第四部
議場から執務室に戻るまでのあいだ、ミネルバ王女は黙りこんだままで、ユスタスが話しかけてもほとんど反応がなかった。
部屋に入ると、のろのろとした手つきで赤いマントをはずし、執務机に向かった。抽斗から取りだしたのは先日受けとったハーディン皇帝からの書簡である。机上においた書をながめたまま、祈るように手を組み合わせている。
ユスタスは王女を見つめたまま、声をかけあぐねていた。
駐留軍の件は、ユスタスが想像していた以上にミネルバの気を病ませている。ハーディンは、私信こそきわめて友好的であるが、皇帝としての書簡はまるで別人かと疑いたくなるほど酷薄な文面であり、その落差に王女は心を乱されているようだった。
その憂いをおびた横顔には、屈託なく笑う昔日の面影はすでにない。病床の王妃の姿と重なり、ユスタスをいたたまれない思いにさせる。
「ユスタス」
王女が顔を上げた。意を決したような厳しく悲壮な面持ちだった。
「すでにひと月以上も返答を引きのばしてしまった。貴族たちに知れ渡ってしまったことだし、そろそろアカネイアに対しなんらかの結論を出さねばならぬな」
切れ長の目が険しくなる。
「商船襲撃の件は、すべてアカネイアのはかりごとだ。その証拠をつかめればと海賊討伐におもむいてはみたが……浅はかな考えであった。たとえ確たる証拠をつかんだとて、それを突きつけるわけにもゆかないのだから……」
ユスタスが言葉をかえせずにいると、自嘲的に笑った。
「昔、シモンが父に言っていた。従順でありさえすれば、われらは服従を迫らずにすむのだ、と。あのころのわたしはシモンへの怒りと、あわれな父への悲しみに支配されていたが、いま、父とおなじ立場になってみれば、怒りではなく怖れをおぼえる。なぜならこれは警告だからだ。わたしに従順であれ、抗うな、と……。そしていまはあのころとは決定的に違う。グルニアのようになるわけにはいかぬ。だからそなたの言うように、すなおに要求を受けいれるのがもっともよい手なのだろう」
「そう急がれることはありませんよ」
ユスタスはほほえんで歩みよる。
「わたしはあなたにオズモンド陛下とおなじ目に遭わせたくはありません。ストラーニたちを図にのらせておくのも癪に障ります。まずは、妥協案をトルイユ伯に提示してみましょう」
「ああ、前にそなたの言っていた案か。……それはそれで受け入れがたいものであるが」
「背に腹は代えられません」
「そうだな……それならば、こちらに軍の主導権が残るのだからな」
ミネルバは力なく、つぶやくように言った。
「今宵、アカネイア公館に出向く予定ですので、トルイユ伯と交渉してみましょう。強硬に軍を送りこみ、われらの反感を煽り立てるのはアカネイアも望むところではないでしょうから」
「それは、アカネイアがわれらを恐れていれば、の話だな」
「恐れてはおりましょう。わが国の軍事力は、依然として諸国の趨勢を左右しうるものですので」
「……ほんとうに、先の戦争が始まる前と似てきたな」
ミネルバは短く息を吐き、天井をあおいだ。
「一国ではドルーアに抗するには足らずとも、ドルーアと組めばアカネイアを討ち滅ぼすには有用な軍事力。ゆえにわれらは利用されたのだ。そして、いまもまた、わが国の兵力はアカネイアにとって利用価値のあるものなのだろう。それを幸いと思ってよいかはわからぬが」
「幸いではありましょう。利用価値がなければ、グラやグルニアのようになるのですから」
「だからこその代案というわけだな」
「やはりご不満ですか」
「いや……」
ミネルバは目を閉じたまま首をふった。
「そうではないのだ。ただ……兄なら迷いなくそちらを選ぶだろうと思ってな……」
ミネルバは低く笑った。王女は兄王子の話になると、どこか投げやりな様子になる。
「前に、そなたが言っただろう? わたしには兄の渇望は理解できぬと」
「ええ」
「たぶん、そなたの言うとおりだと思う。……わたしはこの国を豊かにしたいと思っていたし、アカネイアの不当な干渉を排し、〈南方の雄〉と呼ばれるマケドニアをさらなる高みに押し上げたいと願っていた。だが、どれほどアカネイアを憎く思えど、ドルーアと与してまで滅ぼしてやろうとは思えなかった。シモンのことも、手にかけようと思ったことはない」
ミネルバは皮肉な笑みをうかべて、
「……兄とは、なにが違ったのだろうな。あれほどおなじ時間を共に過ごし、おなじものをみつめてきたというのに。……憎しみの深さなのか……いや、きっとそんなものではないな。たぶん、わたしのなかにあるのは渇望ではなく恐れなのだ。なにかを得たいのではない。ただ、失いたくないだけだ……。兄が父を殺めてからずっと、わたしは失われたものを……もはや取り戻すことのできぬものに執着しつづけてきたように思う」
「それでよいではありませんか」
ユスタスはことさらに明るい声で言った。
「あなたが祖国の窮状を憂い、立ちあがられた結果、この国は命脈を保つことができたのです。なにを恥じることがあるのです?」
ミネルバは無言だった。
ユスタスはなぐさめるような声音でつづける。
