第一部
旧来より聖アカネイアからの使節団は、いったんグルニアに逗留し、その後グルニアの南岸から海峡を渡ってマケドニア西海岸セパーへとたどりつく。セパーの港町からは王都にかけては、〈王の道〉と呼ばれる街道が整備されているが、竜騎士であるマケドニア王が馬車にのって街道を駆けてゆくことはない。もっぱら影の王と評されるアカネイア弁務官のために作られたものであった。
五の月十日、早朝。
竜騎士団に護衛された大型の帆船がセパー港に降り立った。白装束をまとったアカネイア貴族が、物々しい衛兵にかこまれて豪奢な四頭立て馬車へと乗りこんでいく。馬車を先導する騎士は、バラ色のアカネイア国旗を初夏の風にひらめかせて〈王の道〉を悠然と駆けていた。
大使の歓待は、間接統治時代の様式がそのまま引き継がれているため、行列を遠目に見る民の顔は暗い。恨めしげに一行をねめつけている者もいる。
そんな大人たちの不安など、戦前を知らぬ子供には知るよしもない。幼子はきらびやかな馬車に目をかがやかせ、後を追っていこうとした。それを母親と思しき女人が抱きすくめてとめた。
マケドニアがアカネイアに敗戦したことは民も知るところであるが、ミネルバに統治がゆだねられたことで、前途は明るいものと思っていた。だからこそ戦前に逆戻りしたかのような光景を目の当たりにし、ひどく落胆したに違いない。
正午過ぎ。
マケドニア王城の謁見の間に、アカネイア大使が二人の随員を連れて登場した。深紅の絨毯の両脇にひかえる貴族たちは、礼を失さぬ程度に久方ぶりに訪れたアカネイアの役人に恐々とした視線を送っていた。
若い大使が、流麗な挙措で礼をとる。
「お初にお目にかかり光栄に存じます。トルイユ伯ファビアン・カルタスと申します」
ミネルバは白貂の毛皮で縁どられた黒絹の最礼装をまとい、玉座に座して大使を迎えた。
「遠路ご苦労でした。トルイユ伯、貴殿が無事に到着されたこと、うれしく思います」
「ようやく、貴国との国交が回復されたこと、われらにとって望外の喜びにございます」
トルイユ伯は年のころは二十代のなかば。金髪の巻き毛を肩にたらし、純白の礼服をまとっており、帽子にも白い羽飾りをつけていた。
マケドニアはアカネイアの文化の影響を色濃く受けており、服飾もまた似通っているが、ここまで華美な衣装は好まれない。かえって軽薄に映る。しかしその軽薄さこそが、この大貴族の出の若者の浮世離れした雰囲気にぴたりとはまっていた。
ミネルバは威厳をたもったまま、やさしく告げる。
「長旅でお疲れでしょう。晩餐までどうぞごゆるりと」
「楽しみにしております」
初夏の陽が落ちるころ、歓待の晩餐会が主宮の大広間で始まった。
ミネルバは光沢のある深紅の絹地に金糸で花模様を縫いとったドレスに着替えて登場した。あちらこちらから上がる感嘆の声を装飾のようにまとい、大使とともに上座に着いた。
楽団の奏でるゆったりとした音色につつまれ、王女は大使と杯をかわす。
「アカネイアはまことに幸運なことです。ハーディンどののような方を王として迎えられるとは。きっとカルタス王のように賢君となられましょう」
「それは本心でいらっしゃいますか」
ミネルバが黙すると、失礼、とトルイユ伯は苦笑した。
「意外だったのです。貴国はカルタス王によい感情はお持ちでないと思っておりましたので」
「それについて否定はしませんが、大国を率いるにふさわしい器量の方であったと思っています」
ミネルバはおだやかな口調でつづける。
「ハーディン公は正義感にあふれる高潔な武人であられました。ニーナ王女も、過酷な状況に耐え、見事アカネイアの再興をなしとげられた。初春に婚礼の儀に参列したおりに強く思ったものです。あのお二人ならば、きっとさらに強くアカネイアはよみがえるであろうと。過去の遺恨はあれど、聖アカネイアのとこしえの繁栄を祈っています。それが嘘偽りないわたしの想いです」
