第四部

 十一の月十八日。
 みぞれまじりの雨が降る朝、ユスタス・メストの葬儀が王城の礼拝堂で営まれた。フロスト司祭をはじめとする三人の司祭による祭礼は王族に準じた扱いである。
 メスト家は王家の縁戚ではあるが、アイオテの血を継ぐ者ではない。しかし数あるアイオテの子孫たちより王家と深い関わりがあり、宮廷の中枢でオズモンド王とミネルバ王女を支えた。それゆえの特別待遇であった。
 ユスタスの亡骸は黒檀の柩に納められ、大理石の祭壇に安置されている。柩は臙脂のマケドニア紋章旗でおおわれ、清浄な百合の花があふれんばかりに供えられていた。
 おごそかな祈りの聖句がつむがれるなか、参列者たちの視線は、祭壇の柩と、最前列に座するミネルバ王女へとそそがれていた。
 黒の最礼装をまとった王女は、まっすぐに背筋をのばし、切れ長の瞳で挑むように祭壇をみつめている。
 見る者を畏怖させるその姿は、一年前、兄王を討って凱旋を遂げたときを思い起こさせるものだった。玉座の間で、情愛のかけらも見せぬ王女の姿は多くの者の目に焼きついている。
 ユスタスのむごたらしい死に様は、すでに王城内にひろまっており、暗殺ということも多くの者の知るところである。
 きっと王女は、腹心を殺めた者への怒りと復讐に燃えているのだ。そう多くの貴族たちは思ったことだろう。
 しかし、王女にごく近しい者からすれば、その目に宿るのが怒りや憎しみだとは思わなかっただろう。少なくともリュッケの目には、王女は弱った身体に鞭打ち、自身の誇りと忠臣への礼節を支えとし、祭礼に臨んでいるようにしか見えなかった。
 沈香につつまれた礼拝堂に、しめやかな祈りがみち、天へととどく鐘が鳴りはじめた。
 荘厳な祭礼を終え、黒檀の棺が黒衣の騎士によって運び出されていく。柩が馬車へのせられようとしたとき、ミネルバ王女が前へと進み出てきた。柩に手をおき、威風をまとわせて告げる。。
「ユスタスはこの国のためよく尽くしてくれた。わたしに仕えてくれたのは半年という短いあいだであったが、父もユスタスのことは頼りにされていた。……そして」
 声がわずかに上ずった。
「父君エラルドどののにも感謝の意を表したい。エラルドどのは最期のときまで父オズモンドに全身全霊を捧げてくれた。騎士のなかの騎士、まことの忠臣であった……」
 ミネルバが前宰相の名を口にした瞬間、感嘆の声が上がった。
 エラルド・メストは前体制下では反逆者とされてきたが、オズモンド王の死の真相を知る者はすでに多い。ミネルバがユスタスを重用していたことから、すでにその濡れ衣は晴らされたも同然であったが、多くの貴族が集まる葬送の場で、前宰相に言及した意味は大きかった。
 あたりが感動につつまれる一方で、鼻白む者たちも見られた。リュッケは離れた場所でたたずむ貴族たちを横目で見やり、これから起こりうるであろう騒動に暗澹たる思いをいだいた。

 ミネルバ王女は女官長タマーラをともない、ユスタスの埋葬のため王都南西のメスト家の領地へと発った。予定では三日ほど城を空けることとなる。葬列には黒衣をまとった騎兵が竜騎士団が護衛としてついた。
 リュッケも愛馬を駆り、宰相の死を悼む王都の民とともに黒い葬列を見送った。ゆるやかにうねる街道の先に葬列が見えなくなっても、しばらく南の方角に目をはせていた。
 その胸にはさまざまな想いがめぐっていた。
 昨夜リュッケは、礼拝堂で長い時間をすごした。ミネルバ王女が安置されたユスタスの柩の前から動こうとしなかったため、深更までその護衛としてそばにいた。静寂のなか、うちひしがれている王女を見ているうちに、奇妙な感覚に囚われていった。