「幼いころ、領地の司祭が話しておりました。人はなにかに強く執着すればかならず不幸になると。だから、おのれの器を知り、分をわきまえ、謙虚に生きねばならぬのだと。当時のわたしは司祭の説教などしゃらくさいと聞き流しておりましたが、牢獄にいるとき、ふいにその言葉を思い出しましてね」
目元にやわらかな笑みを刻んで、
「わたしも父も、強引に物事を進めることもございましたし、なにかと恨みを買ってきた自覚はございます。ひたすら無欲に生き、人をやりこめようなどと考えず、悪意を受け流し、その身に降りかかる災厄は神の与えし試練と受けとめる……そんな生き方をしておれば、国家の一大事に貴族たちを仲たがいさせることはなく、あのような悲劇を誘発せずにすんだのやもしれません。すべて、おのれの蒔いた種……。身のほどを知らぬ愚か者ゆえ、永の虜囚となったのだと、神への祈りと内省に費やしておれば、心は平穏でいられたやもしれません。しかしわたしは牢の中でひたすら願いつづけたのです。どれほど不幸になろうとも、神に見放されようとも、ふたたびここへ戻らねばならぬ、と」
おだやかな視線をミネルバにそそぐ。
「あなたに再会したとき、わたしはこう申しました。あなたはわたしの希望であると。あなたを助け、この国を導くことが生きる道であるのだ、と。おぼえておられますか」
「むろんだ。それを聞いたとき、そなたの恨みの深さを思い知った」
「これは手厳しいことをおっしゃる」
ユスタスは喉の奥で笑いをかみ殺して、
「あのときのわたしは、あなたを復讐の駒のように思っておりました。ですが……いまは違います。あなたが守られたマケドニアを、かつてあなたが望まれた形へと導くべく、この命あるかぎり、わたしのすべてをあなたに捧げる所存です。この国のすべてをおひとりで背負おうなどとお考えになりますな。あなたが双肩にになう重荷、どうかわたしにも背負わせていただきたいのです」
しばしミネルバはじっとユスタスを見あげていたが、やがて、くすりと笑った。
「いろんな者たちがわたしたちのことを面白おかしく噂している」
「はい」
「あの者たちが言うには、そなたは王になりたいそうだな?」
「わたしは地位にこだわってはおりませんよ」
「まったく……噂など勝手なものだな。そなたのような忠臣を私欲にまみれた奸臣呼ばわりだ」
「……奸臣には違いありませんよ」
ユスタスはすっと笑みを消した。
「あなたへの忠心は、ただの私欲でございますから」
「……? そなたはよくわからぬことを言う」
小首をかしげられ、ユスタスは気が抜けたように笑った。
幼いころから聡い姫ではあったが、この手の話にはあまりに疎い。タマーラがご教育を間違えましたと冗談めかして話していたが、まったくそのとおりだとユスタスは思う。
ふと窓の外を見やると、晩秋の陽が暮れはじめている。先触れを出した刻限にはまだ早いが、公館に向かうまでに、彼にはやっておかねばならぬことがあった。
「殿下、今日はもうお休みください」
「いくらなんでも早すぎるだろう」
「今宵の交渉次第では、明日トルイユ伯が登城されることになりましょう」
「そうか、またあの会食がはじまるのか」
「ですからどうぞ今日はゆっくりとお食事をとり、英気を養っていただければと」
王女を部屋まで送っていったとき、居間には花をかかえたロザリアがいた。
ミネルバは微笑をうかべてロザリアに近づいていく。
「ダリアですか」
ロザリアはおじぎをして、清楚にほほえむ。
「先ほど庭師の方にいただきました。さっそくお活けいたします」
「そろそろダリアの季節も終わりでしょうか」
「冬にはまた別の花が咲きますわ」
赤に橙、紫に白、色とりどりの花を愛でるミネルバに、ユスタスは一礼した。
「それでは殿下、わたしはこれにて失礼を」
去り際にちらと視線を投げると、ロザリアは涼しい顔で目礼した。
ユスタスは口元をかすかにゆるめたものの、その薄茶色の目は冷ややかだった。
先日、王女の文机をあさっている場を見とがめられ、カルタス家に仕えていたことまで突きつけられたというのに、悪びれるそぶりはない。はかなげな風情の女人であるが、その見た目に反して面の皮は厚いようだ。そうでなくてはアカネイアの間諜などつとまらぬのだろうが、このまま王女のそばにおいておくわけにはいかない。
そう思うものの、ロザリアの対処は悩ましいものである。
いきなり宮廷から追放しようものなら、トルイユは宣戦布告と受けとるだろう。なにより、ミネルバに少なからぬ衝撃を与えることにもなる。
アカネイア下級官吏の家系に生まれた、アカネイア大使の愛人。
王女付きの女官として、これほど不適切な人物もいないだろう。しかし、このような厚かましい女であってもミネルバにとってはよい女官であるのは間違いない。こまかな部分によく気がつき、出過ぎた真似はせず、絶妙な距離をたもったまま疲弊した王女の心によりそっている。タマーラの代わりとしてこれほどふさわしい者もいない。
パオラが側につくようになって、ミネルバは以前より笑顔を見せることも増えたが、海賊討伐から戻ってからはふさぎがちになり、夜もよく眠れていないようだ。
