悲しみの雨

 寒さが、わたしを眠りの底から引きあげた。うっすら目を開けて、また閉じる。身じろぎするのも億劫で、ふたたび眠りに囚われそうになる。
 それを阻んだのは自身の愛竜イージスだった。鼻先でやさしく肩をゆさぶってくる。
 どのぐらいのあいだ気を失っていたのだろうか。ここがどこかわからない。視界に映るのは覆い茂る高い木々。あのまま山中へ落下したというのか。
 痛む身体を起こし、空を見あげる。
 あんなところから落ちたというのによく生きていられたものだ。つくづく運のよいこと。あの程度では死ねぬというのか。
 笑いを嚙み殺していると、イージスの鼻先が肩にふれた。甘えるようなそぶりだった。そう、あなたが助けてくれたのね。鱗におおわれた首をなでようとしたとき、腕に鋭い痛みが走った。戦いのさなか、利き腕に矢を受けたことを思い出す。
 無数の矢が、わたしたちに雨あられと降りそそいだ。王さえも射抜かんばかりの一斉射撃だったが、王に矢が届くことはないとわかっていたはずだ。だからあの矢はもっぱらわたしを狙ったもの。気づくのが遅れ、避けきれずに肘と脇腹を射られた。
 まったく、やつらにはずいぶんと恨まれたものだ。
 ぼんやりと空を仰ぐ。雨が顔に降りかかってくる。昨夜から降りつづいた雨は正午には止んでいたが、鉄灰色の雲が重く立ちこめていた。上空には強い風が吹き荒れ、竜騎士たちの連携を大きく妨げた。
 この決戦の時、好天に恵まれぬことこそ神に見放された証左と言えよう。兄は神など信じぬと吐き捨てるのだろうが、勝機はとうの昔に失せていた。それがわからぬほど愚かな男ではあるまい。
 あやまちは、いつ始まったのか。
 どこから狂っていったのか。
 あのとき王城を離れなければと何度悔やんだかしれない。時間はけっして戻りはしない。ただ前へと向かってゆくだけ。
 そしていま、予期した終焉が訪れようとしている。
 首をめぐらし、木々の根元を見やった。目をこらして兄の姿を探す。光は厚い雨雲と木々にさえぎられ、夜と大差ないほどに薄暗い。
 戦いはもう決着がついたころだろうか。勝敗は戦いの前から決していたが、王城の制圧には時間を要するかもしれない。だがすでに捜索の部隊は動いているだろう。
 早く兄をみつけださなくては――。

 あの一撃ののち、わたしたちはともに飛竜から落ちた。兄の手はわたしの手首をつかんでいた。真っ逆さまに落ちてゆくなか――まだ意識が残っているうちは手をつかまれている感覚があった。だからきっと兄も近くにいるはずだ。
 脚に力を入れ、立ちあがろうした。しかし体が言うことをきかない。甲冑をこれほど重く感じたことはない。
 イージスが叱咤するように高くうなった。すがりつくようにイージスの首を抱きしめ、くずおれそうになりながらもなんとか立ちあがる。
 イージスが鼻でしめす先にはメティスがいた。羽をたたんだメティスの足元に、兄がうつぶせに倒れていた。メティスは主を守るかのように静かにたたずんでいる。
 兄のメティス、わたしのイージス。
 この仲のよい二匹が離れていたのは、わたしが兄のもとを去ったから。主たちの事情など彼らには知るよしもない。なにも知らぬからこそ、主の意思に従い、死闘をくりひろげたのだ。
 わたしたちが槍の穂先をたがいに向けたとき、イージスとメティスはなにを想ったのだろうか。いつもの訓練だとでも思ったのか、それとも……
 力の入らぬ脚を懸命に前へと進めた。鎧が重い。息が乱れる。あと一歩というところで草に足をとられ、膝をついた。鼓動が早鐘を打ち、息がつまる。歯を食いしばり、這うように兄のもとへにじりよる。肩に手をかけたとき、矢を受けた腕に痛みが走ったが、かまってはいられない。力をこめ、甲冑をまとった身体を反転させる。
 顔にかかる髪をはらうと、その目はかたく閉じられていた。腕を背にまわし、抱きおこすと、槍で貫いた胸甲から血が流れていた。ぬぐってもぬぐっても、いっこうに血はとまらない。
 籠手を外し、ふるえる手で首筋にふれてみた。わずかに脈を感じた。
 生きている――!
 胸に歓喜が走った。
 じっと、膝のうえの兄を見おろす。いつも険しく寄せられていた眉根はゆるくひらかれ、口元にたたえていた皮肉な笑みも消え失せている。
 兄の、こんなにもやすらいだ顔を見るのはいつぶりだろう。王となってからはいつも気を張っていた。うたた寝などめったにしない。つねに剣を佩き、ひりついた空気をまとわせていた。いくどかの暗殺騒ぎをへて、まったく人を寄せつけなくなった。死を恐れてはいなかったが、心やすらかでいられるときはなかっただろう。
 いま、兄は心おだやかでいるのだろうか。
 頬についた血痕をそっと指でぬぐう。

