第四部

「殿下!」
 ロザリアが寝室に駆けこんだとき、ミネルバ王女はすぐに枕から頭を起こした。眠りが浅いために、わずかな音でも目が覚めてしまうのだ。
 昨夜からの雨はまだ降りつづいているが、カーテンのすきまからかすかな光がもれており、すでに夜明けは近い。
 半身を起きあがらせた王女は、かすれた声で問う。
「どうしました?」
「あの……なんとお伝えしたらよいのか、その……」
 ロザリアはひどく取り乱しており、両手を祈るようにかたく組み合わせている。ミネルバはロザリアの手にふれて、正面から目をのぞきこむ。
「落ちつきなさい。いったいなにがあったのです?」
「あ、あの、メスト公が……ああっ――」
 ロザリアは顔をおおった。
 断片的に語られる言葉を聞き終えたミネルバは、長持の上に置かれた毛皮のガウンをはおり、部屋を飛び出した。
 階段を駆け下りて、まだ薄暗い主宮の外へ出る。粒の大きな雨が石だたみを叩いていたが、ミネルバはためらうことなくロザリアに知らされた場所へと向かって走っていった。繻子の室内履きがみるみるうちに雨を吸いこんでゆく。
 主宮東翼の外庭に面する歩廊は、すでに松明を手にした兵士が集まっていた。
 ミネルバに気づいたリュッケが、神妙な面持ちで進み出てくる。
「殿下……」
 ミネルバは必死の形相でリュッケに詰め寄った。
「どういうことなのだ! ユスタスはなぜ――」
「部屋から転落したようにございます」
「転落……」
 ミネルバは真上を見上げた。その先には、ちょうどユスタスの部屋のバルコニーがある。
「……まだ確定的なことは申せませんが、自害ではないかと……」
 リュッケは口ごもりながら、王女をうながすようにうしろをふりむいた。石だたみのうえにおかれた麻布は人の形にふくらんでいる。
 ミネルバは一歩一歩おぼつかない足どりでそこへ近づいた。松明に照らされた麻布にはところどころに血がにじんでいる。
 ガウンが汚れるのをかまわず、ミネルバは石だたみに膝をついた。ゆっくりとのばそうとした手を、リュッケが背後からつかみとる。
「おやめください」
 しかしミネルバはリュッケの手をふりはらい、麻布をよけた。
 その瞬間、ミネルバは目を見ひらき、息をつめた。あまたの戦場を駆け抜け、無残な遺体は見慣れた姫将軍であるが、身内ともなればさすがに平静ではいられなかったようだ。短く引きつれた声を上げ、口元をおおう。
 布に隠されていた遺体は、片腕と両足が奇怪に折れ曲がっていた。顔に目立つ傷はないが、鼻や口からは血があふれていた。
 ミネルバは茫然とした様子で首筋にふれていたが、すでに脈などあろうはずがない。
 立ちあがったミネルバは、唇をかみしめ、絞りだすような声で言った。
「このままにはしておけぬ。誰ぞ、手を貸してくれ」
 すでに用意されていた担架にのせようと、兵士が二人がかりでユスタスの身体を反転させた。そのとき、兵士の一人が息をのんだ。
「こ、これは……!?」
「いかがしたのだ?」
 不審げに近づいたミネルバもまた、驚愕の声を上げる。
「これは……刀傷か……!」
 ミネルバが裂けた上衣にふれ、傷を検めているとき、リュッケは眉をよせて顔をそむけた。
「……メスト公は、ほんとうにご自害されたのか]
 誰かがぼそりとつぶやいた。その一言により、あたりは一瞬、雨音のほかはなにも聞こえなくなった。
「――ユスタスさま!」
 悲痛な叫びが沈黙を破った。ロラン・ベンソンだった。人だかりをかきわけて、雨と涙で顔をぬらし、亡骸にすがりついている。
 少年の悲痛な声がミネルバに冷静さを取り戻させたようだった。凛然とした張りのある声で指示を出す。
「ひとまず、ユスタスは礼拝堂に安置し、フロスト司祭をよんでくれ」
 ロランを痛ましげに見やったのち、リュッケを見あげた。
「われらはユスタスの部屋に」
 二人は会話もなく、三階のユスタスの部屋へ向かった。暖炉の火は小さく、燭台のろうそくも短くなってはいるが、ついさっきまで人がいたような気配があった。小卓には赤ワインの入ったデキャンタと、銀の杯。杯には少しワインが残っている。
 ミネルバは文机に近づいた。机上には整頓されてはいるが、書き散らした紙が数枚重ねておかれていた。食い入るように読み進め、力なくつぶやく。
「書置きは……ないようだな」