 ユスタスに直接手を下したのは自分だというというのに、その実感がない。ほんの三日前、胸を刺し、絶命させたときのことが、もやがかかったように遠ざかっていった。
 長年、自分を偽りつづけて生きてきたせいであろうか。腹心を失った痛ましい王女に寄り添ううちに、自分もまた旧友の死を悲しんでいるかのように感じられていた。
 そして旧友を殺めていながら、これほど厚顔になれる自分に驚いてもいた。
 馬首を返そうとしたとき、その背後から馬蹄の音が響いた。
「リュッケ将軍」
 マチスだった。手をふりながら、常足で近づいてくる。
「ただいま戻りました」
「どうしたのだ、おまえは殿下に同行していたのではなかったのか」
「ええ、まあ……」
 寒さのせいか、それとも涙ぐんでいたのか、マチスの鼻の頭は赤くなっていた。
「埋葬まで立ち会うつもりだったんですが……やっぱり俺は遠慮したほうがいいと思いまして」
 マチスは鼻をすすった。
「宰相の葬儀は終わったわけですから、後はもうタマーラと二人だけにしてあげたほうがいいんじゃないかって。ほら、あの人……部下といたら気を張ってばかりいるじゃないですか。俺たちがいたら休めないでしょう? レントも途中で引きかえすつもりだそうです」
「……そうか」
「葬儀のときも、なんかもういっぱいいっぱいな感じだったし、あっちでしばらく養生したほうがいいんじゃないかって思いますけど……まあ、そういうわけにもいかないんでしょうね」
「……ああ。予定に変更はないだろう」
「将軍も、いっぱいいっぱいな感じですね。酷い顔されてますよ?」
 そう言いながら、リュッケの目元を指さす。
 たしかにいま、リュッケの顔は濃い疲労の色がにじんでいた。目は落ちくぼみ、濃いくまがうかんでいる。朝にひげは整えたものの、そのせいでこけたほおが目立ってしまっていた。
「あんまり無理はしないでくださいよ」
「そういうわけにもいかんだろう」
「無理したって、犯人なんてみつからないでしょう?」
 マチスは王城のほうへ目をはせる。
「戦時中は、こういうの、めずらしくもありませんでしたね。中央に反発した貴族が水堀に浮かんでたり、城塔からあやまって転落したり、ある日突然失踪してそれっきり、とか……」
 かわいた笑いをもらして、
「あのころはすべて不幸な事故で片づけられましたけど、さすがに今回のははむりやりにでも決着つけないとまずいんじゃないですか」
「首謀者をでっちあげろと?」
「ええ。できればあなたの良心が痛まない者を」
 リュッケはうなった。
「……まだ三日しかたっておらんのだ。いましばらくは手がかりを探す」
「悠長にしてる時間はないと思いますがね」
「わかっている」

 リュッケはマチスをともなって前衛塔のはね橋を渡った。城門をくぐり、騎士館の南の厩舎へ向かう途中、馬にのったストラーニと鉢合わせになった。
 ストラーニの顔は凱旋した将軍のように晴れやかだった。
 意気揚々と近づいてきて、マチスをほうをしゃくるように見やる。
「ヴェーリの倅か。あいかわらず、ふぬけた面をしとるな」
「そりゃどうも」
 マチスはへらへらと応じた。
「ストラーニ将軍はずいぶんご機嫌でいらっしゃる」
「さもあろう。これまでさんざん煮え湯を飲まされてきたのだ。これほど胸のすくことはない」
 ストラーニは呵々と笑う。
「王女はユスタスがアカネイアとの交渉には必要だなどと言っておられたが、結局はなんの役にも立たず、無様に死んでいきおったわ。あのような仰々しい葬送、やつには不相応よ」
「そのようなこと、いま口にすべきことではなかろう」
 リュッケが鋭い声でたしなめると、ストラーニは鼻を鳴らした。
