マケドニア598(本編)

 父王の前を辞したミネルバは東の城塔へと向かった。きっと兄はそこにいるとわかっていた。
 夜になり、塔の屋上には強い風が吹き荒れている。向かい風のなか、ミネルバは顔にかかる長い髪を手で押さえ、側壁によりかかる兄に近づいた。あと数歩というところで立ちどまり、声をかけあぐねていると、ミシェイルはわずかに目線をミネルバにむけた。その表情はさっきよりも少しやわらいでいた。
「ミシェイル」
 駆けよって顔をのぞきこんだ。
 兄は双眸を沈鬱にふせる。
「親父はまだ怒っていたか」
「それはもちろん。わが国を侵すドルーアを許しがたくお思いだもの」
「無用の気を回さずともよい」
 ミシェイルは苦笑しながら天を仰いだ。
 ミネルバあきれ声を作る。
「メスト公から聞いたわ。シモンがひどく焦っているのですって」
「あれは下劣なだけで愚鈍ではないからな。前線からの知らせだけで充分に戦況を読んでいるのだ」
「戦況をわかっているくせに王都に居座ってるのね。籠城戦になる前にパレスに逃げ帰ると思っていたのに」
「パレスに帰れば無位の田舎貴族に逆戻りだ。この国に滅んでもらっては困るのだろう」
「なあんだ、少しは父上に尽くす気持ちが芽生えてくれたのかと」
「おい、冗談でも笑えんぞ」
 そう言いながらもミシェイルは顔をほころばせた。その様子に、ミネルバは安堵から目を細める。
 彼らにとってシモン・ネイヤールを揶揄することは、気候の話題を交わすよりも身近なことだった。ことあるごとに内政に容喙し、父王を辱めるアカネイアの弁務官を、二人は幼いころから憎んできた。
「こんなときぐらい、シモンがアカネイアに取りなしてくれればと思っていたのだけど」
「無駄な期待ははじめからするな」
 ミシェイルは嘆息する。
「シモンの使節が戻らぬことぐらい、おまえにもわかっていただろう」
「プラージ伯はドルーアの妨害だろうと」
「おめでたいことだ。逃げ帰った官吏がどれだけいると思っている。やつらのすべてをドルーアが抹殺したと?」
「……そうね。彼らに期待するだけ無駄だったの。だから今度は父上がパレスにゆかれるのよ」
 この一言で、なごみかけていた空気が一転した。ミシェイルの眉がつりあがる。
「パレス行きはどうせメスト公が言い出したことだ。これまでさんざん国益のためとアカネイアにへつらってきた以上、援軍さえ取りつけられぬなら、やつは失脚だ。盲の王を晒し者にしてでも、パレスの貴族どもの憐れみを買いたいのだろう」
「言葉がすぎるわ」
「事実を言っているだけだ」
 ミシェイルは鼻で笑う。
「言っておくが、メスト公などシモンとおなじだ。あの男は親父をこれまで好きにあやつってきたではないか」
「なんてことを言うの」
「おまえ、あやつが赤心から親父に仕えてきたと思っているのか。あの男はどうやっていまの地位を手に入れた?」
「そんなもの、くだらないあげつらいだわ」
「あいかわらずおまえはこの手のことに疎いな。覚悟しておけよ、ミネルバ。やつらの次の狙いはおまえなのだから」
 ミネルバが目をしばたたかせると、わからんか、とミシェイルは笑う。
「グイドが死んだいま、やつは息子をおまえの婿にねじこもうと考えているだろう。とうに三十をすぎた一人息子の縁談、いままでまとめずにいたかいがあったというものだな、グイドの死を聞いたとき、やつは内心ほくそ笑んでいただろうさ」
 ミネルバの反応を楽しむように唇をつり上げる。
「ヴェーリもそうだ。グルニアにいる娘を俺の妃とするのは諦めたようだが、今度は息子をおまえにあてがう心づもりだ。竜騎士にもなれぬあの不出来な男をな。いったいなんの冗談かと思うが本気のようだぞ。プラージとてまだ一人息子がいるではないか。グイドを死なせたおまえの負い目につけこめば、いかようにでもなると――」
「もういいかげんにして!」
 耐えきれず、ミネルバは叫んだ。
「いまはそんな話をしているときではないでしょう!」
「いまだからこそ言っている。親父がやつらを好きにのさばらせた結果がこのざまだ」
 ミネルバは黙した。それはある意味で真実だった。
