第一部

 中庭を後にしたユスタスは、ミネルバ王女とともに主宮東翼の三階に位置するオズモンド王の執務室へ向かった。ミネルバは部屋の前で立ちどまり、取っ手に手をかけたままうつむいている。
「どうされました?」
 ユスタスが揶揄するように問うと、ミネルバは首を横にふり、扉を一気に押し開いた。室内はすべての窓に分厚いカーテンが閉め切られており、宵闇のころを思わせるほどに薄暗かった。
 佇立したままのミネルバに、ユスタスは問う。
「ミシェイル王子がこの部屋を閉ざされたのですか」
「そうだ」
 ミネルバは部屋の中央へと歩きはじめた。
「七年前からずっと閉ざされたままで、今日まで誰も足を踏み入れてはいない。だが、もうそろそろ開放せねばならぬと思う。このままではアカネイアの役人も不審がるであろうし」
 王の執務室は重臣たちの集う場であった。とりわけオズモンド王が病を得て、御前会議が開かれなくなってのちは、ここが議場の代わりとなり、あらゆる方針が一握りの者たちだけで決められるようになった。ドルーアの侵攻にともなう先遣隊もアカネイアとの交渉も同様だった。王と宰相らがこの部屋で最期の時を迎えたのも必然であったのかもしれない。
 赤い絨毯には、おそらく血であろう黒い染みがところどころに残っている。
「敷物はすべて取り替えねばならぬな」
 ミネルバ王女は床を一瞥しつつ、窓辺にむかった。南側のカーテンが開かれると部屋に強い陽光が射しこみ、ちいさな埃が光のなかを舞う。
 闇に沈んでいた西の壁には、オズモンド王とその妃モイラの婚姻当時の絵画がかけられている。マケドニアの巨匠ウンベルト・アルバーニの筆による巨大な肖像画は、若き国王夫妻をあざやかに描き出していた。
 モイラ妃は前宰相エラルド・メスト公の姪であるが、父母が早世したために叔父のもとで養育された。アイオテの血を引くうつくしい姪は、エラルドにとって有用な駒であり、モイラが十二になるころにはすでにオズモンドとの婚約を整えていた。
 モイラは王とのあいだに第一王子と第一王女を儲けた。二十七で幼子を残して病死したが、モイラ妃を亡くしたオズモンドは、その後は側室を一人おいたのみで正式な妃は迎えなかった。有力貴族が出入りするこの部屋に亡き妃との肖像画を飾りつづけたことは、王の妻への深い愛情の表れと思われたが、王とメスト家の強固な絆を見せつける意味合いもあったのだろう。
 ユスタスは肖像画のなかの従姉に背を向け、ゆったりとした足どりでミネルバに近づいた。絨毯の上に広がる黒い染みの前で足を止める。
「オズモンド陛下に父、そしてプラージ伯とヴェーリ伯がここでミシェイル王子によって討たれたのですね。そして陛下の胸には、わがメスト家の家紋が刻まれた剣が突き立てられていた、と」
「メスト公は最期まで父を守ろうとしたはずだ」
「ですが、貴族の多くが父の謀叛を信じたのでしょう?」
「いや、むしろ疑う者のほうが多かったと兄は言っていた。だが、疑念を抱いたところで、すでにドルーアとの同盟が結ばれたとあっては、兄に服従するほかないだろう。もし同盟が破棄される事態となれば、ただちに王都へドルーア軍が差し向けられる手筈となっていたそうだ」
「マムクートどもの威嚇に屈した、というわけですか」
「あれはたんなる脅しであった可能性もある。ドルーアの戦力が単独でアカネイアに侵攻できるほどであったなら、われらに同盟など持ちかける必要もなかったのだからな。だが、ドルーアとの同盟はわが国に少なからず平穏をもたらしたのだ。多くの者が命を落とした悲惨な戦いを回避できたことに、貴族も民も安堵していた。たとえその後に終わりの見えぬ戦争が待っていようとも」
「愚かとしか言いようがありませんね」
「言うな、服従の道を選んだのはわたしもおなじだ」
 ミネルバはユスタスに向きなおった。
「ユスタス、わたしにはそなたの望みを叶えてやることはできない。わたしとともに祖国に弓を引く道を選んだ部下たちにさえ、その信念と献身に報いてやれなかった。わたしを〈復讐のために祖国に帰還した王女〉などと呼ぶ者もいるそうだが、わたしは復讐など望んではいないのだ。はじめからな」
「ええ、わかっております」
 ユスタスが即答すると、ミネルバはかすかに目をみひらいた。
「ずいぶんと物分かりがよいのだな。昨日はあれほど食い下がってきたというのに」
「国軍の由々しき人材不足は聞きおよんでおりましたから、殿下が旧勢力の排除に消極的であることはわかっておりました。昨日は殿下を試すためにあのようなことを申しあげたのです」
「わたしを、試す?」
