第一部

「殿下」
 ミネルバが自室で指示書を作成していると、竜騎士団の部隊長であり、腹心の部下セルジョ・アゴストがやってきた。午後の訓練が終わったら部屋にくるよう伝えていた。
 進み出てきたセルジョは敬礼したが、その右の袖が大きく裂けているのを見て、ミネルバは苦笑する。
「それはどうしたのだ?」
「お見苦しい姿にて申しわけございません」
 セルジョは日に焼けた精悍な顔をくしゃりとさせ、陽気に笑った、
「見習い兵たちの訓練に付き合っていたのですが、なかなか飛竜との相性が合わぬようで難儀しております」
「竜騎士志望の者が増えているようだな。けっこうなことだ」
「増えてはおりますが、なにぶんまだ幼い者たちが多うございます。あの者たちが実戦に耐えうるにはどれほどの時を要するかと、気が遠くなる思いがいたします」
 そうは言いながらもセルジョの黒い瞳は希望にかがやいていた。
 幼年のころから同年代の少年たちを束ね、指導者的立場にあった。一軍の将となってのちも、人柄から部下に慕われている。だからこそミネルバの信任もあつかった。
「セルジョ、今後は竜騎士団の長として、団の再編にいっそう力をそそいでくれ」
「その件でございますが、お受けいたしかねます」
「なぜだ?」
「竜騎士団の長はあなたです、殿下。王たる者がつとめるべき役職です」
「竜騎士団はそなたに、白騎士団はパオラに任せる、すでにそう決めたのだ」
 セルジョは口をひらきかけたものの、反論せず、おとなしく引き下がった。
 長いつきあいであるため、ミネルバが一度言い出したことをめったなことで撤回しないことを知っている。しかし首肯はしなかった。彼もまた主君とおなじく頑固なところがある。
「そなたを呼んだのはほかでもない。すでに聞いていようが、昼にユスタスが参ったのだ」
「ユスタスどのはどのようなご様子ですか?」
「けして万全とは言えぬが、生活には支障がないほどに回復していた」
「そうですか」
 セルジョの顔が明るくなった。
「歩くこともままならぬと聞いていたものですから、安心いたしました」
「だが抜かりのなさも以前のままだ。さっそくラディス・シェンケルの処分を迫ってきた。あのぶんでは一悶着あるやもしれぬな」
 敵対した同輩の名に、セルジョの顔が険しくなった。
「……殿下は、あの者をお許しになるおつもりですか」
「許すもなにも、すでに罰は与えた」
「謹慎はいずれ解くおつもりなのでしょう?」
「必要があればな。……なにぶん人手が足らぬ」
 ミネルバは机上の嘆願書の山を横目で見て、嘆息まじりに言った。
「昨年の戦いで多くの者が死んだ、そなたと同等に軍を統率できる者を、領地で引きこもらせている余裕はない」
「殿下」
 セルジョは目を険しくして言った。
「アカネイアに侮られぬよう、早期に竜騎士団の再編を望まれるお気持ちは理解しております。ですが、殿下が率いられれば、それだけでマケドニアが誇る威容となりましょう。数合わせのように、あの者たちを復帰させる必要などない、そうわたしは考えております」
「……心にとめておこう」
 セルジョが下がると、ミネルバは長いため息をついた。
 当初より、国家の再建が容易でないことはわかっていた。あまりに多くの高い壁が眼前に立ちはだかっており、復興の道筋が見えない。これまで行ってきたことは弥縫策にすぎない。
 まず頭を悩ませているのは竜騎士団の再編である。
 アカネイアとの開戦当時、竜騎士団は王であるミシェイルによって組織され、部隊は五つで編成されていた。
 第一部隊ミネルバ。
 第二部隊ラディス・シェンケル
 第三部隊セルジョ・アゴスト。
 第四部隊ジャン・ブラガ。
 第五部隊ディーター・ルーメル。
 そのうち、ミネルバ配下の竜騎士団が直属の白騎士団とともに同盟軍に付き、かねてよりマケドニアの方針に不満を抱いていたセルジョも王女につづいた。マケドニア軍の主力が二分されたマケドニア決戦にて、第四部隊長ジャン・ブラガは戦死したが、第二部隊長ラディス・シェンケルは降伏、第五部隊長ディーター・ルーメルは重傷を負い捕縛された。ブラガ、シェンケル、ルーメル麾下の竜騎士の多くが戦場に散った。