 父オズモンドは第四代マケドニア王として十六で即位したが、その二十数年にわたる治世は弁務官シモン・ネイヤールのあやつり人形であった。これは歴代すべてのマケドニア王がたどる道でもあった。
 そんな父が少年のころより全幅の信頼をあずけてきたのが宰相エラルド・メストである。メスト公はその辣腕により、軍備を大幅に強化し、辺境の蛮国と呼ばれたマケドニアを軍事大国の地位にまで押し上げた。大きく歴史を動かした実力者ながら、宮廷には宰相への反感がつねにくすぶっていった。
 メスト公は姪のモイラをオズモンドの妃にすえ、その立場を利用して宮廷の要職は血族たちで固めた。メスト公自身は王の意に忠実であったが、その親族にはシモンと結託し、王に不利益を働く者もいた。そんな癒着さえ国策の一環とみなすやり方は多くの敵も作ったが、ヴェーリにプラージ、王家に連なる貴族たちの結束もあって、メスト家の宮廷での地位は盤石であった。
 その岩盤に亀裂を入れたのが八年前、大陸全土を襲った大飢饉である。王の無策に対する謗りはメスト公にも向かった。姪のモイラ妃もすでになく、メスト家の権勢にも陰りが見えはじめていたが、それでもオズモンドはメスト公を宰相の地位に留めおき、変わらぬ信頼をかたむけた。王が病を得てのちは、政務のほとんどを宰相が肩代わりしており、弁務官から繰り糸を奪った男と揶揄されてもいた。
 メスト公一派への反感が強まりつつあるのは、王の病と、ミシェイルが成年に達したことだろう。父王に代わって竜騎士団を率いる王太子の雄姿は新時代の到来を民に見せつけるものだった。
 もはや耐えるときは終わった、弁務官によるいっさい干渉を排除せよ。そう声高に唱えるミシェイルは、ラディス・シェンケルら若い騎士たちの支持を集めた。
 沈みゆく夕日と上りゆく朝日。
 あたらしい時代への期待が、すでに深まっていた父と子の分断を深め、メディウス復活という難局においてむなしいすきま風を吹かせている。
 前線の兵士たちを想えば、これほど歯がゆいこともない。
「……父上のこと、誰がどんなふうに思っていようと、わたしたちだけは父上の味方よ。ね、そうでしょう?」
 ミネルバは兄の腕にふれ、目が合うと笑みをうかべた。
「父上はアリティアにもゆかれるのよ。すでに援軍の約束は取りつけておられて、コーネリアス王は遠征の準備をなされているとか」
 それは知らなかったようで、ミシェイルの目が見ひらかれた。
「わたしはアリティアを信じているのです。なにもアンリの伝説にすがろうというのではありません。コーネリアス王は名将と名高き方。アカネイアの言いなりとはならず、きっとわれらの力となってくださるはず。だから、いまのわたしにできることは、父上がお戻りになるまで時間を稼ぐこと、それだけです」
「ばかめ。それまでやつらを食い止められると思っているのか」
「思っています」
「たかが火竜一匹討ちとったぐらいで思いあがるな」
 怒りをふくんだ厳しい声だった。
 ミネルバは微笑をうかべたまま、まっすぐ兄に向きなおる。
「思いあがってなどいません。……これからもっと多くの死を目の当たりにすることになるのはわかっています。わたしが失われた命を数えていられるのもいつまでつづくかわかりません。明日か、それとも明後日か……。死は、恐ろしいと思います。それでもわたしは恐れてはいけないのです。ただ希望を胸に、戦いつづけるだけ」
「戯れ言はもうよい」
 ミシェイルはくるりと身をかえした。その鋭く細められた目は、遠くドルーアの方角をにらみつけている。
 ミネルバも兄の視線を追った。
 今日の昼まではベーサ砦にいた。いまごろ前線はどうなっているのだろうか。兵士はゆっくり眠れているのだろうか。それでもこれは一時の安息にすぎない。しばし猶予が与えられているとのことだが、いつ何時戦いが始まるかわからない。
 早く戻らなければ。
 ミネルバは顔をそむけたままの兄に苦笑を残し、きびすを返そうとした。その背に、声がかかった。
「明日、戻るのか」
「はい、できれば早朝に。しばしの休息にはなりました」