「あなたは救国の英雄でいらっしゃる。あなたがアカネイアに寝返ったことで、わが国はドルーアの魔の手より逃れることができた。そのことは、あなたを国賊と罵る者たちですら認めておりましょう。ですが、偉大な英雄であれば国をよき方向に導けるかといえば、そうとはかぎりません」
「それで? わたしはそなたを失望させたということか」
「いいえ、けっしてそうは申しません。ただ、わたしにはあなたのなさることがどうにも腑に落ちぬのです」
 ユスタスは笑みを作り、王女に一歩近づく。
「偉大なる国祖を貶すつもりはありませんが、アイオテの時代に築かれたアカネイアへの隷属関係が歴代マケドニア王を苦しませつづけてきました。あなたは祖国の負の遺産にそれに加え、ミシェイル王子がアカネイアに犯した罪をも背負わねばならぬお立場にある。それはおわかりですね?」
「むろん、理解しているつもりだ」
「ならばなぜ、ご自身にとって不利益な行いばかりなさるのです?」
 ユスタスはあえて責めるような物言いをしたが、ミネルバは顔色ひとつ変えなかった。
「あなたはミシェイル王子を大逆者として断罪せず、それどころかオズモンド陛下の棺のとなりに王位簒奪者の棺を安置された。本来ならば、あの者の亡骸をアカネイアにさしだし、許しを乞うことで、わが国の立場を明確に示すことが可能だったはず。だというのに、なぜそのような甘い対処を?」
 ミネルバはしばし無表情だったが、やがて観念したように口元をゆるめた。
「たしかに、わたし一人が罪を逃れんとするのであれば、それもよいだろう。大逆者を誅したと、大義をふりかざして王位に就き、旧勢力を一掃する。それを望む者が多くいるのは知っている。だが、それがこの国のためになるとは思わぬ」
 ミネルバは強い陽光がさす窓辺に近づき、外に目をはせた。
「わたしはドルーアと戦ったが、この百年、マケドニアの民が戦ってきたものはドルーアではない。アカネイアの間接支配によってもたらされたあらゆる苦しみに抗ってきたのだ。だからこそ、かつてわれらが先祖を支配したドルーアの力を利用してまでアカネイアを滅ぼすことを望む者が多くいた。むろん、民がどれほど情勢を理解していたのかはわからぬが、それでも王となった兄がアカネイアからの独立を宣言したとき民は熱狂した。あの熱狂は魂の叫びだ。ようやくアカネイアから解放される、それこそがこの国の民の望むことだったのだ。あの光景をわたしは忘れることができぬ。兄の言葉は虚飾にまみれていたが、民の歓喜の声は偽りのない真実だ。そして民を想う兄の心もけっして偽りではなかった」
 ゆっくりとふりかえり、ユスタスを見すえる。
「そなたは兄を恨んでいるだろう。おのが野望のために父を殺め、多くの者を死に追いやり、あげく国を滅ぼしたのだと。たしかに兄の行動は野心ゆえであったが、それがすべてではなかった。民のため、ゆずれぬものがあったからだ。……兄が降伏を選ばなかったのも、刑死を恐れていたからではない。民のために、アカネイアの正義によって裁かれるわけにはいかなかったのだ。戦場で散ることが、王としての矜持だったのだろう」
 ミネルバの声は時折うわずり、激しい感情がかいまみえた。
「戦争が終結したとて、なにも解決してはいない。結局、わが国はアカネイアからの支配を脱することは叶わなかった。しかしこの期におよんで、アカネイアの正義に帰順し、兄を断罪しては、われらが先祖が自由を勝ちとろうと懸命に耐えつづけてきた想いを踏みにじることとなろう。あのような戦争をへたからこそ、兄の行いのすべてが誤りであったと糾弾することは、わが国の誇りを失うにひとしい。この国は敵味方に別れて争ったが、それはアカネイアから見てのものだ。少なくともわたしは、彼らを敵だとは思っていない」
「……なるほど」
 じっと耳をかたむけていたユスタスは、そこでようやく口を開いた。
「民のためにミシェイル王子の所業は伏せ、あなただけが王殺しの罪をかぶる、そういうわけですか?」
「どうもこうも、わたしが兄を討ったのはゆるぎのない事実だ」
「あの者たちが犯した罪を、たった一人で背負われると?」
「誰かが背負わねばならぬのなら、それはわたしであるべきだ」
「そして王位も継がぬおつもりなのですね?」
「そうだ」
 迷いのない返答だった。ミネルバ王女は大きな切れ長の目で、ユスタスを見すえていた。その視線を、ユスタスはまじろぐことなく受けとめた。
 ユスタスにとっては王女の答えは殊勝にすぎ、鼻につくものであったが、王女が偽りを口にしているとは思わなかった。
 六〇四年の秋。
