主の心を連れ去ったもの


 修道院の中庭に降り立つと、子供たちが高い歓声を上げて駆けよってきた。いかに天馬騎士団を擁するマケドニアであっても、天馬をこれほど近くで見る機会はそうそうない。十人ほどの子供たちが天馬テアを取り囲み、物めずらしげに体にふれたり抱きついたりした。幼子の手が容易に届くお腹のあたりは、テアにとってあまりふれてほしくない場所だ。それなのにすました顔でなすがままとなっている愛馬をとても愛らしく思った。この子はほんとうに子供たちが好きなのだ。
「まあ、あなたたち! いけませんよ」
 薬草園のほうから、若い尼僧が小走りに駆けよってきて、たてがみを引っぱる子供をテアから引きはがした。
「もうしわけありません、パオラどの。この子たちったらいつも騒がしくて、いたずらばかりで……。テアはご機嫌をそこねてはいないかしら?」
「大丈夫ですよ。この子はちゃんとわかってますから」
「テアはとってもおりこうですものね」
 シスター・コレットはいつものように屈託のない笑みをうかべた。わたしもつられて笑った。
「そういえば、パオラどのがこちらにお越しになるのはしばらくぶりですわね」
「……ええ」
 少し言葉につまってしまった。
「天馬騎士団の隊長さんですもの、毎日お忙しいのでしょうね」
 にこやかに語りかけられ、あいまいにうなづいた。そのとき、背後から大きな泣き声が上がった。どうやら幼子がつまづいて転んでしまったようだ。年長の子たちがシスターを呼びにやってくる。
「殿下はいま、礼拝堂にいらっしゃいますわ」
 そう言い残したシスターは、子供たちに両手を引かれ、泣きつづける幼子のもとへ駆けていった。
 あたたかな喧騒を後にして、わたしは礼拝堂に向かった。淡い光の射す回廊をぐるりと通り抜け、樫の扉を音をたてぬようゆっくりと開ける。
 冷気と静謐にみちた礼拝堂の奥、主は石の床にひざまづき、神に祈りをささげておられた。その背後に立ち、わたしもまた祈りながら主を待ちつづける。
 早いもので、主が修道院に居を構えられてからふた月になる。唐突な決断を受け入れられぬ者たちは、しばしば修道院に謁見を願い出ている。わたしは彼らと主の仲立ちをしていて、接見の場にも立ち会うことが多い。
 彼らの目的は一様におなじだ。主が以前たずさわっておられた政務について相談事を持ちかけ、その助言をいただいたのち、本題に入る。せめて城にお戻りいただきたいと彼らは切に訴えるが、主の心は変わらない。打ちのめされたように肩を落とし、修道院を後にする方もいれば、感情を抑えきれず責め立てるような物言いになってしまう者もいた。
「なぜなのですか! 殿下はわれらをお見捨てになるのですか!」
 ミネルバさまはけっして彼らを邪険になさることはなく、やわらかくほほえまれ、その言葉に耳をかたむけておられた。
 半月ほど前、重臣のカゾーニさまもお越しになった。こみいった話になったのでわたしは途中で退室したが、主はかつて守役だった老公と言葉を尽くして語り合われたようだ。
 宵までつづいた接見を終えられたのち、ミネルバさまはじっと窓の外を眺めておられた。時折ため息をつかれ、心あらずのようにも見えた。
「接見をご負担に思われるのでしたら、以後はお取次ぎは控えさせていただきましょうか」
 思わず声をかけてしまったが、ミネルバさまは首を横にふられた。
「わたしにそのような気遣いは無用ですよ、パオラ。それに……負担に思っているわけではないのです。あの者たちは不安に駆られているだけなのですから」
 そのお言葉に、すべてわかっておられるのだと知った。同時に、わたしの心もまた見抜いていらっしゃるのだろうと思った。
 貴族たちを主にお引き合わせするとき、わたしの心はすべて主によりそったものとは言いがたかった。彼らからの説得で主が翻意されることを心の奥では望んでいた。