 かくして、マケドニアの武の象徴であった竜騎士団は最盛期の三分の一以下にまで数が減り、春に新兵が多く入団したものの、いまの竜騎士団にかつての威容はない。
 竜騎士団だけでなく、軍全体も同様である。
 五年にわたる戦争においてマケドニアは各地に軍を派遣し、失われた兵を補うべく強引な手法での軍備増強が行われた。そして昨年末のマケドニアでの戦いは、全軍が出撃し、絶対命令のもと無謀な突撃がくりかえされ、騎士団は壊滅した。
 そして戦後、ミネルバは二十を超える軍人を軍法会議にて厳罰に処した。また、アカネイアから旧勢力を排除するよう要請があったこともあり、ドルーア中枢にいた貴族は要職から排除した。
 戦後の混乱が落ちつき、そろそろ謹慎処分を下した者たちの復帰を順二進めようとしていたところだったが、急遽決まった大使派遣により厳しくなった。いまのままではセルジョ一人に荷がかかりすぎるが、セルジョをはじめ、同盟軍についた者たちの旧ドルーア勢力への忌避感は強い。彼らの復帰いかんにかかわらず、軍内の混乱はつづくのだろう。
 軍の崩壊は、民の平穏な暮らしも脅かしている。
 戦時体制が長くつづくにつれ、民の生活はじわじわと絞めつけられてきたが、ミネルバが同盟軍に付き、祖国を解放するまでの約一年のあいだ、地方には国軍の目が行き届かなくなり、国内の治安は急激に悪化した。賊の襲撃にとどまらず、軍による集落の掠奪さえ起こった。
 唯一の救いは、ここ数年が豊作つづきだったことだが、今年は春に雨がつづいた。生育に大きな影響は見られないと報告を受けているが、収穫まではどうなるかわからない。もし例年並みの収穫量が望めぬなら、租税の緩和を検討すべきだろう。辺境の困窮ぶりは目にあまる。
 だが、アカネイアの役人を迎え入れることで出費は増える。予算はいかほど必要になるだろうか。十年前の記録を見ればおおよその見当はつくだろうが、国庫の圧迫は必至である。戦前とは違うのだから華美な歓待はひかえねばならない。
 早くユスタスに相談せねば――。
 気を取り直し、ミネルバは一心不乱に書類を仕上げていった。五枚目の指示書に手をつけたころ、急いで文字を書きつづったせいで、ペン先が紙に引っかかった。その拍子に手から力が抜け、ペンをとり落としてしまう。
 机上にはインクが細かく飛び散っていて、紙も少し汚れた。書き直すほどでもないが、一気に徒労感をおぼえた。
「姫さま」
 控えの間の扉がひらかれた。
「お茶をお持ちいたしました」
 女官長のタマーラはほがらかに近づいてきたものの、ミネルバの疲れた顔と机の惨状を見て、あきれ声になった。
「またずっと書き物ばかりなさっていらしたのですね。いいかげん一息おつきになってくださいませ」
 机の端に茶器をのせた盆をおくと、ペンを片付け、飛び散ったインクを手巾でさっと拭きとった。
「もう夕刻ですのよ。ちゃんと明かりをおつけになって」
 小言を言いながら部屋中の燭台に火を灯していった。
 ミネルバは苦笑しつつ、窓の外を見やる。すでに陽がかたむき、宵が忍びよりつつある。
 戻ってきたタマーラは、杯に薬草茶をそそいだ。ミネルバはその杯をじっとみつめた。右手にはまだじんわりした痛みとしびれが残っている。
 迷ったすえに、左手で杯を持ち上げた。一口飲み、ほっと息をつく。
「タマーラ、ユスタスの様子はどうです?」
「あいかわらずでしたわ。ユスタスさまったら、わたくしを一目見るなり老けただなんておっしゃいますのよ。昔から口の悪い方ですから、かえって安心いたしましたけれど」
 タマーラはの声は明るい。はしゃいでいるようにさえ見える。
 ユスタスが生きていたと知ったとき、タマーラの喜びようは喩えん方もなかった。しかし今日にいたるまで会いに行かなかったという。
「タマーラ、聞いてもよいですか」
「なんでしょう?」
「なぜ、これまでユスタスに会いに行かなかったのですか。手紙のやりとりすらしていなかっただなんで」
「薄情と思われますか」