 ミシェイルが歩みより、いきなりミネルバの右腕をつかんだ。
「傷は、まだ癒えてはいないのだろう?」
「もう平気です」
「強がるな」
「強がってだなんて――」
 ミシェイルの手に力がこもった。嘘を戒めるかのようだった。
「ほんとうに、それでいいのか」
「えっ……」
「父上はおまえのこともわかってはいない。いや、おまえのその口先だけの強がりに甘えているだけか。どちらにしてもあの方の目は、ほんとうになにもお見えではないようだな。ただ耐えることが美徳と思っておられる。いっそ……」
 冷えた指で、頬をなぞる。
「おまえが死ねば、あの方は長い眠りから目を覚まされるのか」
 その声にはすがるような響きがあった。
「……ミシェイル?」
 微動だにできずにいると、強く抱きしめられていた。あまりに強い力のせいで、ふるえているかに思えるほどだった。
 ミネルバは驚いたものの、兄の背に手をまわし、ゆっくりとその背をなでた。こんなにも弱りきった兄はめずらしい。しかしそれも無理からぬことである。ドルーアの侵攻が始まってから、兄は前線と王城を何度も行き来し、王城では父や廷臣らと激論を交わし、武官とは防衛策を練っている。疲れていないはずがなかった。
 しばらくそのぬくもりに身をゆだねていたが、なごりおしげに身体を起こした。
「わたしがこの戦いで命を落としても、父上がお考えを変えられることはないわ。おやさしいけれど、そういう方だから」
 兄に向けて笑って見せたものの、ふいに涙がにじみかけ、ミネルバはあわててうつむいた。
「……なぜこの国ばかりが災厄に見舞われるのかと神に問いたくなるときもあります。民の幸福のため、国を豊かにすること、それがわたしの望みでした。わたしがこうして生きていられるのも、多くの民の犠牲の上にあるもの。彼らに報いるべく、マケドニアをアカネイアを凌ぐ大国にすると、それだけを願って生きてきましたが、夢を叶えられぬままわたしは果てるのかもしれません。それでも」
毅然と兄をみつめる。
「不幸な巡り合わせを呪ってみても詮なきこと。わたしは自分のなすべきことをなすために戻ります。だからミシェイルもどうか――」
「ミシェイル殿下」
 さえぎるように声がかかった。ふたりは同時にふりかえり、声の主を見やった。オーダイン将軍であった。
 白髭をたくわえた老将軍が、軍靴を鳴らして歩みよってくる。
「すでに武官らが集っております。どうぞ広間へお越しを」
「いまから軍議なの?」
「……ああ」
「それならわたしも――」
 いや、とミシェイルは首を横にふった。
「どうせ形だけの会合なのだ。出る必要はない」
「でも」
「おまえは早朝に発つのだろう。もう休め。なにかあれば追って伝える」
 そう強くうながされては引き下がるほかない。
「軍議では父上と言い争いなどなさらないで。いまは仲たがいなどされているときではないでしょう? どうか父上を支えて、力になってさしあげて」
「わかっている」
 ミシェイルは吐息まじりに言って、もう行けとミネルバの背を押した。オーダインはミネルバに微笑を向け、うやうやしく礼をとった。
 騎士団長をつとめるオーダインは、王と王太子の対立には直接関与せず、いかに国境線を守りきるかに注力していた。しかし宮廷は割れている。武官たちでさえドルーアを巡る方針はまちまちで一貫性はない。北部に領地をもつ貴族ら領民を守るべく総力を挙げての殲滅戦を望んでおり、王に決断を迫っている。一方で王都に籠城し、援軍を待つべしと主張する者も多い。いずれもが、ベーサ砦が落ちるのは時間の問題だと考えている。だからこそミシェイルの提案に心を動かされる者も少なからずいるのだ。彼らはドルーアとの同盟にも理解を示していることだろう。
 危機感をつのらせる貴族たちに対し、メディウス復活に半信半疑の者もいまだいる。マムクートどもが暗黒竜復活を吹聴し、脅しをかけているだけだ、姿をあらわさぬのがその証拠だと、いまだに目をそらそうとしている。
