第四部
ユスタスの葬儀から十日がすぎた。
マケドニア王城は、宰相を失った悲しみよりも、その命を奪った卑劣漢への憎悪が渦巻いていた。
ミネルバ王女はいっさいを明かしていないが、ユスタスの胸に刺し傷があったことは知れ渡っており、事故や自殺と考えている者はいない。下手人は王城を出入りできる貴族か騎士としか考えられず、それもユスタスに恨みを持つ者となれば、対象はごく少数にしぼられる。
疑いの目を向けられる旧勢力の軍人たちは鬱憤をつのらせており、ただの訓練だというのに戦場でまみえた仇敵かのように憎しみをもって打ちかかってくる者さえいた。
午前の演習を終えたレント・プラージは、騎士館の談話室の前を通りかかった。部屋の扉はわずかに開かれており、そのすきまから三人の騎士たちの話し声が聞こえた。レントは足音を立てぬよう近づき、耳をそばだてる。
「――で、犯人はみつかると思うか」
「みつからんだろうな。目撃者はいないらしい」
「一国の宰相が殺されたってのに、下手人を挙げられないってのは情けない話だな」
「挙げたくても挙げられんという話も聞く」
「どういうことだ?」
「王女がメスト公を手にかけたってことさ」
「おいおい……」
「いくらなんでもそりゃないだろ」
「いや、これで反対勢力を一掃する口実ができたわけだ。王女にとっては好都合だろう」
「笑ってる場合か。それならおまえも危ないだろ」
「はじめから覚悟はしていたさ。兄王を容赦なく手にかける王女だ。俺たちなんぞ虫けらとしか思っていないだろうよ」
「まあ、王女が宰相を殺す動機はほかにもあるな」
「どういうことだ?」
「メスト公は王配の座を狙っていたのさ」
「王配どころか、あのままだとメスト公が王になってたかもしれんぞ。アカネイアみたいにな」
「ってことは、なんだ? 結婚がお嫌だったからだと?」
「男嫌いの姫君だからな。ありうる話だろう?」
「違いない」
下卑た笑い声が廊下にまで響きわたった。
レントはいきおいよく扉を開けた。扉が壁にあたり、けたたましい音を立てる。
三人の騎士たちはいっせいにレントを見やった。ほんの一瞬、彼らはばつの悪そうな顔をしたものの、すぐさま揶揄するような笑みをうかべた。
「これはこれはプラージ伯」
中央の椅子に座る男が、椅子の背にもたれて脚を組んだ。
その両隣の二人も、レントをにやにやと見やる。
「おいおい、なにをそんなに怒ることがある?」
「そうだ、ただの冗談だろ?」
レントは目を怒らせて三人に詰めよった。
「……おまえたち、それが冗談ですむと思っているのか」
「冗談ですまんのならなんだ? 引っ捕らえて、牢屋にでもぶちこんでみるか?」
開きなおる男をレントがねめつけていると、左端の男が近づいてきた。
「それにしても残念だったな、レント」
「……なにがだ?」
「おまえの兄貴さ。あのとき無駄死にしなけりゃ王になれたやもしれんというのに」
鼻がぶつかるほどに顔を近づける。
「いっそおまえが兄に代わって名乗りを上げてみるか? 相手にされんだろうがな――」
ゆがんだ笑みをうかべる男の横っ面に、レントはこぶしを食らわせた。
完全に不意を突かれた男は、大きくよろめいたが、すぐさまレントの胸ぐらをつかみ、その頬をしたたかに殴りつけた。
レントは床に叩きつけられたが、痛みをこらえて立ちあがった。
そこへ、廊下に集まっていた者たちが部屋へ飛びこんでくる。
「レント・プラージ、やめろ! 私闘は懲罰ものだぞ!」
止めに入った騎士にレントは羽交い絞めにされたが、その者すらふりきって、ふたたび男につかみかかった。
「いったいなにがあった?」
ミネルバ王女が困惑をにじませてレントに問うた。
リュッケは執務机にかけた王女のかたわらに立ち、呼び出されたレントの姿をみつめた。口の端は切れ、ほおが赤く腫れている。軍服の襟もボタンが引きちぎられていて、だらしなく開いたままとなっていた。