「そのお言葉、まことにうれしく思います。われらも貴国の繫栄を願っております。近く、あなたも即位されるのでしょう? 若くうつくしい女王の誕生は、荒廃したマケドニアの地に大輪の花を咲かせることとなりましょう」
ミネルバはそれにはあいまいに笑い、銀の杯に口をつけた。
トルイユは微笑を刻む。
「しばらくグルニアに逗留していたのですが、あちらはなかなか復興が進まず、民の暮らしも厳しいようでした。対して、マケドニアの活気には驚かされました。なんといっても民の顔が明るい」
「戦後すぐのころにくらべれば落ち着いたものの、わが国も復興はまだまだ道なかばです。ただ、民の気質もあるのでしょう。グルニアよりだいぶ気候が温暖なせいか、陽気な者が多いと言われることもあります。われらはそんな民の明るさに助けられています」
「わたしは貴国のことをまだよく知らぬのです。あのような悲惨な戦争を生き抜いたからこそ、わたしは祖国との橋渡しとしてお役に立ちたいと赤心から思っております」
トルイユの明朗な話術のかいもあって、晩餐はなごやかな空気につつまれていた。
オズモンド王の時代、宮廷をその意のままにしてきた弁務官シモン・ネイヤールをはじめ、随員のふるまいはとかく権高なものだった。貴族だけでなく、王族もまた低身低頭にふるまうことが求められてきた。
臨席した貴族ははじめこそ恐々としていたが、トルイユ伯の横柄どころかむしろへりくだるような態度に驚きを見せていた。緊張した面もちで王女と大使の会話に耳をそば立てていた者たちも、宴が終わるころには酔いもあってかゆるんだ表情になっていた。
⁂
宴ののち、自室に戻ったミネルバの表情は晴れなかった。もとより物事を楽観的にとらえる質ではないが、激動の時代をへて、なにかにつけて悲観的なものの考え方をするようになっていた。トルイユの友好的なふるまいも、かえって不穏さを感じるばかりだった。
幼いころから刻みつけられた記憶は、いまなおその心をさいなんでいる。
夜半過ぎ。文机に向かい書類に目を通しているとカゾーニが訪れた。その手には白い布のかけられた皿があった。
「あまり召し上がっておられなかったでしょう?」
柔和な笑顔でミネルバに近づき、その目の前で白い布をよけた。皿の上には、たくさんの干した果実がつまった焼き菓子があった。
ミネルバは菓子をひとつつまみ、口へ運んだ。この菓子は、子供のころ、勉強の合間に兄とよく食べたものだった。なつかしい味に、笑みがこぼれる。
「ありがとう、カゾーニ」
「お疲れのようですね」
「慣れぬことをしたゆえ」
「なにをおっしゃいます。ご立派に務めておいででした。トルイユ伯ともずいぶん話がはずんでおられるようでしたし」
「ただの身の上話ですよ」
ミネルバは半分ほど残した菓子を皿においた。
「ファビアンどのは、先の大戦で父君を失くされ、トルイユ伯となられたそうです。前トルイユ伯はパレス陥落後も長らく捕虜となっていたものの、ニーナ王女の脱走後に処刑されたとか。ファビアンどのは処刑はまぬがれたものの身体を壊され、パレス解放ののちも南部の領地で療養されていたということです」
「まあ、そんなところでございましょうな。あの者、とても武人には見えませぬ」
カゾーニは白い眉を不快げによせた。
「戦火を生きのびる者というのは運がよいのでしょうが、ことにアカネイアの場合は、ずる賢い者が多いようでございますな」
「わが国の大使となることは幸運ではないでしょう。あの男が狡猾ならば、アリティアあたりの大使にでもおさまっているでしょうに」
「では、さほど利口でもないのでしょう」
いつになく辛辣なカゾーニに、ミネルバも苦笑するほかなかった。
トルイユ伯ファビアン・カルタス。
ハーディンからの書簡に記されていた全権大使の名を目にしたとき、ミネルバはあからさまなアカネイアの悪意を感じた。