「そうは思いませんが……」
「あの方が生きていらしたことはうれしく思いましたけれど、七年という時間とともに失われたものに思いをめぐらせますと、わたくしなどがどんな言葉をかけてさしあげればいいのか皆目わかりませんでしたの。誇り高い方ですから、憐れみなど求めてはおられぬでしょうし」
「そのようなこと、気にせずともよいのに……」
 タマーラはミネルバの母が王家に嫁ぐ前から仕えていた侍女である。メスト家の遠縁の生まれで、幼少のころからメスト家で暮らしていたため、ユスタスとは旧知の間柄であった。
 ミシェイルはメスト家に連なる貴族たちを要職から排除したが、さすがに気がとがめたのか、母の忠臣であったタマーラを宮廷から追放することはしなかった。
 タマーラはその後もミネルバに仕えつづけたが、一連の事件について口にすることはなかった。真実を察していたはずであるが、すべての事情を呑みこみ、ただおのれの職責を果たしていた。
 そして昨年、マケドニアでの戦いでミネルバが兄を討った。主の子がたがいに争い、槍を交えたことは、タマーラを絶望させたことだろう。
 ミネルバがユスタスを召したのは、自身の片腕とするためであったが、この心やさしく気丈な女官へ報いる思いもあった。
 ユスタスについて冗談を交えて語っていると、扉が叩かれた。
 「殿下」
 ミネルバが自室で指示書を作成していると、竜騎士団の部隊長であり、腹心の部下セルジョ・アゴストがやってきた。午後の訓練が終わったら部屋にくるよう伝えていた。
 進み出てきたセルジョは敬礼したが、その右の袖が大きく裂けているのを見て、ミネルバは苦笑する。
「それはどうしたのだ?」
「お見苦しい姿にて申しわけございません」
 セルジョは日に焼けた精悍な顔をくしゃりとさせ、陽気に笑った、
「見習い兵たちの訓練に付き合っていたのですが、なかなか飛竜との相性が合わぬようで難儀しております」
「竜騎士志望の者が増えているようだな。けっこうなことだ」
「増えてはおりますが、なにぶんまだ幼い者たちが多うございます。あの者たちが実戦に耐えうるにはどれほどの時を要するかと、気が遠くなる思いがいたします」
 そうは言いながらもセルジョの黒い瞳は希望にかがやいていた。
 幼年のころから同年代の少年たちを束ね、指導者的立場にあった。一軍の将となってのちも、人柄から部下に慕われている。だからこそミネルバの信任もあつかった。
「セルジョ、今後は竜騎士団の長として、団の再編にいっそう力をそそいでくれ」
「その件でございますが、お受けいたしかねます」
「なぜだ?」
「竜騎士団の長はあなたです、殿下。王たる者がつとめるべき役職です」
「竜騎士団はそなたに、白騎士団はパオラに任せる、すでにそう決めたのだ」
 セルジョは口をひらきかけたものの、反論せず、おとなしく引き下がった。
 長いつきあいであるため、ミネルバが一度言い出したことをめったなことで撤回しないことを知っている。しかし首肯はしなかった。彼もまた主君とおなじく頑固なところがある。
「そなたを呼んだのはほかでもない。すでに聞いていようが、昼にユスタスが参ったのだ」
「ユスタスどのはどのようなご様子ですか?」
「けして万全とは言えぬが、生活には支障がないほどに回復していた」
「そうですか」
 セルジョの顔が明るくなった。
「歩くこともままならぬと聞いていたものですから、安心いたしました」
「だが抜かりのなさも以前のままだ。さっそくラディス・シェンケルの処分を迫ってきた。あのぶんでは一悶着あるやもしれぬな」
 敵対した同輩の名に、セルジョの顔が険しくなった。
「……殿下は、あの者をお許しになるおつもりですか」
「許すもなにも、すでに罰は与えた」
「謹慎はいずれ解くおつもりなのでしょう?」
「必要があればな。……なにぶん人手が足らぬ」
 ミネルバは机上の嘆願書の山を横目で見て、嘆息まじりに言った。
「昨年の戦いで多くの者が死んだ、そなたと同等に軍を統率できる者を、領地で引きこもらせている余裕はない」
「殿下」
 セルジョは目を険しくして言った。