王女は短くため息をつく。
「ロラン・ベンソンに指導する立場のそなたがおなじような騒動を起こしてどうするのだ?」
レントはこたえない。
「そなたがいきなり殴りかかってきたと、あの者たちは話しているそうだが、理由もなくそなたがそんなことをすまい?」
王女に助け舟を出されても、レントはうつむいたままでいた。
「殿下にご報告せよ」
リュッケが厳しい声で発言をうながすと、レントは上目でちらりとミネルバを見上げた。ためらうように目をしばたたかせ、ようやく血のにじんだ口を痛そうに開いた。
「……あの者たちは、あなたがユスタスどのを殺したと噂していたのです」
一瞬の間をおいて、ミネルバは気が抜けたような笑いをもらした。
「なにゆえあの者たちはそのように考えたのだ?」
「……さまざまな理由はあるのでしょうが、ユスタスどのの死があなたにとって都合がよいからだと」
「よくわからぬが、それでそなたが怒ったのか」
レントは沈黙でもって肯定した。
不敬な噂についてリュッケにはおおよその予測がついたが、ミネルバは要領を得ておらぬようだった。しかしそれ以上は追求しなかった。
「この件は不問に付す。もう下がってよい」
しかしレントはその場を動こうとせず、顔をふりあげた。
「殿下、わたしに罰をお与えください。その上であの者たちを処罰なさってください」
「聞こえなかったのか。不問に付すとわたしは言ったのだ」
「ユスタスどのを殺めた者が誰か、殿下も目星はついておられるのでしょう? ユスタスどのが死んで得をするのはいったい誰です? 考えるまでもないことではありませんか!」
「その件はまだ捜査の途中だ。不用意なことは口にするな!」
ミネルバは鋭い口調で叱責したが、呼吸を整えながら視線をそらした。
「……そなたは今日はもう部屋に戻って休むがよい」
レントは恨めしげな目で王女をみつめていたが、うなだれるように一礼し、重い足どりで部屋を出ていった。
扉が閉まると、ミネルバは机に肘をつき、片手で目元をおおった。
あいかわらず眠れていないのか、顔色が悪い。あごの線も尖り、目に見えて瘦せてきている。
ユスタスの埋葬を終えて帰城してのち、王女は政務に忙殺されている。これまでユスタスが引き受けていたものが一挙に王女の双肩にのしかかることとなり、息つく暇さえないようである。そんな慌ただしい日々はかえって気慰みとなっていたようだが、部下が自分のために起こした騒動にひどく気を病んでいるようだった。
「レントにも困ったものです」
リュッケは軽い調子で言った。
「あれもいまでは連隊長だというのに、荒くれた兵卒のような喧嘩をやらかすのですから。これでは若い騎士たちに示しがつきません――」
「リュッケ」
ミネルバはゆっくりと蒼白な顏を起こした。
「そなた、ユスタスを殺めた者は誰だと思う?」
「いまのところ、確信できるようなものはなにも――」
「直感的に、どう思ったかと聞いているのだ」
リュッケが黙していると、ミネルバはきっぱりと言った。
「わたしはトルイユ伯がまっさきにうかんだ」
「な、なにゆえ……?」
「ただの勘だ」
「……勘、でございますか」
「レントが言っていただろう? 誰が得をするのかと。つまりはそういうことだ。ユスタスが最後に会っていたのはトルイユ伯であるし、補佐官の死にしても、考えるほどにアカネイア側の自作自演としか思えぬようになってきた」
「……もし、殿下の勘が正しかったとして、いかがなさるおつもりですか」
「さて、どうするか。これまでさんざん低頭に尽くした結果がこれではな。わたしのやり方が間違っていたのだろう」
「なりません殿下、いまはどうぞ自重なさってください」
リュッケは慌てて言いつのった。いまのミネルバならば、自棄になってとんでもないことをやりかねないと恐れたのだが、ミネルバはじっとリュッケを見すえ、自嘲するような微笑をむけた。