 マケドニア軍の指揮官として武功を挙げつづけていたミネルバ王女が、突如として、アリティア王子マルス率いる同盟軍に寝返った。戦争が始まって四年、ドルーアとの同盟が締結されてからではすでに六年がたっていた。
 度重なる戦闘により多大な被害をこうむっていたマケドニア軍にとって、王女の離反は大きな一打となり、その一年後の晩秋にマケドニア王城は陥落した。
 兄王を討ったミネルバ王女は王城に凱旋し、血にまみれたアイオテの盾を持ち、玉座の前に立った。ミシェイルの捜索を行おうとする者に対しては、「大逆者の亡骸など朽ち果てればよい」と一言のもとに退け、埋葬すら許さなかった。居並ぶ家臣を睥睨するその目にはすさまじい怒りと憎悪がみちていたと、あの場に居合わせた騎士が口々に語っていた。
 復讐のために戻ってきた王女、と。
 落城時のあらましを聞いたとき、ユスタスの胸に歓喜がみちた。彼が虜囚生活で病み衰えた肉体に鞭打つように訓練を積み、ふたたび宮廷に上がることを望んだのは、おのれの失われた時間を取り戻すためであった。復讐に燃える彼にとって、ミネルバは有用な駒に映ったのだ。
 しかしそれは買いかぶりであったのかもしれぬ。目の前の王女をみつめ、ユスタスは逡巡する。
 赤琥珀のような深い色の瞳に憎悪の影はない。凪いだ水面のごとくおだやかである。むしろ空虚ささえ感じられるものだ。
 王女は復讐のために立ちあがったわけではない。兄の罪を一身に背負おうとするさまは、青臭い理想に燃える殉教者さながらだった。
「……ひとつ、お尋ねしたいことがございます」
「なにか」
「殿下は、この国をどうなさりたいのですか」
「アカネイアを凌ぐ強国にする」
 ユスタスが呆けた顔になると、一瞬の間をおいて、ミネルバは笑いだした。悲愴な響きだった。
「かつてのようにそう言えればよいのだが、もはやそこまで道化にはなれぬ。マケドニアはこれから苦難の時代を迎える。幸運にも早期に占領軍は引いたが、問題は山積している。十六年前の飢饉の影響も根深いというのに、戦争であまりに多くの者が死んだ。あらゆる面において人手が不足している。われらが王都警備の人員にすら事欠くありさまだというのに、アカネイアはすでに軍拡に着手しているという。あまりに地力が違う」
「そうですね。今後この国はどうあっても真っ向からアカネイアと渡りあうことはできぬでしょう」
「さりとて、父の時代に戻るわけにはいかぬのだ。この国と民を守るため、わたしは抗いつづけねばならぬ。抗うための力をなんとしてでも保持せねばならぬ。地に這いつくばり、泥水をすすってでも、なさねばなることがある。それがあの戦争を生きのびたわたしの義務だ」
「……理不尽なものですな」
 ユスタスは顎ひげをなでた。
「おのが欲望のためにドルーアと結託し、あげく国を崩壊させた者たちはなにひとつ罪を贖いもせず、その犠牲となったわれらが尻拭いをさせられるとは」
「そうだな。理不尽やもしれぬ。それでも、生き残った者は前にむかって進むしかないのだ。さすればいずれ光に手がとどくだろう」
 ユスタスが黙したままでいると、ミネルバは力なく笑った。
「この答えでは不服か」
「ええ、不服にございます」
「ならば、わたしにどうせよと?」
「謙虚さは概して美徳とされますが、あなたは少し傲慢になられたほうがよい」
 ミネルバはかすかに眉根をよせた。
「あなたは、この国がアカネイアの占領を免れたことを幸運とおっしゃったが、それは違う。軍事権も外交権も、あなたがその手を血で汚したすえに勝ちとられたもの。あなたこそ、王位を得るにふさわしい」
 ユスタスはミネルバの手をとる。
「果断でいらっしゃることは軍司令官に必須の素養。しかしながらここは戦場ではありません。そのように決断を急がれることない」
「……悩み抜いた末に決めたことなのだが」
「時がたてば、人の心は変わるものですよ」
「そうであろうか……」
 ミネルバはとまどいをみせた。その顔は二十一の娘らしさがにじんでいた。家臣の前でのふるまいは姫君ではなく王のそれであるが、ふとした瞬間、隠しきれぬ素顔がのぞく。
 ユスタスにしてみれば、〈赤い竜騎士〉と呼ばれ、恐れられていようとも、飛竜から降りていれば、廷臣らになめられまいと虚勢を張っていた少女のころとさして変わりはしない。懐柔するのはたやすいだろう。
「殿下、あなたはわたしの希望です。きっと神は、あなたにお仕えすべくわたしを生きながらえさせたのです」
 ミネルバは
「では……わたしに力を貸してくれるか」
「もちろんでございます」
 ユスタスはひざまづき、その手に唇を落とした。
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