 次に、東向きの大きな窓へ近づいた。窓はひらかれ、カーテンがゆれている。すでに曙光が射しはじめ、霧にけぶる遠景は白んでいた。
「ここから落ちたということか」
 バルコニーに立ったミネルバは、身を少しのりだして地上を見下ろした。
「あまり身はのりだされませぬよう」
 リュッケが声をかけたが、聞こえていないのか、ミネルバはしばらくその場から動かなかった。髪も寝衣も、雨にぬれそぼっていく。
「どうか、なかへ」
 見かねたリュッケは、窓と鎧戸をしめ、ミネルバを暖炉の前まで連れていった。ミネルバははすなおに従ってはいたが、うつろな目でいきおいの衰えた暖炉の炎をみつめていた。
「ユスタスは、自害だと思うか」
 いきなり正気を取り戻したようにミネルバが問うた。
 リュッケはしばしの沈黙ののち首をふった。
「……いえ」
「ではなんだ? よもや事故などとは言わぬな?」
「……殿下も、察しはついておられるかと」
 ミネルバ王女は身をふるわせた。雨にぬれた寝衣が体温を奪っているのだろう。冷えきって赤くなった手で、毛皮のガウンをかき合わせる。
「姫さま……!」
 駆けつけてきたカゾーニが、おぼつかない足どりで近寄ってきた。カゾーニの姿をとらえたミネルバは、守り役への甘えか、かすかに安堵を見せた。
「カゾーニ……大変なことになりました」
「うかがっております」
 カゾーニは悲痛な面持ちで、王女の顔をのぞきこんだ。
「どうぞお気をたしかに……」
「わたしは大丈夫です。ですが……このようなこと、タマーラになんと伝えればいいのか……!」
 一気に緊張がゆるんだのか、ミネルバは声を上ずらせ、顔をおおった。
 リュッケはしばしその様子を見守ってのち、いかにも気づかわしげな声音で問う。
「いかに対処されるおつもりですか」
「捜査のため、いましばらくは事故として――」
 ふいにミネルバがよろめいた。とっさに手を差し出したリュッケに寄りかかりながらも、歯をくいしばって毅然と立った。
「事故として扱うが、ユスタスの胸の刀傷はあの場にいた者が見ている。噂はすぐに広まるだろう」
 ミネルバは青白い顔を上げ、カゾーニに向きなおった。
「それでは、ただちに捜査を進めてください」
「かしこまりました」
 カゾーニが肩を落として部屋を出ていくと、ミネルバは短く息をついた。
「おそらく判明はすまい。目撃した者でもおらぬかぎりはな」

        ⁂

 事態は朝になって別の方向へと動いた。
 アカネイア大使の補佐官フリス・オドランが変死体となって王都の河港門付近でみつかった。遺体を発見したのは渡し船の船頭である。
 リュッケはひとまず緘口令をしいたが、人の口に戸は立てられない。明日にもなれば城下はその話題で持ちきりとなっているだろう。アカネイア役人の死、それはマケドニアの民にとって恐るべき事態である。
 王都警備の指揮を終え、王城に戻ったリュッケは、すぐさま主宮の王女のもとへ向かった。ロザリアに案内され、居間に通されたとき、王女はカゾーニからの報告を受けていた。
「断定はできかねますが、二つの事件はつながっていると考えてよいかと存じます」
「そうですか……」
 ミネルバは苦しげに息をつき、カウチに寄りかかった。あれから一睡もしていないようで、顔色はますます悪く、憔悴しきっている。
「やはりあなたも、大使派遣に不服を持つ者の犯行だと考えますか」
「もしくは、そう見せかけたい者の犯行とも」
 カゾーニは眉間にしわを刻んだ。
 戦時中、この手の不審死はさほどめずらしくはなかった。王城内で遺体が見つかってもろくに顧みられることはなかった。ミシェイルが悔やみの言葉を述べようものなら、かえって恐怖をあおるだけであった、一度として下手人が挙げられたことはない。反体制派貴族の死は、すべて事故として片づけられた。
 当時を知る者たちにとって、旧体制の亡霊たちがユスタスを手にかけたかに思えたことだろう。
「亡くなったフリス・オドラン卿ですが……ほんとうに、その、なんと申しあげればよいのか……非常にやっかいなことになったものと……」
「そうですね……あの者はアカネイアの名のある貴族の出。戦前からトルイユ伯の従者であったそうで、伯にとっては腹心を殺されたということになりますから」
「……はい」