「案ずるな。短気は起こさぬ。……ユスタスの死は、きっとわたしへの警告なのだから」
リュッケは茫然としたまま、ミネルバを見下ろしていた。
「この国にはいく人かアカネイアによって暗殺されたと思しき者がいいる。父は違うとわかっているが、母はその可能性が高い。そして……第二代イルテアス王」
王女のしずかな目がリュッケに向けられた。
「わたしはそなたの祖父オーレフ宰相もまたそうであったのではないかと考えている。あの一件がわが国の流れを大きく変えたと言う者もいるが、事実、第三代ビセンテ王は、父王の暗殺により委縮し、隷属的な姿勢に舵を切らざるをえなかった。その時代に形成された外交方針を、父は踏襲せねばならなかった。その結果、父の対外政策に不満をいだく兄を野望に走らせ、国に災厄を招き入れることとなったのだ……」
ミネルバの目が鋭さをおびた。
リュッケは気圧され、ごくりと息をのむ。
「だが、かの一件がなくとも、いずれこの国はおなじ流れをたどっただろう。もとより聖王国と対等の関係を築くことなぞできようはずもない。人も富も武力も、なにもかもが足らなかった。この国だけでなく、他国も同様だった。だから歴史の流れに大きな変化はなかったはずだ」
自分に言い聞かせるかのように、王女は言葉をつむぐ。
「そしていま、この世界は昔に逆戻りしつつある。諸国が力を失ったために、地力のあるアカネイアが戦前以上に大陸に君臨するようになるのは必然の流れ。だからこの国にふたたび間接支配が敷かれるなら、それを受けいれるほかないと思っていた。だが、ユスタスはわたしに言った。すべてを諦める必要などない、志しをおなじくする者たちと力を合わせ、粘り強く、失ったものを取り戻していけばよい、と。……そのとおりだと思った。あらたな未来を夢見ることで、わたしはふたたび苦難に立ち向かってゆける気がした。たとえシモンのような輩がいようとも、父のように、どんな屈辱にも耐えてみせると……いや、自分ならば耐えられると、そう思っていた。だが――」
ミネルバは声をつまらせた。
「こんな形でユスタスを失うことまで……考えてはいなかった……」
うなだれるミネルバに、リュッケはかける言葉をもたなかった。
⁂
宵の刻、ひと月ぶりに大使との会食の席が設けられた。ミネルバ王女はドレスはまとわず、装飾のひかえめな軍服を召して貴賓室へ向かった。
席に着くや、トルイユが先に口を切った。
「こうしてあなたとお食事をするのはずいぶん久しぶりに思えますね」
「……いろいろとございましたので」
ミネルバは消え入りそうな笑みをうかべた。
かつてはまわりくどい世間話からはじまるのが常だったが、今宵はすぐさまユスタスとフリス・オドランの話になった。
「こたびの二つの事件、王女はつながっているとお考えですか」
「まだなんとも。予断をいだくことなく、あらゆる可能性を考慮したいと思っております」
「目撃者がおればよいのですが、なにぶん深夜で、しかも雨が降っておりましたからね」
トルイユは沈んだ口調でつづける。
「まだ下手人も背後関係もわかりませんが、やはり駐留軍派遣が大きな要因となっていると見るのが妥当なのでしょう」
「……二つの事件がつながっておるのであれば、その可能性は高いと思っています」
ミネルバは慎重に言葉を選んだ。
トルイユはかるくあいづちを打って、
「あの日……ユスタスどのが亡くなられた日、ずいぶんと長い時間、その件について語り合いました。そのさい、代案をお聞きしたのです。駐留軍を受け入れる代わりとして、竜騎士団をわれらの警護のために使役してよい、と。あなたもご承知だそうですね」
「はい、わたしがユスタスにそう伝えました」
ミネルバは硬い表情のままトルイユをみすえる。
「トルイユ伯はご存じでしょうか。これには前例があるのですが」