せめて王女の安らぎとなっているのであればよい。苦々しく思いながらも、ユスタスはそう願うのだった。
ユスタスはそのまま騎士館へと向かったが、団長室の扉が内側から開くのが見え、少し離れた位置で立ちどまった。
眼鏡の位置を直す。
部屋から出てきたのはダリオ・モーロであった。この男がリュッケとしばしば会っているのは手の者から聞いている。
モーロが通路を曲がるのを見送ってのち、ほとんど入れ替わりのようにユスタスは団長室に入った。
「ど、どうしたのだ……!」
机に向かっていたリュッケが慌てて顔を上げた。
ユスタスはゆったりと笑ってみせる。
「駐在軍の件だが、今夜、トルイユのもとへ交渉に出向くこととなった。おまえも来てくれ」
「交渉? 受け入れるしかないと言っていたではないか」
「殿下のため、できうることはすべて試みようと思ってな」
ユスタスは暖炉の前に立つ。
「亡きレオニア伯からの最後の情報だが、アカネイアは軍備拡張に血道を上げてはいるものの、その内実はかつての栄光もむなしいほどに鉄さびと化しているとのことだ。半数が傭兵、皇帝の親衛隊にいたっては、アカネイア貴族は一人もおらぬとか。暗殺を恐れるがゆえ、反乱分子を遠ざけているのやもしれぬ。このぶんではわが国に送りこまれてくるのはたちの悪い傭兵どもだろう。そのような者たちをのさばらせては国が荒れるだけであるし、そもそも数合わせのならず者の集団なぞ過度に恐れることもない。少々こちらが無理を押しとおしたとして、ただちに報復を受けるようなことにはならんだろう」
「しかし数こそが力だ」
うめくような声でリュッケがつづけた。
「アカネイアを見くびらぬほうがよい。かの国の恐ろしさはその権威にある」
「たしかにな。諸国を指ひとつで動かせる権威。勇者の国をただの忠犬にする威光。そのために、われらが偉大なる国祖が屈辱に甘んじねばならなかった。父とオズモンド陛下が恐れておられたもの、それは単純な兵力などではなかった。……おまえもそうなのだろう?」
ユスタスは冷淡な目でリュッケを見た。
「アカネイアの権威を恐れるがゆえに、殿下に背信を働いているのだな?」
それはリュッケにとってもっとも恐れていた言葉だったのだろう。小心者の男は、おもてを取りつくろうこともできずに唇をふるわせた。
「な、なにを――」
「恐れでないならなんだ? 殿下を害するつもりでアカネイアと結託したとでも?」
「そんなつもりはない!」
「そうだな、殿下はおまえを信頼しておられるようだし、おまえも傍目には忠義者に見える。ならばなぜ、トルイユの愛人を殿下の侍女になどした?」
「あれは――」
「タマーラの不調につけこみ、アカネイアの間諜を忍びこませるとは、とんだ忠義者もいたものだな」
ユスタスが冷たい一瞥をくれると、リュッケは恨みがましく言いかえした。
「……あれは、わたしが決めたことではない。姪はずっとアカネイアで暮らしていたのだ。それがどういったわけかトルイユが大使の随員として連れてきて、知らぬまに殿下の女官になっていて……」
「姪? あれはおまえの娘だろう?」
狼狽するリュッケを見て、ユスタスは確信する。
知る人ぞ知る兄嫁との不義。リュッケ家前当主の死の際にささやかれた噂は、真実であったようだ。
「おまえはいったいなにをしている! 娘に売春婦の真似事をさせて放っておくつもりか。なによりも殿下に背信を働くなどと……」
ユスタスはあえて煽るような言い方をした。
リュッケはうつむいたまま、うめくように言った。
「……ハーディンから書簡が届いたのだ」
「ハーディンからだと?」
「もう半年以上も前……トルイユ伯の派遣が決定したのと同時だった」
リュッケはよろよろと椅子から立ちあがり、本棚の奥から布につつまれた木箱を取り出し、一通の書簡をもって戻ってきた。
ユスタスはリュッケの手からその書簡を奪う。
「――全権大使トルイユ伯ファビアン・カルタスとともに、南方の雄マケドニアを導いてもらいたい。しかるのちに、貴殿にはその血筋にふさわしい地位を授けよう……なるほど」
歴代アカネイア王がかすむほどに傲慢な文面を読み終えると、ユスタスは汚いものを見る目つきでリュッケを見やった。リュッケはずっと目を閉じたままで、懲罰に耐える子供のように顔をしかめていた。
「このような書簡を受けとっておきながら、よくもこれまで口を拭ってきたものだな」
「……たちの悪い嫌がらせだと思ったのだ」
「ならばなおのことだ。ハーディンの本性をはじめからわかっておれば、殿下も別の対応を考えられたはず。おまえはそれを殿下にお伝えもせず、娘とともに殿下を陥れようとしたのだ」
リュッケは答えない。
「リカルド。おまえの生まれには同情する。だが、一臣下の分際でマケドニア王となれる夢を見るなどおこがましいにもほどがある。思いがけず騎士団長の地位を与えられ欲が出たか、見下げ果てたやつめ……。叛逆者として死罪はまぬがれぬ者と思え!」
ユスタスの息は興奮から激しく乱れていた。
