベーサを発った。パオラたち天馬騎士部隊も後方で支援に当たるべく出撃する。
険しい山々と密林におおわれたドルーアは、南部のマケドニアにくらべて天候が荒れやすい。空にはつねに鉛色の雷雲が立ちこめ、曇天を裂く稲光が幾筋も走っている。上空の風も凪ぐことがない。
ミネルバはひときわ高く飛翔し、眼下を見おろした。鬱蒼と広がる密林の奥に、ベーサに迫る集団をとらえる。
ドルーア傭兵の多くは血に飢えた荒くれ者どもで、諸王国の支配を受けぬ未開部族もふくまれている。まぎれもなく人ではあるのだが、人と戦っていることを忘れさせる異様さがあった。並の傭兵ならば、竜騎士を前にすればすくみあがり、逃げだす者もめずらしくない。しかしドルーア兵はまったくひるむことがない。その目は狂気を宿しており、腕を切り落とされ、胸を貫かれても、まだ立ち向かってくる。痛みも恐怖も感じない不気味な人形を切り伏せるたび、マケドニア兵の精神は疲弊していく。
状況は、日に日に悪化している。討伐軍として前線に派遣されたのは、全兵力の二割程度。マケドニアにはまだまだ余力があるかに見える。しかし、ドルーアの主力はマムクートであり、竜騎士か手練れの天馬騎士でなければまともに渡り合うこともできない。今後どれほど兵力を投入しようとも戦況を一変させるのは厳しいのだ。
なだれこんでくる軍勢を背に、ミネルバは悲壮な面持ちで騎士たちに向きなおる。
「栄光あるマケドニアの騎士たちよ。ベーサを守られねばわれらが祖国に明日はない。侵略者どもを殲滅せよ!」
鬨の声とともに、竜騎士団はドルーア兵めがけて一気に降下した。風を切り、勢いをつけて敵兵を薙ぎ払い、ふたたび空へと飛散する。天馬騎士たちもその俊敏さを活かし、敵兵に一撃を叩きこんでは離脱していった。
戦況はマケドニア側に優位に運んでいるかにみえた。もとより寄せ集めの雑兵など竜騎士団の敵ではない。しかし、いかんせん数が多すぎる。辟易するほどに頑丈なドルーア兵の相手は、連戦つづきの騎士にとって骨が折れるものだった。怪我と疲労ゆえに槍さばきに切れのない者も多い。
討ちもらしたドルーア兵が、疲弊したミネルバめがけて戦斧をふりかぶった。あわてて飛翔したが、騎竜は足を切り裂かれていた。
ミネルバは上空で旋回し、怒りをこめてドルーア兵に止めを刺した。槍を握りしめたまま荒い息を整える。これで終わりではない。傭兵部隊はまだ半数ほど残っている。
ミネルバは前方をにらみつけた。その視線の先に、一人の敵兵が映りこんだ。その者は修道士のような粗末な黒衣をまとった老人で、武器はなにひとつ手にしていない。あの枯れ枝のような体躯ではまともに得物を扱えるはずもない。
それがいったいなんであるのか、ミネルバが気づくには少しの間があった。これまでいくども火竜と戦ってきたが、竜人族というものを直接目にしたことはなかったのだ。
(まさかマムクート……!)