 カゾーニの声は苦渋にみちていた。そもそもマケドニアの者がアカネイアの役人を手にかけたとなれば、商船襲撃どころの騒ぎではない。現統治者であるミネルバの責任に直接つながるものである。
「どうすれば、よいのでしょうね」
 ミネルバは長いため息をついた。
「二つの事件が同日に起こったのは偶然などではなく、駐留軍の件を発端とし、意図的に引き起こされた可能性が高い……。そう誰もが考えるでしょう。われらはなんとしてでも下手人を上げ、アカネイアに許しを乞わねばならぬのでしょうが、そもそもの発端を考えれば、事態を悪化させるだけのようにも思えます」
「慎重にことを進めねばならぬと思っておりますが、アカネイアへの体面もございますので、あまりわれらが消極的にふるまうことは、やはり、できかねるかと……」
「ええ、ほんとうにやっかいなことです。これではユスタスの死を悲しむいとますらない……」
 ミネルバは耐えかねたように声をつまらせた。
「姫さま……」
 ミネルバは小さく、すみません、と言って、赤くなった目頭を指で押さえた。
「ひとまず、昨夜のユスタスの行動について、いまわかっていることだけでも教えてくれますか。夜にアカネイア公館へ向かったはずですが」
「はい。あの日、ユスタス卿はお一人でアカネイア公館へ出向いたのち、王城に戻ったということです。主城門の衛兵も前衛塔の衛兵も、かなり遅くにユスタス卿をのせた馬車が戻ってきたと記憶しております」
「ユスタスは夜中に戻ってくることもよくあったそうですが」
「そのようですな。不用心だと思っておりましたが、外出のおりはかならず護衛の騎士がついておりましたので……そうであったな、リカルド?」
 カゾーニはかたわらのリュッケを見上げた。
「昨夜もおまえの部下たちがユスタスを護衛していたのだろう?」
「はい」
 リュッケはミネルバを見て答える。
「行きも帰りも、鉄騎士団で護衛を固めておりました」
「なにか異変はなかったのか」
「いえ、特になにも……。それゆえ騎士団に混乱がひろがっております」
「そうか……」
 ミネルバはカゾーニに視線を移す。
「戻った後はどうなのです?」
「主宮に戻ってのちのことはよくわからぬとのことです。あの部屋の様子を見るに、部屋で酒を呑みながら書き物をしておったように思われますが」
「では、フリス・オドランを手にかけた何者かが部屋に押し入り、ユスタスの胸を刺してバルコニーから突き落としたと? そんなばかなことが……」
「単独ならば不可能です。しかし複数の者の手によると考えれば可能となります」
「……このようなことになろうとは……」
 ミネルバの声は荒れていた。
 いま、ミネルバの脳裏にはむごたらしく手足が折れ曲がった無残な忠臣の姿が思いうかんでいるに違いない。
 主の様子を痛ましそうにうかがっていたロザリアが、ミネルバの前にそっと薬湯をおいた。ミネルバはおぼつかない手つきで杯を口に運んだ。
 扉を叩かれ、ロザリアが応対に出た。従僕が届けた書簡を手に、王女のもとへ戻る。
「殿下、こちらを」
「誰からです?」
「……トルイユ伯からでございます」
 ロザリアから書簡を受けとったミネルバは、おそるおそるといった手つきで封を割った。読み進めていくにつれ、かたい表情がしだいにゆるんでいくのが見てとれた。
 顔をあげたミネルバはリュッケにその手紙を手渡した。リュッケもまたこわばった顔で書に目を通した。そこには純粋な悔やみの言葉がつづられており、大使の補佐官の死や、その責任を追及する文言はなかった。しかし感情を排した文面は、かえって不穏さを感じさせるものでもあった。
 リュッケは手紙から目をあげて、
「アカネイア側は捜査に全面的に協力するとのことですが」
「……ひとまず、ユスタスの葬儀が終わってからだな」
 疲れ果てたようなかすれ声でミネルバは言った。
 リュッケにはいま、ミネルバの胸中がおのがことのように透けて見えていた。
 大使の補佐官の変死はマケドニアを揺るがす事態であるが、ミネルバをここまで憔悴させているのは、もっぱらユスタスを失ったことにあるのだろう。大使の派遣から半年、ミネルバがもっとも頼りにし、身内としてもっとも心をあずけられる相手はユスタスにほかならなかった。
 だからこそミネルバは、一部の者からあやつり人形と評されるほどユスタスを好きなようにさせていた。