ユスタスにとってリカルド・リュッケは、非常に辛抱強く、不器用な男として映っていた。その出自ゆえ冷遇されてきたとはいえ、ひたすら耐え忍ぶ道しか選んでこなかった。その胸の奥に野心が芽生えることもあっただろう。縁戚にあたるカゾーニやユスタス、モイラに取り入ることもできたというのに、這いあがろうともせず、愚直に軍人としての職責をまっとうしつづけていた。
アカネイアに取りこまれた父や兄への反発からか、アカネイアとの関わりを断つことは彼の矜持だと思っていた。だからこそ、餌につられて叛逆を犯したことへの驚きがあった。しかもこの程度の追及であっさりと自供するような男が叛逆をもくろんでいたことが腹立たしかった。
それ以上に許しがたいのは、これほど身近な裏切り者に気づけずにいた自分自身にだった。
威圧をひそませた低い声でうながす。
「なにか申し開きがあるなら言ってみるがいい」
「……わたしが時折トルイユ伯と会っていたのは事実だ。だが、王女の不利益になるようなことはしていない。わたしにも矜持はある」
「どの口が言う。おまえがハーディンに殿下の悪評を吹きこんだ結果が駐在軍の派遣ではないか」
「そんなことはしておらん! アカネイア側の動きを多少なりとも知れる状況にありながら、手をこまねいていたのは認める。だが、それと駐在軍の件は別の話だ。トルイユ伯が言うには、アリティアに謀叛の動きがあるというのだ。それでアカネイアはミネルバ王女がアリティアに近づくことを警戒している。王女はマルス王子と懇意であるから、結託せぬよう監視せよと。それだけだ!」
リュッケは矢継ぎ早につづける。
「王女にはアカネイアへの叛意などない、そう何度もトルイユ伯に伝えている。ロザリアにしても、日々の行動や部屋を探ってもなにも出てこぬし、皇帝に楯突くような動きは見られぬと報告しているようだ。わたしも娘も王女を陥れようなどと思ってはいない。それだけは……ほんとうに……」
うなだれるリュッケをユスタスは静かに見下ろした。
嘘をついているようには見えなかった。あっさり関与を認め、謀叛の証拠ともなるハーディンの書簡すらやすやす差しだすあたり、取りつくろえるだけの度量があるとも思えなかった。
事実、リュッケはミネルバに対しアカネイアに従順であるよう、それとなく仕向けてきた節がある。そのせいで二人の意見は時に対立することもあったが、それがマケドニアの国益をはかるための行いであったなら、叛逆者とあつかうには行きすぎかもしれぬ。
きっかけは、餌につられて魔が射したからだろう。しばらくトルイユらに協力していたものの、恐ろしくなって足抜けを図っていた、といったところだろうか。
ユスタスは大きく息をつく。
「答えよ、リカルド。なぜハーディンはアリティアにこだわる?」
「……よくわからぬが、グラの独立はその布石だという話だった。グルニアを占領下においたこともアリティアがらみである可能性がある。マケドニアに駐在軍をおくというのはわが国の監視だけでなく、アリティアへの牽制もあると見ている。これを受けいれるか否かで、ミネルバ王女を試しているのだろう」
「なるほど……それではまるで百年前のようだな。カルタス伯がオードウィンを辺境へ追いやったように」
ユスタスはふくみ笑いをする。
「アリティアを敵視しているのは、英雄と称えられるマルス王子を妬み、脅威に思ってのことか。だとすれば、ハーディンとやらはアカネイア王とまでなっておきながら狭量な男だな」
ちらとリュッケを見やり、
「アカネイアがこの手の調略を仕掛けてくるのは昔からよくあったことだ。オズモンド陛下の時代にも、おまえのように抱きこまれる者はいた」
「……兄のことを言っているのか」
「ああ、おまえはよく知らんのだろうが、ブルーノ卿はシモンの手先となって陛下に背信を働き、軍の改革を阻んだ。その結果、駐留軍の撤収が大幅に遅れた。それゆえ父はあの者を宮廷から追放したのだ。失脚したブルーノ卿は失意のうちに亡くなったわけだが、わたしはあの者を憐れみはせぬ」
ユスタスは冷淡につづける。
「ヴェーリ伯の弟もおまえの兄と同様だ。陛下の忠臣をよそおうアカネイアの犬だった。あの男はミシェイル王子が実権をにぎったのち、あっさり返り咲いたようだが、さりとて重用されることもなく、いまでは領地で甥の温情にすがって遁世しているそうではないか。なんの信念もなく欲をかいた者たちの末路なぞ、こんなものだ。蔑まれ、孤独のなかで死んでゆくのだ。……リカルド、おまえもうそうなりたいのか」
リュッケはしばし微動だにしなかったが、やがて敗残の将が首を差し出すかのように、床にはいつくばった。
「わたしは殿下にこれ以上の心労をかけたくはない。ゆえに、ことは内々におさめたい。ロザリアがおまえの言うように殿下に仇なす者でないなら、おまえにもロザリアにも不利益とならぬ対処をしたいと思っている」
ゆっくりと顔をあげたリュッケに、微笑をむける。
「案ずるな。殿下には話さぬ」
「……感謝、する」
「だが、ハーディンからの書簡の件は別だ」
ユスタスは短く息をついて、書簡を床に投げ捨てた。
「明日にでも殿下にお話しせよ。下手なごまかしはせず、すべて正直に話せ。さすればお許しくださる。殿下は物のわからぬ方ではない」