これまでマケドニアに派遣されてきた役人はアカネイアの中では下級貴族に属する者ばかりであったため、五大侯の血族が選任されるということそれ自体が驚きに値するものだった。なによりレフカンディは、マケドニア軍がアカネイアに侵攻したおり、ミネルバ指揮下の竜騎士団が一時占領下においた地である。またレフカンディ侯カルタス家はオレルアン王家とも縁戚にあたるが、そのオレルアン王城を攻め落としたのもまたミネルバである。
アカネイアもマケドニアとおなじく人材不足であるのは予想がつく。落城時に多くの貴族が殺され、行方知れずとなった者も数知れない。適任者の少なさゆえに、トルイユ伯にまで戦前では考えられなかった役職が回ってきた。そう考える余地がないわけではない。
トルイユ伯ファビアンは宴の席で、かつての弁務官のように国政に関与するつもりはないといくども強調した。ハーディンからの私書にもつづられていたように、アカネイアは大陸の宗主として、諸国の復興に心を砕いているだけのように見えぬこともない。だが、敗北した国にかけられる情けが純然たる厚意であるはずがないのだ。
いまは、百年前の建国時の状況と似ている。
アイオテはアカネイアの全面的な援助をもとに国家体制を整えたが、それが両国間の支配従属関係を決定的なものにした。ようやくドルーアの支配を逃れたというのに、アカネイアの頸木につながれてしまったのだ。
時代は、ふたたび逆戻りしている。ドルーアを討つべく同盟軍に味方した結果、一度は解き放たれたアカネイアの枷を受け入れねばならなくなった。いかに予期されていたこととはいえ、ミネルバは強い徒労感をおぼえていた。
あれほどの犠牲を払い、われらはなにを得たのかと。
ミネルバは立ちあがり、バルコニーに通じる窓辺に立った。月明りがぼんやりと照らす城壁をみつめる。
「あのとき、どこにいたのです?」
「……あちらの城塔にございます」
カゾーニはすっと指さした。
「この城が落ちることはわかっておりましたから、同盟軍と交渉に当たる者が必要でございました。僭越ながら、わたしがその役目を担おうと思い、出陣はせず城に留まったのです」
「兄にそう頼まれたのでしょう?」
ややあって、カゾーニはうなづいた。
「さまざまな想いが胸をめぐっておりました。どちらかのお命が失われるような事態だけは避けられればと神に願うことしかできませんでした。雷鳴がとどろくなか、槍を交える二騎を眺めておりますと、まるで悪夢をみているかのように思えてならず、早くこのような夢はさめてくれとばかり――」
「どう勝負が決すると思っていました?」
カゾーニは答えず、目を伏せた。
「少なくとも、わたしが勝つとは思っていなかったのでしょう?」
ミネルバはうすく笑う。
「わたしも、死ぬるのは自分だと思っていました。だから、自分が死んだ後のことなど、ろくに考えてはいなかった。もしわれらが刺し違え、ともに討ち死にでもしていれば、マケドニアの罪は減じられていたでしょう。さすれば、事態はいまより好転していたやもしれません」
「姫さま――」
「すみません、こんな話をしてしまって」
ミネルバはかぶりをふる。
「もう休みます。下がってください」
しかしカゾーニはそこから動こうとしなかった。
「こたびの大使の派遣により、民のあいだに動揺が広がっておるようです」
「そうでしょうね」
「民は、あなたさまを望んでおります。長きにわたる戦争がようやく終結しても日々の生活は一転するはずもなく、むしろ敗戦の影響を日々突きつけられていることでしょう。……民には希望が必要なのです」
ミネルバは目を伏せる。
「わたしはずっと彼らを欺いてきたのです」
「そのように思われる必要はありません。あなたはただ、国のために非情な選択をなさっただけのこと」
「兄が父を手にかけ、その兄を討ったわたしが王位に就くこと、民はどう思うのでしょう?」
「すべてをつまびらかにすることなどできはしません。民には、知らぬことが幸せなことがあるのです」