「ええ、イルテアス王の時代の……いわば傭兵にございますね。アカネイア東部の部族討伐において比類ない力を発揮され、カルタス王もマケドニアの力を称賛されたと伝わっております」
「わが名において、あなた方の身の安全は保証いたします。今後、けっしてこのようなことが起こらぬよう」
「……端的に申しあげれば、駐留軍の設置はわれらの警護が目的ではなく、あなた方を監視するためのものでした」
「存じております」
「あなたが拒否なさること、それはすなわち叛意の表れと受けとらざるをえないのですが……」
その脅しともとれる言葉にも、ミネルバはまじろぐことはなかった。
しずかな睨み合いののち、トルイユは口を開いた。
「わたし個人としては、あなたにふくむところもあるのですが、同時に、あなたがどれほど故国を想い、戦ってこられたのかもわかっているつもりです。まだ年若い姫君が、命じられるままに罪に身を染められた……。あなたも国家の野望に利用された憐れな犠牲者だ」
「……そのようにかばっていただく必要はありません」
「そうおっしゃらず」
トルイユは彼にはめずらしい弱々しい声で言った。
「わが国にはマケドニアに恨みをいだく者も多くおります。わたしもその一人ですが、ハーディン陛下がわたしのような者をここへお遣りになったのは、けっしてあなたへの嫌がらせなどではないのですよ。……陛下はこうおっしゃいました。じかに〈赤い竜騎士〉にまみえてくればよい、と。……この半年、あなたとは狩りに会食、視察と多くの時間を過ごしてまいりましたが、陛下はあなたのお人柄にふれればわたしの考えも変わると思っておられたのでしょう。……不本意ながら、陛下が正しかったようですね」
トルイユは苦笑して、
「遺恨をすべて忘れ去ることなどできはしません。しかし、わたしもこたびのことで少々考えを改めました。……憎悪をいだきつづけても心が救われることはありません。なにより、負の感情というものはおのが身にかえってくるものなのですね。まるで神の罰のように……」
トルイユは声をふるわせ、口元に手をあてがった。
その演技がかったふるまいを目の当たりにし、ミネルバは白けた目になった。これがトルイユの本心であるはずもなく、補佐官の死を悲しんでいるわけがないこともわかっていた。
しかしすぐに自身のなすべきふるまいを思い出し、端正な笑みをうかべる。
「トルイユ伯、どうぞご自分をお責めにはならないでください。あなたは……なんら責めを負うべき人ではないのですから」
「ミネルバ王女、やはりあなたはハーディン陛下のおっしゃっていたままのお人だ。謙虚で、誠実で……あなたのような方であれば、不可能と思えた両国の友好を実現できるやもしれません」
トルイユは赤ワインのみちた杯を手にとった。
「両国の未来のため、ともに手をたずさえてゆきましょう」
ミネルバもまた杯を掲げ、笑みをかわし合った。しかしこれは氷解ではない。少なくともミネルバにとって大使からの言葉は友好ではなく牽制でしかなかった。
こうして、以前となんら変わらぬ茶番がつづいていく。
そしてこの茶番こそが、マケドニアとアカネイアのあいだに横たわる長い歴史そのものだった。弁務官にへりくだり、屈辱に耐えることで叛意がないことを示す。
そうやって平穏な日々がつむがれてきた。
先の戦争は、そんな偽りの平穏を終わらせるためのものでもあった。たとえその手段があやまりであろうと、重くふさがれた天蓋に大きな風穴を空けた。黄金の足枷をはめられていた南方の竜は、ようやく自由な飛翔が許されたのだ。
しかし破壊の先に築きあげたものは、砂上の楼閣であった。その重さに耐えきれず、崩壊し、残された者たちはいま、うずたかく積み上がった瓦礫の上で懸命にもがいている。
その瓦礫を取りのぞくことがおのれの務めなのだとミネルバは思った。そのために懸命に尽くすつもりでいた。しかし広大な大地にそびえたつ楼閣の姿は、その脳裏にうかんではいなかった。