 二つの戦争がこの国に残した爪痕は深く、幼心に思い描いていたあらゆる夢と希望が打ち砕かれていった。多くの犠牲を払ったからこそ、瑕疵のない結果をわたしたちは求めてしまう。
 長くわが国を苦しめてきたアカネイアが滅び、アリティア王となられたマルスさまが大陸の盟主となられた。それにともないミネルバさまは、自身の王位継承者としての地位を永久に放棄すると宣言された。
 驚く者も多かったが、主のおそば近くで仕えてきた者たちにとってはある程度覚悟していたことだった。ドルーアとの戦争ののち、王位を継ぐつもりはないと胸のうちを明かしておられた。アイオテより始まるマケドニア王家を、ご自身の手で終わらせる、これ以上の血にまみれた王位継承は祖国の誇りを汚すものだとまでおっしゃっていた。
 それでもわたしたちは期待を捨てきれずにいた。
 大戦の痛手が癒えきらぬまに、ふたたび戦争が起こり、ミネルバさまもその狂乱の渦にいやおうなく巻きこまれてしまった。恩義あるアリティアのため、アカネイア帝国と戦う決意をされた主は、女神のごとき威容でもってわれらを導いてくださった。
 わたしたちは歓喜した。もう一度われらの道しるべとなってくださったことがうれしかった。たとえ王家が絶えようとも、わたしたちは主君とともにあらたにつむがれる歴史を歩んでゆけるものと思っていた。戦前から進められてきた改革も実を結び、戦乱の世がようやく去ったと感じることができていた。その矢先に、ミネルバさまは突如、修道院にて遁世されることを決められた。
 目にもあざやかな紅の竜騎士。またあのお姿を拝見できればと願いつづける者もいまだ多い。
 けれどそれはもうけっして叶わぬ夢だ。主はもう竜騎士ではない。
 イージスという名の、ミネルバさまが幼いころから心を許された飛竜は反乱の時に失われてしまった。王城を奪還したのち、無惨に殺された飛竜の亡骸を前に、わたしたちは怒りにふるえた。主が愛竜の死を直接目にされなかったことを唯一の救いと思うほかなかった。
 愛竜を失ったミネルバさまは、帝国と戦うためあらたにテルースという名の飛竜を従えられ、ふたたび天空を駆けていかれた。その凛々しいお姿は以前となにも変わりはしない。……そう思っていた。なにも変わらないと思いたかった。
 結局、ミネルバさまはテルースを手放してしまわれた。傍目にもテルースは主に信頼を寄せていたけれど、主にとってテルースをイージスの代わりとすることはできかねたのだろう。そして、騎士の道をみずから閉ざしてしまわれた。この方が剣をとられることは二度とないのだろう。
 祈りをささげる主の後ろ姿をじっと見つめる。
 白い裳裾が石床の上を長くのび、華奢な背を紗のヴェールがふわりとおおっている。いま目の前におられる主の姿には、かつての面影がまるでない。これまでのご自身のすべてを否定するかのようなふるまいは見るに忍びなく、お会いするたび胸が苦しくなる。
 この胸の痛みは、主をいたわしく思うから。けれどそれだけではないこともわかっている。
 そんな自分の気持ちに折り合いがつけられず、日々の忙しさにかこつけて、しばらくここを訪れることができなかった。

 さらりとヴェールがゆれた。
 祈りを終えてお立ちになったミネルバさまは、ゆったりとした挙措でふりむかれた。
「パオラ、今日はなにか」
「御用がなくては、うかがってはいけませんか」
「いいえ」
 切れ長の目元が細められた。
 そのやさしげなまなざしを直視しかね、わたしはかすかに目をそらしてしまった。あの日々はもう戻らないのだと、無情に突きつけられたかに思えた。
 そんなわたしに、主は驚くことをおっしゃった。
「じつは、あなたを待っていたのです」