「王女の腰巾着どもは、われらが陰謀の主犯であるかのように吹聴しておる。カゾーニ伯の部下がかぎまわっておるが、ご苦労なことだ。そもそも父親のエラルド・メストからして、その傲慢さゆえに敵を作りすぎていたのだ。アカネイアに媚びへつらい、オズモンド王を意のままにあやつっていた。この国をアカネイアの奴隷にした国賊ゆえ、王子に無礼打ちされてもやむをえまいよ。ユスタスも王女をわがものにせんともくろむ奸臣であった。義憤に駆られた国士がやつを誅してくれたのだろう」
 聞くに堪えぬ暴言であったが、リュッケにはもうたしなめる気すら失せていた。
 ストラーニは満足げな笑みをうかべ、馬の腹を蹴った。そのまま厩舎のほうへ向かってゆく。
 リュッケが辟易しながらその背をねめつけていると、
「ストラーニじゃなさそうですね」
 マチスがぼそりと言った。
「なぜそう思う?」
 思わず尋ねると、マチスはおかしそうに答えた。
「あんなの、まっさきに疑われる人間の態度じゃない」
「そのようなもの、どうとでもつくろえる」
「それができない人間だってこと、あなたが一番ご存じでしょう?」



 マチスと別れ、リュッケは騎士館の団長室に戻った。みぞれは雪に変わっており、窓辺に冷気がただよっていた。
 暖炉の火をおこし、酒を片手に肘掛椅子に腰を落ちつけた。どっと疲労に襲われ、長いため息をつく。
 この部屋で、ユスタスとは何度も酒を酌み交わしながら、祖国の行く末について語り合った。ユスタスの思い描く未来、その道筋について、驚嘆しつつも苛立たされることは多かった。自信家で、みずからを世を導く存在とでも思っているようなふるまいが気に入らなかった。
 それでも王女への献身は野心からだけではなかったと、いまではすなおに認める気になれた。
 ユスタスの腹づもりがどうであろうと、国と民のためになるあらゆる方策をつねに考えていた。
 王女とユスタスが手を取り合って国を治めていれば、戦前以上にアカネイアからの圧力が強まろうとも、どうにか乗り切ることもできたかもしれない。
 しかし、なにもかも手遅れだ――
「リュッケ将軍」
 いきなり扉が開かれ、リュッケは弾かれたように体を起こした。手のなかの酒がわずかにこぼれる。
「明日、主宮へ移られるそうですね」
 ダリオ・モーロの問いかけに、リュッケは吐息のような声で、ああ、とだけこたえた。杯を卓におく。
 いまはこの男の顔を見たくなかった。リュッケが手にかけたユスタスの遺体は、モーロが飛竜で王城まで運び、ユスタスの部屋の真上から投げ落としたのだ。
 騒ぎを聞きつけ、駆けつけたリュッケは、その亡骸のあまりのむごたらしさに狼狽した。命を奪ったのはリュッケであるが、遺体を辱めることまでは望んでいなかった。
 いくらなんでも、ほかにやりようがあるだろうに。
 近づいてきたモーロに、顔をそむけたまま問う。
「フリス・オドランは、おまえがやったのか」
「いえ、あれはあちらが」
 モーロのそっけない物言いに、リュッケは眉をひそめた。
「叔父が犯人探しに躍起になっているが、足がつくことはないのか」
「十中八九ないと思いますが、仮に真実にたどりつかれたとしても、カゾーニ伯なら引き際を心得ておられると思いますが」
「なにが言いたい?」
「あの方はかつて王太子の父殺しを黙殺された。それと同様に、メスト公殺しの犯人に気づいても、あなたをかばわれるのでは?」
「叔父はそこまで甘い男ではない」
「では、ミネルバ王女のためならばどうです?」
 モーロはほほえむ。
「王女をアカネイアの追求から守るためなら、あの者はどのような手でも使うでしょう。……すでに、そのつもりで動いておられるのでは?」