リュッケは書簡を引きよせ、重くうなづいた。
部屋に入ると、のろのろとした手つきで赤いマントをはずし、執務机に向かった。抽斗から取りだしたのは先日受けとったハーディン皇帝からの書簡である。机上においた書をながめたまま、祈るように手を組み合わせている。
ユスタスは王女を見つめたまま、声をかけあぐねていた。
駐留軍の件は、ユスタスが想像していた以上にミネルバの気を病ませている。ハーディンは、私信こそきわめて友好的であるが、皇帝としての書簡はまるで別人かと疑いたくなるほど酷薄な文面であり、その落差に王女は心を乱されているようだった。
その憂いをおびた横顔には、屈託なく笑う昔日の面影はすでにない。病床の王妃の姿と重なり、ユスタスをいたたまれない思いにさせる。
「ユスタス」
王女が顔を上げた。意を決したような厳しく悲壮な面持ちだった。
「すでにひと月以上も返答を引きのばしてしまった。貴族たちに知れ渡ってしまったことだし、そろそろアカネイアに対しなんらかの結論を出さねばならぬな」
切れ長の目が険しくなる。
「商船襲撃の件は、すべてアカネイアのはかりごとだ。その証拠をつかめればと海賊討伐におもむいてはみたが……浅はかな考えであった。たとえ確たる証拠をつかんだとて、それを突きつけるわけにもゆかないのだから……」
ユスタスが言葉をかえせずにいると、自嘲的に笑った。
「昔、シモンが父に言っていた。従順でありさえすれば、われらは服従を迫らずにすむのだ、と。あのころのわたしはシモンへの怒りと、あわれな父への悲しみに支配されていたが、いま、父とおなじ立場になってみれば、怒りではなく怖れをおぼえる。なぜならこれは警告だからだ。わたしに従順であれ、抗うな、と……。そしていまはあのころとは決定的に違う。グルニアのようになるわけにはいかぬ。だからそなたの言うように、すなおに要求を受けいれるのがもっともよい手なのだろう」
「そう急がれることはありませんよ」
ユスタスはほほえんで歩みよる。
「わたしはあなたにオズモンド陛下とおなじ目に遭わせたくはありません。ストラーニたちを図にのらせておくのも癪に障ります。まずは、妥協案をトルイユ伯に提示してみましょう」
「ああ、前にそなたの言っていた案か。……それはそれで受け入れがたいものであるが」
「背に腹は代えられません」
「そうだな……それならば、こちらに軍の主導権が残るのだからな」
ミネルバは力なく、つぶやくように言った。
「今宵、アカネイア公館に出向く予定ですので、トルイユ伯と交渉してみましょう。強硬に軍を送りこみ、われらの反感を煽り立てるのはアカネイアも望むところではないでしょうから」
「それは、アカネイアがわれらを恐れていれば、の話だな」
「恐れてはおりましょう。わが国の軍事力は、依然として諸国の趨勢を左右しうるものですので」
「……ほんとうに、先の戦争が始まる前と似てきたな」
ミネルバは短く息を吐き、天井をあおいだ。
「一国ではドルーアに抗するには足らずとも、ドルーアと組めばアカネイアを討ち滅ぼすには有用な軍事力。ゆえにわれらは利用されたのだ。そして、いまもまた、わが国の兵力はアカネイアにとって利用価値のあるものなのだろう。それを幸いと思ってよいかはわからぬが」
「幸いではありましょう。利用価値がなければ、グラやグルニアのようになるのですから」
「だからこその代案というわけだな」
「やはりご不満ですか」
「いや……」
ミネルバは目を閉じたまま首をふった。
「そうではないのだ。ただ……兄なら迷いなくそちらを選ぶだろうと思ってな……」
ミネルバは低く笑った。王女は兄王子の話になると、どこか投げやりな様子になる。
「前に、そなたが言っただろう? わたしには兄の渇望は理解できぬと」
「ええ」
「たぶん、そなたの言うとおりだと思う。……わたしはこの国を豊かにしたいと思っていたし、アカネイアの不当な干渉を排し、〈南方の雄〉と呼ばれるマケドニアをさらなる高みに押し上げたいと願っていた。だが、どれほどアカネイアを憎く思えど、ドルーアと与してまで滅ぼしてやろうとは思えなかった。シモンのことも、手にかけようと思ったことはない」
ミネルバは皮肉な笑みをうかべて、
「……兄とは、なにが違ったのだろうな。あれほどおなじ時間を共に過ごし、おなじものをみつめてきたというのに。……憎しみの深さなのか……いや、きっとそんなものではないな。たぶん、わたしのなかにあるのは渇望ではなく恐れなのだ。なにかを得たいのではない。ただ、失いたくないだけだ……。兄が父を殺めてからずっと、わたしは失われたものを……もはや取り戻すことのできぬものに執着しつづけてきたように思う」
「それでよいではありませんか」
ユスタスはことさらに明るい声で言った。
「あなたが祖国の窮状を憂い、立ちあがられた結果、この国は命脈を保つことができたのです。なにを恥じることがあるのです?」
ミネルバは無言だった。
ユスタスはなぐさめるような声音でつづける。