頭上で雷光が閃いた。老人はしなびた腕をのばし、てのひらを天にかざした。その手にはまがまがしく光る石がある。石の輝きに呼応するかのように、フードの奥で双眸が赤く光った。
「全騎、退避せよ!」
ミネルバは叫んだ。閃光があたりをつつむなか、竜騎士と天馬騎士は反射的に上空へ舞いあがった。
目を焼かんばかりの光が老人から放たれた。干からびた大地がゆれ、亀裂が走る。ひりついた空気があたりにたちこめると、天馬たちは高くいななき、主をふり落とさんばかりに棹立ちになった。いかに訓練された天馬であっても本能には抗えはしなかった。
パオラは怯える愛馬を懸命に叱咤していたが、地上の光景に息をのむ。
マムクートが変異したのは、またしても火竜であった。しかもこれまでに討ちとった火竜とは異なり、山のごとき巨体をしていて、黒い妖気をまとっている。
言葉を失うマケドニア騎士を嘲笑うように火竜は咆哮し、火炎をまき散らした。上空にいてもなお、巻きあがる熱気で身を焼かれそうになる。
「イヤシキニンゲンドモヨ」
ドルーア兵の屍を踏みつぶしながら、火竜は不気味なうなり声を発した。
「ワガホノオにヤカレ、クチハテルガイイ」
火竜はすさまじい勢いで紅蓮の炎を吐き出した。炎から逃れようとする騎士を前足をふりまわして追いかける。竜騎士はからくも難を逃れたが、混乱した愛馬を御しきれなかった天馬騎士の一人が鉤爪の餌食となった。左腕から右脚にかけて引き裂かれ、鋭い悲鳴をあげた。なんとか落馬はまぬがれたが、白い天馬の首と腹が鮮血に染まった。
火竜は間髪入れずに火炎を吐き、騎士たちを威嚇する。
さすがのミネルバもこれには心をくじかれそうになった。銀槍を持つ手がふるえている。これは癒えぬ傷の痛みからではない。まぎれもない恐怖からだった。それでも恐怖を忘れようとした。左手で利き手のふるえを抑えこみ、銀槍の穂先を火竜に向ける。
それに気づいた火竜は牙をむき出しにして笑った。ミネルバはひるまず愛竜を駆り、加速させ、火竜の背後に回った。勢いをつけて頸部を切り裂く。たしかな手ごたえはあった。しかし厚い鱗におおわれた火竜に致命傷を与えることはできなかった。
「コシャクナコムスメガ……」
怒った火竜が尾をふりまわした。ミネルバはその軌道をすばやく読み、回避しようとした。が、わずかに目算が狂った。火竜の尾を間一髪でよけたものの、態勢を大きく崩してしまう。そこにすかさず、火竜は前足をくりだした。ミネルバは銀槍を逆手に持ちかえ、固い鱗に突き立てようとした。手に鈍い衝撃が伝わった。一打はたやすく薙ぎ払われ、槍を取り落としそうになった。
「ムダナコトヲ」
嘲笑とともに火竜はもう片方の前足をふりおろした。鋭い五爪が迫る。避けきれない。身をよじることもかなわず、ミネルバはとっさに目を閉じた。一度は命拾いをした。グイドバルドの代わりに生きのびた。しかし今度ばかりはだめだと覚悟した。
息を止め、じっと身がまえていた。しかし、どれほど待っても予測した痛みは訪れなかった。
おそるおそる目をひらくと。あたりには白い靄が立ちこめており、火竜をおおっていた。やがて靄が晴れていくと、腰の曲がった老人の影がうかびあがってくる。
「人間にしてはなかなかのものよ」
喉を鳴らして笑う。
「憶えておくがよい、マケドニアの姫よ。わが名はショーゼン。ふたたびまみえることもあろう」
ショーゼンと名乗ったマムクートは、黒い煙をまとって消えていった。マムクートが用いる魔道の力だろう。
一帯にようやく平安が訪れた。安堵の吐息が次々にもれるなか、セルジョがミネルバのもとに駆けつけた。
「殿下、お見事でございました」
「……違う」
ミネルバはうめくように否定した。
セルジョが怪訝そうな顔つきになったが、ミネルバはさらにかぶりをふった。
あのマムクートはおのが不利を悟って引いたのではない。みずからの意思で化身を解き、戦いをやめたのだ。マムクートと戦って死者が出なかったのは僥倖と言えるのかもしれない。しかしベーサの襲撃にしろ、ドルーアにもてあそばれているだけに思え、ミネルバは歯噛みした。
「……すまぬ。呆けてしまっていた」
地上を一望して、セルジョに向きなおる。
「ひとまずあのマムクートは退いた。ドルーア軍も殲滅できた。負傷者は出たが、目的は達せられた」
ミネルバは声を張った。
「全騎、ベーサ砦に帰還せよ」