なんの反応も示さぬミネルバに、カゾーニは一礼して下がっていった。静かに扉が閉まる。
「知らぬことが幸せ……」
ミネルバは窓に寄りかかり、ひとりごちる。
「ほんとうに、そうだわ」
五の月十日、早朝。
竜騎士団に護衛された大型の帆船がセパー港に降り立った。白装束をまとったアカネイア貴族が、物々しい衛兵にかこまれて豪奢な四頭立て馬車へと乗りこんでいく。馬車を先導する騎士は、バラ色のアカネイア国旗を初夏の風にひらめかせて〈王の道〉を悠然と駆けていた。
大使の歓待は、間接統治時代の様式がそのまま引き継がれているため、行列を遠目に見る民の顔は暗い。恨めしげに一行をねめつけている者もいる。
そんな大人たちの不安など、戦前を知らぬ子供には知るよしもない。幼子はきらびやかな馬車に目をかがやかせ、後を追っていこうとした。それを母親と思しき女人が抱きすくめてとめた。
マケドニアがアカネイアに敗戦したことは民も知るところであるが、ミネルバに統治がゆだねられたことで、前途は明るいものと思っていた。だからこそ戦前に逆戻りしたかのような光景を目の当たりにし、ひどく落胆したに違いない。
正午過ぎ。
マケドニア王城の謁見の間に、アカネイア大使が二人の随員を連れて登場した。深紅の絨毯の両脇にひかえる貴族たちは、礼を失さぬ程度に久方ぶりに訪れたアカネイアの役人に恐々とした視線を送っていた。
若い大使が、流麗な挙措で礼をとる。
「お初にお目にかかり光栄に存じます。トルイユ伯ファビアン・カルタスと申します」
ミネルバは白貂の毛皮で縁どられた黒絹の最礼装をまとい、玉座に座して大使を迎えた。
「遠路ご苦労でした。トルイユ伯、貴殿が無事に到着されたこと、うれしく思います」
「ようやく、貴国との国交が回復されたこと、われらにとって望外の喜びにございます」
トルイユ伯は年のころは二十代のなかば。金髪の巻き毛を肩にたらし、純白の礼服をまとっており、帽子にも白い羽飾りをつけていた。
マケドニアはアカネイアの文化の影響を色濃く受けており、服飾もまた似通っているが、ここまで華美な衣装は好まれない。かえって軽薄に映る。しかしその軽薄さこそが、この大貴族の出の若者の浮世離れした雰囲気にぴたりとはまっていた。
ミネルバは威厳をたもったまま、やさしく告げる。
「長旅でお疲れでしょう。晩餐までどうぞごゆるりと」
「楽しみにしております」
初夏の陽が落ちるころ、歓待の晩餐会が主宮の大広間で始まった。
ミネルバは光沢のある深紅の絹地に金糸で花模様を縫いとったドレスに着替えて登場した。あちらこちらから上がる感嘆の声を装飾のようにまとい、大使とともに上座に着いた。
楽団の奏でるゆったりとした音色につつまれ、王女は大使と杯をかわす。
「アカネイアはまことに幸運なことです。ハーディンどののような方を王として迎えられるとは。きっとカルタス王のように賢君となられましょう」
「それは本心でいらっしゃいますか」
ミネルバが黙すると、失礼、とトルイユ伯は苦笑した。
「意外だったのです。貴国はカルタス王によい感情はお持ちでないと思っておりましたので」
「それについて否定はしませんが、大国を率いるにふさわしい器量の方であったと思っています」
ミネルバはおだやかな口調でつづける。
「ハーディン公は正義感にあふれる高潔な武人であられました。ニーナ王女も、過酷な状況に耐え、見事アカネイアの再興をなしとげられた。初春に婚礼の儀に参列したおりに強く思ったものです。あのお二人ならば、きっとさらに強くアカネイアはよみがえるであろうと。過去の遺恨はあれど、聖アカネイアのとこしえの繁栄を祈っています。それが嘘偽りないわたしの想いです」
「そのお言葉、まことにうれしく思います。われらも貴国の繫栄を願っております。近く、あなたも即位されるのでしょう? 若くうつくしい女王の誕生は、荒廃したマケドニアの地に大輪の花を咲かせることとなりましょう」