マケドニア王城は、宰相を失った悲しみよりも、その命を奪った卑劣漢への憎悪が渦巻いていた。
ミネルバ王女はいっさいを明かしていないが、ユスタスの胸に刺し傷があったことは知れ渡っており、事故や自殺と考えている者はいない。下手人は王城を出入りできる貴族か騎士としか考えられず、それもユスタスに恨みを持つ者となれば、対象はごく少数にしぼられる。
疑いの目を向けられる旧勢力の軍人たちは鬱憤をつのらせており、ただの訓練だというのに戦場でまみえた仇敵かのように憎しみをもって打ちかかってくる者さえいた。
午前の演習を終えたレント・プラージは、騎士館の談話室の前を通りかかった。部屋の扉はわずかに開かれており、そのすきまから三人の騎士たちの話し声が聞こえた。レントは足音を立てぬよう近づき、耳をそばだてる。
「――で、犯人はみつかると思うか」
「みつからんだろうな。目撃者はいないらしい」
「一国の宰相が殺されたってのに、下手人を挙げられないってのは情けない話だな」
「挙げたくても挙げられんという話も聞く」
「どういうことだ?」
「王女がメスト公を手にかけたってことさ」
「おいおい……」
「いくらなんでもそりゃないだろ」
「いや、これで反対勢力を一掃する口実ができたわけだ。王女にとっては好都合だろう」
「笑ってる場合か。それならおまえも危ないだろ」
「はじめから覚悟はしていたさ。兄王を容赦なく手にかける王女だ。俺たちなんぞ虫けらとしか思っていないだろうよ」
「まあ、王女が宰相を殺す動機はほかにもあるな」
「どういうことだ?」
「メスト公は王配の座を狙っていたのさ」
「王配どころか、あのままだとメスト公が王になってたかもしれんぞ。アカネイアみたいにな」
「ってことは、なんだ? 結婚がお嫌だったからだと?」
「男嫌いの姫君だからな。ありうる話だろう?」
「違いない」
下卑た笑い声が廊下にまで響きわたった。
レントはいきおいよく扉を開けた。扉が壁にあたり、けたたましい音を立てる。
三人の騎士たちはいっせいにレントを見やった。ほんの一瞬、彼らはばつの悪そうな顔をしたものの、すぐさま揶揄するような笑みをうかべた。
「これはこれはプラージ伯」
中央の椅子に座る男が、椅子の背にもたれて脚を組んだ。
その両隣の二人も、レントをにやにやと見やる。
「おいおい、なにをそんなに怒ることがある?」
「そうだ、ただの冗談だろ?」
レントは目を怒らせて三人に詰めよった。
「……おまえたち、それが冗談ですむと思っているのか」
「冗談ですまんのならなんだ? 引っ捕らえて、牢屋にでもぶちこんでみるか?」
開きなおる男をレントがねめつけていると、左端の男が近づいてきた。
「それにしても残念だったな、レント」
「……なにがだ?」
「おまえの兄貴さ。あのとき無駄死にしなけりゃ王になれたやもしれんというのに」
鼻がぶつかるほどに顔を近づける。
「いっそおまえが兄に代わって名乗りを上げてみるか? 相手にされんだろうがな――」
ゆがんだ笑みをうかべる男の横っ面に、レントはこぶしを食らわせた。
完全に不意を突かれた男は、大きくよろめいたが、すぐさまレントの胸ぐらをつかみ、その頬をしたたかに殴りつけた。
レントは床に叩きつけられたが、痛みをこらえて立ちあがった。
そこへ、廊下に集まっていた者たちが部屋へ飛びこんでくる。
「レント・プラージ、やめろ! 私闘は懲罰ものだぞ!」
止めに入った騎士にレントは羽交い絞めにされたが、その者すらふりきって、ふたたび男につかみかかった。
「いったいなにがあった?」
ミネルバ王女が困惑をにじませてレントに問うた。
リュッケは執務机にかけた王女のかたわらに立ち、呼び出されたレントの姿をみつめた。口の端は切れ、ほおが赤く腫れている。軍服の襟もボタンが引きちぎられていて、だらしなく開いたままとなっていた。
王女は短くため息をつく。
「ロラン・ベンソンに指導する立場のそなたがおなじような騒動を起こしてどうするのだ?」