 ……死は、わたしに訪れるはずだった。射抜かれた利き腕は使えず、脇腹からは血があふれていた。おのれの飛竜を御すことも難儀だった。これまででもっとも強く死を意識した。
 槍を左手に持ち換えて挑んだ最後の一撃。いったいなにが起こったのか、わからなかった。わたしの槍は兄の胸甲を貫いていた。すでに手になじんだ肉を裂く感覚が、わたしの腕に、そして胸に響いた。
 わたしたちの運命をへだてたものはなんだったのだろう。神の意思というものがあるのなら、あれがそうではあるまいか。
 いや、あれは神ではあるまい。すべては人の意思と作為のすえだ。
 この戦いも、われらの意思のおもむくままにあつらえられた。兄はけっして座して死を待つことはなく、戦場に討って出てくると思っていた。
 勇者の再来と称えられた者なのだから。
 偉大なる先祖を、その身に見いだされたのだから。
 最後までその名にふさわしくあらねばならなかった。
 だからわたしは王子の制止をふり切って、ひとり、竜騎士団の前に立ちはだかった。そして待った。ただひとりだけを。
 兄もわたしの考えなどお見通しだったようで、王でありながら単騎で前に進み出てきた。
 黒い甲冑。強い風にあおられて流れる赤い髪。
 兄と対峙したとき、不思議と安堵が胸にみちた。思わず笑みをうかべそうになり、あわてて頬を引きしめた。ふたたびまみえるそのときが、終焉だと知っていた。
 これでもうじき終わる。ようやく、終わることができる――

 雫が鼻筋を流れ、頬をつたった。はっとして目元に手をやった。それが涙かに思えた。いいや、そんなはずはない。あるはずもない。おかしくてしかたがなくて、低く笑った。吐く息が白い。寒い。
 早く手当てをしなければ手遅れになる。そう気がはやる一方で、胸の奥に冷えた感情が立ちこめていた。
 なんのために兄を生きながらえさせようというのか。
 兄は生きることを望むのだろうか。
 この誇り高い人が。自尊心の塊のような人が。地位を失くし、国を失くし、なにもかもを失い、それでもなお生にしがみつこうとするだろうか。

 ――ああ、もうこの人に野心などありません。手勢を失い、城は落ち、もはや裸同然。これでどうしてあなた方を害することができるでしょうか――

 ――もとより兄にあなた方への敵意はありません。すべてはあの悪の司祭、ガーネフにあやつられていただけなのです。ですからどうか、この愚かで憐れな兄に慈悲を――

 喉の奥から笑いがもれた。
 ばかばかしい。
 兄は最後の戦いの場に出てきたのだ。おのが野望のためすべてを捧げてきたこの男に、みじめな敗北はふさわしくない。命乞いなぞ、誇りをそこなうものでしかない。与えられるべきは名誉ある死。屈辱的な刑死でも、無様な余生でもない。
 兄ならばわたしになにを望むのか、わかっている。あの手が、あの笑みが、すべてを語っていた。
 くりだした槍がその胸に沈んでいったとき。ほんの一時、兄は笑った。そして驚くわたしの手首をつかみ、いきおいよく引きよせた。わたしはその手をふりほどこうとしたが、できなかった。兄の手は、わたしの迷いを戒めるがごとく、強い力で本懐を遂げようとさせた。
 覚悟はしていたはずだった。これはどちらかが果てる戦いだと。
 なのにわたしの手は石のように動かず、兄の望みを叶えることができなかった。
 戦いは、まだつづいている。
 わたしたちは、どちらもまだ生きている。
 終焉の時が、目の前に迫っている。ここで時をとめるわけにはいかない。さあ、決せねば。定められた結末に向かって。もう一度みずからの手で――。