ミネルバはそれにはあいまいに笑い、銀の杯に口をつけた。
トルイユは微笑を刻む。
「しばらくグルニアに逗留していたのですが、あちらはなかなか復興が進まず、民の暮らしも厳しいようでした。対して、マケドニアの活気には驚かされました。なんといっても民の顔が明るい」
「戦後すぐのころにくらべれば落ち着いたものの、わが国も復興はまだまだ道なかばです。ただ、民の気質もあるのでしょう。グルニアよりだいぶ気候が温暖なせいか、陽気な者が多いと言われることもあります。われらはそんな民の明るさに助けられています」
「わたしは貴国のことをまだよく知らぬのです。あのような悲惨な戦争を生き抜いたからこそ、わたしは祖国との橋渡しとしてお役に立ちたいと赤心から思っております」
トルイユの明朗な話術のかいもあって、晩餐はなごやかな空気につつまれていた。
オズモンド王の時代、宮廷をその意のままにしてきた弁務官シモン・ネイヤールをはじめ、随員のふるまいはとかく権高なものだった。貴族だけでなく、王族もまた低身低頭にふるまうことが求められてきた。
臨席した貴族ははじめこそ恐々としていたが、トルイユ伯の横柄どころかむしろへりくだるような態度に驚きを見せていた。緊張した面もちで王女と大使の会話に耳をそば立てていた者たちも、宴が終わるころには酔いもあってかゆるんだ表情になっていた。
⁂
宴ののち、自室に戻ったミネルバの表情は晴れなかった。もとより物事を楽観的にとらえる質ではないが、激動の時代をへて、なにかにつけて悲観的なものの考え方をするようになっていた。トルイユの友好的なふるまいも、かえって不穏さを感じるばかりだった。
幼いころから刻みつけられた記憶は、いまなおその心をさいなんでいる。
夜半過ぎ。文机に向かい書類に目を通しているとカゾーニが訪れた。その手には白い布のかけられた皿があった。
「あまり召し上がっておられなかったでしょう?」
柔和な笑顔でミネルバに近づき、その目の前で白い布をよけた。皿の上には、たくさんの干した果実がつまった焼き菓子があった。
ミネルバは菓子をひとつつまみ、口へ運んだ。この菓子は、子供のころ、勉強の合間に兄とよく食べたものだった。なつかしい味に、笑みがこぼれる。
「ありがとう、カゾーニ」
「お疲れのようですね」
「慣れぬことをしたゆえ」
「なにをおっしゃいます。ご立派に務めておいででした。トルイユ伯ともずいぶん話がはずんでおられるようでしたし」
「ただの身の上話ですよ」
ミネルバは半分ほど残した菓子を皿においた。
「ファビアンどのは、先の大戦で父君を失くされ、トルイユ伯となられたそうです。前トルイユ伯はパレス陥落後も長らく捕虜となっていたものの、ニーナ王女の脱走後に処刑されたとか。ファビアンどのは処刑はまぬがれたものの身体を壊され、パレス解放ののちも南部の領地で療養されていたということです」
「まあ、そんなところでございましょうな。あの者、とても武人には見えませぬ」
カゾーニは白い眉を不快げによせた。
「戦火を生きのびる者というのは運がよいのでしょうが、ことにアカネイアの場合は、ずる賢い者が多いようでございますな」
「わが国の大使となることは幸運ではないでしょう。あの男が狡猾ならば、アリティアあたりの大使にでもおさまっているでしょうに」
「では、さほど利口でもないのでしょう」
いつになく辛辣なカゾーニに、ミネルバも苦笑するほかなかった。
トルイユ伯ファビアン・カルタス。
ハーディンからの書簡に記されていた全権大使の名を目にしたとき、ミネルバはあからさまなアカネイアの悪意を感じた。
これまでマケドニアに派遣されてきた役人はアカネイアの中では下級貴族に属する者ばかりであったため、五大侯の血族が選任されるということそれ自体が驚きに値するものだった。なによりレフカンディは、マケドニア軍がアカネイアに侵攻したおり、ミネルバ指揮下の竜騎士団が一時占領下においた地である。またレフカンディ侯カルタス家はオレルアン王家とも縁戚にあたるが、そのオレルアン王城を攻め落としたのもまたミネルバである。