レントはこたえない。
「そなたがいきなり殴りかかってきたと、あの者たちは話しているそうだが、理由もなくそなたがそんなことをすまい?」
王女に助け舟を出されても、レントはうつむいたままでいた。
「殿下にご報告せよ」
リュッケが厳しい声で発言をうながすと、レントは上目でちらりとミネルバを見上げた。ためらうように目をしばたたかせ、ようやく血のにじんだ口を痛そうに開いた。
「……あの者たちは、あなたがユスタスどのを殺したと噂していたのです」
一瞬の間をおいて、ミネルバは気が抜けたような笑いをもらした。
「なにゆえあの者たちはそのように考えたのだ?」
「……さまざまな理由はあるのでしょうが、ユスタスどのの死があなたにとって都合がよいからだと」
「よくわからぬが、それでそなたが怒ったのか」
レントは沈黙でもって肯定した。
不敬な噂についてリュッケにはおおよその予測がついたが、ミネルバは要領を得ておらぬようだった。しかしそれ以上は追求しなかった。
「この件は不問に付す。もう下がってよい」
しかしレントはその場を動こうとせず、顔をふりあげた。
「殿下、わたしに罰をお与えください。その上であの者たちを処罰なさってください」
「聞こえなかったのか。不問に付すとわたしは言ったのだ」
「ユスタスどのを殺めた者が誰か、殿下も目星はついておられるのでしょう? ユスタスどのが死んで得をするのはいったい誰です? 考えるまでもないことではありませんか!」
「その件はまだ捜査の途中だ。不用意なことは口にするな!」
ミネルバは鋭い口調で叱責したが、呼吸を整えながら視線をそらした。
「……そなたは今日はもう部屋に戻って休むがよい」
レントは恨めしげな目で王女をみつめていたが、うなだれるように一礼し、重い足どりで部屋を出ていった。
扉が閉まると、ミネルバは机に肘をつき、片手で目元をおおった。
あいかわらず眠れていないのか、顔色が悪い。あごの線も尖り、目に見えて瘦せてきている。
ユスタスの埋葬を終えて帰城してのち、王女は政務に忙殺されている。これまでユスタスが引き受けていたものが一挙に王女の双肩にのしかかることとなり、息つく暇さえないようである。そんな慌ただしい日々はかえって気慰みとなっていたようだが、部下が自分のために起こした騒動にひどく気を病んでいるようだった。
「レントにも困ったものです」
リュッケは軽い調子で言った。
「あれもいまでは連隊長だというのに、荒くれた兵卒のような喧嘩をやらかすのですから。これでは若い騎士たちに示しがつきません――」
「リュッケ」
ミネルバはゆっくりと蒼白な顏を起こした。
「そなた、ユスタスを殺めた者は誰だと思う?」
「いまのところ、確信できるようなものはなにも――」
「直感的に、どう思ったかと聞いているのだ」
リュッケが黙していると、ミネルバはきっぱりと言った。
「わたしはトルイユ伯がまっさきにうかんだ」
「な、なにゆえ……?」
「ただの勘だ」
「……勘、でございますか」
「レントが言っていただろう? 誰が得をするのかと。つまりはそういうことだ。ユスタスが最後に会っていたのはトルイユ伯であるし、補佐官の死にしても、考えるほどにアカネイア側の自作自演としか思えぬようになってきた」
「……もし、殿下の勘が正しかったとして、いかがなさるおつもりですか」
「さて、どうするか。これまでさんざん低頭に尽くした結果がこれではな。わたしのやり方が間違っていたのだろう」
「なりません殿下、いまはどうぞ自重なさってください」
リュッケは慌てて言いつのった。いまのミネルバならば、自棄になってとんでもないことをやりかねないと恐れたのだが、ミネルバはじっとリュッケを見すえ、自嘲するような微笑をむけた。
「案ずるな。短気は起こさぬ。……ユスタスの死は、きっとわたしへの警告なのだから」