「幼いころ、領地の司祭が話しておりました。人はなにかに強く執着すればかならず不幸になると。だから、おのれの器を知り、分をわきまえ、謙虚に生きねばならぬのだと。当時のわたしは司祭の説教などしゃらくさいと聞き流しておりましたが、牢獄にいるとき、ふいにその言葉を思い出しましてね」
目元にやわらかな笑みを刻んで、
「わたしも父も、強引に物事を進めることもございましたし、なにかと恨みを買ってきた自覚はございます。ひたすら無欲に生き、人をやりこめようなどと考えず、悪意を受け流し、その身に降りかかる災厄は神の与えし試練と受けとめる……そんな生き方をしておれば、国家の一大事に貴族たちを仲たがいさせることはなく、あのような悲劇を誘発せずにすんだのやもしれません。すべて、おのれの蒔いた種……。身のほどを知らぬ愚か者ゆえ、永の虜囚となったのだと、神への祈りと内省に費やしておれば、心は平穏でいられたやもしれません。しかしわたしは牢の中でひたすら願いつづけたのです。どれほど不幸になろうとも、神に見放されようとも、ふたたびここへ戻らねばならぬ、と」
おだやかな視線をミネルバにそそぐ。
「あなたに再会したとき、わたしはこう申しました。あなたはわたしの希望であると。あなたを助け、この国を導くことが生きる道であるのだ、と。おぼえておられますか」
「むろんだ。それを聞いたとき、そなたの恨みの深さを思い知った」
「これは手厳しいことをおっしゃる」
ユスタスは喉の奥で笑いをかみ殺して、
「あのときのわたしは、あなたを復讐の駒のように思っておりました。ですが……いまは違います。あなたが守られたマケドニアを、かつてあなたが望まれた形へと導くべく、この命あるかぎり、わたしのすべてをあなたに捧げる所存です。この国のすべてをおひとりで背負おうなどとお考えになりますな。あなたが双肩にになう重荷、どうかわたしにも背負わせていただきたいのです」
しばしミネルバはじっとユスタスを見あげていたが、やがて、くすりと笑った。
「いろんな者たちがわたしたちのことを面白おかしく噂している」
「はい」
「あの者たちが言うには、そなたは王になりたいそうだな?」
「わたしは地位にこだわってはおりませんよ」
「まったく……噂など勝手なものだな。そなたのような忠臣を私欲にまみれた奸臣呼ばわりだ」
「……奸臣には違いありませんよ」
ユスタスはすっと笑みを消した。
「あなたへの忠心は、ただの私欲でございますから」
「……? そなたはよくわからぬことを言う」
小首をかしげられ、ユスタスは気が抜けたように笑った。
幼いころから聡い姫ではあったが、この手の話にはあまりに疎い。タマーラがご教育を間違えましたと冗談めかして話していたが、まったくそのとおりだとユスタスは思う。
ふと窓の外を見やると、晩秋の陽が暮れはじめている。先触れを出した刻限にはまだ早いが、公館に向かうまでに、彼にはやっておかねばならぬことがあった。
「殿下、今日はもうお休みください」
「いくらなんでも早すぎるだろう」
「今宵の交渉次第では、明日トルイユ伯が登城されることになりましょう」
「そうか、またあの会食がはじまるのか」
「ですからどうぞ今日はゆっくりとお食事をとり、英気を養っていただければと」
王女を部屋まで送っていったとき、居間には花をかかえたロザリアがいた。
ミネルバは微笑をうかべてロザリアに近づいていく。
「ダリアですか」
ロザリアはおじぎをして、清楚にほほえむ。
「先ほど庭師の方にいただきました。さっそくお活けいたします」
「そろそろダリアの季節も終わりでしょうか」
「冬にはまた別の花が咲きますわ」
赤に橙、紫に白、色とりどりの花を愛でるミネルバに、ユスタスは一礼した。
「それでは殿下、わたしはこれにて失礼を」
去り際にちらと視線を投げると、ロザリアは涼しい顔で目礼した。
ユスタスは口元をかすかにゆるめたものの、その薄茶色の目は冷ややかだった。
先日、王女の文机をあさっている場を見とがめられ、カルタス家に仕えていたことまで突きつけられたというのに、悪びれるそぶりはない。はかなげな風情の女人であるが、その見た目に反して面の皮は厚いようだ。そうでなくてはアカネイアの間諜などつとまらぬのだろうが、このまま王女のそばにおいておくわけにはいかない。
そう思うものの、ロザリアの対処は悩ましいものである。
いきなり宮廷から追放しようものなら、トルイユは宣戦布告と受けとるだろう。なにより、ミネルバに少なからぬ衝撃を与えることにもなる。
アカネイア下級官吏の家系に生まれた、アカネイア大使の愛人。
王女付きの女官として、これほど不適切な人物もいないだろう。しかし、このような厚かましい女であってもミネルバにとってはよい女官であるのは間違いない。こまかな部分によく気がつき、出過ぎた真似はせず、絶妙な距離をたもったまま疲弊した王女の心によりそっている。タマーラの代わりとしてこれほどふさわしい者もいない。
パオラが側につくようになって、ミネルバは以前より笑顔を見せることも増えたが、海賊討伐から戻ってからはふさぎがちになり、夜もよく眠れていないようだ。
せめて王女の安らぎとなっているのであればよい。苦々しく思いながらも、ユスタスはそう願うのだった。