「アカネイアに侮られぬよう、早期に竜騎士団の再編を望まれるお気持ちは理解しております。ですが、殿下が率いられれば、それだけでマケドニアが誇る威容となりましょう。数合わせのように、あの者たちを復帰させる必要などない、そうわたしは考えております」
「……心にとめておこう」
 セルジョが下がると、ミネルバは長いため息をついた。
 当初より、国家の再建が容易でないことはわかっていた。あまりに多くの高い壁が眼前に立ちはだかっており、復興の道筋が見えない。これまで行ってきたことは弥縫策にすぎない。
 まず頭を悩ませているのは竜騎士団の再編である。
 アカネイアとの開戦当時、竜騎士団は王であるミシェイルによって組織され、部隊は五つで編成されていた。
 第一部隊ミネルバ。
 第二部隊ラディス・シェンケル
 第三部隊セルジョ・アゴスト。
 第四部隊ジャン・ブラガ。
 第五部隊ディーター・ルーメル。
 そのうち、ミネルバ配下の竜騎士団が直属の白騎士団とともに同盟軍に付き、かねてよりマケドニアの方針に不満を抱いていたセルジョも王女につづいた。マケドニア軍の主力が二分されたマケドニア決戦にて、第四部隊長ジャン・ブラガは戦死したが、第二部隊長ラディス・シェンケルは降伏、第五部隊長ディーター・ルーメルは重傷を負い捕縛された。ブラガ、シェンケル、ルーメル麾下の竜騎士の多くが戦場に散った。
 かくして、マケドニアの武の象徴であった竜騎士団は最盛期の三分の一以下にまで数が減り、春に新兵が多く入団したものの、いまの竜騎士団にかつての威容はない。
 竜騎士団だけでなく、軍全体も同様である。
 五年にわたる戦争においてマケドニアは各地に軍を派遣し、失われた兵を補うべく強引な手法での軍備増強が行われた。そして昨年末のマケドニアでの戦いは、全軍が出撃し、絶対命令のもと無謀な突撃がくりかえされ、騎士団は壊滅した。
 そして戦後、ミネルバは二十を超える軍人を軍法会議にて厳罰に処した。また、アカネイアから旧勢力を排除するよう要請があったこともあり、ドルーア中枢にいた貴族は要職から排除した。
 戦後の混乱が落ちつき、そろそろ謹慎処分を下した者たちの復帰を順二進めようとしていたところだったが、急遽決まった大使派遣により厳しくなった。いまのままではセルジョ一人に荷がかかりすぎるが、セルジョをはじめ、同盟軍についた者たちの旧ドルーア勢力への忌避感は強い。彼らの復帰いかんにかかわらず、軍内の混乱はつづくのだろう。
 軍の崩壊は、民の平穏な暮らしも脅かしている。
 戦時体制が長くつづくにつれ、民の生活はじわじわと絞めつけられてきたが、ミネルバが同盟軍に付き、祖国を解放するまでの約一年のあいだ、地方には国軍の目が行き届かなくなり、国内の治安は急激に悪化した。賊の襲撃にとどまらず、軍による集落の掠奪さえ起こった。
 唯一の救いは、ここ数年が豊作つづきだったことだが、今年は春に雨がつづいた。生育に大きな影響は見られないと報告を受けているが、収穫まではどうなるかわからない。もし例年並みの収穫量が望めぬなら、租税の緩和を検討すべきだろう。辺境の困窮ぶりは目にあまる。
 だが、アカネイアの役人を迎え入れることで出費は増える。予算はいかほど必要になるだろうか。十年前の記録を見ればおおよその見当はつくだろうが、国庫の圧迫は必至である。戦前とは違うのだから華美な歓待はひかえねばならない。
 早くユスタスに相談せねば――。
 気を取り直し、ミネルバは一心不乱に書類を仕上げていった。五枚目の指示書に手をつけたころ、急いで文字を書きつづったせいで、ペン先が紙に引っかかった。その拍子に手から力が抜け、ペンをとり落としてしまう。
 机上にはインクが細かく飛び散っていて、紙も少し汚れた。書き直すほどでもないが、一気に徒労感をおぼえた。
「姫さま」
 控えの間の扉がひらかれた。
「お茶をお持ちいたしました」
 女官長のタマーラはほがらかに近づいてきたものの、ミネルバの疲れた顔と机の惨状を見て、あきれ声になった。