リュッケは茫然としたまま、ミネルバを見下ろしていた。
「この国にはいく人かアカネイアによって暗殺されたと思しき者がいいる。父は違うとわかっているが、母はその可能性が高い。そして……第二代イルテアス王」
王女のしずかな目がリュッケに向けられた。
「わたしはそなたの祖父オーレフ宰相もまたそうであったのではないかと考えている。あの一件がわが国の流れを大きく変えたと言う者もいるが、事実、第三代ビセンテ王は、父王の暗殺により委縮し、隷属的な姿勢に舵を切らざるをえなかった。その時代に形成された外交方針を、父は踏襲せねばならなかった。その結果、父の対外政策に不満をいだく兄を野望に走らせ、国に災厄を招き入れることとなったのだ……」
ミネルバの目が鋭さをおびた。
リュッケは気圧され、ごくりと息をのむ。
「だが、かの一件がなくとも、いずれこの国はおなじ流れをたどっただろう。もとより聖王国と対等の関係を築くことなぞできようはずもない。人も富も武力も、なにもかもが足らなかった。この国だけでなく、他国も同様だった。だから歴史の流れに大きな変化はなかったはずだ」
自分に言い聞かせるかのように、王女は言葉をつむぐ。
「そしていま、この世界は昔に逆戻りしつつある。諸国が力を失ったために、地力のあるアカネイアが戦前以上に大陸に君臨するようになるのは必然の流れ。だからこの国にふたたび間接支配が敷かれるなら、それを受けいれるほかないと思っていた。だが、ユスタスはわたしに言った。すべてを諦める必要などない、志しをおなじくする者たちと力を合わせ、粘り強く、失ったものを取り戻していけばよい、と。……そのとおりだと思った。あらたな未来を夢見ることで、わたしはふたたび苦難に立ち向かってゆける気がした。たとえシモンのような輩がいようとも、父のように、どんな屈辱にも耐えてみせると……いや、自分ならば耐えられると、そう思っていた。だが――」
ミネルバは声をつまらせた。
「こんな形でユスタスを失うことまで……考えてはいなかった……」
うなだれるミネルバに、リュッケはかける言葉をもたなかった。
⁂
宵の刻、ひと月ぶりに大使との会食の席が設けられた。ミネルバ王女はドレスはまとわず、装飾のひかえめな軍服を召して貴賓室へ向かった。
席に着くや、トルイユが先に口を切った。
「こうしてあなたとお食事をするのはずいぶん久しぶりに思えますね」
「……いろいろとございましたので」
ミネルバは消え入りそうな笑みをうかべた。
かつてはまわりくどい世間話からはじまるのが常だったが、今宵はすぐさまユスタスとフリス・オドランの話になった。
「こたびの二つの事件、王女はつながっているとお考えですか」
「まだなんとも。予断をいだくことなく、あらゆる可能性を考慮したいと思っております」
「目撃者がおればよいのですが、なにぶん深夜で、しかも雨が降っておりましたからね」
トルイユは沈んだ口調でつづける。
「まだ下手人も背後関係もわかりませんが、やはり駐留軍派遣が大きな要因となっていると見るのが妥当なのでしょう」
「……二つの事件がつながっておるのであれば、その可能性は高いと思っています」
ミネルバは慎重に言葉を選んだ。
トルイユはかるくあいづちを打って、
「あの日……ユスタスどのが亡くなられた日、ずいぶんと長い時間、その件について語り合いました。そのさい、代案をお聞きしたのです。駐留軍を受け入れる代わりとして、竜騎士団をわれらの警護のために使役してよい、と。あなたもご承知だそうですね」
「はい、わたしがユスタスにそう伝えました」
ミネルバは硬い表情のままトルイユをみすえる。
「トルイユ伯はご存じでしょうか。これには前例があるのですが」
「ええ、イルテアス王の時代の……いわば傭兵にございますね。アカネイア東部の部族討伐において比類ない力を発揮され、カルタス王もマケドニアの力を称賛されたと伝わっております」