ユスタスはそのまま騎士館へと向かったが、団長室の扉が内側から開くのが見え、少し離れた位置で立ちどまった。
眼鏡の位置を直す。
部屋から出てきたのはダリオ・モーロであった。この男がリュッケとしばしば会っているのは手の者から聞いている。
モーロが通路を曲がるのを見送ってのち、ほとんど入れ替わりのようにユスタスは団長室に入った。
「ど、どうしたのだ……!」
机に向かっていたリュッケが慌てて顔を上げた。
ユスタスはゆったりと笑ってみせる。
「駐在軍の件だが、今夜、トルイユのもとへ交渉に出向くこととなった。おまえも来てくれ」
「交渉? 受け入れるしかないと言っていたではないか」
「殿下のため、できうることはすべて試みようと思ってな」
ユスタスは暖炉の前に立つ。
「亡きレオニア伯からの最後の情報だが、アカネイアは軍備拡張に血道を上げてはいるものの、その内実はかつての栄光もむなしいほどに鉄さびと化しているとのことだ。半数が傭兵、皇帝の親衛隊にいたっては、アカネイア貴族は一人もおらぬとか。暗殺を恐れるがゆえ、反乱分子を遠ざけているのやもしれぬ。このぶんではわが国に送りこまれてくるのはたちの悪い傭兵どもだろう。そのような者たちをのさばらせては国が荒れるだけであるし、そもそも数合わせのならず者の集団なぞ過度に恐れることもない。少々こちらが無理を押しとおしたとして、ただちに報復を受けるようなことにはならんだろう」
「しかし数こそが力だ」
うめくような声でリュッケがつづけた。
「アカネイアを見くびらぬほうがよい。かの国の恐ろしさはその権威にある」
「たしかにな。諸国を指ひとつで動かせる権威。勇者の国をただの忠犬にする威光。そのために、われらが偉大なる国祖が屈辱に甘んじねばならなかった。父とオズモンド陛下が恐れておられたもの、それは単純な兵力などではなかった。……おまえもそうなのだろう?」
ユスタスは冷淡な目でリュッケを見た。
「アカネイアの権威を恐れるがゆえに、殿下に背信を働いているのだな?」
それはリュッケにとってもっとも恐れていた言葉だったのだろう。小心者の男は、おもてを取りつくろうこともできずに唇をふるわせた。
「な、なにを――」
「恐れでないならなんだ? 殿下を害するつもりでアカネイアと結託したとでも?」
「そんなつもりはない!」
「そうだな、殿下はおまえを信頼しておられるようだし、おまえも傍目には忠義者に見える。ならばなぜ、トルイユの愛人を殿下の侍女になどした?」
「あれは――」
「タマーラの不調につけこみ、アカネイアの間諜を忍びこませるとは、とんだ忠義者もいたものだな」
ユスタスが冷たい一瞥をくれると、リュッケは恨みがましく言いかえした。
「……あれは、わたしが決めたことではない。姪はずっとアカネイアで暮らしていたのだ。それがどういったわけかトルイユが大使の随員として連れてきて、知らぬまに殿下の女官になっていて……」
「姪? あれはおまえの娘だろう?」
狼狽するリュッケを見て、ユスタスは確信する。
知る人ぞ知る兄嫁との不義。リュッケ家前当主の死の際にささやかれた噂は、真実であったようだ。
「おまえはいったいなにをしている! 娘に売春婦の真似事をさせて放っておくつもりか。なによりも殿下に背信を働くなどと……」
ユスタスはあえて煽るような言い方をした。
リュッケはうつむいたまま、うめくように言った。
「……ハーディンから書簡が届いたのだ」
「ハーディンからだと?」
「もう半年以上も前……トルイユ伯の派遣が決定したのと同時だった」
リュッケはよろよろと椅子から立ちあがり、本棚の奥から布につつまれた木箱を取り出し、一通の書簡をもって戻ってきた。
ユスタスはリュッケの手からその書簡を奪う。
「――全権大使トルイユ伯ファビアン・カルタスとともに、南方の雄マケドニアを導いてもらいたい。しかるのちに、貴殿にはその血筋にふさわしい地位を授けよう……なるほど」
歴代アカネイア王がかすむほどに傲慢な文面を読み終えると、ユスタスは汚いものを見る目つきでリュッケを見やった。リュッケはずっと目を閉じたままで、懲罰に耐える子供のように顔をしかめていた。
「このような書簡を受けとっておきながら、よくもこれまで口を拭ってきたものだな」
「……たちの悪い嫌がらせだと思ったのだ」
「ならばなおのことだ。ハーディンの本性をはじめからわかっておれば、殿下も別の対応を考えられたはず。おまえはそれを殿下にお伝えもせず、娘とともに殿下を陥れようとしたのだ」
リュッケは答えない。
「リカルド。おまえの生まれには同情する。だが、一臣下の分際でマケドニア王となれる夢を見るなどおこがましいにもほどがある。思いがけず騎士団長の地位を与えられ欲が出たか、見下げ果てたやつめ……。叛逆者として死罪はまぬがれぬ者と思え!」
ユスタスの息は興奮から激しく乱れていた。