 リュッケは黙った。マチスの言っていたように、目撃者もおらず、凶器も残っていない事件など、適当な者を犯人に仕立て上げるほか解決するすべはない。おそらく、いまカゾーニは捜査をしているのではなく、贄として捧げるべき人物を見定めているのだろう。
 カゾーニはユスタスをあまりこころよく思ってはいなかったが、ミネルバが厳罰を下さなかった旧勢力の一部に対し、あらためてなんらかの処分を下すべきという考えは共通していた。この絶好の機会を逃しはしないだろう。
「将軍、あなたに疑いの目が向くことはないと思いますが、あなたはすでに、カゾーニ伯を消す覚悟もされているのでしょう?」
 リュッケがねめつけると、モーロは唇をつりあげた。
「主宮に移られたなら、あなたはもう動かれぬほうがよい」
 身をかえし、首だけをわずかにふりむける。
「どうぞ、最後のときまで王女の忠臣でいらしてください」

        ⁂

 リュッケにあてがわれたのは、主宮東翼の二階にある南向きの部屋であった。かつてはマチスの父、テレンス・ヴェーリ伯に与えられていた部屋である。
 急遽整えられたために調度品もそろっておらず、簡素な部屋だが、陰気で雑然とした騎士館の部屋とは違って広々として清潔で、大きな窓からは冬の陽光が燦燦とふりそそいでいる。
 窓辺から一望できる主宮の前庭に目をはせながら、リュッケは皮肉げな微笑をうかべた。。
 かつて〈王殺しの孫〉と蔑まれてきた自分が主宮に起居を許される日がこようとは。
 充足感をいだくと同時に、手を汚して得たかりそめの褒賞にむなしさもおぼえていた。
 背後で扉がひらく音がし、リュッケはあわててふりかえった。
 立っていたのはロザリアだった。
 黒い仕着せのすそをさばき、ゆっくりと近寄ってきた。紙のように白く青ざめた顔をふりあげる。
「いま、いったいなにが起きているのですか」
 ロザリアは声をふるわせた。
「メスト公は、わたしのことに気づいたから……あのようなことに?」
「いや、おまえのことは関係ない」
「ほんとうのことをおっしゃってください」
「……トルイユ伯は、はじめからこうするつもりだったのだ」
 娘を慰めようとしたわけではない。多少時期は早まったのかもしれないが、ユスタス・メストの死は避けられなかった。トルイユは王女を側近から引き離し、自分の息のかかった者と入れ替えていくつもりでいた。王女の右腕であり、もっとも障害となりうるユスタスは当然その対象だった。
 すべては、来たるべきときのために。
 リュッケに手を下させたのは、計画に及び腰のリュッケに退路を断たせる意図もあったのだろう。いまさら強制されたなどと恨み言を口にするつもりはない。欲に目がくらんだのは事実だった。トルイユにはいくつもの弱みをにぎられており、逆らうすべがない。
 そして、その弱みのひとつが、いま目の前にいる。
「叔父さま」
 ふいに、ロザリアが表情をゆるめた、
「きちんとお話しするのははじめてですね」
「そうだな」
 身内でありながら、ふだんはたがいに話しかけることはなく、目も合わせない。あまりのよそよそしさに、王女からいぶかられたこともある。
「わたし、叔父さまには感謝しているんです。母とアカネイアに移り住んでからずっと援助してくださって……お会いしたら一番にお礼を言わなくてはと思っていました」
「たいした額ではない。あれではドレスひとつ新調できなかっただろうに」
「そんなことはありません。おかげでわたしも母も品位を保つことができました。それと……叔父さまからのお手紙がうれしかったのです。あんなふうにわたしを気遣ってくださる人なんて、ほかにはおりませんでしたから」
 屈託なくほほえまれ、リュッケは面食らう。