アカネイアもマケドニアとおなじく人材不足であるのは予想がつく。落城時に多くの貴族が殺され、行方知れずとなった者も数知れない。適任者の少なさゆえに、トルイユ伯にまで戦前では考えられなかった役職が回ってきた。そう考える余地がないわけではない。
トルイユ伯ファビアンは宴の席で、かつての弁務官のように国政に関与するつもりはないといくども強調した。ハーディンからの私書にもつづられていたように、アカネイアは大陸の宗主として、諸国の復興に心を砕いているだけのように見えぬこともない。だが、敗北した国にかけられる情けが純然たる厚意であるはずがないのだ。
いまは、百年前の建国時の状況と似ている。
アイオテはアカネイアの全面的な援助をもとに国家体制を整えたが、それが両国間の支配従属関係を決定的なものにした。ようやくドルーアの支配を逃れたというのに、アカネイアの頸木につながれてしまったのだ。
時代は、ふたたび逆戻りしている。ドルーアを討つべく同盟軍に味方した結果、一度は解き放たれたアカネイアの枷を受け入れねばならなくなった。いかに予期されていたこととはいえ、ミネルバは強い徒労感をおぼえていた。
あれほどの犠牲を払い、われらはなにを得たのかと。
ミネルバは立ちあがり、バルコニーに通じる窓辺に立った。月明りがぼんやりと照らす城壁をみつめる。
「あのとき、どこにいたのです?」
「……あちらの城塔にございます」
カゾーニはすっと指さした。
「この城が落ちることはわかっておりましたから、同盟軍と交渉に当たる者が必要でございました。僭越ながら、わたしがその役目を担おうと思い、出陣はせず城に留まったのです」
「兄にそう頼まれたのでしょう?」
ややあって、カゾーニはうなづいた。
「さまざまな想いが胸をめぐっておりました。どちらかのお命が失われるような事態だけは避けられればと神に願うことしかできませんでした。雷鳴がとどろくなか、槍を交える二騎を眺めておりますと、まるで悪夢をみているかのように思えてならず、早くこのような夢はさめてくれとばかり――」
「どう勝負が決すると思っていました?」
カゾーニは答えず、目を伏せた。
「少なくとも、わたしが勝つとは思っていなかったのでしょう?」
ミネルバはうすく笑う。
「わたしも、死ぬるのは自分だと思っていました。だから、自分が死んだ後のことなど、ろくに考えてはいなかった。もしわれらが刺し違え、ともに討ち死にでもしていれば、マケドニアの罪は減じられていたでしょう。さすれば、事態はいまより好転していたやもしれません」
「姫さま――」
「すみません、こんな話をしてしまって」
ミネルバはかぶりをふる。
「もう休みます。下がってください」
しかしカゾーニはそこから動こうとしなかった。
「こたびの大使の派遣により、民のあいだに動揺が広がっておるようです」
「そうでしょうね」
「民は、あなたさまを望んでおります。長きにわたる戦争がようやく終結しても日々の生活は一転するはずもなく、むしろ敗戦の影響を日々突きつけられていることでしょう。……民には希望が必要なのです」
ミネルバは目を伏せる。
「わたしはずっと彼らを欺いてきたのです」
「そのように思われる必要はありません。あなたはただ、国のために非情な選択をなさっただけのこと」
「兄が父を手にかけ、その兄を討ったわたしが王位に就くこと、民はどう思うのでしょう?」
「すべてをつまびらかにすることなどできはしません。民には、知らぬことが幸せなことがあるのです」
なんの反応も示さぬミネルバに、カゾーニは一礼して下がっていった。静かに扉が閉まる。
「知らぬことが幸せ……」
ミネルバは窓に寄りかかり、ひとりごちる。
「ほんとうに、そうだわ」