「またずっと書き物ばかりなさっていらしたのですね。いいかげん一息おつきになってくださいませ」
 机の端に茶器をのせた盆をおくと、ペンを片付け、飛び散ったインクを手巾でさっと拭きとった。
「もう夕刻ですのよ。ちゃんと明かりをおつけになって」
 小言を言いながら部屋中の燭台に火を灯していった。
 ミネルバは苦笑しつつ、窓の外を見やる。すでに陽がかたむき、宵が忍びよりつつある。
 戻ってきたタマーラは、杯に薬草茶をそそいだ。ミネルバはその杯をじっとみつめた。右手にはまだじんわりした痛みとしびれが残っている。
 迷ったすえに、左手で杯を持ち上げた。一口飲み、ほっと息をつく。
「タマーラ、ユスタスの様子はどうです?」
「あいかわらずでしたわ。ユスタスさまったら、わたくしを一目見るなり老けただなんておっしゃいますのよ。昔から口の悪い方ですから、かえって安心いたしましたけれど」
 タマーラはの声は明るい。はしゃいでいるようにさえ見える。
 ユスタスが生きていたと知ったとき、タマーラの喜びようは喩えん方もなかった。しかし今日にいたるまで会いに行かなかったという。
「タマーラ、聞いてもよいですか」
「なんでしょう?」
「なぜ、これまでユスタスに会いに行かなかったのですか。手紙のやりとりすらしていなかっただなんで」
「薄情と思われますか」
「そうは思いませんが……」
「あの方が生きていらしたことはうれしく思いましたけれど、七年という時間とともに失われたものに思いをめぐらせますと、わたくしなどがどんな言葉をかけてさしあげればいいのか皆目わかりませんでしたの。誇り高い方ですから、憐れみなど求めてはおられぬでしょうし」
「そのようなこと、気にせずともよいのに……」
 タマーラはミネルバの母が王家に嫁ぐ前から仕えていた侍女である。メスト家の遠縁の生まれで、幼少のころからメスト家で暮らしていたため、ユスタスとは旧知の間柄であった。
 ミシェイルはメスト家に連なる貴族たちを要職から排除したが、さすがに気がとがめたのか、母の忠臣であったタマーラを宮廷から追放することはしなかった。
 タマーラはその後もミネルバに仕えつづけたが、一連の事件について口にすることはなかった。真実を察していたはずであるが、すべての事情を呑みこみ、ただおのれの職責を果たしていた。
 そして昨年、マケドニアでの戦いでミネルバが兄を討った。主の子がたがいに争い、槍を交えたことは、タマーラを絶望させたことだろう。
 ミネルバがユスタスを召したのは、自身の片腕とするためであったが、この心やさしく気丈な女官へ報いる思いもあった。
 ユスタスについて冗談を交えて語っていると、扉が叩かれた。
「姫さま」
 側近のコルセオ・カゾーニであった。オズモンドとミシェイルの二代にわたって守り役をつとめたカゾーニはすでに七十の坂を越え、髪も薄く、もとは竜騎士であったとは思えぬほど弱々しい体格となっている。しかしミネルバにとってはいつまでもやさしい"じい"のままだった。
「リカルドよりあずかってまいりました」
 カゾーニは嘆願書の束を机のわきにおいた。
「たった数日でこの量でございます」
「それほど困窮しているということでしょう」
 ミネルバは数枚を流し読みする。
「リュッケから聞きましたが、やはり西部沿岸が荒れているようですね。早期になんらかの手を打ちましょう。根本的な解決にはいたらないでしょうが」
「よもやみずから討伐へ出向かれるおつもりですか」
「ええ、賊ににらみを利かせておかねば」
「姫さま、あまりご無理はなさらぬよう」
「無理などしていませんよ。カゾーニ、あなたこそ体調がすぐれぬ日は遠慮なく休んでください」
「そう年寄り扱いしてくださいますな」
 カゾーニは目元にしわを刻んだ。
 ゆるやかな沈黙が流れ、物言いたげな視線がミネルバにそそがれている。
 それを察したのだろう。タマーラはからの杯を下げて一礼する。
「それではお食事の用意をしてまいります」
 扉が閉まると、ミネルバはカゾーニに弱々しい笑みをむけた。
「ユスタス・メストのこと、すみません。あなたに相談なく勝手に決めてしまって」