 百年ものあいだおとなしかったマムクートがいきなり牙を剥きはじめたのはなんだというのか。平和に慣れ、迫りくる危険を感知することもできなくなったのか。ドルーアと近接するマケドニアさえこのありさまなのだ。海を遠く隔てたアカネイアがドルーアの脅威を理解できずとも無理もないのだが、アカネイアはかつてドルーアに滅ぼされているというのにまた百年前とおなじ轍を踏もうというのだろうか。

 苦い想いを抱えたまま、塔を後にしたミネルバは自室に戻ろうとしたのだが、途中ふと思い返し、西翼のマリアの部屋へ足を向けた。城に戻ったらすぐに会いに行くと約束していたというのに、すっかり失念してしまっていた。
 音を立てぬよう扉を開けると、室内の明かりは消えていた。月明かりを頼りに寝台をのぞきこむと、マリアはすでに眠っていた。しかし掛布をまとわず、枕を両手で抱いている。眠気をこらえながらも眠ってしまった、という様子だった。
 青白い月光が、あどけない寝顔を照らしている。ミネルバは膝をつき、そっと髪をなでた。するとまつげがふるえ、重たげにまぶたがひらく。マリアは目をこすり、ぼんやりと視線をただよわせていた。
 ミネルバは笑いをこらえながら、マリア、とやさしく呼びかけた。マリアは大きく目をあけ、いきおいよく起きあがった。
「ミネルバ姉さま、いつお戻りになったの」
「少し前よ」
「あのね、今日姉さまが戻られるってパオラから聞いてたからね、眠らずに待ってたの」
「ありがとう。遅くなってごめんねマリア」
 ミネルバは顔をほころばせ、愛しい妹を抱きしめる。
「明日もいらっしゃるの?」
「いいえ、明日の朝には戻らないといけないわ」
 マリアの眉がみるみる下がった。唇はかたく結ばれてしまう。
 ミネルバは笑みをうかべたまま、少し目をそらした。妹の悲しげな顔を見るのはつらい。
「またすぐに帰ってくるわ」
「すぐっていつ? またひと月くらい?」
「そうね」
「……一か月はとても長かったわ」
「それじゃあ、今度はもっと早く帰ってくるわ」
「ほんと? 約束よ」
「ええ、約束」
 ミネルバが小指をさしだすと、マリアも自分の小指をからめた。うれしそうに指を切ったものの、ふいに泣きそうな顔になり、ぎゅっと腕を回してしがみついてくる。ミネルバはマリアの体を引きよせ、髪をなでた。
「どうしたの」
「……昨日からずっとね、父さまと兄さまが怒ってばかりいたの」
 髪をなでる手が、一瞬とまる。
「ふたりともね、とっても怖い顔をしていてね、大きな声でけんかばかりしていたの」
「マリア」
 ミネルバは妹の目をのぞきこむ。
「お父さまもお兄さまもね、おたがいを憎く思って言い争われているのではないのよ。いまマケドニアはとても大変な時なの。おふたりとも国を守るために必死になっておられるのよ。わかるわね」
「はい、姉さま」
 マリアはうなづいたものの、そのままうつむいてしまった。
 ミネルバは手をぐっと握りしめ、明るい声音をつくった。
「もう遅いから、お眠りなさい」
 なだめすかすように、額にそっと口づける。
 ミネルバはマリアが寝入ってしまうまで、その手を握り、枕辺によりそっていた。手をとおして伝わるぬくもりがここちよく、このうえもなく愛おしかった。
 いまだけは平和だ。こんな時がいつまでもつづけばいい。けれどそんなわけにはいかない。弱きものを守るため、みな決死の覚悟で戦っているのだから――。
 なごりおしげに手を離し、ミネルバは部屋を後にした。ゆっくりと扉を閉めると、長いため息をつき、そのままに扉にもたれかかった。いきなり強い疲労に襲われ、倒れこんでしまいたい衝動に駆られた。
 戦場ではずっと気を張っていた。前線を離れて安全な城へ戻り、もう二度と還らぬかに思えた平穏にふれた。そのせいで心が弱くなってしまったのかもしれない。
 明朝にはここを発つのだ。早く体を休めなければ。はたして次は戻ってこられるのだろうか。余計なことを考えてはいけない。わたしは強くあらねばならないのだから。そう言い聞かせながらも、恐怖に心臓をつかまれている。
 ――御身をお守りすることが叶い、本懐にございます。惜しむらくは、祖国の行く末を見守ること叶わず……