「……えっ」
「もし今日あなたが来てくれたなら、頼みたいと思っていたことがあって」
「わたしにできることでしたら、なんなりと」
「では、わたしをディケーの丘まで連れて行ってくれませんか」
 ディケー。
 その地名を聞くまで失念していた。今日が主にとってどのような意味を持つ日であるのかを。
 二の月の十四日。ああ、なんてこと。あれからもう一年もたってしまっていたなんて。
 もし今日わたしが訪れなかったら、どうされたのだろうか。主はもう飛竜に乗られない。だから少しのことにも自由がきかない。あらためて思い知らされる事実に胸が痛んだ。
 動揺を声に表さぬよう、明るく答える。
「そのようなことであれば、よろこんで」


 礼拝堂を後にし、テアのもとに戻る途中、ミネルバさまは中庭の花壇に立ちよられた。そこへおさげ髪をした十歳くらいの少女が近づいてきた。いくどか見かけたことがある。たしかエルマという名の、ミネルバさまによくなついていた子だ。
「殿下はなにをなさっているのですか」
「戦没者のための花を選んでいるのですよ」
 ミネルバさまが白いアネモネの花に決められると、少女は手伝いはじめた。両手にかかえるほど花束になったとき、少女は髪をむすんでいたリボンをするりとほどいた。二人で摘んだ花をひとつに合わせてリボンで束ね、主に手わたした。ミネルバさまは、ありがとうエルマ、とてもきれい、と少女にやさしく頬をよせられた。うつくしい光景だった。
 主をテアの背にのせて、王都北に広がるなだらかな丘陵地帯へ向かった。アカシアの木が点在するディケーの丘は、かつては黄金に染まる丘として知られていた。それが十年ほど前、戦死者たちの共同墓地となった。ドルーアの侵攻を食い止めるべく戦った果敢なる騎士たちの亡骸がここに埋葬されたのがきっかけだ。オズモンド陛下が亡くなられ、ドルーアとの同盟が結ばれたのち、ミネルバさまは前線に放置されたままの亡骸を王都に運ばれ、慰霊式を執り行われた。祖国を守るべく命を散らした三十四人の名を、主はすべて覚えておられるはずだ。
 そののち、祖国のために戦った戦没者たちの墓が自然とディケーに作られるようになり、ミネルバさまはしばしばここを訪れておられた。
 年をへるごとに墓標は増え、その一つ一つに花をたむけることはできなくなっても、丘の上に立ち、丘陵を埋めつくさんばかりに広がる墓標を見つめておられた。
 戦争が終結してから一年、わたしの知るかぎりミネルバさまがディケーに来られたことはない。今日はたった一人のために足を運ばれたのだ。
「どのあたりにいたしましょうか」
「では、あちらへ」
 ミネルバさまが指し示されたのはひらけた丘の中腹だった。急な降下とならぬよう慎重に手綱を引き締め、地上に降り立った。
「ありがとう、テア」
 テアの首を慈しみ深くなでてから、ミネルバさまはあたりをぐるりと見わたされた。なにか目印を見つけられたのか、迷いのない足どりで斜面を進んでいかれた。ゆるやかな勾配であっても、長い裳裾を引きながらのぼられるさまはどこか力ない。わたしはそのあとを一定の距離を保ったままついていく。
 足元には黄色い雪割草が咲いている。もうすぐ春が来る。アカシアの花も毎年のように咲き誇るだろう。けれど今日はいまにも雨が降りそうな灰色の空模様。吹きすさぶ冷たい風に木々がゆれ、騒がしく葉音を立てている。
 ミネルバさまは背の高いアカシアの木の下で立ち止まられた。そこには名の刻まれていない墓石があった。
 ディケーに葬られた者は正式に叙勲された騎士がほとんどだが、ドルーアとの戦争末期、身元のわからぬ傭兵たちも感謝と哀悼をこめてこの地に埋葬された。だから名のない墓はめずらしくもないのだけれど、この墓の下に眠るのは誰もがその名を知る者だ。それゆえに名を刻めなかった。