 ミネルバがユスタスを宮廷に召すつもりだと告げたとき、カゾーニはあまり良い顔をしてなかった。
「どうするかは実際にユスタスに会ってから決めるつもりでした。歩くこともままならぬ状態と聞いていましたし、出仕が困難であるなら退けようと思っていました。ですがあれほど回復しているのなら、あの者の知恵を得たいと思いました」
「それでよろしゅうございます」
 カゾーニの声はやわらかかった。
「アカネイアとの交渉事ならばもっとも適任なのがあの者でしょう。こちらからそうお勧めするべきでした」
「気づけば、王家とゆかりのある者ばかりをそばにおいていますね。あなたはともかくとして、レントにセルジョ、ユスタス……リュッケもそうですね。まるで父の時代のような閨閥人事と揶揄されるかもしれませんが」
「信頼のおける者だけを集めれば自然とそうなりましょう。血のつながりがもっとも安全でありますし、物事を円滑に進めるためにはやむをえぬことにございます」
「皮肉なものです。われらは身内同士であれほど争い合ったというのに」
 その軽口に、カゾーニは黙りこんだ。兄妹の守り役であったカゾーニにとってその件は話題したくないものである。
 ミネルバは肩をすくめる。
「幸い、あの者たちのあいだで不和はないようですし、その点は心配していません。それよりも……」
 しばし口ごもると、カゾーニが問うた。
「宰相メスト公ならびにユスタス卿の名誉回復についてでございますね」
「ええ」
 これについては、ミネルバ自身、決めかねていることであった。カゾーニが当初ユスタスの登用に難色を示した理由もここにあったはずである。
「メスト家の父子は王の暗殺とは関わりがない、そう宣言すれば、父の死の真相にもふれざるをえませんが、あなたはどう思いますか」
 カゾーニは答えあぐねたように目をふせた。
「すでに多くの者が真相を知りつつ口をつぐんでいる現状ですが、アカネイアとの今後の関係を考えれば、兄が父の死をアカネイアに帰責し、ドルーアと手を組んだことについて、許しを乞うべきだとは思います。ユスタスは贄を捧げよと言います。それもひとつの手とは思いますが、はたしてこの国のためになるのでしょうか」
「かの一件は……おもてに出すべきではないと思っております。王家の威信にかかわりますゆえ」
 守り役の賛同を得られ、ミネルバは安堵の笑みをうかべた。しかしすぐにその表情はくもる。
「かの件を秘匿する結果として、わたしはユスタスに忍耐を強いることになるでしょう。だからこそ、あの者には相応の形で報いねばならぬと思っています。わたしはユスタスをすでに死んだものとみなし、救い出そうともしなかったのだから」
「それは、われらもおなじでございます」
「いえ、あなたとは違います。わたしは真実を知れる立場にありました。その気になればいかようにでもできたはずなのです」
 ミネルバは淡々とつづける。
「わたしは多くの過ちを犯しました。ユスタスは小娘になにができたと思っているようですが、若輩の身であろうとも、わたしの行いはけっして最善と呼べるものではありません。なにを一番に守り、なにを切り捨てねばならなかったのか、長いあいだ迷いつづけ、結果として被害を拡大させてしまった……。その責めを、わたしは負わねばならぬのです」
「姫さま……」
 カゾーニはなにかを訴えようとしていたが、言葉は声にならなかったようで、唇を噛みしめたままうなだれた。
コルセオ・カゾーニであった。カゾーニは
「姫さま、リカルドよりあずかってまいりました」
 カゾーニは嘆願書の束を机のわきにおいた。
「たった数日でこの量でございます」
「それほど困窮しているということでしょう」
 ミネルバは数枚を流し読みする。
「リュッケから聞きましたが、やはり西部沿岸が荒れているようですね。早期になんらかの手を打ちましょう。根本的な解決にはいたらないでしょうが」
「よもやみずから討伐へ出向かれるおつもりですか」
「ええ、賊ににらみを利かせておかねば」
「姫さま、あまりご無理はなさらぬよう」