 半年に一度ほどの手紙のやりとりで、ロザリアの近況を知るにはいたっていた。貴族とは名ばかりの下級官吏の家系であるから、マケドニアで暮らしていたころより生活は厳しいようだった。十三歳ごろに名のある貴族に侍女として仕えるようになり、パレスに出入りできるようになったと知らされ、リュッケは安心していた。
 しかし八年前、ドルーアとの同盟を機にアカネイアとの国交は断絶し、以来、手紙を送るすべはなく関係は途絶えた。
 戦後にパレスの親戚から南部の修道院で暮らしていると聞き、ひとまずは安堵していたのだ。
 それがよもやあのような形で再会することになろうとは。
「おまえは、なぜマケドニアに戻ってきたのだ?」
 リュッケがあまりにいまさらな問いを投げかけると、ロザリアは淡々と答えた。
「ファビアンさまに、来てほしい、と言われたからです」
 リュッケは頭をかかえる。
「おまえは……利用されているだけだと思わなかったのか」
「わかっていましたが、あのままアカネイアで暮らしていくよりはいいと思ったのです。わたしは……母とは違いますから」
 リュッケはうなった。無関心をよそおい、淡々とした声で問う。
「ルシールは息災か」
「母が再婚してから会っておりません。でもきっと元気だと思います」
 急に蓮っ葉な物言いになった。
 アカネイアの血を引くリュッケが宮廷で冷遇されてきたように、マケドニアの血を引くロザリアもまたパレスで白眼視されてきたのだろう。特に戦争がはじまってからは厳しい立場に追いやられたに違いない。
 濃い栗色の髪をのぞけは、まるで似たところのない父娘であるが、因果なことに、出自ゆえに不遇な暮らしを強いられ、その結果、利用されるのはおなじだった。
「……ルシールから、父のことは聞いているか」
「いえ。母は父のことをほとんど話してくれませんでした。けれど、おじいさまからいろいろ聞かされていました」
「どのように?」
「政争に敗れて自害したのだと」
「……いや、兄が自害であったかどうかはわからぬ」
「そうなのですか」
「まあ……部屋に閉じこもり、酒におぼれ、あげく部屋のバルコニーから転落したのだがら、どちらでも大差はないが……」
「わたし、父のことはなんとなくしかおぼえていません。どことなく、避けられていたのはわかっていますし」
 ロザリアはぎごちない笑みをうかべる。
「おじいさまも出世のために身内を犠牲にしてきた人ですけど、でも結局は上手くいきませんでした。父も祖父と似たような方だったのでしょう?」
「……さあ、どうであったか……」
 ルシールの父ドレ―は、弁務官シモン・ネイヤールの側近の一人だった。シモンの側近の娘を兄ブルーノが娶ったのは、アカネイア側が仕組んだものと言われていた。アカネイアの官吏がわざわざ身内を赴任地へ帯同するにはそれ相応のわけがある。それも若くて器量のよい娘となれば宮廷の要人をたらしこむ以外の役目はない。ルシールは自身の役割を理解してはいたようだが、マケドニア貴族との結婚など考えてもいなかったのだろう。自分は父に売られたのだとリュッケの前で恨みがましく言い放った。
 当時のマケドニア宮廷は弁務官シモンの天下であり、オズモンド王さえひざまづかせるシモンの権威に兄の目はくらんだのだろう。オーレフ・リュッケの一族が返り咲くにはアカネイアにおもねるしかなかった。
 あのころ、多くのマケドニア貴族がアカネイアに取りこまれていた。クライド・ヴェーリも、オズモンド王の最側近である兄テレンスを妬み、出し抜こうとしてアカネイアの間諜となった。
 リュッケは、父とおなじくアカネイア官吏の娘を娶った兄を嫌悪し、ひたすら軍務に没頭することで宮廷の権力闘争からは距離をおいた。