「わが名において、あなた方の身の安全は保証いたします。今後、けっしてこのようなことが起こらぬよう」
「……端的に申しあげれば、駐留軍の設置はわれらの警護が目的ではなく、あなた方を監視するためのものでした」
「存じております」
「あなたが拒否なさること、それはすなわち叛意の表れと受けとらざるをえないのですが……」
その脅しともとれる言葉にも、ミネルバはまじろぐことはなかった。
しずかな睨み合いののち、トルイユは口を開いた。
「わたし個人としては、あなたにふくむところもあるのですが、同時に、あなたがどれほど故国を想い、戦ってこられたのかもわかっているつもりです。まだ年若い姫君が、命じられるままに罪に身を染められた……。あなたも国家の野望に利用された憐れな犠牲者だ」
「……そのようにかばっていただく必要はありません」
「そうおっしゃらず」
トルイユは彼にはめずらしい弱々しい声で言った。
「わが国にはマケドニアに恨みをいだく者も多くおります。わたしもその一人ですが、ハーディン陛下がわたしのような者をここへお遣りになったのは、けっしてあなたへの嫌がらせなどではないのですよ。……陛下はこうおっしゃいました。じかに〈赤い竜騎士〉にまみえてくればよい、と。……この半年、あなたとは狩りに会食、視察と多くの時間を過ごしてまいりましたが、陛下はあなたのお人柄にふれればわたしの考えも変わると思っておられたのでしょう。……不本意ながら、陛下が正しかったようですね」
トルイユは苦笑して、
「遺恨をすべて忘れ去ることなどできはしません。しかし、わたしもこたびのことで少々考えを改めました。……憎悪をいだきつづけても心が救われることはありません。なにより、負の感情というものはおのが身にかえってくるものなのですね。まるで神の罰のように……」
トルイユは声をふるわせ、口元に手をあてがった。
その演技がかったふるまいを目の当たりにし、ミネルバは白けた目になった。これがトルイユの本心であるはずもなく、補佐官の死を悲しんでいるわけがないこともわかっていた。
しかしすぐに自身のなすべきふるまいを思い出し、端正な笑みをうかべる。
「トルイユ伯、どうぞご自分をお責めにはならないでください。あなたは……なんら責めを負うべき人ではないのですから」
「ミネルバ王女、やはりあなたはハーディン陛下のおっしゃっていたままのお人だ。謙虚で、誠実で……あなたのような方であれば、不可能と思えた両国の友好を実現できるやもしれません」
トルイユは赤ワインのみちた杯を手にとった。
「両国の未来のため、ともに手をたずさえてゆきましょう」
ミネルバもまた杯を掲げ、笑みをかわし合った。しかしこれは氷解ではない。少なくともミネルバにとって大使からの言葉は友好ではなく牽制でしかなかった。
こうして、以前となんら変わらぬ茶番がつづいていく。
そしてこの茶番こそが、マケドニアとアカネイアのあいだに横たわる長い歴史そのものだった。弁務官にへりくだり、屈辱に耐えることで叛意がないことを示す。
そうやって平穏な日々がつむがれてきた。
先の戦争は、そんな偽りの平穏を終わらせるためのものでもあった。たとえその手段があやまりであろうと、重くふさがれた天蓋に大きな風穴を空けた。黄金の足枷をはめられていた南方の竜は、ようやく自由な飛翔が許されたのだ。
しかし破壊の先に築きあげたものは、砂上の楼閣であった。その重さに耐えきれず、崩壊し、残された者たちはいま、うずたかく積み上がった瓦礫の上で懸命にもがいている。
その瓦礫を取りのぞくことがおのれの務めなのだとミネルバは思った。そのために懸命に尽くすつもりでいた。しかし広大な大地にそびえたつ楼閣の姿は、その脳裏にうかんではいなかった。
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