 それが、グイドバルド・プラージの最期の言葉だった。竜騎士団第一部隊長であったグイドバルドは、ミネルバをかばって火竜の爪に胸と腹を裂かれた。ミネルバも左上腕と脇腹に深い傷を負ったが、痛みなどほとんど感じてはいなかった。目の前で起こったことが信じられなかった。血を吐き倒れ伏したグイドバルドの手を握り、何度もその名を呼んだ。しかし彼がこたえることはなかった。ミネルバの手のなかにそのぬくもりを残したままグイドバルドは息絶えた。
 ――ほんとうに、それでいいのか。
 それは、ミネルバの迷いと恐れを見透かすかのようだった。
 のたうち回り、絶命した騎士たちの姿が思い出される。彼らはおのが身になにが起こったのかわからぬまま、その生を終えた。ほんの少し前までは冗談を言って笑いあっていた。戦闘が始まるその瞬間まで恐怖さえ感じていなかっただろう。若者たちは初めての戦場で、火竜の五爪に貫かれ、灼熱の炎に焼かれた。逃げることもかなわぬまま蹂躙された。あの無惨な姿は明日の我が身であるやもしれない。
 これでいいなんて思ってない。それでもわたしは――
 かつん、と足音が響き、ミネルバはびくりと顔をあげた。
 暗い廊下の奥にほのかな明かりが見える。そこには燭台を手にしたパオラの姿があった。いつからいたのだろうか。ミネルバは暗い廊下を進み、パオラの前に立った。
「マリアさまは眠られましたか」
「ええ」
「ミネルバさまのお帰りをいまかいまかとお待ちになっていたんです。お戻りが遅くなるかもしれないとお伝えしたのですが、夜が更けてもかたくなに眠るのを拒まれて……。早くお顔をごらんになりたかったのでしょう。ミネルバさまが戦場に出られてから、毎日ご無事を祈っておられましたから」
「あの子はほんとうにやさしい子ですね」
 ミネルバは少し頬をゆるませた。しかしその目に力はなかった。
「可哀想なことです。ドルーアの侵攻が始まってからというもの、多くの者が恐怖に怯えています。あの子も王城をただようただならぬ空気をいやがおうにも感じとっているのでしょう」
 パオラはかたい表情のままうなづいた。
「明日の朝、お発ちになるそうですね」
「ええ。わたしが留守のあいだ、マリアに気を配ってあげてください」
「ミネルバさま」
 パオラが神妙な顔つきで迫る。
「わたしもお供いたします」
「あなたはよしたほうがいい。相手はマムクートです。賊の討伐とはわけが違うのです」
「だからこそです」
 燭台を持つ手が小刻みにふるえている。
「ひどい怪我を負われたと聞きました。一歩間違えればお命も危うかったと」
「それでもわたしは生きています。命あるかぎり、国のためそのすべてを捧げる。それがわたしのつとめ」
「なれば、主君をお守りするのがわたしのつとめです」
 両の手に力がこめられる。
「この国家の一大事に、主君を前線に立たせ、臣下が安全な場所でただ待つなどできません。わたしにも守りたいものがあります。守るために戦いたいのです。ですから」
 どうかおそばに。パオラは深くこうべを垂れた。
 乳母の娘だったパオラは、記憶もおぼろげなころからミネルバのそばにいた。やさしい母親によく似て、気性はおだやかで、妹たちへの慈しみにみちあふれていた。やがて彼女は妹たちとともに騎士を志した。女官になる道もあったというのに、主君に仕えるためと言い張ってその清らかな手に剣をとった。天馬騎士となり、晴れて白騎士団に名を連ねるようになっても、生来のたおやかさは変わらぬままだった。
 しかしいま、ミネルバの前にいるパオラは、やさしい乳母の娘ではなかった。祖国を守る騎士の気迫をまとっていた。国難が彼女を変えたのだろうか。それとも彼女のなかに眠る情熱をミネルバが知らなかっただけなのだろうか。
 ミネルバはパオラの肩に手をおいた。顔をあげたパオラに、感謝します、と微笑した。その目にはかすかに光るものがあった。
「あなたのような騎士の忠義を得られるなど……わたしはなんという果報者でしょうか」
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