 ミネルバさまは胸に花束を抱えたまま、じっと墓標をみつめておられた。はすかいから様子をうかがっていると、おもむろにこちらへ向きなおられた。
「わたしのわがままに付き合わせてしまって、あなたには申しわけなく思います」
「必要とあらば遠慮なくおっしゃってください。いつでも……毎日だってかまわないのです」
「いいえ、そんな……」
 ミネルバさまはほがらかにお笑いになった。
「それほど足しげく通っては、不審に思われましょう」
 息をのむわたしに、整った微笑をむけられる。
「あなたたちが沈黙を守ってくれていること、感謝しています。このままでよいものかと、ずっと迷ってはいたのですが……」
 沈鬱に言いよどみ、まぶたをふせられた。

 竜の祭壇での戦いの後、王城に戻られたミネルバさまは、気を失われたマリアさまにずっと寄り添っておられた。マリアさまは怖い思いをされたせいで悪夢にうなされておいでだった。ミネルバさまはご自身も深い傷を負われているのに、お眠りにもならず、夜通し手を握っておられた。
 翌朝、目覚められたマリアさまは、まだ混乱されているようだったが、そばに姉君がいらっしゃることに安堵されていた。やがてくつろいだ笑顔を見せて、兄さまは、と訊ねられた。その問いを覚悟しておられたのだろう。ミネルバさまは重々しく口をひらかれた。
「ミシェイルはね、遠くへ行ってしまったの」
「遠くってどこ?」
「……わからないわ」
「いつ戻ってくるの?」
「それは……」
 ミネルバさまは声をつまらせて、ただかぶりをふられた。
「じゃあ、もうみんなで一緒に暮らせないの?」
「マリア、あなたがずっとそう願っていたのは知っているわ。でもね、お兄さまは初めから国に戻るおつもりではなかったの。なにもかもが元通りというわけにはいかないのよ。わかるでしょう?」
「そんなの、わからない」
 いまにも泣き出しそうになるマリアさまを、ミネルバさまは抱きよせられた。
「ねえマリア、これだけはわかってちょうだい。ミシェイルはあなたのこと、とても気にかけていたの。だからあなたの無事を知ってから国を去って行かれたのよ」
「だったら……少しぐらい、待っててくれてもよかったのに」
 唇を尖らせるマリアさまに、そうね、とやさしく語りかけられた。
「せめてあなたの目が覚めるまでは、待っていてほしかったわ」
「そうよ、ひどいわ」
「どうしてあと少し、待っていてくれなかったのかしらね……」
 そのふるえる声には、かすかに涙がまじっていた。
 マリアさまははっとしたように顔を上げられた。しばし戸惑っておられるようだったが、そっと姉君の背に手を回された。なぐさめるかのようだった。
「そっかあ。兄さまがいきなり戻ってきたりしたら、みんなびっくりしてしまうものね」
 そのおどけた口調に、ミネルバさまは苦笑をうかべられた。
「そういえば兄さま、ちゃんと姉さまに謝った?」
「えっ」
「姉さまにたくさん悪いことをしたって言ってたもの」
「そう……」
「ほんと兄さまも勝手ね。なんでもかんでも自分一人だけで決めて遠くに行っちゃうだなんて」
 ミネルバさまは微笑されたまま、目元を手でおおわれた。
「ほんとうに、勝手な人……」

 おそらくミネルバさまは真実を告げようとされていたのだと思う。けれど、いざマリアさまを前にすると決心が鈍ってしまわれたように見えた。
 それも無理からぬこと。あのときのマリアさまに真実を突きつけるなど、あの方におできになるはずがない。しばらくは伏せておいて、頃合いを見て話されるおつもりなのだと思っていた。