 ユスタスは一貫して旧勢力排除の方針をとっており、軍内から恨みを買っていた。その態度をミネルバがたしなめることはしばしばあったが、ユスタスへの負い目ゆえか、その対応は手ぬるいものだった。
 ユスタスの死は、その強硬なやり方が恨みを買った結果と誰もが推測している。王女もそう確信していることだろう。結果としてこのような事態を招いたことへの自責にさいなまれているに違いない。
 その後もカゾーニが話をつづけていたが、ミネルバはうわの空のようだった。ロザリアによれば、しばらく不眠の状態がつづいており、昨夜もあれから一睡もしていないという。
 カゾーニが見かねたように声をかける。
「殿下、いまは手の者が対処に当たっておりますので、どうぞお休みください。そして、今後はおひとりで出歩かれるようなことはなさらないでください。主城門から出られることはもとより、主宮内でもけして油断はなさらぬよう」



 王女の部屋を後にしたリュッケは、主宮のカゾーニの部屋へ向かった。
 カゾーニの足どりは、リュッケが歩幅を合わせるのが困難なほど遅々としたものだった。ようやく部屋にたどりついたが、絨毯のへりに足を取られて大きくよろけた。
 リュッケはあわてて叔父の腕をとる。
「叔父上も少し休まれたほうがよい。また発作を起こされては大変だ」
「……ああ」
 カゾーニは窓際の椅子に腰かけた。リュッケを見上げて、力なく笑う。
「おまえもずいぶんまいっておるようだな」
 リュッケはあいまいに応じた。
「無理もない。わしもこのような事態をどう対処してよいものかと思いあぐねている。この国の歴史上、アカネイアの役人が殺されたことはないのだ」
 シモンをのぞけばな、とカゾーニは付けくわえ、薄くなった白髪をかきあげた。
「ユスタスのふるまいに問題があったのは事実だが、あの危険分子どもにはもっと強硬に対処すべきだったのやもしれぬ。おまえも知っていようが、あの連中のなかにはミシェイルさまに表向き忠誠を誓いながらも、ドルーアのもとで甘い汁を吸っておった輩も多い。祖国に尽くすつもりなど毛頭ない、私欲にまみれた者どもなのだ。なぜあのような者たちが生きながらえ、姫さまをお支えできる優秀な騎士たちが無残に死んでゆかねばならなかったのか……。温情をかけてやっても、人の本質というものは変わらんということだろうな。だからこのような惨事を引き起こすのだ……やはりあやつらは……」
 詮ない繰り言を吐き出す叔父を、リュッケは憐れむようにみつめていた。しかしその胸中はどこか冷めたものだった。ユスタスを手にかけた者は目の前にいるのだと、告げてみたい衝動に駆られてもいた。
「リカルド、おまえは今日より主宮に移り、警備体制を万全にせよ。なんとしてでも姫さまをお守りしてくれ」
 カゾーニはリュッケの腕をつかみ、やせた指に力をこめた。
「くれぐれも頼んだぞ。姫さまもおまえを身内と思い、信頼をよせておられるのだから」
「……承知した」
 部屋を後にしたリュッケはいったん騎士館へ戻り、五人の部下を主宮警備にやった。部下といっても、リュッケを監視するトルイユの手下たちである。
 くわえて東翼に常駐させる白騎士の数を増やすようパオラに告げたが、これはただ体裁を整えたにすぎない。決行の日まで、王女の身になにかが起こることはない。そして決行の日にはこの程度の警備などなんの役にも立たないのだ。
 昨夜起こった二つの事件は、決行の嚆矢となる。
 トルイユが腹心のオドランまでたやすく斬り捨てたことにはリュッケにとっても驚きだったが、ユスタスの暗殺ははじめからアカネイアの謀略のうちであった。自殺に見せかけつつ、すぐに暗殺だとわかるように仕向けたのは、ユスタスの死が、この国に静かな雪崩を引き起こすものとなるからである。
 カゾーニは手の者に下手人を捜索させているが、その対象はストラーニをはじめ、ユスタスに敵意をあらわにしていた者たちに狙いを定めてある。
 王女の臣下たち、とりわけユスタスを崇拝していた者たちは、旧勢力への憎悪を募らせ、追放を声高に叫びはじめるだろう。そうなれば、旧勢力の貴族もなりふりかまわぬ動きを見せることだろう。
 宮廷が機能不全に陥ったそのときこそ、決行のときである。
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