ユスタスにとってリカルド・リュッケは、非常に辛抱強く、不器用な男として映っていた。その出自ゆえ冷遇されてきたとはいえ、ひたすら耐え忍ぶ道しか選んでこなかった。その胸の奥に野心が芽生えることもあっただろう。縁戚にあたるカゾーニやユスタス、モイラに取り入ることもできたというのに、這いあがろうともせず、愚直に軍人としての職責をまっとうしつづけていた。
アカネイアに取りこまれた父や兄への反発からか、アカネイアとの関わりを断つことは彼の矜持だと思っていた。だからこそ、餌につられて叛逆を犯したことへの驚きがあった。しかもこの程度の追及であっさりと自供するような男が叛逆をもくろんでいたことが腹立たしかった。
それ以上に許しがたいのは、これほど身近な裏切り者に気づけずにいた自分自身にだった。
威圧をひそませた低い声でうながす。
「なにか申し開きがあるなら言ってみるがいい」
「……わたしが時折トルイユ伯と会っていたのは事実だ。だが、王女の不利益になるようなことはしていない。わたしにも矜持はある」
「どの口が言う。おまえがハーディンに殿下の悪評を吹きこんだ結果が駐在軍の派遣ではないか」
「そんなことはしておらん! アカネイア側の動きを多少なりとも知れる状況にありながら、手をこまねいていたのは認める。だが、それと駐在軍の件は別の話だ。トルイユ伯が言うには、アリティアに謀叛の動きがあるというのだ。それでアカネイアはミネルバ王女がアリティアに近づくことを警戒している。王女はマルス王子と懇意であるから、結託せぬよう監視せよと。それだけだ!」
リュッケは矢継ぎ早につづける。
「王女にはアカネイアへの叛意などない、そう何度もトルイユ伯に伝えている。ロザリアにしても、日々の行動や部屋を探ってもなにも出てこぬし、皇帝に楯突くような動きは見られぬと報告しているようだ。わたしも娘も王女を陥れようなどと思ってはいない。それだけは……ほんとうに……」
うなだれるリュッケをユスタスは静かに見下ろした。
嘘をついているようには見えなかった。あっさり関与を認め、謀叛の証拠ともなるハーディンの書簡すらやすやす差しだすあたり、取りつくろえるだけの度量があるとも思えなかった。
事実、リュッケはミネルバに対しアカネイアに従順であるよう、それとなく仕向けてきた節がある。そのせいで二人の意見は時に対立することもあったが、それがマケドニアの国益をはかるための行いであったなら、叛逆者とあつかうには行きすぎかもしれぬ。
きっかけは、餌につられて魔が射したからだろう。しばらくトルイユらに協力していたものの、恐ろしくなって足抜けを図っていた、といったところだろうか。
ユスタスは大きく息をつく。
「答えよ、リカルド。なぜハーディンはアリティアにこだわる?」
「……よくわからぬが、グラの独立はその布石だという話だった。グルニアを占領下においたこともアリティアがらみである可能性がある。マケドニアに駐在軍をおくというのはわが国の監視だけでなく、アリティアへの牽制もあると見ている。これを受けいれるか否かで、ミネルバ王女を試しているのだろう」
「なるほど……それではまるで百年前のようだな。カルタス伯がオードウィンを辺境へ追いやったように」
ユスタスはふくみ笑いをする。
「アリティアを敵視しているのは、英雄と称えられるマルス王子を妬み、脅威に思ってのことか。だとすれば、ハーディンとやらはアカネイア王とまでなっておきながら狭量な男だな」
ちらとリュッケを見やり、
「アカネイアがこの手の調略を仕掛けてくるのは昔からよくあったことだ。オズモンド陛下の時代にも、おまえのように抱きこまれる者はいた」
「……兄のことを言っているのか」
「ああ、おまえはよく知らんのだろうが、ブルーノ卿はシモンの手先となって陛下に背信を働き、軍の改革を阻んだ。その結果、駐留軍の撤収が大幅に遅れた。それゆえ父はあの者を宮廷から追放したのだ。失脚したブルーノ卿は失意のうちに亡くなったわけだが、わたしはあの者を憐れみはせぬ」
ユスタスは冷淡につづける。
「ヴェーリ伯の弟もおまえの兄と同様だ。陛下の忠臣をよそおうアカネイアの犬だった。あの男はミシェイル王子が実権をにぎったのち、あっさり返り咲いたようだが、さりとて重用されることもなく、いまでは領地で甥の温情にすがって遁世しているそうではないか。なんの信念もなく欲をかいた者たちの末路なぞ、こんなものだ。蔑まれ、孤独のなかで死んでゆくのだ。……リカルド、おまえもうそうなりたいのか」
リュッケはしばし微動だにしなかったが、やがて敗残の将が首を差し出すかのように、床にはいつくばった。
「わたしは殿下にこれ以上の心労をかけたくはない。ゆえに、ことは内々におさめたい。ロザリアがおまえの言うように殿下に仇なす者でないなら、おまえにもロザリアにも不利益とならぬ対処をしたいと思っている」
ゆっくりと顔をあげたリュッケに、微笑をむける。
「案ずるな。殿下には話さぬ」
「……感謝、する」
「だが、ハーディンからの書簡の件は別だ」
ユスタスは短く息をついて、書簡を床に投げ捨てた。
「明日にでも殿下にお話しせよ。下手なごまかしはせず、すべて正直に話せ。さすればお許しくださる。殿下は物のわからぬ方ではない」
リュッケは書簡を引きよせ、重くうなづいた。