 いま、マリアさまは明るくお過ごしだ。先日お会いしたとき、もう悪夢にうなされることもないとおっしゃっていた。いつも子供たちにひまわりのような笑顔をふりまいていて、まとう空気に暗い影は見受けられない。だから、主はいまだ胸に秘めたままでいらっしゃるのだと察してはいた。
 主のお考えに口をはさむつもりはなかった。ただ、妹君を遠くから見守るまなざしはあまりに悲しく、そして苦しげなものだった。
 だからいま、沈黙を破った。
「ミシェイルさまのこと、マリアさまには明かされるおつもりはないのですね」
「……もう、このままでよいのではないかと思っています」
 胸にかかえた花束を、ミネルバさまはぎゅっと抱きしめられた。
「希望を絶つというのは、とても残酷なことですから」
 その言葉に、どきりとする。
「どこかで生きていると信じてさえいれば、その心の中で生きつづけることができます。もしかしたら、いつの日にかふらりと舞い戻ってくることもあるのではないかと、信じることだってできます。あの子がいまもそう信じているのなら、わたしには希望を絶つようなことはできません。真実を知らずにいることは不幸であるかもしれません。けれど幸福なことでもあると思うのです。それならばあの子には幸せなままでいてほしい……」
 ややあって、淡いため息がもれた。
「こんなもの、わたしの勝手な願いでしょうが」
「いいえ」
 わたしはかぶりをふった。
「勝手だなんて、わたしは思いません」
「そうですか……」
 つぶやくように言って、主はまたあの悲しげな目をされた。ふたたび墓標に向きなおられると、一歩を踏み出し、アネモネの花をたむけられた。
 清浄な白い花びらが、墓石の前でひらひらゆれている。ふわりと舞いあがる紗のヴェールが、もやのように視界をかすめた。
 ふいに目頭が熱くなる。
 ここにいたるまでのさまざまな出来事が胸をよぎった。なにもかもがつらく悲しい思い出だったとは言わない。けれど時折、空虚な思いに駆られてしまう。
 懸命につかもうとあがいたのに、夢は手をすり抜けてこぼれおち、跡形もなく消えてしまった。あれほどの犠牲を払って、いったいなにが残ったのだろう。なにを得たのだろう。あの苦しみはけっして無駄ではなかったのだと、なにかひとつは得られるものもあったのだと信じたかった。
 失ったものを数えるように思いだすとき、虚しさに耐えきれなくなる。そして気づく。
 主もそうだったのだ、と。
 ただ前を向いて光を求め、願いつづけて血を流し、そしてついには願うことをやめられてしまった。
 主に翻意をうながしつづける者たちは、すべてを知ればどう思うのだろうか。
 あの方が生きていらしたことを。
 そして、その痛ましくも雄々しい最期を……。

 ――反乱軍に占拠された王城を制圧したのち、わたしたちは城内に囚われているはずのミネルバさまを懸命に探した。城中を駆け回り、息を切らすわたしたちに、降伏した反乱兵の一人が嘲笑ぶくみに言った。ミネルバ王女はここにはもういない、ミシェイル王子が連れ去っていった、と。
 にわかには信じられなかった。わたしはあの方の死をそれまで一度たりとて疑うことがなかったのだ。
 あの決戦の後、激しい雷鳴と風雨が吹きすさぶ嵐のなか、山中に落下したお二人の捜索が行われた。宵の刻が迫るころ、ミネルバさまは王城へ帰還されたが、ミシェイルさまの行方はつかめなかった。なおも捜索がつづけられようとしたが、これ以上は無用とミネルバさまが言下に退けられた。
「わたしがこの槍で兄の胸を貫いたのだ。もはや生きていようはずがない」
 一筋の涙も見せず、背筋をのばし、冷淡に告げられた主の手には、ミシェイルさまが手にしておられたアイオテの盾と、血のこびりついたご自身の槍が握られていた。
 せめて埋葬を、とマルス王子が気遣われたが、主はかたくなに拒まれた。
「大逆者の亡骸など、どこぞで朽ち果てればよいのです」