「無理などしていませんよ。カゾーニ、あなたこそ体調がすぐれぬ日は遠慮なく休んでください」
「そう年寄り扱いしてくださいますな」
 カゾーニは目元にしわを刻んだ。
 ゆるやかな沈黙が流れ、物言いたげな視線がミネルバにそそがれている。
 それを察したのだろう。タマーラはからの杯を下げて一礼する。
「それではお食事の用意をしてまいります」
 扉が閉まると、ミネルバはカゾーニに弱々しい笑みをむけた。
「ユスタス・メストのこと、すみません。あなたに相談なく勝手に決めてしまって」
 ミネルバがユスタスを宮廷に召すつもりだと告げたとき、カゾーニはあまり良い顔をしてなかった。
「どうするかは実際にユスタスに会ってから決めるつもりでした。歩くこともままならぬ状態と聞いていましたし、出仕が困難であるなら退けようと思っていました。ですがあれほど回復しているのなら、あの者の知恵を得たいと思いました」
「それでよろしゅうございます」
 カゾーニの声はやわらかかった。
「アカネイアとの交渉事ならばもっとも適任なのがあの者でしょう。こちらからそうお勧めするべきでした」
「気づけば、王家とゆかりのある者ばかりをそばにおいていますね。あなたはともかくとして、レントにセルジョ、ユスタス……リュッケもそうですね。まるで父の時代のような閨閥人事と揶揄されるかもしれませんが」
「信頼のおける者だけを集めれば自然とそうなりましょう。血のつながりがもっとも安全でありますし、物事を円滑に進めるためにはやむをえぬことにございます」
「皮肉なものです。われらは身内同士であれほど争い合ったというのに」
 その軽口に、カゾーニは黙りこんだ。兄妹の守り役であったカゾーニにとってその件は話題したくないものである。
 ミネルバは肩をすくめる。
「幸い、あの者たちのあいだで不和はないようですし、その点は心配していません。それよりも……」
 しばし口ごもると、カゾーニが問うた。
「宰相メスト公ならびにユスタス卿の名誉回復についてでございますね」
「ええ」
 これについては、ミネルバ自身、決めかねていることであった。カゾーニが当初ユスタスの登用に難色を示した理由もここにあったはずである。
「メスト家の父子は王の暗殺とは関わりがない、そう宣言すれば、父の死の真相にもふれざるをえませんが、あなたはどう思いますか」
 カゾーニは答えあぐねたように目をふせた。
「すでに多くの者が真相を知りつつ口をつぐんでいる現状ですが、アカネイアとの今後の関係を考えれば、兄が父の死をアカネイアに帰責し、ドルーアと手を組んだことについて、許しを乞うべきだとは思います。ユスタスは贄を捧げよと言います。それもひとつの手とは思いますが、はたしてこの国のためになるのでしょうか」
「かの一件は……おもてに出すべきではないと思っております。王家の威信にかかわりますゆえ」
 守り役の賛同を得られ、ミネルバは安堵の笑みをうかべた。しかしすぐにその表情はくもる。
「かの件を秘匿する結果として、わたしはユスタスに忍耐を強いることになるでしょう。だからこそ、あの者には相応の形で報いねばならぬと思っています。わたしはユスタスをすでに死んだものとみなし、救い出そうともしなかったのだから」
「それは、われらもおなじでございます」
「いえ、あなたとは違います。わたしは真実を知れる立場にありました。その気になればいかようにでもできたはずなのです」
 ミネルバは淡々とつづける。
「わたしは多くの過ちを犯しました。ユスタスは小娘になにができたと思っているようですが、若輩の身であろうとも、わたしの行いはけっして最善と呼べるものではありません。なにを一番に守り、なにを切り捨てねばならなかったのか、長いあいだ迷いつづけ、結果として被害を拡大させてしまった……。その責めを、わたしは負わねばならぬのです」
「姫さま……」
 カゾーニはなにかを訴えようとしていたが、言葉は声にならなかったようで、唇を噛みしめたままうなだれた。
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