 草むらに投げ出された槍を見やる。さきほどまで手にしていた、わたしの槍。手放したときは柄も穂先も血で濡れそぼっていたが、雨に洗い流されて、ふたたび白い輝きを放っている。
 あと少し手をのばせば届く。あの槍を握り、もう一度、その胸に突き立てねばならない。今度こそためらってはいけない。
 そう頭ではわかっているというのに、体が動かない。兄を支える腕はしびれ、痛みさえ感じない。
 天を仰ぎ、息をつく。視界が一瞬、白く染まった。晩秋の雨に打たれながら、唇をつりあげる。

 ……手など下すまでもないではないか。第五代マケドニア王は戦場に散ったのだ。アイオテの再来、その名にふさわしい見事な最期であったと、きっと後世でも称えられるだろう。
 兄上。
 あなたにこれ以上の責めは必要ない。痛みも苦しみも断罪さえも。罪は、血とともに雨に流され、消えてゆくだろう。
 そしてその命は……命だけは、きっと救われることだろう。
 だからわたしはこの場を去らなくてはいけない。まだやらねばならぬことがある。城に戻り、勝者としての凱旋を果たすのだ。そしてわが国に仇なす竜人族たちを葬り去る。さすれば平和が訪れる。
 それこそがずっと心に決めていた願い。わたしの望みは、七年の歳月をへて、ようやく叶えられるのだ――

 望み?
 これが?
 わたしの?

 唇がわなないた。きつく噛みしめ、ふるえをおさえる。
 心にみちるものはない。あるのは喪失。怒りも憎しみも、希望も失せて、なにもかもが白く塗りつぶされていく。
 ずっと、目もくらむばかりの白い光を求めていた。
 はるか彼方でうすくぼやける光。いつか届くはずと信じ、必死に手をのばしていた。けれどもその光は、やさしく降りそそぐ陽光ではなく、曇天を引き裂く雷光だった。
 希望の先にあったのは、つかめば朽ちる土塊つちくれだった。
 あの日から、あなたがわたしを裏切ったときから、いつかこんな日がくるとわかっていた。あの長い日々をただひたすらに耐えて、あなたに叛き、刃を向けて、そしてたどりついたいま。ここがわたしたちの終焉の場所。
 すべてが夢幻。
 思い描いた未来は、うたかたとなって形もなく消え失せてゆく。
 長い長い悪夢の果て。夢がさめても、時は戻らない。かつて夢見たあのまばゆい曙光は、未来永劫、わたしに降りそそぐことはない。

 わたしたちの道を分かったものはなんだったのでしょう。
 これが運命だったというのでしょうか。
 ねえ、どうして?
 どうしてこんなことになってしまったの?
 わたしたちはどこから間違っていたのでしょうか……

 終焉の時を迎え、時は進みはじめた。希った未来は崩れ落ち、またあらたな未来が生まれつつある。死と再生、その移ろいのはざまにわたしはいる。
 なすべきことはまだ残っている。もう少し、あと少しだけでいい。立ちあがる力がほしい。
 腕のなかの兄を抱きよせると、かすかなうめき声が聞こえた。愛しさと悲しさがこみあげてくる。ぬれそぼった髪に指をさしいれ、頭を支える。じっと顔をのぞきこむ。
 もはや今生でまみえることはないだろう。二度と交わることはない道を、いま歩きはじめる。
 これが最後のとき。これで、ほんとうに最後の――。
 冷たい頬にふるえる唇をよせ、ゆっくり目を閉じる。
「ミシェイル……」
 熱いしずくが、頬をつたって落ちていく。
 一筋、また一筋と。(了)
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