 結局、ご遺体が見つからぬままあの方は戦死したものと扱われ、翌日にも簡素な葬儀が執り行われた。
 ミネルバさまは兄君を王位簒奪者と呼びながらも、マケドニア王として王家の霊廟に葬ると決められた。オズモンド陛下の死の真相はすでに貴族の大半が知るところではあったが、確たる証拠はなく、民にいたっては先王はアカネイアによって殺されたと信じていた。今後アカネイアとの関係改善を図るためにも、大罪人として処断すべきとの声も聞かれた。それでもミネルバさまは、王家の恥をつまびらかにすることはないと冷たく言い放たれ、オズモンド陛下のとなりにミシェイルさまの棺を安置された。その棺が空であることは皆が知っていたが、王の死そのものを疑う者はいなかった。それほどまでに、主は兄君への情愛を欠片ほどもお見せにならなかったのだ。
 だからあの反乱のさなか、突として姿を見せた亡き王に反乱兵たちは驚愕したことだろう。その場に居合わせた者によれば、ミシェイルさまは「この手で始末せねば気がすまぬ」と告げ、囚われているミネルバさまの引き渡しをリュッケ将軍に迫られたそうだ。妹王女への復讐のため王が冥府より舞い戻ってきたのだと、あの者たちは信じたのだ。
 けれどわたしには不可解に思えてならなかった。復讐心から連れ去った? そんな回りくどいことをあの方がなさるだろうか。希望にすがりたい一心だったのかもしれないが、マルス王子もおなじように思われていたことが救いだった。
 それでも不安はつのった。反乱の一味が、王女はすでに虫の息とも言っており、依然としてお命が危ぶまれていた。
 だからカダインの村でミネルバさまと再会が叶ったことは望外の喜びだった。そしてなにより袂を分かたれたお二人がこんな形で和解されたことに深い感懐をいだいた。
「ミシェイルさまが生きておられたこと、知っていらしたのですか」
 その問いに主はお答えにならず、助け出されてからの数か月、どのように過ごされていたのかについても多くを語られなかった。
 そのときわたしはようやく気づいた。ずっと心にかかっていたもやがさっと晴れたかのようだった。
 マケドニア城が陥ちた後、同盟軍にはミシェイル王の亡骸を探し出すべきと強固に主張する者もいた。諸国を侵略したマケドニア王への遺恨は深く、晒し者にせんとして王の亡骸を求めていたのだ。
 大逆者は死んだ、と主が非情なふるまいをされたのは、あの方を追討の手から隠すためだったのだろう。あのときの主のお立場では それがおできになる精一杯のことだ。
 そしていまも、あの方が生きておられたことは公にはできない。もし明らかになれば、主とマケドニアの立場を悪くしかねない。いかに諸国の体制が変わろうとも、人の心はそう簡単に変わらない。先の戦争で犯した罪は消えることなく、この地に深く刻みつけられている。だからわれらは今後も真実を隠しとおさねばならないのだ。
 幸いと言ってよいのか、反乱軍のほとんどは討ちとられ、捕らえられた者たちも処刑された。だからあの方が生きておられたことを知る者もほとんどおらず、その二度目の死を知る者にいたっては両の手で足りるほどしかいない。
 あの方の亡骸はミネルバさまの意を汲んだ二人の騎士によって王都へ運ばれ、ひそかにこの丘に埋葬された。それをわたしは誰にも話していない。カチュアにさえだ。おのおのが胸にしまいつづけ、たがいに口をつぐんでいる。わたしたちがこの秘密を誰かに明かす日はきっと訪れないだろう。
 戦争が終わってしばらくしたころのこと。王家の霊廟に出向かれたミネルバさまに同行したことがある。そのときに一度だけ、あの方の死についてふれられた。
「王としての兄はあの決戦で死に、ここに眠っています。だから、あれは亡霊……」
 亡霊。
 たしかにそうだったのかもしれない。