 だから宮廷で力をもった兄が一転してその地位を失った経緯をよくは知らない。ユスタスによれば、兄は王への背信を働きつづけ、業を煮やしたメスト公によって失脚させられたとのことだが、シモンや義父のドレ―もまた兄を見捨てたのだろう。
 あえなく未来が断たれ、兄は荒れた。出世の駒であった妻をかえりみることなくなり、手を上げることさえあった。
 そんな兄への怒りとともに、形ばかりの婚姻に縛りつけられたルシールへの同情がつのった。義姉への憐れみが慕情に変わるまでに、そう時間はかからなかった。
 ――王都を白くそめる雪が降った日の朝、城下の屋敷にルシールのけたたましい悲鳴が響いた。当主の部屋の真下。新雪が赤く染まっていた。
 恨めしげにみひらかれた血走った目。それは失脚への恨みではなく、不義を働いた妻と弟への当てつけだったのだろう。少なくともリュッケにはそう思われた。
 兄の死後、家を継いだリュッケは、好奇の目にさらされながらも、重騎士としてそれなりの地位を築くにいたった。
 それで満足していればよかったのだろう。
 父や兄のようにはなるまいと思って生きてきたが、結局は父や兄とおなじ道を進んでいるのだ。
 ――いや祖父とおなじと言うべきか。
 リュッケは吐息まじりに問う。
「おまえは、どうしたいのだ?」
「えっ……」
「トルイユに頼まれたからとて、よもやこのような役目を押しつけられるとは思っていなかったのだろう?」
「……ええ、それは……」
「ならば、すぐに国を出てゆけ。……そのほうがいい」
 リュッケは声を落とす。
「どこで暮らしていくにしても苦労はあろう。だが、ここにいるよりはまっとうに生きてゆける。もし、おまえが望むならわたしが――」
「いいえ、そのつもりはありません」
「あの男に尽くしたところで、カルタス家に嫁げるわけでもあるまいに」
「そんなこと、はじめから望んでいません」
 ロザリアは興奮気味に言いつのり、恥じらうようにうつむいた。
「……昔は、違ったんです。きっと、ひどくおつらい想いをされたから変わってしまわれただけで……ほんとうは……」
 ロザリアは懸命に自分に言い聞かせているようだった。
 昔ロザリアが送ってきた手紙に、主家の息子のことがつづられていた。奉公先の侍女たちに嘲笑われたりいじめられたときによく助けてくれるのだ、と。まばゆいばかりの金の巻き毛をした少年で、身体は弱いが心やさしく、きれいな花をもらっただの、本を貸してもらっただのと、年々うつくしくなる文字で書いて寄こした。ようやく幸せな日々を送る様子に、ほほえましさとともにいくぶん胸のざわつきをおぼえたものだった。
 幼い恋心をいまだに引きずる娘を愚かだと思う。トルイユ伯はどうあってもロザリアの手に負えるような者ではない。不幸になるのは目に見えているというのに、なにもしてやることができない。蜘蛛の巣のように張りめぐらされた繰り糸に、リュッケ自身が囚われているのだから。
「あの、叔父さま……」
 すがるような目で見上げてくる。
「ファビアンさまは、殿下を害する気はないとおっしゃっているのですが、ほんとうでしょうか」
「安心しろ。お命を奪うつもりはないとのことだ」
 王女を生かしておくつもりなのは間違いない。だが、それがいつまでなのかはさだかでない。
 それは口にせず、ロザリアの肩に手をおいた。
 するとロザリアの口元がわずかにほころんだ。リュッケもつられたように微笑をうかべる。
 ユスタスを手にかけてから、リュッケのなかで叛逆への恐怖はうすらぎつつある。かといって覚悟が定まったわけではない。どちらかといえば諦めに近い。
 もはや彼に野心はなく、あるのは保身だけだった。
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