 祖国での決戦から一年あまり、あの方はどのように生きてこられたのか。父君を殺められてまでドルーアと手を組み、大陸に覇を唱えんとあらゆるものを犠牲にしてこられた人が、いったいなにをよすがとされてきたのだろうか。
 わたしにはミシェイルさまのお心などわからない。長くそばでお仕えしたミネルバさまのことでさえ、深く理解しているとは言いがたい。それでもこれだけは確信している。
 あの方は強き王として生き、その命の火を燃やし尽くされた。それでもなおくすぶりつづけた灯火は煌々と燃えて、最後まで輝きを放ちつづけたのだ。
 傷ついた身体を愛竜にあずけたミシェイルさまのお姿を思い出すとき、けっして悲しみだけではない、どこか胸を熱くする想いがわきあがってくる。
 鮮血の流れる口元は、ほほえんでいた。これまで戦場で多くの息絶えた騎士を見てきたけれど、誰もかれも恐怖と絶望にゆがんだ顔をしていた。あんなふうに満足げな死に顔を見たのは初めてだった。
 最後のマケドニア王は、まるで影のように生きられた。贖いきれぬ罪を抱え、ひっそり歴史の波にもまれて消えていくとしても、あの方は勇敢な一人の竜騎士として生き、そして散ってゆかれた。その生きざまは、ディケーに眠る者たちとおなじく、輝かしい栄誉が与えられるにふさわしいと思う。
 それでも。
 ああ、どうしてと悔やまずにはいられない。
 どのような形であっても、なぜあなたさまは生きていてくださらなかったのかと。
「……今日、夢のなかであの人に会いました」
 絶え入りそうな声に、わたしは顔をあげた。
 ミネルバさまは遠くを見るような目をされていた。
「夢のなかのあの人は、最後に会ったときのような傷ついた姿ではなくて、わたしのよく知る、わたしの望む姿で……おだやかに笑っていて――」
 突として、悲鳴のような嗚咽がもれた。
 口元を押さえて顔をそむけられた主は、背をまるめたまま膝をつかれた。主がくずおれた地面の下に、あの方が眠っている。
 動くことができない。かけるべき言葉がない。寄り添いたいのに足を踏み出せない。
 北風が丘を駆け抜けた。頬を冷たいものがかすめた。空を見あげると濃い雨雲が立ちこめ、雷光が鋭く走った。
 この空は、一年前の今日を思い起こさせる。
 あの日、主の希望が断たれた。口には出されなかったけれど、再会を望み、ずっとその身を案じておられたはずなのだ。それなのに、無情にも願いは引きちぎられてしまった。
 マルス王子に強くうながされてもなお、足を踏み出せずにいる主の後ろ姿。それがいま、目の前で泣き崩れるお姿と重なる。
 息絶えた兄君の手をとられるだけで、なにかを語りかけることもなく、涙を流されることもなかった。なにもなかったかのように立ちあがり、マルス王子に先を急がねばとおっしゃった。
 あれは、兄を討ったと言い放たれたときとおなじなのだ。
 まっすぐにのびた背筋。毅然と前を向き、誰も寄せつけぬ威容をまとってはいても、あの方を支えていたのはいまにも切れそうな細い細い糸だった。ご幼少のころから身に刻みつけられた矜持が、あの方をむごたらしく縛っていた。
 けれどいま、その糸は切れた。
 目をぎゅっと閉じる。さっきよりも涙にむせぶ声を強く感じた。これ以上は聞いていられず、耳をふさいだ。気づくと涙があふれていた。
 あのとき、もう少し早く駆けつけることができたなら、お二人が一言でも言葉をかわすことができていたのなら、このようなお苦しみはなかったのかもしれない。 
 そんなふうに栓ないことを思う。どれほど願おうと時は戻らない。吹き荒れる風にさらわれて、届かぬ慟哭が虚空に消えた。(了)
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